店の前で佇んでいる少女を見て、苑子は美しく整えた眉を顰めた。時刻は午後六時を過ぎている。子供は家に帰る時間ではなかろうか。少なくとも、これから大人のための空間となる歓楽街にいるのは、あらゆる意味で好ましくない。
「ちょいとあんた、こんなところで何してるの。店の前にいられると迷惑なんだけれど」
警察には、お客としてしか来てほしくない。苑子の店は酒を提供し、女性スタッフが客の相手をしているが、至って健全である。その状態を保っている。未成年なんかに秩序を乱されては困るのだ。
「あの、仕事させてくれませんか」
困るというのに、少女は言った。想定内だ。こういうことは、このあたりでは珍しくない。苑子も十分に気をつけている。うっかり未成年を働かせてしまったら、そうとは知らなかった、なんて言い訳は通用しない。店を取り仕切る自分が見誤れば、スタッフ全員の生活が危うくなる。だから苑子は、冷たく言い放った。これは大人としての義務なのだ。
「あんたみたいのにやらせる仕事はないよ、さっさと帰んな。うちだけじゃなく、ここいら一帯が迷惑するんだからね」
早急にこの場を離れることは、少女のためでもあるはずだ。ろくでもない大人に捕まれば、この子の人生も狂う。背伸びをしすぎた化粧に、肩幅の合っていないブラウス、手入れが雑なスカート、服には不釣り合いにぼろぼろな運動靴。ほんの少しの金さえあれば、もしかしたら金など使わなくても、こんな子供はいくらでも好きにできると考える輩は、残念なことに多い。
しかし少女は動かなかった。
「帰る場所なんかないです。お願いです、何でもします」
家出か、と苑子はわざと大きな溜息を吐いた。これも珍しいことではない。どうせ親とつまらないことで喧嘩でもしたんだろう。あるいは悪い仲間とつるんでいて、合わせる顔がないとか。どちらにせよ、苑子が面倒を見る義理はない。
「その服、親のを勝手に着てきたんだろう。靴だけは自分のかい。用意できるってことは、家があるってことじゃないの」
「ないです。あたしの家なんかどこにもない。だから仕事と住むとこ見つけなきゃ」
馬鹿なことをぬかしてんじゃないよ、と追い払うつもりだった。そうしなければならないと思っていた。だが苑子は、少女が切迫していると感じてしまった。持ち物は何もない。ブラウスが合っていないのは若すぎるからではなく、痩せすぎているからだ。手足も細く、ぼろぼろの運動靴はよく見ればサイズが大きい。厚化粧の頬もこけて、目は落ち窪んでいる。いったいこれまで、少女はどんな生活をしてきたのだろう。
……あんた、歳はいくつなの。正直に言いな」
「に、二十……
「正直に!」
……ごめんなさい、十五です。今年で十六になります」
中学を出たばかりか。もしも真っ当に学校に通っていたなら、だが。厄介なものと出会ってしまったと、苑子は頭を抱えた。ひとまず警察に引き取ってもらうか、と考えたが、向こうも託児所じゃないのだ。これで解決、というわけにはいかないだろう。しかし相談くらいはしておいたほうがいい。
「おいで、世間知らず。仕事なんかね、こんなところじゃなくてもいくらでもあるんだよ。住み込みで働かせてくれるところだってある。まずは今夜をどう乗り切るか、それを話しに行くよ」
「行くってどこに」
「迷惑をかけるけど、ここから一番近いのは交番だね。あんたの身元を確かめなきゃ」
「保証してくれる人なんていません」
「それは大人が判断するよ」
少女を引っ張って、交番に連れて行く。ここの駐在はこういったトラブルには慣れているはずだ。苑子の店にもよく立ち寄っている。もっともそれは客としてではないけれど。お互い、仕事の付き合いだ。
「おう、苑子さん。店はどうした。……その子は? 煙草でも吸ってた?」
駐在は表情を変えずに尋ねた。苑子は首を横に振って、少女を屋内へ押しやった。
「仕事させてくれって来たんですよ」
「そりゃ無理だな」
「無理でしょう、十五歳だもの。とりあえず、親と連絡とってほしいんです。そういうの得意でしょう」
「ここは迷子センターじゃないんだけどね」
苦笑いをしながら、駐在は少女に椅子を勧めた。特に抵抗する様子もなく座り、名前と電話番号を書くようにという指示にもすんなりと従った。――苑子はそれを隣に座って見ていて、初めて少女の名前を知ったのだった。
「日暮清佳っていうのかい。清佳なんてきれいな名前じゃないの」
……名前だけです」
俯く少女の目の前で、駐在が電話をかけていた。だが、誰も出ないらしい。しばらくしてから諦めて、清佳に住所も書くように言った。
「親は普段何してるんだ。仕事か」
「仕事してたら給食費だって教材費だってまともに払ってもらってました。パチンコとかで勝ったときにご機嫌をとって生活してたんですけど、もう義務教育が終わったから、面倒見る必要もないだろうって言われたんです。今も多分パチンコです。母はもしかしたら、恋人のところかも」
「まるで作り話みたいだな」
「あたし馬鹿だから、作り話なんてできません。……はい、親の住所」
ここからさほど離れていないアパートの住所が書かれた紙を、駐在は部下に渡した。とりあえず居留守を使っていないかだけ確認してこい、と命じられた部下が出ていくのを見送りながら、駐在は苑子に向き直る。
「苑子さん、あんたそろそろ店開けないといけないんじゃないかい。この子が心配ならあとで連絡するよ」
「ああ、そうでした。お店の子にも悪いことしちゃった。それじゃ、よろしくお願いしますね」
立ち上がって深く礼をした苑子に、清佳が「あの」と声をかけた。ちょっと顔をあげたところへ、今度は清佳のほうが頭を下げる。
「ありがとうございました」
……礼を言われるようなことはしてないよ」
ただ、面倒事に巻き込まれたくなかっただけだ。そう言いきりたかったのだが、それでは清佳にずっとついていたことの説明ができない。自分が納得のいかないことは言わない苑子だった。

いつものように客を迎え、話し相手をしながら酒とつまみを用意しているあいだにも、苑子の頭から清佳のことが離れることはなかった。情けなんかかけていないと思っていたつもりだし、実際警察に押し付けてきただけなのだが。
電話が鳴ると、すぐに飛んでいった。警察からではないとわかると、気分が少し落ち込んだ。普通は逆だ。面倒には関わらないに越したことはない。
「ママ、今日はどうしたの。なんだか落ち着かないよ」
「ごめんなさいね。せっかく来てくださってるのに、なんだかそわそわしちゃって。年かしら」
「やだな、ママまだ全然若いじゃないの。……でさ、話の続きだけど。その弁当屋がさ、もうちょっと人手が欲しいっていうんだよね。仕込みから閉めた後の片付けまで手伝ってくれる人、知らないかな。ママなら顔広いでしょ」
常連客の親戚が、この近くで弁当屋を始めたという話だった。早朝から夜遅くまで営業している、幅広い客層を狙った店だとか。あまり欲張るのもどうかと苑子は思っていたのだが、意外に繁盛しているらしい。味も確かだと、他の客からも聞いている。
「でもねえ、そんなに長い時間……
「だからさ、住み込みで働ける人いない? 部屋はあるし飯も食わせるって」
苑子はこの客が言うほど顔が広いわけではない。いつもなら「良い人見つかるといいわね」で済ませるところだ。だが今に限っては、この客は本物の神なのではないかとまで思った。食べ物と住むところが保証され、働くこともできる。そんな話が、このタイミングで、あっていいのだろうか。
「その親戚の方、良い人なんでしょうね。従業員を大事にしてくれるかしら」
「僕からすれば良い人だと思うけど。人手に心当たりあるの?」
駐在からの連絡次第だ。しかし、あんまり報告が遅すぎやしないか。清佳が無事に家に帰ったなら、そのことだけでも教えてくれればいいのに。もどかしく思っていると、また奥の電話が鳴った。
「ちょっとごめんなさい。ユウちゃん、こっちお願いね」
走り寄って受話器をとると、「苑子さんいるかい」と低い声がした。夕方に聞いたそれよりも疲れているが、たしかに駐在だった。
「私です。……どうなりました? 親とは連絡ついたんですか?」
「なんとか捕まったんだけどね。清佳という子は、今日は仕方ないから俺の家で預かることになったよ」
「まあ……なんでまた」
清佳が書いた住所には、たしかに日暮という一家が住んでいた。だが夕方には留守で、すっかり暗くなってから、ようやく父親らしい人物が帰ってきた。それまでに近所で聞き込みをしていて、家庭のことはいくらかわかっていた。
日暮家は両親と一人娘の三人家族だ。だが、父親も母親も、あまり家に帰ってこないという。中学生の娘だけが、毎日家を出入りしていた。父親はギャンブルに、母親はよそでつくった恋人に入れ込んでいるというのは、同じアパートの中では有名な話だった。娘の中学校の制服は、他の住民が三年前に自分の娘のお古をあげたのだという。以来、それ以外の服を着ているのを見たことがないそうだ。
部屋に入ろうとした父親に声をかけ、清佳のことを話すと、「知らん、そっちでなんとかしてくれ」と言われた。どういう意味かしつこく尋ねると、罵声と拳が降ってきた。先ほどまでその処理にかかっていたために連絡が遅れてしまったと、駐在は謝った。
結論として、清佳の親は、もう娘の面倒を見ないつもりらしい。中学校まで通わせてやったのだからもうこれ以上世話をする必要はないはずだ、それは娘にも言ってある。父親はそう主張した。母親も同じ考えであるとも。
「あの子……清佳ちゃんの言うことは、全部本当だったんですね」
「父親の言い分しか聞いてないが、まあほぼあの通りなんだろう。それで苑子さんとこに、年齢をごまかして入り込もうとしたってわけだ」
「全然ごまかせてませんでしたけどね。では、今夜だけ清佳ちゃんをお願いします。私が明日、迎えに行きますわ」
電話の向こうで、驚いたような呆れたような声がした。苑子自身も同じ気持ちだった。一度会っただけの少女に、どうしてここまで思い入れるのか。
「迎えにってあんた、十五の子供を苑子さんの店では働かせられないよ」
「もちろんです。ちょうど若い子でもできそうな、住み込みの仕事の話が入ったんですよ。話がちゃんとまとまるまでは私の自宅に置こうと思いますけど、絶対に店には出しませんから見逃してください」
でも手間が、防犯上も、と続ける駐在を、苑子は「大丈夫です」の一言で黙らせた。なぜかあの子は、清佳は大丈夫だと、確信があった。世間知らずだが、悪いことをするような子には思えない。年齢詐称の件は、とりあえずおいておくことにした。
受話器を置いてからすぐに、客に清佳の話をした。といっても、中学を卒業したばかりの女の子でも弁当屋に住みこんで手伝うことは可能か、と確認しただけだ。客は弁当屋に話をすると約束してくれた。

苑子が翌日の昼に交番を訪ねると、男物らしいトレーナーと裾をまくりあげたジーンズという恰好の清佳がいた。駐在の、今はもうすっかり大人になってしまった息子の、お古だという。男の子しかいなかった駐在の家で、清佳は可愛がられたようだった。
「かなり遠慮して、昨夜も今朝もちょっとしか食ってないけどな」
「じゃあ、お昼はまだなんですね。清佳ちゃん、私と一緒にご飯を食べに行こうか。そして、これからのことをお話しなきゃね」
微笑んだ苑子に、清佳は小さく頷いた。できそうな仕事が見つかったということは、事前に駐在が話しておいてくれたはずだ。ここに来るまでに、心は決めておいてくれただろうか。
清佳の細い手を引いて、苑子は交番を出た。そうして歓楽街から離れた、昼間の商店街へと向かった。清佳は大人しくついてきて、けれども店に入ると、珍しいものを見るようにあたりをきょろきょろした。
「喫茶店は初めてかい。このあいだまで、中学生だったんだものね」
……はい。一生縁がないものと思っていました」
「そんな大げさな」
言ってはみたものの、清佳にとっては本気だったのだろうと、苑子はわかっていた。親の顔色を窺いながら暮らし、義務教育が終われば追いだされる。普段から生活は苦しいものだったろう。一日一日をなんとか生き延びて、見知らぬ苑子に縋ったのだ。
「どうして清佳ちゃんは、うちの店に来たの? 昼間の仕事を探そうとは思わなかったの?」
席についてメニューを広げ、清佳に渡す。ランチプレートの写真をしげしげと眺めながら、清佳はぽつりと言った。
「焦っていたので。あの晩、あのままじゃ外で寝るしかありませんでした。……それに、お店の準備をしているあなたを何度か見たことがあったので。あの通りでお店を開いている人の中で、一番若そうで、優しそうだと思いました」
「若い方ではあるかもしれないけれど、優しいかどうかはわからないよ」
「優しいですよ。あたしに仕事まで見つけてくださって」
ただのきまぐれだ、というには、もう清佳に関わりすぎていた。ランチプレートのAを二つ注文して、弁当屋の話をする。朝のうちに弁当屋からは連絡をもらっていて、そういう事情のある子ならぜひとも、と快い返事を聞くことができた。ひとまず今日は面接をして、これから住む部屋に慣れてもらい、明日の朝から働いてほしいということだった。用意されていたようにとんとん拍子に話が進んだ。
「ありがとうございます。……ええと、苑子さん?」
「あらやだ、私、ちゃんと名乗ってなかった。樋渡苑子っていうのよ」
これが縁というものなのかもしれない。苑子はあまり神仏を信じたり縋ったりする性質ではないが、今回ばかりはそんなものの働きかけもあったんじゃないかと思った。

清佳がその後、弁当屋でよく働いているという話は、店や街中で耳にしていた。一年もすれば看板娘のような扱いになっていて、二年もすれば今度は人に仕事を教えるようになっていた。その成長を直接見届けていたわけではないけれど、苑子はいつでも気にしていた。
そのあいだ、苑子の店もより盛況になっていった。人員も増え、四年経った頃には、店は随分と大きくなっていた。
ある日、午後六時を過ぎた頃。店を開けようと、早めに来ていたスタッフとともに外に出た苑子は、その場でぴたりと足を止めた。
「どうしたの、ママ?」
最近新しく入ったばかりのコトミが首を傾げる。彼女――生物学的にはまだ「彼」だが――にここで待つように告げて、苑子は店の前に佇む人物に、そっと近づいた。
「ちょいとあんた、こんなところで何してるの」
いつかと同じように、いや、かなり柔らかい口調で尋ねると、彼女はこちらを向いて笑った。四年前よりも、随分と大人びたようだった。化粧も上手になったし、綺麗で体に合った服も着ている。
「お久しぶりです、苑子さん」
清佳は丁寧に頭を下げた。
「店はまだ開いてないよ。そもそも、あんたはまだ未成年じゃないのかい」
「先日、二十歳になりました。もう年齢は大人です」
にっこりと、しかしはっきりと、清佳はいつかの言葉を繰り返した。
「仕事、させてくれませんか」
苑子は目を丸くして、それから息を吐きながら細めた。
「弁当屋はどうしたんだい」
「お弁当屋さんも続けます。夜はここで働きたいんです」
「二足の草鞋かい? そう甘いもんじゃないよ。ここで働いたら、早朝の仕込みはどうなるんだい」
「平気です。あたし、苑子さんに恩返しするために鍛えたんですよ」
「恩を売った覚えはないよ」
そう言いながら、苑子はわかっていた。この子は引かない。この店で仕事をすることを、ずっと考えてきたのだろう。だからこんなにきれいになった。本当に、目を瞠る美人になっていた。
「お願いします。あたしを、この店で雇ってください」
もう一度頭を下げた清佳に、苑子は負けた。いや、苑子も清佳が欲しかった。四年前から、この子を自分のところに置いてあげられたらと思っていた。
「私は優しくないよ」
「はい」
「じゃあ、早速、店を開けるのを手伝ってもらおうか」
「はい、ママ!」
やりとりを聞いていたコトミが駆け寄ってきて、苑子と清佳に抱きついた。苑子と清佳も抱き合った。
その日から、清佳は苑子の店の一員となったのだった。


――
あのとき清佳を拒んでいれば、彼女は死なずに済んだだろうか。苑子は何度も自問を繰り返したが、答えはなかなか出なかった。
店で働き始めた清佳は誰もに愛され、それゆえに余計な者まで惹きつけてしまった。夜の店で働くにはあまりに純粋だった清佳は、最悪の男に見止められ、蹂躙され、挙句の果てに殺された。命を奪われることを予感していたのか、地道に貯めた財産と、あの男とのあいだにできた子供のことを、苑子に託していた。子供のことは、自分がそうされなかった代わりのように愛していた清佳だった。
あのとき清佳を拒んでいれば、子供は生まれなかったかもしれないのだ。
「永代供養にしようかと思って。オレが生きてるあいだは、もちろん墓参りに来ますけど。それ以降はわからないので」
清佳が自分で店を持つことを決め、しかし僅かな期間しか実現することなく終の棲家となってしまったこの礼陣の土地の、山に近い霊園。そこを管理する寺に、苑子は黒哉――清佳の息子とともに訪れていた。
「もっと早く相談してくれれば、私たちが手伝ったのに」
「ありがとうございます。でも、礼陣で供養するって、なかなか言い出せなくて。樋渡さんたちがずっと母さんを見てくれていたのに、引き離すみたいで」
そんなことを思って、遺骨を七年も手元に置いていたのか。苑子は呆れて息を吐き、黒哉の背中を叩いた。赤ん坊の頃から見てきたが、随分と大きくなった。
「離れないよ、私たちの絆は固いんだから。黒哉君と清佳ちゃんの絆と同じくらいだと思ってる」
「母さんは娘も同然だって言ってましたよね、昔から」
「そう、昔からよ」
母子のように喧嘩をしたこともあった。でも清佳が子供を身籠って男と別れ、苑子に泣きついてきたときは、抱きしめて受け入れた。生まれた子供を店のみんなで可愛がり、清佳が母親になるのを手伝った。清佳は立派に黒哉を育て上げ、自分はなれなかった高校生になったのを見届けた。
もっと生きていれば、教師になった息子も見られたのにね。苑子は心の中で、清佳に語りかける。
――
ううん、清佳ちゃんのことだから、見てるわね。黒哉君も、私たちも。
これからは黒哉と一緒に生きようと思ったこの町の、眺めの良い場所で。
「黒哉君、清佳ちゃんがお店にしようとしたところ、今は別の人がいるのよね」
「結構前から、良い感じのカフェになってます。夜はバーに。これから行きますか」
「行きましょう。奢るわ。結婚祝いも兼ねてね」
その場でくるりとまわってみせると、黒哉が清佳に似た顔ではにかんだ。