仏壇に置いておいた桃が、忽然と消えていた。
詩緒も和孝も店に出て仕事をしていて、家には誰もいなかった。息子の和人は海外にいる。誰かが勝手に食べるということはないし、桃がどこかに転がり落ちているということもない。
これが初めてではない。ちょうど和人が大学を卒業し独立した頃から、こんな現象が頻繁に起こっている。そしていつも通りなら、まもなくしてテーブルの上にメモが置かれていることだろう。詩緒にも和人にも似た字で、「ごちそうさまでした」と。
よそなら、まず不法侵入を疑い、それで説明がつかなければ幽霊や妖怪の類が起こす怪現象だ。しかしこの町、礼陣では、たった一言で説明できる「常識」がある。この町で生まれ育った詩緒も、それはよく知っていた。
水無月家に起こるこの怪現象の正体は、鬼。それもおそらくは、詩緒がよく知っていなければならないはずの鬼なのだ。

一番最初の異変は、息子が海外へと旅立った年の春に起こった。
名前の上では呉服店、その実態は扱う品を先代が大幅に増やし大改造を行なった、衣料品店。それが現在の水無月呉服店であり、学生服が大量に必要になる冬の終わりから春にかけてはとても忙しくなる。加えて通常の着物や反物、小物といったものも出るので、目がまわる。
そういうわけで、礼陣を囲む山々を彩る桜をのんびりと楽しむことは難しい。もうすっかり慣れてしまったが、それらは店先から目の端に映すのみだった。それでも祭り好きな礼陣の人間の血が、花見ができるものならしたい、と体をうずうずさせるのだ。
その年も、そんな気持ちを我慢しながら、いつもの通りに仕事をしていた。学生服のシーズンはようやく落ち着き、今度は花見会の着物の相談や購入、それから早めの成人式の振袖などの案内が始まる。何を買うということはなくとも、常連客の相手も大事な仕事だ。水無月の家に嫁に入ってから、いや、ここで働くようになったのはそれ以前からだから、もう随分と長くこの流れの中にいる。
息子が完全に手を離れてしまって、「しなければならないこと」が一つ減った。するとできた隙間をどう活用したらいいのか、ふとわからなくなることがあった。今まで通りに店を切り盛りしていればいいのだろうけれど、本当にそれだけでいいのだろうか。
詩緒の人生は、町の名門女子校である北市女学院を出て、水無月呉服店に勤め、結婚して出産して、子育てをしながら働き続けるという、それだけなのだろうか。それに不満はないけれど、どこか不足を感じるようにはなっていた。
お茶会にでも出てみようか、いや、そんな時間がどこにある。そんなことを考えていた折に、「異変」が訪れた。
仕事の合間に食事の仕込みをしなければならないので、母屋に戻ったときだった。テーブルの上に、妙なものがあったのだ。
桜の枝。それも満開の花が眩しいほどにわんさとついたものが、背の高いコップに生けてあった。
家に人間はいない。誰かが勝手に入ったにしても、こんなことをする意味がない。念のため貴重品を確認したが、他のどこにも手をつけられていないようだった。
ただ、桜の枝は、折られたのではなく切り口がすっぱりときれいなそれは、たしかに人の手によって用意されたものだ。詩緒は首を傾げて、ちょん、と花をつついた。薄緋色の花弁が、笑うように揺れた。
このような不可思議な現象を、この町では「鬼」の仕業だとして納得することがある。普通の人間には見えないが、たしかに存在して、この町に住んでいるのだという鬼。町を守ってくれているのだという、神様。詩緒も幼い頃から、鬼にまつわる話をよく聞かされたものだ。
でも、こんなにはっきりとしたかたちで存在を主張してくる鬼なんて、いるのだろうか。鬼はこっそりと人間を助けてくれるものだと、だから過剰な願い事はしてはいけないと、詩緒は母から教わってきた。いくら花見がしたいと思ったところで、こんな立派な桜の枝を持ってきてくれるなんて、そんな話は今までにない。
「ねえ、和孝さん。居間に桜があったんだけど。枝ごと」
「なんだい、それは。僕ではないよ。パートの誰かじゃないのかい」
「それなら私かあなたに一言かけるでしょう。ちょっと見てきてごらんなさいよ、すごく立派な桜なんだから」
桜の枝を見に行き、それからまた店に戻ってきた和孝は、首を傾げながら「山の桜だと思うけど」と言った。
「鬼の仕業……にしては大胆だね」
やはりそう思うのだ。同じく礼陣の、それも歴史ある店の子として育ったこの人でも。
さらに不思議なことには、その桜の花は普通よりも長く咲き、五月の連休を迎える頃にようやくはらりと散ったのだった。

夏になり、水無月呉服店にも取引先やお得意様から御中元が次々に届くようになった。いくつかは仏壇にあげてから、いただいたりおすそ分けをしたりすることになる。夫婦二人では、特に食べ物や飲み物は、なかなか消費できない。和人がいれば友達に配ってくれたのだろうけれど、帰ってくるのはもう少し先だ。夏祭りの頃には帰って来るらしいが、それは八月の、お盆も過ぎた頃のことなのだ。
届いた桃を仏壇にあげて、詩緒と和孝はそっと手を合わせる。この店を守ってきた先祖たちと、産まれてすぐに亡くなってしまった娘のための仏壇だ。娘は和人とは双子だった。
この桃も、娘が生きていれば食べただろうか。仏壇に何かを供えるたびに、詩緒は娘のことを思う。忘れたことなんかない。
桃は仕事が終わったら冷蔵庫に入れて、明日の朝にでも食べようか。そんなことを思って店に出て、昼頃に一旦母屋に戻ったときに、何気なく仏間を覗いて目を瞠った。供えていたはずの桃がない。転がり落ちたかと思ってあたりを探してみたが、どこにも見当たらない。忽然と消えてしまったのだった。
食べ物が消えれば、それは鬼が持って行ったのだ。それが礼陣の「常識」である。けれども仏壇のものを勝手に持って行くなんてことは、これまでの水無月家では起こったことがなかった。
「和孝さん、仏壇の桃がないんだけど」
「またか」
「また?」
「昨夜に僕が供えたゼリーも、今朝になったらなくなっていた。まあ、これは鬼だろう」
「でも仏壇のものを持っていくなんて、今年が初めてよ」
「じゃあ今年からそうすることにしたんだ、きっと」
鬼が関わっていると判断したことに対しては、和孝は暢気だ。礼陣の人間を極めた人で、詩緒もそんな和孝が好きなのだが、今年から、というのがどうにも引っかかる。しかも桜の枝といい、仏壇のお供え物といい、大掛かりで、神に言うのもなんだが、不遜なのだ。
そんなことを考えていたら、仕事が終わってから家に戻ると、もっと奇妙なことが起こっていた。誰もいなかった室内のテーブルに、電話の横に置いてあるメモ用紙が一枚、置いてあった。近付いてみると、そこにはっきりと文字が書かれているのがわかる。
『ゼリーと桃、ごちそうさまでした』
その筆跡は、どこか和人のものに似ていて、でもそれよりも少し丸みを帯びているようだった。
いくら怪奇現象をおおらかに受け止める礼陣の町でも、今までになかったことが発生するというのは少々気味が悪い。遠くにいる和人に何かあったのではと、気になってメッセージを送ったほどだ。どうやら何事もないらしいが、息子もこの事態を不思議がっていた。

気になる名前を耳にしたのは、夏祭りの近づいた八月。夏休み中ということで、真昼間でも商店街や神社に入り浸る子供たちの姿が当たり前になる。水無月呉服店には、夏祭りに着る法被や浴衣を見に来る親子連れや中高生が出入りするようになっていた。
「こんにちは」
「あら、雛舞さん。いらっしゃいませ。今日はお仕事はお休み?」
「はい。せっかくだからこの子の法被と浴衣をと思いまして」
店を訪れた雛舞という客は、その年の春から姪を引き取っていた。噂があっという間に広まる町なので、詩緒も彼女らのことはよく知っている。姪の沙良は、丁寧に頭を下げて「こんにちは」と言った。礼儀正しく、忙しい伯母をよく手伝う良い子だと、商店街ではすでに評判の娘だ。
「こんにちは。沙良ちゃんはどんな浴衣がいいかしら。小学四年生でしたっけ。でも、ちょっと大人っぽい柄も似合いそうね」
「あ、ええと……
沙良は視線を横に泳がせ、それからそこにかすかに頷くと、浴衣のコーナーを指さした。
「そこに、桔梗の柄の浴衣があるから、それが似合うんじゃないかって……
見えない誰かと行動を共にしているような、行動と口調。礼陣にいる子供の一部には、ときどきこんな傾向がある。大抵それは「鬼の子」と呼ばれる、片親あるいは両親を亡くした子供に見られるものだ。そういう子供には、鬼が親代わりになるという言い伝えがあり、実際その子供たちには鬼が見えるらしい。
詩緒は鬼を見たことがない。けれども、このような子供はこの町では珍しくないので、これもまた普通だった。
「桔梗のね。これかしら」
「あ、はい。それだって、美和さんが」
「美和?」
その名前を、知っていた。詩緒が忘れるはずがなかった。珍しくもない名前だが、特別思い入れのある名前なのだ。――亡くした子供につけるはずだった、名前。
「美和、って? 沙良ちゃんの知り合い?」
「鬼です。ええと、わたし、このお店にいる鬼が見えてて……その鬼が、美和さんっていうんです。そう名乗ってました」
店にいる? 美和と名乗る鬼が、ここに? 本来、鬼には名前がないものだそうだが、その鬼には名前があるのか。亡くした娘と同じ名が。
「今、子供たちのあいだで有名みたいですよ。子供の疑問と願いをきいてくれる美和鬼様。神社とこの店によく現れるって、他の鬼の子も言ってるそうです。知りませんでした?」
雛舞の言葉に、かろうじて「初耳だわ」と頷く。ちらりと和孝に視線をやると、彼も目を丸くしていた。
「名前がある鬼なんて、珍しいわね」
「美和さんは、名前が大切なんだそうです。人から貰ったものだから」
外から聞こえてくる、子供たちの声を意識した。名前が会話の中に混じっている。――美和鬼様、宿題の答え教えてくれないかな。いや、勉強は自分でやれっていうんじゃないの。
……おばさんのね、娘の名前も、美和っていうの。随分昔に亡くなったんだけれど」
気づけば、口をついていた。沙良は浴衣を見ていた目を詩緒に向け、こくりと頷いた。
「だから美和さん、ここにいるんですね」

店の小物の並びが崩れたと思ったら、次の瞬間には直っている。反物を出そうと思って忘れてしまっていたら、いつのまにかきちんと用意されている。気をつけてみれば、店の中でも不思議な現象はたくさん起きていた。それも、今年の春を境にして。
店じまいをした後、詩緒は和孝にことわりを入れて、礼陣神社に赴いた。ここには鬼が祀られていて、何年経っても姿の変わらない神主が常駐している。神主こそが大鬼だと、昔からそういわれている。
詩緒は社務所の戸を叩き、出てきた青年――詩緒が子供の頃から青年だった――に頭を下げた。
「神主さん、遅くにすみません。どうしてもお尋ねしたいことがありまして」
「ええ、中へどうぞ。……詩緒さんか和孝さんか、どちらかいらっしゃるのを、待ってたんです」
全てお見通しであるかのように、神主は笑った。詩緒が多くを語らなくても、この人は、いや、大鬼様は、この町で起こっていることを知っているのだろう。
冷たい緑茶を供され、詩緒は神主と向かい合った。何から話そうか迷って、一番手っ取り早そうなものを選ぶ。
「美和鬼様って、何なんですか」
神主は笑みを浮かべて答える。
「今、子供たちに大人気の鬼です。鬼の子を通じて、勉強や遊びのことを尋ねたり、願い事を言ったりする子が多いですね」
「それはお客様から聞きました。そうじゃなく、私が聞きたいのは、その……美和鬼様が、うちの美和なんじゃないかって、いうことなんですけれど」
そこまで口にすると、あとは堰を切ったようにこれまでのできごとが言葉になって溢れた。知らぬ間に桜の枝が生けてあったこと。店の棚がいつのまにか整えられていること。気がつくと仕事が進んでいること。仏壇に供えたものが消えて、代わりにメモが残されていたこと。
それらを、神主は黙して、頷きながら聞いていた。微笑みを保ちながら。
「美和鬼様は、よくうちにいるそうです。鬼の子の接客もしてるみたいで。……それって、私が思い描いていた、もしもうちの子が、美和が生きていたらこうだったんじゃないか、って姿に重なるんです。それに、思い出したんです。和人はよく、私たちには見えないものに話しかけていました。美和、と呼びかけていました。あれは私から双子だった話を聞いて始めたごっこ遊びじゃなく、もしかして本当に美和がいたんじゃないでしょうか」
もしもそうだとしたら、自分はずっと娘に気がつかなかったことになる。そこにいたのに、もういなくなってしまったものとして扱っていたことになる。
膝の上で拳を強く握った詩緒に、神主は柔らかく微笑んでいた。
「鬼は、礼陣を守るものです」
穏やかに語りだす言葉が、焦り走った詩緒の心を、ゆっくり宥め始める。
「水無月呉服店と、店を営む貴方たちも、礼陣の一部です。それを気にかけるのは、鬼として当然のこと。本来はもっと静かに人間を見守るものですが、美和という鬼は人間が大好きで、手を出さずにいられないんでしょう」
一瞬だけ、神主が苦笑したように見えた。でも、本当にそうだったかどうかわからないほど、すぐに表情を元に戻す。
「詩緒さんと和孝さんは、和人君が旅立ってから寂しそうでした。大学に進学した時は休みになれば帰省するという確信もあったし、国内にいましたから、会おうと思えばすぐに会えます。けれども今はそうではない。それはさぞ心配でしょう。……美和鬼様と呼ばれる鬼は、それが気がかりだったのかもしれませんよ」
鬼として普通のことだ、と神主は言いたいのだろう。たぶん、美和鬼様と美和を同じに考え、今まで気づかなかったと自分を責める詩緒に、そうではないと告げているのだ。
詩緒は頷き、それから今度は深く頭を下げた。
「気にかけてくれてありがとうございますと、美和鬼様にお伝えください」
「私が伝えるまでもなく、ちゃんと聞いてますよ。なにしろ鬼です」
……そうですね」
鬼は礼陣の守り神。主に子供たちを守るというが、神にとって人間など、子供のようなものなのかもしれない。詩緒たちもまた、鬼に守られていたのだ。
そう納得して、詩緒は神社をあとにした。
見送る神主は、傍らに佇む女性の姿をした鬼に、溜息交じりに言う。
「美和さん、あまり水無月家に干渉しすぎるとこうなるんですよ。和人君がいなくなって、自分は鬼に成ったからといって、張り切りすぎましたね。あと、お供え物をもらうのはどうかと」
『だってお父さん、美和はゼリー好きかな、って置くんだもの。お母さんもそうやって桃を置いたから、食べて良いのかと思って』
「鬼であることをわきまえなさい」
『鬼だけど、私は水無月の娘ですから。和人の代わりに店を守るって決めたし、これからもお父さんとお母さんを困らせない程度に接触は続けます』
「しかたのない人ですね……
娘が鬼になったことを、詩緒たちは知らなくていい。ただ、美和という娘がいたことを、憶えていてくれるだけで十分だ。
あとは美和が、両親にしてあげたいことをするだけ。迷惑じゃなければ、いくらでも。今までできなかった分を足して、めいっぱい。

水無月家にはいつも怪奇現象が起こっている。仏壇のお供え物は消えるし、テーブルにメモが置かれる。店の品物は手を触れなくてもきちんと並べられている。けれども主はそれを微笑ましく思って、放っておいている。
いや、ときどき呟く。言いたくても言えなかった言葉を、ぽつりと。
「まったく、美和はしょうがないわね。お手伝いしてくれるから、特別よ?」
歌うような詩緒の声に、美和は見えないながらも、幸せそうに笑っている。