町を歩けば生徒にあたる。なぜか他校生までもが、自分の存在を知っていた。剣道場に通っている者ならまだしも、全く面識のないはずの者にまで覚えられている。
「日暮先生、こんちゃーっす」
「おう、お前ら宿題終わったのか」
……もーちょっと」
昨日からこんなやりとりを、何度していることだろう。そのたびに隣を歩く雪に笑われた。
「黒哉君、大人気の先生だね」
「この町の子供たちのネットワークはすごい。さっき話した奴、たぶんあれが初対面だぞ」
「そんなもんだよ、ここは。学区を越えて遊ぶから」
夏祭りの二日目、つまり最終日なのだが、今は初日の午前ほどの人出はない。次に混むのは花火大会の時間が近づく夕方からだ。出店を覗きながら歩くにはちょうどいい。この外出は雪とのデートでもあり、教師としての町の見回りでもある。もっとも、この町の子供なら、祭りの日に危ないことはしない。気をつけるべきはよそから来た者が起こす事件に巻き込まれないかどうかだ。
「でも、よその人は町で見張ってるからね。そういう事件もめったに起きないよ。……あ」
見回りの説明をしたとき、雪はそう言ってから気まずい顔をした。よその人が見張っているはずなのに、起きてしまった事件。高校生だった黒哉がそれに巻き込まれて、現在がある。そのことを思い出したのだ。別に、気にしなくても良かったのに。
その時は、そのとおりだな、と彼女の頭を撫でて終わった。
「雪、何か食うか?」
「カラフル綿飴」
「あのでっかいやつかよ。食いきれるのか?」
「コーヒーに溶かして飲んじゃう」
「うわ、オレなら絶対無理なヤツ」
あれから事件がどうのという話はしていない。昨日だって、今だって、祭りを見に行こうと誘って出てきている。生徒と会うのは必然のこと。
「わー、可愛い。黒哉君、写メって」
「はいはい」
平和ならそれで良い。子供たちや雪が楽しそうに笑っていれば良い。それが続くことを切に願う。
……綿飴、結構持ち歩くの大変だね」
「ほら見ろ。持ってやろうか」
「いいよ。生徒さんに笑われるよ」
「笑いきゃ笑え」
祭りの日の賑やかな町を、こんなに穏やかな気持ちで歩けるようになったのだと、黒哉は母に知らせたくなった。

毎年祭りの日は祖父の営む不動産屋の事務所にいたのだと、在は初めて莉那に告白した。人混みは苦手で、莉那に誘われた時以外は隠れていたのだと。
「恥ずかしい話だけど、僕はどうもこの町の行事を楽しめないようで。あ、莉那さんといるときは別だから、気にしなくてもいいですよ」
取り繕うように付け加えたけれど、莉那は笑わなかった。真面目な顔をして、在を正面からじっと見る。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。私、そんなこと知らずに、毎年誘っちゃいましたよ。困った顔してたのは、照れてたんじゃなくて、本当に困ってたんですね」
「いや、それは」
「私、思い込みが激しいの自覚してます。たまたまそれがいい方向に転がったことが多いだけで、どこかでみんなに迷惑かけてるんですよね」
「そんなことはないですよ」
「あるんです。だから今年は、花火まで大人しくしてます」
どうせ昨日、神輿行列を見に行ったのだし。そう言って膝を抱えている莉那が、本当はとても祭り好きで、だからこそ先輩である流や和人と気が合ったのだということを、在はちゃんと知っている。莉那に我慢はさせたくない。元はといえば、今年は事務所に引きこもることはなさそうだと、つい口が滑った在のせいでこうなったのだ。
……御仁屋の限定饅頭」
ぽそ、と呟くと、莉那の肩がぴくんとはねた。毎年、夏祭りデートのときは必ず買って食べていた。在も御仁屋の菓子は嫌いではない。それに限定なのだから、今年は今日しか食べられないのだ。
「莉那さん、甘いもの欲しくないですか?」
「か、買い置きのお菓子があるので」
「それは普通にお店に行けば、生産終了しない限りはいつでも買えるものでしょう。でも限定饅頭は昨日と今日だけ。しかも昨日は買い逃してしまった」
「観光客が年々増えてるからしかたないです。今年はガイドブックとかにも載っちゃったみたいなので、あれが目的で来た人も多いらしいですよ」
「じゃあやっぱり食べておかないと」
在が笑って言うと、莉那の顔が真っ赤になる。昔は立場が逆だった。高校生の頃は、莉那の押しが強くて、在はいつも照れて戸惑ってばかり。けれども慣れれば、在が普通に莉那と話せるようになれば、実はこちらのほうが相手の弱点をとらえて翻弄するのは得意だということに気づいてしまった。
自分にそんな特技があったなんて、在はそうして初めて知ったのだった。
「買いに行きましょう、莉那さん。というか、僕は一人で留守番するのも一人で行くのも嫌なんですから、ついてきてもらわないと今度こそ困ります」
困るということを武器にするのは卑怯だとわかっている。でも、卑怯なのは今更だ。胸を張れることでもないが、卑下してそれまでにしてもどうしようもないことは学んだ。利用できるものなら利用してしまえと開き直る術は、これもやはり高校時代に身につけ、大学生活で浸透させたものかもしれない。
……じゃあ、一緒に行きます。競走率高いので、人混みの中に突撃することになりますよ」
「いいですよ、ちょっとなら。じゃあ、さっそく」
あれから七年。莉那と親しくなってからなら六年。成長したといっていいのか、図太くなったというべきか。とにかくいい方向に転がったのは間違いないと、在は思っている。
「今年からはもう、黒哉も付き合ってくれないし」
「黒哉君? 去年は一緒にいたんですか?」
「事務所に引きこもってるときに差し入れしてくれたんですよ。でも、もう雪さんがいるから」
「在さんには私がいますよ」
「そうですね。頼りにしてますよ、僕の奥さん」
通ってきた道がどうであれ、今ここにあるのは幸福だ。
もう、祭りの日に事務所に引きこもることはないだろう。それは祭りが好きになったからではなくて、祭りが好きな人が傍にいるから。
この町への違和感に屈したわけではない、と在はこっそり抵抗し続けている。

駅裏商店街の入口のアーチの下、入江新と牧野亮太朗は炭酸飲料をちびちびと飲んでいた。待ち人が来ないので暇を持て余していたところ、ばったり出くわしたのだった。
「お前らな、もっとがーっと飲めよ。せっかく奢ってやったのに」
その様子を見て溜息を吐くのは、中央中学校教員の井藤幸介。祭りの賑やかさの中、アーチ下でぼんやりと立っていた二人を見つけて事情を聴き、元教え子たちを元気づけてやろうと思ったのだが。
「飲み終わってなくなったら、これ以上何して春を待てっていうんですか」
「俺は待つのはかまわないけど、新と何もせずに二人でいるのがいたたまれない。井藤ちゃん、なんか面白いことやってよ」
「人に何期待してんだよ牧野……
井藤はパフォーマーではない。面白いものが見たければ、駅前大広場でやっているステージを見に行けばいい。今年はたしか、何年かぶりに瑠月樹里が来ているはずだ。いちアイドルから大人気のトップアーティストへと進化を遂げた彼女を呼ぶのは大変だっただろう。だが、きっとこの二人は自分の彼女以外に興味はない。昔からそういう生徒だった。
大広場から明るい曲と力強い歌声が響いてくる。ちょうど出番のようだ。おかげで出店の並ぶ商店街からは人がいくらか引いている。みんな広場のほうへ行き、今頃はタオルか何かを振り回しているのだろう。
「須藤も渡辺ももうすぐ来るだろ。人混みに邪魔されることもないだろうし」
「今メッセージきて、春はあと三十分かかるそうです。おじいさんの手伝いだから仕方ないけど」
「連絡来るだけ良いだろ。俺なんか来るかどうかもあやしくなってきたぞ。親戚が来るのはいいけど、ちびっ子の面倒見るのは大変だよな」
……お前ら、それ手伝いに行ったほうがいいんじゃないの?」
そのほうが早く会えるし用事も済むしで、こうしてぐだぐだしていることもなくなっていい……と思ったが、それは井藤だけの考えではなかった。直後にステレオで喚かれたことによると、新は手伝いを申し出たが「工芸のことだから新には難しいよ」と断られ、亮太朗も「親戚に先輩のことどう説明したらいいかわからないし、あとでからかわれると面倒なので」とこれまた断られたそうだ。終わったら必ず行くから、と言われているだけましで、半ばふられたようなものだ。
だが井藤も、彼らのことばかり言っていられないのが現状だった。
「井藤ちゃんはそもそもなんでここにいるんだよ」
「そうですよ、井藤先生こそ何か用事があってここに来たんじゃないんですか」
「俺は教師としての見回り……のついでに嫁さん待ってんの」
「嫁さん? どっか行ってんの?」
「盆からずっと実家に帰ってるよ。処分しなきゃいけないものがいっぱいあるからって、俺は一緒に行ったのに先に帰されたんだ。今日の花火大会には間に合うようにするって言ってたんだけどな、夕方の列車で来なかったらアウト」
「井藤先生の新婚生活も大変ですね」
そう、井藤は一応新婚で、新と亮太朗もそれは知っている。なにしろ井藤の入籍の報せは当日のうちに町中に広まり、急遽同窓生で相談をして、一週間以内にほぼ全員がお祝いのメッセージを送ったのだ。現役の頃より団結していた、と元教え子たちの中では語り草になっている。
「みんな待ちぼうけかー」
「せっかくの祭りなのにな」
遠くから歓声が聞こえる。この小さな町に押し寄せた瑠月樹里ファンが盛り上がっている。彼女のおかげで、今年の祭りはすでに去年の来場者数を超えたそうだ。先ほど商工会議所の職員がそう話していた。
「牧野、暇ついでに訊いていいか?」
「何、井藤ちゃん」
「この町で生まれ育って、良かったと思ってる?」
「あ、それオレも聞きたい。春見てればわかると思ってたけど、マキとしてはどうなんだよ」
「今更だな」
たしかに新と井藤はこの町の生まれではない。中学からこの町にいた新はともかく、井藤は教員になってこの町に赴任してきたのだ。ここで生まれ育った亮太朗に比べれば、住んでいる期間は短いし、生まれたときにどうだったかなんてわからない。もっとも、それは亮太朗だって憶えていないのだけれど。
でも井藤や新に子供ができたら、その子は礼陣の子供になる。だから聞いておきたいのだろう。この町が住みよいかどうか。
「近隣の市より福祉関係はいいらしいし、子供最優先だから、中学卒業するまでは良いんじゃないのか。あとは高校以降の進路次第。俺みたいによその学校に行くことになって金がかかるかもしれないし、大学は礼大狙いじゃない限りまずほとんど山の向こうだ」
「それは一般的な話だろ。マキはその人生で良かったのか?」
「人生って、まだ二十年ちょっとだぞ。……でも、良かったんじゃないの。この町なら友達はわんさかできるし、井藤ちゃんみたいな先生や大人もいっぱいいるし」
亮太朗がそう言って笑うと、新も井藤も安心したような表情を見せた。だから今は、お前ら次第だぞ、という言葉は飲みこんでおく。
炭酸飲料の刺激が少なくなってきた。かわりに、人が増えてきた。ステージが一段落したのだろう。それぞれのスマートフォンに着信があったのは、ほぼ同時だった。
待っているだけは、もう終わり。そろそろ動き出さなければ。

夕方には駅裏商店街の出店が片付けを始め、人々は遠川河川敷や色野山展望台、礼陣神社境内などの花火観賞スポットに向かう。
加藤パン店も夏祭り限定の蒸しパンを売りきり、出店を片付ける。洗い物なども手早く済ませ、あとは明日の仕込みを残すのみとなった。これは両親がやるという。
「だから詩絵はちゃんと支度して、花火見てきなさい」
母が差し出す浴衣を、しかし詩絵は拒否した。浴衣で山を登るのは、整備された登山道を通るとしても難しい。今年の花火も色野山展望台で見るつもりなのだ。
「浴衣動きにくいし、普通の恰好でいいよ。もたもたして松木君に迷惑かけるのも嫌だし」
「俺は別に迷惑じゃないよ。詩絵さんに合わせる」
「花火に間に合わなかったら嫌でしょ。場所取りのことも考えると、絶対浴衣は不向き」
どうやら今年も、詩絵の浴衣姿は拝めないようだ。肩を落とした松木の背中を、詩絵の弟である成彦が慰めるように叩いた。
「二人で温泉でも行ったら見られるかもね、浴衣」
「成彦君、さらっとすごいこと言うよな」
「伝手ならあるから場所も紹介できるよ」
にやり、と笑う成彦。苦笑いで返しながら、さて本当にどうしようか、と悩む松木。大学四年の、今年が最後のチャンスだと思っていた。詩絵と二人の花火大会ももう四回目なのに、未だに告白すらできていないのだ。加藤家の人々はほぼ公認なのに。
「松木さん、自信持っていいよ。今年頑張れば大丈夫」
成彦に見送られ、松木と詩絵は色野山展望台までの道を歩く。一緒に歩く四年目は、もう松木が詩絵を追いかけることもなくなって、完全に並んで行くことができた。本当は二年目からそうだったのだけれど、この一言は今日まで言えずじまいだった。
「詩絵さん、手繋いでいい?」
これで勇気を使いきってしまってはいけないのだけれど、きっと半分以上費やした。
詩絵は目をしばたたかせ、言われたことを反芻する。頭で考えるよりも行動の方が早くて、気がつけば手を出していた。
……ん。繋ぎたいならどうぞ」
「あ、ありがとう。失礼します」
互いに汗ばんでるなと思った。夏だからだ、緊張しているからかもしれないけれど、理由の大部分はきっと季節のせいだ。そう言い聞かせながら、他の二人連れに混じって進む。
色野山展望台は今年も人が多い。けれども例年通り、地元民や礼陣出身者らしい人たちばかりだ。昼間のステージや出店を目当てにやってきた人たちは、交通機関の都合などもあってほとんど帰っている。翌日は平日だから、そうせざるをえない。
いつもの場所に到着して、まもなく一発目が打ち上がる。まだ手は繋いだままだ。詩絵からも松木からも離そうとすることはなかった。今なら、と松木が口を開きかけたとき。
「松木君さ、アタシのこと好き?」
詩絵が先手を打った。答えが一種類しか出せないやり方で。
……好き、です」
「うん。アタシも好き」
花火の音が、周りの声が、遠くなる。単調な告白が、頭の中を駆け巡る。ああ、好きなんだ、と。それだけがマッチの灯のように暗闇に浮かぶ。
「好きになったよ、松木君のこと。どこが、とか、何が、とかそういうのはよくわかんない。でも、早くバイトに来ないかな、とか、休みになったら会えるのが楽しみだな、とか、そんなふうに思う。そういうのが好きになることなら、アタシは松木君が好きなんだと思う」
このよくわからない気持ちをわかってほしいと思う、それも「好き」の一部だろうか。
「詩絵さん。俺、最初に詩絵さんと会ったときから、詩絵さんのこと好きだったよ」
「それは周りから婿さんだのなんだのって言われてたからじゃなくて?」
「その前から。だから今、詩絵さんから言われてびっくりしてるし、……嬉しすぎて花火どころじゃない」
「いや、花火は見といた方がいいよ。だって、今ここにいるアタシたちの特権なんだからさ」
そして花火を見るたびに、今夜のことを思い出そう。

音なら聞こえる。光も微かに届く。いつも見ていた花火を見ずに、今年は野下家の縁側に、流と和人と桜が並んで座っていた。
庭には老犬が寝そべっている。その様子をただ、静かに見守る。
「桜、あっしと花火見なくて良かったのか」
「原稿中だから見れないって。だから私もオオカミを見てるの」
こんなに静かな祭りは、生まれて初めてなんじゃないだろうか。お祭男と称された流が、今年はステージにも出ず、軽く出店をまわっただけだった。
オオカミが心配だった。でも、それだけじゃない。今まで海外に旅に出て、夏祭りに帰って来る生活をしていたのが、これで一旦終わってしまうという現実を見なければならなかった。
世界情勢をみるにつけ、一度旅の生活は諦めなければならないと結論を出した。家族や友人に心配をかけたくなかったし、和人を道連れにしてしまうことにも罪悪感が募りつつあった。
もうしばらくは、この町にいる。そのための生活のことを考えなければならない。それは、和人も同じだった。
「長い旅になると思ったんだけどな」
「長かったよ。……落ち着いたら、また行けばいい」
それはいったい、いつになるだろう。
祭りが終わる。終わってしまう。もうすぐ花火の時間も、終わる。
「仕切り直すのもいいんじゃないかと、僕は思うよ」
そう言う和人だって、本当に納得したわけではない。
世界は動く。ちっぽけな二人は、結局それに翻弄されるしかなかった。それが悔しい。
「大口叩いて、これだもんな。和人を連れまわしただけだった。ごめんな」
「それは違うよ。行くと決めたのは僕で、歩いたところで得られたものは僕らのものだ」
無駄ではなかったかもしれない。けれども犠牲にしたものは、けっして小さくはない。
たとえば、目の前の犬とか。
……もう、らしくないなあ、お兄ちゃんも和人さんも。そもそも一緒にいたくて始めた旅なんだから、これからもそうすればいいじゃない。留まる場所がまた礼陣になっただけよ」
桜が愛猫を撫でながら言う。――そういうことにしておこうか。旅はまだ終わったわけではない、ということに。
……さっきのが最後の一発だったのかな、花火。もう聞こえないね」
「そうだな。オオカミ、わかったかな。花火の音」
「吠えないから、わかんないね」
ひとまず、ただいま。


礼陣の夏が過ぎていく。祭りの夜が明けたなら、その先に次の季節が待つ。
そうしてまた時が巡れば、祭りの季節はやってくる。
それを見届け、鬼たちは、この町を守り続けるのだ。
『それが私たちの役目だものね』
それを確かめ、夜を過ごす。