水と花は惹かれすぎるから、気をつけなくてはいけないよ。
かれてしまえばおしまいだ。

*
 * *

名付けたのは祖父だ。この町を流れる川、遠川の景色や音が何より好きで、それにちなんだ名を孫に与えた。
川の流れから「流」。河川敷の並木から「桜」。年子の兄妹の名は、けれども父や母が一度は躊躇ったものだった。
生まれる前から「流」だなんて、あんまり縁起が良くないですよ。そう言って眉を顰めながら腹を撫でていた母は、しかし息子が無事に産まれると、縁起のことなど忘れたように、命名を受け入れた。
水と花を兄妹で一緒にするのは良くないと聞いたことがある。息子が生まれた翌年の春に娘が生まれたとき、父はそうして祖父の主張する「桜」という名に異議を唱えた。だが結局、実際に見に行った遠川河川敷の、満開になった桜に絆されて、それも受け入れた。
野下家の兄妹、流と桜に名前が与えられたのは、そういう経緯があった。
小学生になった流が、課題で「名前の由来を調べてきなさい」といわれてその話を聞いたときには、納得がいかなかった。
「じいちゃんが川好きなのは知ってるよ。しょっちゅう散歩に出てるし。でもなんで父さんの名前が龍雄なんて強そうな名前なのに、俺は流なんて単純な名前なのかな。父さんにも川関係の名前つければよかったじゃん、川太郎とか」
口をとがらせる親友に、和人は思わずふきだした。同時に横にいた人鬼の少女が大笑いしていたのだが、流には見えていない。
「何だよ、川太郎にそんなにウケたのか」
「そっちじゃないよ。たしかにそれも面白かったけどね。僕は流って名前、かっこいいと思うなあ。響きがきれいだし」
微笑んで褒める和人に、流は一瞬「それならいいや」と思いかけた。だが、やはり父の名を考えると、再び悔しさが湧いてくる。
「でも龍雄のほうがどう考えたってかっこいいじゃん。ドラゴンだぞ」
「ドラゴンねえ……。僕が思うに、おじいさんはそっちの意味でおじさんを名付けたわけじゃなさそうだけどな」
首を傾げる流に、和人は机の中から本を出して開き、見せた。ちょうどよかった、と指さしたのは、挿絵のずんぐりしたドラゴンだ。西洋を舞台にした物語や、ゲームのモンスターなどでおなじみの、恰幅の良い胴体に太くて短い手足がついているもの。
「これがドラゴン」
「それは知ってるよ」
「でも伝説の生物である龍は、また別のかたちがあるよね。東洋の物語に出てくる、大きな蛇のようなやつ。中国や日本の伝説では、そっちが主流じゃない?」
「ああ、そういえば」
そんなやつもあったな、と思ったけれど、それと名前と何の関係があるのだろう。龍は龍だと思うのだが。しかし和人は楽しそうに人差し指を振りながら続けた。
「たぶん、おじいさんが意図しているのは東洋の龍だよ。ゲームではずんぐりしたドラゴンは火を吐いたりするけど、長い体の龍は水を操ったりするよね。東洋の龍はつまり流れるもの、水を表したものなんだよ。河川と東洋の龍の体は似ていると思わない?」
「まあ、似てなくはない……のかな」
「昔の人はそう思ったんだよ。だから何が言いたいかっていうと、おじさんと流の名前は、おじいさんが同じ意図で付けたものだと、僕は思うんだけど。音の響きは流も龍も一緒だしね。どうかな」
振っていた指で流をさす和人は楽しそうで、名前の不満なんか忘れさせてくれるようだった。それどころか流の名前を、祖父の考えを、実に肯定的にとらえている。もしかして祖父から教わったことがあるのかと尋ねたが、ただの予想だよと返ってきた。
「予想でそこまで言えるなんて、和人はやっぱりすごいな。本当にじいちゃんが喋ってるのかと思った」
「とんでもない。僕、あんなに立派な人じゃないよ」
手を顔の前で振りながらも、和人は嬉しそうだった。嬉しいついでに、もう一つ教えてくれた。
「それから桜ちゃんの名前だけど、桜の花って日本人はすごく好きなんだよね。咲いても散っても美しい。それにこの国の四季の始まりは春、桜の季節だよね。だからそれだけ愛される名前なんじゃないかな」
「それ聞いたら、桜がどんなに喜ぶか」
冗談ではなく、心から喜ぶだろうと思う。名前の由来の話をまとめているときに、桜が部屋に入ってきて、言ったのだ。――水と花は兄妹でつけると良くないって聞いたけど。
桜の通う学校は頭が良いから、そんな話を誰かから聞いたのだろう。でもどうして良くないのかまでは、彼女も知らなかった。知らないままに、良くないとだけ聞かされたのだ。気分が良いわけがない。
「なあ、和人。どうして水と花の名前を、兄妹で一緒にすると良くないんだろうな」
「良くない? そんなの誰が言ったの?」
「桜が聞いてきた」
「ああ、じゃあ、どこかで話がおかしくなってるのかも。良くないわけじゃないんだよ。惹かれすぎるって僕は聞いた」
「ひかれる?」
和人は自分の家が店をやっていて、そこで色々な話を大人たちから聞かされている。このことも町の伝承の一つとして知っていたのだった。
教えてくれたことによると、この関係はあらゆるきょうだいにおいていえることらしい。そして流と桜とは逆に、男の子が花で女の子が水の名前を持っていても、同じようだ。
水か涸れれば花が枯れる。花が枯れれば、水のせいではと思う。この二つはあまりに密接な関係があるので、きょうだいに名付けると依存しすぎてしまうのではといわれている。それが本当の伝承だった。
「まあ、そんなのはただのこじつけだよ。気にしなくてもいいって、桜ちゃんにも言えばいい」
「そうだよな、ただのこじつけだよな」
流は笑い飛ばして、それから名前の由来の発表の仕方を考え直した。和人の想像を参考にしようと思ったのだ。どうせあがり症なのだから、勢いで言ってしまう。
その真後ろの席で、和人は自分以外の誰にも見えない人鬼の少女と話していた。
『水と花の話、気をつけろって話じゃなかったっけ。名前に限らず、親兄弟に依存しすぎるなっていう』
「あ、そうだったかも。僕も気をつけないと」
『そうよ。流以外の人間の友達をつくりなさいよ』
双子は密かに笑いあった。

*
 * *

とある夜、美和は葵の部屋を物色し始めた。もちろん葵の許可は得ている。――この部屋は呪い鬼葵を封じる部屋であると同時に、生前の葵が使っていた部屋でもある。その頃のものが、箪笥の中にでも残っているのではないかと、思いついたのは美和だった。
すでに鬼と成り、ものに触れるようにもなっていた美和は、あらゆるものに触れたがった。触れると、ときどき、物が持っている記憶のようなものが見えることがある。これも鬼の力らしい。正確には、鬼に成った美和独自の能力なのだが、そのことは知らない。
『ちょっと、あんまりがたがたしないでよね。家主が起きてきたら面倒だから』
気だるげな葵を尻目に、美和はぺたぺたとあちこちを触りまくっている。そうして箪笥の引き出しを開けたとき、白いものが目に飛び込んできた。
『なにこれ、封筒? 葵さん、これ手紙じゃないの? 葵へって書いてあるよ』
美和がつまみあげてひらひらと振ったそれを、葵は一瞥した。が、『捨ててしまいなさい』と顔を背けてしまう。中身を、彼女は知っているのだろうか。いや、封が切られた様子はない。口はぴったりと閉じられていた。
『いいの? 一度は読んでおいたほうが良いんじゃない? 生前読めなかったものでしょう、これ』
『読まなかったのよ。これからも読むつもりはないわ』
このかたくなな態度は、家族絡みだろう。鬼は手紙を書かない。美和はときどき、いたずらで紙とペンを使うけれど。試験の問題用紙を盗んできてくださいなどという、学生の不届きな願いに対して、「勉強しなさい」と書いて家に置いておくのだ。美和鬼様のお叱りとして有名になっている。
それはさておき、家族からの手紙なら、捨てるのはちょっともったいない気がする。葵は母以外の家族を信じられないまま呪い鬼になり、家を呪うことになったが、もしかするとそれを少しは解くことができるかもしれないのだ。
しかし、封筒にあったもう一つの名前、おそらく差出人のものであろうそれに、美和は覚えがなかった。
『葵さん、ゲンって誰? さんずいに原っぱの』
源。封筒の裏の隅には丁寧な字で、そうあった。
葵は鼻で嗤って、『違うわよ』と返す。
『ゲンなんてのは知らないわ。その字はね、ハジメって読むの』
『ハジメ……。え、これ、はじめ先生?!』
そういえば筆跡に見覚えがある。源と書いて、はじめと読むのだ。意味がわかればすんなりと頭に入る。
ということは、これは家主であるはじめ、つまり葵の兄から、妹へ向けて送ったものなのだ。いつ書いたのかはわからないが。ずっと引き出しの中にあったせいか、色あせてもいなかった。
『葵さん、読んだ方がいいよ。お兄さんからの手紙ですよ』
『私、あれを兄だと思ってないの。私の味方をしてくれない、この町の人間の一人よ』
『その認識が覆るかもしれないじゃない』
『そうなるのも癪だわ。どうしても気になるなら、あなたが勝手に読みなさいな』
そう言われても、人の手紙を読むのは憚られる。だが、もしかすると葵の冷えた心に少しでも温かみを与えることができるかもしれない。これまで葵は家族を拒んできていて、だからこそ相手の本心がわからなかったのではないかと、美和は思っている。
悩んだ末に、美和は自分の爪を鋭く伸ばして、封筒にあてた。
『読んじゃいますよ。音読しちゃいますよ』
『勝手にすれば』
許可は下りた。美和は封を切り、中に一枚だけ入っていた便箋を取り出した。

葵へ
君はもうすぐ高校を卒業するけれど、進路の相談を、とうとう僕と父さんにはしてくれなかったね。
先生から、町を出て就職するつもりだと聞きました。
ちゃんと自分の道を決めているなら、僕らは君に口出ししません。町を出ることも止めません。でも、少しは話をしてほしかったです。
僕が自分勝手なことを言っていると、わかっています。今まで君の話を、一度だってまともに聞いたことはありませんでした。それなのに話せだなんて、ずるいよね。
君は学校でとても大人しいと、先生から聞きました。ずっと一人で本を読んでいて、行事や団体行動にあまり積極的ではないとも。先生は心配していましたが、僕には心配をする資格すらありません。君が孤独を選んだのは、僕らの責任です。僕らがいけなかったのです。
昔、母さんが死んでしまったとき、もっと君の叫びに耳を傾けるべきだった。君が悲しんでいることを、もっとわかってあげるべきだった。僕らはあまりに諦めが早すぎたんだと、今になって思います。
そして、僕が君を省みずに、友人たちとの日々を優先させてしまったこともいけなかった。智貴は何度か葵に会いに来ようとしてくれたのだけれど、僕が止めてしまったんだ。君が人と会いたがらないと、勝手に決めつけてしまった。
本当はそうじゃなかったかもしれないのに、いつだって僕は君の気持ちを決めつけて、わかった気でいた。それしか兄としてできることはないと思い込んでいた。でも、きっと違うね。
この手紙を読んで、君がもし僕と話そうと思ってくれたら、いつでもいいから声をかけてほしい。本当は同じ食卓で一緒にご飯を食べたいところだけど、それはわがままかな。
待ってます。


最後まで読み終えて、美和は葵が封を開けなかった理由をなんとなく察した。
読まずとも、何が書いてあるかはわかったのだ。そしてそれが今更無意味であると判断した。
その結果、はじめの願いは叶わなかった。呪い鬼になった葵を、大人になってしまったはじめは見ることができない。気配はわかるようだが、その姿を見止めることは、きっと永遠に不可能だ。
『葵さん、はじめ先生は何もしようとしなかったわけじゃなかったんだね。ちょっと、臆病だったかもしれないけれど』
美和が便箋に目を落としたまま言うと、葵は溜息交じりに呟いた。
『水が合わなかったのよ、どうしようもないわ。たとえ無理やり部屋に乗り込んできていても、結末は一緒だった』
……水、か』
はじめは源。名前に水を持っている。しかし花の名前を持つ葵とは、合わなかったのだ。幼い頃に、二人の道は違ってしまった。
そういう兄妹もあるのだ。そしてそこに美和が介入することはできない。水源の先と花の咲く場所は交わらなかったのだということを、受け入れるしかない。

*
 * *

何の偶然だろう、と千花は今でも思う。自分が生きてここにいることも、たまたま惹かれた相手が実の兄であったことも、その兄が水の名前であることも。別々の家で知らないままに名付けられたのだから、水と花になったことは偶然だ。
鬼の子同士は引き合うという。水と花も惹かれるという。こうなることは実は最初から誰かが決めていたのではないかと、物語みたいなことも考えた。運命という言葉も思い浮かべてみた。
けれども、しっくりこなかった。いつのまにかこうなっていた、というどこか投げやりな表現が、一番落ち着いた。
「千花、って名前じゃなかったら、海さんと出会ってなかったと思います?」
「いいや、関係ないんじゃない。千花が礼陣で生きることになった時点で、少しも会わないってことはないだろうし」
海は食器を洗いながら、千花はそれを拭いて片付けながら、なんとなしに会話をする。この生活にもそろそろ慣れた。千花が一年間進道家に下宿をしながら門市のラジオ局に勤め、翌年からは海が帰ってきて、町の調剤薬局での仕事と道場での指導をするようになった。
海の父、はじめと三人で暮らす家は、穏やかな日々を送っている。知人や道場に通う子供たちが頻繁に出入りしていて、寂しくない日がない。
「しかし、なんで名前?」
「聞いたことないですか? 水と花は惹かれすぎるから、気をつけなくてはいけないよ。……かれてしまえばおしまいだって」
「あー……。そんな古い言葉も、仕事に必要なのか」
「仕事というか、まあ、受け取ったメールの中にあったんですよ。子供に名前をつけるのに、水と花は避けたほうが良いみたいなことが。調べてみたら、さっき言った以外にもいろんな説があるみたいですね。花の名前は儚いから短命になる、水の名前は水難に遭いやすい。名前にまつわる注意にはきりがないです」
だからあてにならないですね。言いきってピカピカの皿を重ねてから、茶碗の泡を流す海を見た。なにごとか考えている。それから「水難には」と口にした。
「大きなものにはあったことがないな。昔は川で遊んだけど、流れが緩やかで浅い場所しかいかなかったし。泳ぎは得意だった。せいぜいが道場のみんなで風呂に入ったときに、ふざけて足を引っ張られて溺れかけたくらい」
「水難……に入るんでしょうか、それ」
今のところ、水も花も不幸なことにはなっていない。知っている花は、一度死んでもよみがえって町を呪うくらいしたたかだった。――そう、花は、したたかなものだ。
「私はあなたという水辺の傍で生き続ける所存ですので、ご心配なく」
にこ、と千花が笑ってみせると、海は一瞬だけ目を丸くして、
「名前の通り、そう簡単には干上がらないから、そっちも安心していいよ」
に、と笑みを返した。