丘陵に広がる霊園の、いくつもある桜の木の一つに近いその墓石に、週末にはいつもそうしているように向かう。先祖代々守ってきた墓、というには新しいそれは、祖父の代に造りなおしたものだった。子供の頃はこんな場所に毎週通う父の気持ちがわからなかったが、今はたぶん、それ以上の思いをもってここに足を運んでいる。
退職してから久しい。ずっと仕事で忙しくしていたおかげで、自分の趣味というものを考える時間がなかった。いや、考えないようにしていた。仕事以外のことに目を向けようとすると、途端に、娘のことが思い出されてしまう。だが仕事がなくなると、今度は娘のことのほかに、思い出せることがなくなった。
墓に通うのは、娘に会いに来ている、というわけではない。なにしろ娘はそこにはいない。十八年も前に海に消えてしまったのだから、この世のどこにも娘は「ない」。だがその名前といなくなってしまった日だけは、先祖とともに墓石にあるのだった。
同じ名前のある墓石が、この世にもう一つあるのは知っている。しかしそこには行ったことがない。そこにも娘は「ない」し、何よりそこにも娘がいるということ、そこがかつて娘がいた場所だということを、認めたくなかった。――あんなことになるなら、無理やりにでも実家に連れ帰るべきだったと、今でも後悔している。
喧嘩別れのようになってしまって、そのままだった。突然の事故だった。こちらがどれほど苦しんだか、娘が選んだあの家の者にはわかるまい。どうして選ばせてしまったのだろう。
どれだけ考えども、全ては今更。娘はもう二度と帰っては来ない。いつも結局、そこに行きつく。だが。
「……あれは」
思わず声が出た。毎週通っている墓石の前に、長い髪の女性が佇んでいた。年の頃はまだ若い、と思う。なにしろ身長が小さいようなので、判別が難しい。もう少し近くに寄り、表情が見えて、ハッとした。
背格好が娘に似ている、と思ったら、彼女はまるで娘そのものではないか。
「千秋」
呼びかけると、彼女は振り向いた。そうして、娘の笑顔で、深く頭を下げた。
礼陣から大城市まで行き、そこからさらに特急に乗り、県境の田舎町に入る。降り立った駅は鄙びているというほどでもなかったが、自動改札はなかった。全部合わせても片手で足りるほどしかいないらしい駅員に切符を渡して、狭い駅構内を抜けると、セミの大合唱がわっと響く。音から来る暑さを和らげてくれるのは、木々を通る風。それはこの国なら探せば意外に多い風景なのかもしれないけれど、春はまず、少し礼陣に似ている、と思った。
母も遠い日、初めて礼陣に来た日に、思ったのだろうか。故郷に似ている、と。
そう、ここは春の母の故郷だ。高校からは礼陣の北市女学院に入り、寮で生活していたので、中学三年生までの日々をここで送ったことになる。父と結婚するときに実家と揉めたらしく、それ以降はほとんど帰っていないはずだった。
そう思うと、母の実家、神崎家とは、円満だったためしがない。それなのにここに来ていいのか、直前まで迷ったけれど、気持ちに反して、路線を調べて切符を買い列車に乗りこむ、という流れは実にスムーズだった。
生まれて初めて来る土地だ。印刷してきた地図を見ても、いまいちピンとこない。とりあえずは泊まる予定の宿に荷物を預け、それから霊園に向かおう。母の実家には連絡をしていないので、今回は行けないだろう。突然孫が、それも十八年も会っていない人間が訪れたら、驚かれるだろうし、最悪怒らせてしまう可能性もある。春の中では、母の両親は「怖い人」という認識があった。
彼らとは四歳のとき、両親が飛行機事故で命を落とした直後に会ったのが最後だ。娘がこんなことになったのはあなたたちのせいだ、と祖父母を怒鳴りつけていた。それからどうしたのだったか、春ははっきりとは憶えていない。自分の行動すらも思い出せない。
今回の旅は、最初はその記憶を更新するために計画したものだった。ちゃんと母の両親に会おうと、会って話そうと、そう思ったのだが、連絡をする勇気が出なかった。ならば出かけてみるだけでも、一度も見たことのない母の故郷を見るだけでもと思い直して、今日はここに来た。
霊園に行くのは、母の先祖に挨拶をするためだ。礼陣の穣山霊園にある、須藤家の墓に参るのと同じ。それが達成できれば、今回は十分だろうと、そう思っていた。
宿はとても小さな旅館で、しかし部屋はきれいだった。畳敷きの床は、普段から和室で生活している春に馴染む。窓からは小川が見え、水の流れる心地よい音が耳に優しい。調べたところによると、ここは隠れた温泉地だということで、この旅館にも露天風呂があるらしい。それを楽しむだけでも、ここに来る価値はある。全てをちゃんと片付けたら、友達みんなで、あるいは新と二人で来るのもいいかもしれない。
ともかく今日のところは、まず霊園に行かなければならない。旅館の従業員に道を尋ねると、ここからそう離れていないという。おかげで肝試しにくる学生がこの時期には増えるのだと、困ったおまけもついてきた。
「まあ、でもあんたなら、こんな時間に肝試しもないだろうし。間違ってたら悪いけど、神崎さんの親戚か何かかい?」
道を教えてもらった礼を言おうとしたら、先にその名前を出された。
「神崎さん、ご存知なんですか?」
「おんなじ集落の人間だもの。連絡しておこうか」
「あ、いえ、連絡はしないでください。私がここに来たことも、できれば内密に……」
「そうかい。まあ、誰にでも事情はあるわな」
納得してくれたようで助かった。あらためて礼を言い、旅館を出る。セミの声の中に、「神崎」という響きが混じっている。どこから聞こえてくるというわけでもなく、耳に張り付いてしまったようだった。
神崎。それが母の旧姓だ。ここで生活をしていた頃の母の名は、神崎千秋といった。すぐに名前を出されたということは、礼陣でもよく言われることだけれど、やはり春は母に似ているのだろうか。とうに、母がこの土地を離れた年齢は越えている。生きていれば、じきに母が死んだ年齢になる。母が止まってしまった地点を過ぎて生きていくのだろうか、などと考えているうちに、墓石の並ぶ丘陵が見えてきた。近くに寺があるが、そこで尋ねれば、神崎家の墓はわかるだろうか。
その人が現れたのは、春がやっと墓に辿り着いた、まさにそのときだった。反対方向から来たので会わなかったのだろう。
「千秋」
こちらをそう呼んだことと、かすかに憶えていてどこか母に似ているその面差しで、彼が母の父、神崎氏であることがわかった。深く礼をして、顔をあげたが、会ったときのことを考えていなかったので、何を言えばいいのかわからない。
迷っているあいだに、神崎氏は近づいてきた。そうして春をじっと見て、首を横に振った。
「……いや、千秋のはずがないな。もしや君は、礼陣の?」
礼陣、と口にしたときに、神崎氏はわずかに苦い顔をした。この人の心には、まだしこりが残り続けているのだろう。だから一瞬躊躇ったのだが。
「……はい。ご無沙汰しておりました、春です」
「そうか、大きくなって。十八年も経ったのだから、……そうだな、似るはずだ」
神崎氏は困ったように笑みを浮かべた。その困惑に様々なものが含まれているのがわかってしまう。
「ここには、一人で?」
「はい、私一人です。家の者にも、ここに来ることは言っていません」
「黙って来るなんて、もし何かあったら……」
十八年ぶりに会った孫を、この人は心配してくれているようだった。無理もない、いつのまにか娘を失っていたその人なのだから、同じくらいの年頃の娘を気にかけるのは当然だった。
「宿から連絡します。ええと、別に祖父と何かあったというわけではないですし、友人にはこちらを訪ねるという話をしているので、大丈夫です」
言ってしまってから、これでは当てつけになってしまうだろうか、と思った。目の前のこの人も、春にとっては祖父なのだ。ただ、長いこと会っていなかったというだけで。
「わざわざ墓参りに?」
しかし神崎氏は表情を変えずに尋ねた。
「母の故郷を見たいと思いまして。ここには、母のご先祖様に挨拶をしに」
「先祖? ……千秋の墓参りじゃないのか。それとも、知らなかったかな」
何を、と訊き返す前に、神崎氏が指さした場所を見た。ここに眠る人々の名前が連なったそこに、覚えのある年月日と、千秋、という名があった。須藤家の墓と同じに。
「事故が事故だったから、名前だけ刻んである。礼陣の墓にもあるのは知っているよ。君はそれしか教えられていなかったんだね」
「……はい、すみませんでした」
須藤家の墓もそうだ。両親は名前だけがそこにある。彼らが死んだということは、春にはわかってしまっているけれど、厳密には行方不明者だ。あの事故は、全員の遺体が見つかったわけではない。だが生存者も見つからなかったので、諦められるのは早かった。春はちゃんと憶えているわけではないが、そう聞いている。
「では、あらためてお願いします。母のお墓参りをさせてくれませんか」
「していってほしい。知らなかったなら、なおさらだ」
春は神崎氏と一緒に墓石を清め、花と線香をあげ、手を合わせた。母は、ここにもいるのだ。神崎家が、母をこの場所に帰したかったのかもしれない。
神崎氏は春を家に招いた。十八年ぶりに会ったのだから、もっと話を聞かせてほしいという。礼陣の話を聞くのはつらいのではと春は思ったのだが、彼が聞きたいのは春のことであって、町のことではない。元気にやっていましたと、それさえ伝わればいいのだ。そこに彼らが、母の面影を見出すことができれば。
神崎家は一軒家で、二人で暮らすには少し大きいようだった。昔は母と、今はもういない母の祖父母も一緒に暮らしていたと聞いて、その大きさに納得した。三人も他界してしまった今、夫婦二人で暮らす家は、どんなにか広く感じることだろう。
神崎夫人――つまりは春の祖母だ――は、玄関で春を見るなり後退った。神崎氏が慌てて支えると、「千秋ちゃん」と呟いた。
「この子は千秋じゃないよ。春ちゃんだ。千秋の子の」
「春ちゃん……まあ、千秋にそっくりになって……。驚いたわ。今、いくつになったの?」
「今年の五月に、二十二歳になりました。長らくご無沙汰していて、すみません」
「二十二……今、働いてるの? 大学生?」
「大学生です。四年になりました」
「こんなところで立ち話をさせるんじゃない。春ちゃん、あがりなさい」
神崎氏に促されて、春は家の中にあがらせてもらった。須藤家とは違う匂いがする。別段、懐かしさなども感じない。しかしここが、母の育った家で、祖父母の住むところなのだ。
しばらくは神崎夫人と、神崎氏と交わした会話と同じ内容を話した。一人でここに来たこと、家の者は知らないということ、さっき墓参りをさせてもらったことも加えた。
「大きくなったわね。最後に会ったのは、あなたが四歳の頃だったから、当然よね」
しみじみと言う神崎夫人に、もっと早く来ればよかったのかもしれないと、春は思った。そうすれば、もう少しは、彼らも寂しくなかったのでは。自分がこの人たちを怖がっていなければ――今となっては怖かった原因も忘れかけていた――小さいうちから会いに来られたのではないだろうか。
「春ちゃん、昔のことだから憶えてないかもしれないけど、あなたに謝らなくちゃってずっと思ってたの。最後に会った日、酷いことしちゃったからね」
忘れかけていたというのに、神崎夫人が不意に言う。
「あなただって両親をいっぺんに亡くしてつらかったのに、私が感情に任せて怒鳴ったりしたから、怖い思いをしたのよね。ごめんなさい」
「そんな……昔のことなんて、忘れました。仕方ないことだったんです」
そう思えるようになったのだから、もういい。謝ってもらっては、むしろ思い出してつらくなる。こんな気持ちと決別したくて、神崎夫妻ときちんと向き合いたくて、彼らのことを考えるようになった。そうしてここまで来た。会うつもりはなかったけれど、偶然会えて、話ができて、それで十分だった。
そんなことより、これからのことを話したい。神崎夫妻が春を厄介に思っていないことがわかったなら、頼みたいことがあった。
「あの、これからも会ってくれますか? 私と会うことで、つらかったりはしませんか?」
「つらかったら連れてこないよ。……なあ」
「ええ、千秋が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ。あの子はとうとう、ここには戻って来てくれなかったし」
そこまで言った神崎夫人を、神崎氏が目で窘めた。やはり彼らは、娘を失ったという事実を、まだ受け入れきれずにいるのかもしれない。だから春は、頼みごとを言うのは、今回はやめにした。次に会ったときでもいい。次があれば、だけれど。……母には次がなかったから、この人たちは悲しんでいる。
泊まっていきなさいと言われたが、宿をとってあるので、と神崎家を辞した。荷物も置いたままだから、このまま世話にはなれない。
楽しみだった露天風呂だが、言いそびれたことを考えていたら、のぼせてしまった。もともと今日言うつもりではなかったことだけれど。
「でも、急に言ったらびっくりされるよね。新のことなんか」
須藤の家に婿が来る予定である、という話。やっと相手の家と話がまとまりそうなのだという報告を、神崎の家にもしなければならない。親戚なのだから。春のもう一方の祖父母なのだから。できたら祝福してほしいという頼みを、彼らは聞いてくれるだろうか。
母が神崎の家に戻らなくなったのは、父との結婚を反対されたからだ。礼陣は特殊な土地で、よそから来た人が不気味に思うようなこともある。神崎夫妻もそうだったが、それを母が押し切ったのだった。春はそれを、噂好きの近所の人から聞いた。こういうところも受け付けられなかったのかもしれないなと、今では春も少し納得できる。
父が男手一つで育てられてきたこと、その原因が祖母の奔放すぎる性格にあることも、気になっていただろう。とにかく、当時の神崎夫妻は、須藤の家に娘を嫁にやることに納得していなかった。孫が生まれ、少しは関係が改善されたかという矢先に、あの事故は起きてしまったのだった。
祖父が行って来いと言い、祖母が計画した旅行。両親は春を置いて出かけていき、そのまま帰らなかった。この経緯をあとになって聞かされるまで、神崎夫妻は娘が何をしているか知らなかったのだ。
その全てを込めて、神崎夫妻は祖父母に恨みをぶつけた。春の目の前で。――それからどうしたのだったか、春はよく憶えていない。
気がつけば神崎夫妻とは疎遠になっていた。祖父がこっそり連絡をとっていたようだが、春が彼らと話すことはなかった。まるで遠ざけられているかのようだったから、今まで自分から訪ねていこうともしなかった。
まどろみながら、そのときのことを思い出す。夢と現実の境がわからなくなった。
――私たちが来た途端に、お気の毒に、ですって?! こんな家に、こんな気味の悪い土地に、やっぱり千秋をやるんじゃなかった! こんな無責任な家に来るのを、何が何でも止めるべきだったと後悔しています! よくもこんなに簡単にあの子の命を諦められますね!
叫びは豪雨のように降り注ぎ、祖父に、祖母に、そして春に刺さっていた。やり場のない悲しみと恨みを、あの日の神崎夫妻は、須藤家にぶつけていたのだ。
春は何を言われているのかわからなかったが、ただただ般若のごとき形相で怒り泣き喚く神崎夫妻を恐ろしく思った。震えるばかりで、声も出せなかった。
やめて、おじいちゃんとおばあちゃんをいじめないで。そう思ったような気がするけれど、そんなふうに言葉にすることはできなかった。しかしそんな春の代わりに、のそりと動くものがあった。
神崎夫妻の背後から近づく、大きな影。それは春には見えるようになったばかりのものだったが、普通ならば現れない、異様なものだということは感じた。
『鬼の子が怯えている』
『喰らわねば』
『怯えさせるものを喰らわねば』
歪に口を開けたそれが、神崎夫妻に覆いかぶさろうとする。何をしようとしているのか、四歳の春にはわかっていただろうか。それとも礼陣の子には、町の「常識」が染みついていたのか。とにかくそれまで動かなかった足が、危機に反応したのはたしかだ。
「だめっ! おじいちゃんとおばあちゃん、たべちゃだめだよ!」
詰まっていたはずの喉から、驚くほどはっきりと声が出た。震えていた体は、必死に神崎夫妻を守ろうと、異形の前に立ちふさがっていた。
二本のつのを持つ、人間ではない異形――それを春たち礼陣の者は、鬼と呼んでいる。彼らは子供に危害を加える者を「喰らう」のだ。そう言い伝えられている。
だが、その鬼は春の姿を見て、その言葉を聞いて、動きを止めた。その隙に祖父が言った。
――申し訳ないが、早々にこの町を去ってはくださらんか。事情は後でいくらでも説明します。そのかわり、この町には二度と近づかない方がいい。
祖父には鬼が見えなかっただろう。だが、春の言葉で、神崎夫妻が置かれていた状況はわかったのだ。礼陣の人間だから、たとえ彼らに憎まれても、そうせざるをえなかった。
言い訳はきっと、そのあと何度もしたのだ。鬼を知らない人たちでも納得してくれそうな話を、春に隠れて電話をして。
春がそのときのことを、忘れてしまったあとも。
いつもとは違う角度で入ってくる朝日を浴びながら、春は夢を思った。いや、夢ではなく、現実だったのだろう。あれはいつかあった光景で、春が本当に怖くて忘れたかったのは、きっと鬼のほうなのだ。
「……なんだ、そうか。そういうことだったんだ」
今は平気だ。春はもう、子供ではない。鬼はもう見えないし、守られる必要もなくなった。
だから礼陣を一人で出て、神崎夫妻を、もう一方の祖父母を、訪ねたいと思えたのだ。
帰り支度を整えて、おそらくは帰りの列車に乗る前に会いに来てくれた孫は、娘にやはり似ていた。けれども同一ではない。その面差しには、どこか、いつか恨んだ相手が見えた。
その人に育てられ、奇妙な風土に取り巻かれても、孫は立派に成長していた。いや、「何か」から守ろうとしてくれたあの日には、もうとっくに自分の足で立っていたのだった。
「また会いに来ます。そのときには、もっとたくさんお話したいです。母のことも聞かせてください」
「ああ、もちろん。もう他に話す相手もいないし」
「春ちゃんに直接電話をかけてもいいかしら。須藤さん、そんなことしたら心配なさるかしら」
「大丈夫ですよ。私ももう子供じゃないので」
笑ってそう言った彼女に、娘が重なった。故郷には帰らないと宣言した、そのときの娘が。
――私、もう子供じゃない。自分のことは自分で決めます。
あのときとは随分と違うが、やはりこの子は千秋の子だ。そうと決めたら必ずそうする。娘とは逆の約束をして、丁寧に礼をした。
「それでは、また。おじいちゃん、おばあちゃん、どうか元気で」
この子が帰っていくのは、あの礼陣の家だ。けれども引き留められない。それなら最初から、この子を家に連れて帰って来れば良かったのだ。それができなかったから、そうしようとしなかったから、見送らなくてはならない。いってらっしゃいもおかえりも、こちらでは言えないのだ。
「またな、春ちゃん」
「元気でね。今度はちゃんと、須藤さんにお話してから来るのよ」
「はい」
けれどもその幸せを願うなら、また笑って来てくれるだろうか。まだ話していないことがたくさんある。あの子が知らない千秋のことを、もっともっと教えたい。
恨みはとうに解けた。あの子を育てた人が、時間をかけて解こうとしてくれた。本当に時間がかかった。最後の結び目を解いてくれたのが、あの子だった。
そんな人たちの傍にいたがった娘は、幸せだったのかもしれないと、ようやく思えた夏の日だった。