目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、気配はいつだってわかる。あまり家にいることのなくなったその人が帰ってくると、私の尻尾はぱたぱたと反応するのだ。
「オオカミ、流ちゃんが帰ってきたわよ。和人ちゃんも一緒みたいね」
トラ殿が教えてくれる。私の感覚もまだまだ大丈夫だ。ゆっくりと立ち上がって、こちらへ向かってくるにおいを確かめた。
「オオカミ、ただいま」
おかえりなさい、流殿。お待ちしておりました。

私はオオカミという名の犬だ。もう随分と昔にこの野下の家にやってきて、生活を共にしている。
そのあいだに、私を助けてくれた流殿は、小学生から中学生、高校生、大学生となり、それも終わればこの家を出ていった。でも、こうしてときどき帰ってきてくれる。私に元気な姿を見せてくれる。
とはいえ、私の目はもうほとんど見えなくなってしまっているのだが。同じくこの家に住む猫のトラ殿によると、私たちは随分と年をとってしまったようだ。
そして私のほうが、トラ殿よりも早く、体が弱ってきていた。
「もうオオカミも、すっかりおじいさん犬だもんね。トラも結構おばあちゃんだけど、まだ元気だね」
流殿の親友、和人殿が体を撫でてくれる。トラ殿が「ええ、おかげさまで」とすまして返事をするのが聞こえた。近くにいるはずなのに、声はどれも遠い。
「ごめんな、オオカミ。もっと早く帰って来ればよかったよな。こんなになるまで、待たせちゃったな」
寂しくなかったとは言わないが、待つのは苦ではなかった。必ず来てくれるとわかっていたから、私は流殿に会えるのをいつも楽しみにしていた。だからときどきの注射も、食事と一緒に与えられる薬も、受け入れてきた。そうすれば、また流殿に会えると、会える時間が長くなると、流殿の妹である桜殿が何度も言い聞かせてくれたのだった。
たぶん、今年が最後の夏になる。私を診てくれている人間は――医者という人だ――そう言っていた。桜殿はそれを流殿に伝えたようだ。
「桜、オオカミは散歩は……
「もう足が弱っちゃって、家の周りをゆっくり歩くのでせいいっぱい。ここのところ急に体調を崩しちゃってね」
「そっか。天気、不安定だったらしいしな」
昔はずっと向こう、地区を越えて河川敷のほうまで走っていけた。流殿とならどこまでも行ける、そんなふうに思っていた。日が照っていても、小雨が降っていても、流殿と歩けるなら平気だった。でももう、それもできない。体がいうことをきかない。それは至極残念なことだ。
私は力を振り絞り、流殿に体を摺り寄せた。散歩に行きたいときにそうするように、前足で流殿を叩こうとした。よろよろとした動きでも、流殿にはちゃんと意味が通じたようで、目を見開いてから早口で言った。
「桜、リード持ってきてくれ。オオカミが散歩に行きたがってる」
「ええ、そんな体で? ……疲れたら帰ってくるのよ。お兄ちゃん、オオカミを抱っこできるよね」
「任せろ。行こうか、オオカミ」
「僕も行くよ。桜ちゃん、ちょっとのあいだ、荷物を置かせてね。お土産は開けちゃっていいから」
おや、和人殿も一緒か。それは嬉しい。まるで昔に戻ったみたいだ。

私がまだ元気に走り回れた頃、流殿は私を朝と晩の二回、散歩に連れて行ってくれた。それにはよく和人殿や桜殿が一緒に来てくれて、私は賑やかなお喋りを聞きながら楽しい時間を過ごしたものだった。
あんまり楽しくて走りすぎると、流殿も笑いながら走った。和人殿も、桜殿も、みんなで駆けた。そうして決まってこう言うのだ。「オオカミのおかげでいい運動になったね」と。
もう、その言葉は聞けない。流殿がいないあいだは桜殿が散歩に連れて行ってくれたが、最近では優しくも寂しそうな声で言うのだ。
「もう昔みたいには走れないよね」
同じ台詞を、今日は和人殿が口にした。
「ゆっくりでいいだろ。俺たちも年だし」
「それもそうか」
私よりはずいぶんゆっくりだが、流殿も大きくなられた。成長なされる流殿に、私は日々、いたく感激したものだった。それを流殿は知っているだろうか。
いつからか、流殿は私の恩人から、弟のようなものになっていたのだと、きっと犬の言葉で言っても通じないのだろう。たった一言でも人間の言葉を話すことが許されるなら、私は流殿に、「私はあなたが大切です」と伝えたい。とてもとても、大切に思ってきたのだと。
……
ああ、足が追いつかない。すぐに疲れてしまう。立ち止まった私を、体の大きな流殿は、ひょいと持ち上げた。
「でっかいなあ。子犬の頃は、もっと簡単に抱えられたのに」
「ダンボール箱から抱きかかえて、獣医さんに連れて行って、それで流の家で引き取ったんだったよね。あれからもう十年以上経ってるんだから、早いね」
ええ、本当に、矢のように過ぎていきました。全てが懐かしい。この思い出を持っていけるなら、私は幸せだ。この世で一番幸せな犬だったと、自負できる。
流殿。流殿の体は、温かいですね。前は私のほうが――

大きく強くなるように、オオカミ。そんな名を与えてくれた流殿に、感謝している。
こまごまと世話をやいてくれた桜殿、頻繁に会いに来て優しくなでてくれた和人殿にも。
私を野下家の犬にしてくれて、ありがとうございました。
私を幸せにしてくれて、こんな生き方をさせてくれて、ありがとうございました。


「おやすみ、オオカミ」
最後の散歩から数日。夏祭りが終わった次の日に、オオカミは眠るように息を引き取った。
苦しんだ様子がなかったから良かったと、桜は泣きながら言う。それが言えるのは、オオカミの様子を、これまで離れることなく見てきたからだ。
海外へ行くために、オオカミを置いていった。そのことを、今ほど悔やんだことはない。せめてもっと帰ってきて、オオカミの世話をするべきだった。
……流、後悔はしちゃだめだよ。流が選んだんだから。オオカミはきっと、流が後悔することを望まないよ」
こちらの考えを見抜いて、和人が言う。自分も目を潤ませながら。本当は和人だって、もっと会いに来ればよかったと思っているんだろう。
捨てられていた子犬だったオオカミ。野下家で飼うことになり、どんどん元気になっていったオオカミ。成犬になり、河川敷を駆けまわり、町の子供たちにも親しまれていたオオカミ。その姿を見て、いつだったか、和人は「流とオオカミはそっくりだね」と言っていた。
オオカミのほうがずっと立派だよ、と思う。つらいことや痛いことに耐えて、帰ってきた俺たちをきちんと出迎えて。それがどんなに楽しみで、ありがたいことだったか。
オオカミのおかげで、俺がどれだけ成長できたか。先に大人になったオオカミは、きっと俺のことを、途中から仕方のない子供みたいに思っていたんだろうな。だって、あんなに優しい目をして、俺を見ていたんだから。
「ありがとうな、オオカミ。俺が帰ってくるまで、待っててくれて」
最後の夏だった。オオカミにとっても、俺にとっても。俺はもう、この町に「帰ってくる」ことはない。これからずっと、ここにいるつもりだから。それはオオカミのせいじゃなく、そうせざるを得ない理由が、俺たちの周りに次々に起こってしまったからなのだけれど。
でもその決断がもう少し遅かったら、きっとオオカミを看取ることができなかった。
「ペットの火葬、予約した……。お兄ちゃん、オオカミを連れて行こう」
「サンキュ、桜。和人も来てくれるか?」
「もちろん行くよ」
なあ、オオカミ。お前はよく俺を勇気づけてくれたよな。前に進もうと決めたとき、いつも傍に来て顔を舐めてくれたよな。
じいちゃんと一緒に時代劇を見て、父さんと一緒に新聞を読んで、まるで人間みたいに振る舞ってたこともあったな。
そんなとき、お前は何を考えていたんだろうか。少しでもわかったら良かったんだけど。
俺には犬であるお前の言葉はわからない。でも、ときどき俺の言ったことに、返事をしてたよな。あれは、返事だったよな。
結構思い出、あるなあ。十三年、よく生きたな。よく、生きてくれたな。
トラがオオカミの傍に来て、にゃあ、と一度だけ鳴いた。そのたった一度でどうしようもなく泣けてきてしまった俺を、桜と和人が支えてくれた。


めったに泣かない人なのに。流殿、泣かないでくだされ。私はいつでも、流殿のお傍におります故。
「馬鹿ね、アンタ。流ちゃんは意外と泣き虫よ。今は泣かせてやりなさいよ。人間って、泣くとすっきりするらしいわよ」
そういうものか。さすがトラ殿、私の先輩だけあって、ものをよく知っておられる。
それでは今しばらく、流殿に寄り添って、涙がおさまるのを待とうか。
大丈夫、待つのは慣れているゆえに。そして私は、それが苦ではないのだ。