神輿行列の囃子に合わせ、朗々と唄う声響く。
「今年も人多いね」
「足もと気をつけて、小さい子いる」
夏の最後を飾るのは、礼陣の町の伝統行事。
「手をつないでてね、はぐれないように」
「あとでいちごあめ食べたい」
大鬼を祀る、夏祭り。
「ちょっとー須藤さーん、なんか御神輿の部品欠けてるってー」
階下から呼ばれて、春はあわてて階段を下りる。足はどちらかといえば遅い方なので、一所懸命に走ってもなかなか行きたいところへ辿り着けないのが、長年の悩みだ。
「欠けてるって何が」
「ほら、飾りが左右で違う。昨日までちゃんと対称だったのに」
「あー……すぐに直すね」
北市女学院大学はまだ夏休みの真っ最中だ。けれども課題を進めたい学生やサークル活動の合宿などで、一部施設は申請をすれば使えるようになっている。
春の所属する芸術学部工芸専攻の学生は、一部で集まって、夏祭りに合わせて御神輿を作っていた。とはいえ本当に担いでまわるものではなく、机の上に置けるようなミニチュアだ。これを子供神輿が展示される駅前大広場公園に、一緒に置いてもらうことになっていた。
この試みは今年が初めてだったが、祭りの運営をする商工会などにはすんなり受け入れられた。というより、大歓迎だった。そういうわけで、それぞれの卒業制作や他の課題と同時進行で作っていた。
今日がとうとうお披露目の日なのだが、持ちだす直前になってこの始末。欠けた部分を慎重にごまかして、最後にもう一度全体を見てから、これでよしとした。
「もう持ってっちゃおう。神輿行列終わっちゃう」
「了解。……てゆーか、須藤さん、ここにいて良かったの?」
一緒に制作をしていた同級生に尋ねられ、春は首を傾げる。いて良いも何も、このミニ御神輿を持って行かなければならないのだから、必然的に来ることになっていたはずだが。
「ここじゃなかったらどこにいるの」
「音楽専攻の……園邑さんだっけ。あの子と仲良いでしょ。一緒にいなくて良いの?」
「ああ、千花ちゃん。あっちはあっちで用事があるから。私の今の用事はこれ」
そしてこのあとも、千花とは合流する予定がない。あの子には、もっと大切な用事がある。
もちろん、春にも。
「これ置いてきたらどうするの」
「そこで解散かな。私、人と待ち合わせてるから。だから鍵は返して出よう」
「待ち合わせって誰? 彼氏?」
興味津々の目。期待の声色。簡単に肯定するのはちょっとあっさりしすぎかな、と思ったので。
「どうかな」
笑って、ごまかしておいた。
神輿行列は人出が多く、かつ移動するため、地元民のほとんどはTシャツにスニーカーだ。これに法被を羽織れば完璧な祭りスタイルになる。
子供から大人まで、成長すれば法被を買い替え、この恰好を貫くのだ。海もそういう大人になりたいと思っていた。礼陣に生まれ育った者としてそうありたいと、半ば意地になっていた。
この町が嫌いだった、産みの母への反発もあった。今年は素直に、そうだったんだなと思える。そして彼女がこの町を嫌いになった理由も、今なら少し理解してやってもいい。一度自分が、周りを信じたくなくなったから。つまりはそういうことなんだろうと、解釈している。
「千花」
彼女のために、そうすることにした。
「あ、おはようございます、海さん。……ふふ、法被、お揃いですね」
「町のものなんだからお揃いなのは当然だろ」
はたして今日、同じような恰好の自分たちは、恋人同士と兄妹とどちらに見えるだろう。どちらでも正解という妙な状態を、自分たちは受け入れつつある。
もっと早くに知っていたはずの親たちのほうが混乱している。おかしなものだ。
「……最後の夏祭り、だっけ」
「お仕事が始まればそうなりますね」
人混みと喧騒、唄う声。どんなに騒がしくても、互いの声はしっかり聞こえる。千花はともかく、海には人間だけでなく鬼の声まで聞こえるのに、一番聞きたいものをとらえることができた。
「ずっと一緒にいるようになれば、最後じゃなくなりますよ。いつかまた、二人でお祭りを見られます」
ぎゅ、と握った手に込めたのは、どの種類の愛情だろう。
「さて、大神輿を追いかけるか」
「そうですね。それがこの町の人間の習いですからね」
恋人でも妹でも何でもいい。このまままっすぐ進めば、いずれ辿り着くのは家族だ。歪な道だけれど、それを選んだ。この町を守っているという鬼たちは、どうやらそれを静かに見守ってくれるらしい。これまで真相を黙っていたことの詫びのつもりなのかもしれないけれど。
「一緒に祭りに来てくれてありがとう」
「こっちこそです」
とりあえず約束を果たせた。まずはそれでいい。これからに続く第一歩だ。
二人で一緒に、地面を蹴る。
大勢の人にも、囃子に混じる太鼓の音にも、四か月の赤子は動じない。これは大物になるわね、と言った義姉の子も、こちらはもうすぐ二歳になるが、そういえば祭りに泣いたことはなかった。
もしかして鬼があやしてたりするんだろうか、でも普通の子供には見えないはずだけど、などと大助は考えを巡らせる。なにしろもう見えないので、本当のところがわからない。見えた頃は、こんなことは気にしたこともなかった。
「大樹、真剣に御神輿見てるね。楽しいのかな」
「それにしては笑いもしねえぞ。変なもんがある、くらいの認識じゃねえ?」
この春に生まれた我が子を抱いて、亜子と一緒に神輿行列を見に来た。途中で兄夫婦とも合流して、少し人から離れた場所で、大神輿が動くのを眺める。
兄夫婦の子供である紅葉は、神輿に向かって手を伸ばしていた。成長するにつれてあまり乳幼児用のおもちゃに興味を示さなくなったかわりに、昔話の読み聞かせや神社までの散歩を喜ぶようになったらしい。絶対に母親の影響だ、と大助は思っている。
自分たちの子、大樹は、どう成長するだろうか。今はまだぼけっとしているか泣くか、たまに笑うかといったところだが、そのうち好き嫌いをするようにもなるんだろう。
「適当なところで、神主さんに挨拶しに行かなきゃね。愛さんも待ってるだろうし」
「神輿行列が終わったらな。当分は忙しいだろ。その前に大樹が腹空かすかも」
「じゃあやっぱり、一回うち戻ったほうがいいか。恵さんとよりちゃん先生も寄ってく? 遠川の家よりは近いよ」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらっちゃおうかな。恵君、いいでしょ?」
「いいけど、僕らはもうちょっと神輿行列見てからだね。紅葉がもっと見たそうだから。大樹に差し障りあるようだったら、大助たちは先に帰りなさい。あとでお邪魔させてもらうよ」
本当に紅葉は母親似の礼陣マニアになるんじゃないだろうか。ほどほどにしろよと思いつつも、今自分が心配しなくてはならないのは、大樹のほうだ。むずかる様子もなく神輿行列を見ているが、肌に汗が浮いてきている。夏もそろそろ終わりとはいえ、太陽は容赦なく地上をやいていた。
「亜子、大樹に水分とらせないとだめだ」
「バッグに入れてきたけど、やっぱり帰ったほうが良いね。じゃあ、恵さん、よりちゃん先生、またあとで」
去年より気を遣うことが増えた。その分慌ただしくなって、でも、賑やかになった。さすがに大樹くらいの頃の記憶は大助にはないけれど、もしかしたら今はもういない両親も、こんな気持ちになったんだろうか。大変で、たまに面倒で、でもそれが幸せだと感じる瞬間があったんだろうか。
「大樹が生まれてから、父さんと母さんのことを考えるようになった」
思っていたことをそのまま口に出す。亜子はそんな唐突な話に慣れていて、うん、と相槌を打つ。
「全然憶えてねえんだよな。でも、俺が生まれてしばらくは、家族全員揃って家にいるようにしてたらしい。母さんは仕事を休んで、父さんも家にすぐ帰れるような仕事をさせてもらってたって。母さんの産休が明けたらまた二人での海外出張が多くなるから、それまではちゃんと俺の世話をしておきたかったんだと。全部兄ちゃんから聞いたんだけど」
「恵さん、当時もう小学六年生か。そりゃあ憶えてるよね」
「大樹も忘れるんだろうな。今日のこととか、いつかは」
「全部は憶えてられないよ。わたしだってそんな記憶ないもん。でも、大樹はまだまだ人生始まったばかりだから。大きくなってから、お祭りの日にずっとお父さんに抱っこされてたこととか、話したらいいよ。恵さんと愛さんがそうしたみたいに」
だから生きてね。言葉にはしなかったが、たぶんそう続く。
ちょうど一年前、大助は鬼たちの声を神社で聞いた。亜子の胎に命が宿ったことを知らせるもので、それから少しして、亜子もそのことに気づいた。
そのときから、生まれてくる子を鬼の子にはするまいと思ってきた。亜子を生かして自分も生きようと、子供が大人になって鬼が必要なくなるまで見届けようと、決意した。
つい最近、一人で神社にいる神主を訪ねたときに、ついでにそんなことを話した。すると神主は「万が一」と前置いて、告げた。
――人間としてそうすることが不可能になってしまった場合、大助君は鬼になることができます。君も知っているでしょう、人間の魂が鬼と成り、この町に留まるということを。進道家の葵さんは少々特殊なケースですが、君の場合は根代家を守る鬼のように、家憑きになると思われます。
もちろんそれを望むわけではありませんが。そう締められた「行き先」の話を、誰にも言えなかった。言えるわけがない。
鬼の子になり、家を守る鬼が父だと知った子が、心の底から喜んだわけではないということを、よく知っている。その家族が、鬼の見えない人々が、どんなに胸を痛めたかを知っている。
「ウザがられても話してやる。俺が、自分で」
大物になるらしいこの子の成長を、人間の親として、見届け支えていこう。
鬼の子として、鬼追いとしての役割をとうに終えた今、それが大助の役目だ。
神輿行列が終わり、移動する人々で道路が混雑する。人の波はこれから駅前と駅裏商店街の出店へと流れていくのだ。
町の安全を守る警察官に、休む暇はまだ訪れそうにない。
「先輩、わたし渋谷とかのDJポリスみたいなのやってみたかったです」
「ここは渋谷じゃないからねー。ていうか、やっこちゃんにはまだそんな余裕ないでしょ」
「ないですね……」
いつも祭りは遊ぶ側だった。神輿行列を追いかけ、神社の迎え太鼓を聴き、出店へ向かう。今年からはそれができない。大人として礼陣を守るとは、そういうことだ。
「ああ、かき氷……いちごあめ……チョコバナナ……イカ焼き、焼きそば、お好み焼き、加藤パンの蒸しパン、御仁屋の限定饅頭……」
「やっこちゃん、こっちまでお腹空くから、食べたいもののリストアップは頭の中でお願い」
礼陣の一年で一番賑やかな日は、この町で働くおまわりさんにとって、一年で一番忙しい日になる。
「やっこちゃーん、お仕事頑張ってねー」
声をかけられれば笑顔で応えるが、内心はやはり羨ましい。その手に持っている綿飴の、ひとつまみでもいいから分けてほしい。
そんなことを考えていても、鍛えられた目と耳はしっかりと非常事態をとらえる。人混みの中、誰かが走って子供にぶつかった。小さいその子は転んで、周りには気づかない人たちが。
「やば……っ、待ってください、止まってくださーい!」
駆け寄ろうとしたその時、やつこはたしかにその瞬間を見た。
危うく踏まれそうになった子供を、抱き起こしたものがいた。それは人間とはかけ離れた姿をしていて、頭には二本のつのが。しばらく見ていなかったそれは、たしかにこの町にいる鬼だった。周りの人々は気づかない。見えていない。でも子供はふわりと、人の波から少し離れた場所におろされた。
もう、そんな光景は見られないと思っていた。鬼の子ではなくなった自分には、もう一生、神主と呼ばれる大鬼以外の鬼を見ることはないだろうと。
でも、力は残っていたのだ。ほんの少しだけ、その奇跡を見ることができる分だけは。
「……大丈夫だった?」
不思議そうにしている子供に近づき、目線を合わせて尋ねた。子供はこくりと頷き、もう一度首を傾げてから、また人の中へ戻っていった。これから駅裏商店街のほうへ向かうのだろう。
「礼陣は、変わってないね……」
鬼は子供を助け、守る。それがこの町の「常識」。
今日は夏祭り。鬼たちが主役の日。だからその「常識」が、大人になったやつこにも見えたのかもしれない。
「わたしも頑張らなくちゃね。鬼のみんなと一緒に」
なんだか励まされたような気がして、やつこは仕事に戻っていった。