初めて会ったのが、高二の春。それからすぐに、当人からではなく別の筋から、彼女について詳しく知ることになった。
「光井って、北市の?」
オレの「彼女ができた」という報告に顔を顰めていた海が、名前を聞いてさらに変なものを見るような顔をした。
「北市のかどうかは知らねーけど。ずっと病院にいるし、住所聞いたことない」
「しょっちゅう入院してる同い年の光井っていったら、たぶん北市の光井さんで合ってる。有名なんだよ、今代の光井の令嬢は体が弱くて、事業を継ぐのは難しいだろうって」
令嬢だとか事業だとか、あまりなじみのない言葉が続く。問い詰める前に、呆れたように教えられた。
「光井さんは北市女学院創設者の家だよ。北市女が広いから、実質、北市地区の大部分はあの一族が管理してる。お前一年いてそんなことも知らなかったのか? バイトしまくってるのに」
知っててもそう簡単に結びつくか。そう思ったのはそのときだけだ。そのあと自分で調べ、どうして今まで知らなかったんだと頭を抱えた。
当時付き合い始めたばかりだった彼女、光井雪は、正真正銘のお嬢様だったのだ。
――いえいえ、お嬢様なんかじゃないです! ほんと、違うの!
本人に尋ねたときの慌てようは、今でも鮮明に思い出せる。だがいくら否定しようとも、超庶民のオレからすれば、この広すぎる日本家屋はどう見ても豪邸にしか見えないのだった。初めて見たときも、すっかり慣れて暮らしてさえいる今でも。
礼陣の町は五つの地域に区切られている。そのうちの一つ、北市地区は、古くはその名の通り市が立っていて、山に囲まれたこの町と外とを繋ぐ玄関口でもあった。しかし鉄道網の発達に伴って、市を構成していた店のほとんどは現在中央地区の駅裏商店街となっている場所へ移動し、土地が空いてしまったところを光井家が買い上げた。そうして女子のための教育の場、北市女学院を設立したのだという。
そんな大富豪の建てた家も立派なもので、住まわせてもらっているのが申し訳なくなる。いや、出入りすることすら憚られた頃に比べれば、オレもいくらか図々しくなった。というか、よくもオレみたいなのを出入りさせる気になったものだ。
雪が病気がちで、一族がみんな彼女に甘かったというのもあるのかもしれない。その我儘はよほどのことでない限り通っていた。――どうにも光井家にとって、オレの存在は「よほど」というほどのものではないらしい。
大学四年になってから、雪が留学と病気治療のために海外へ渡っているあいだであったにもかかわらず、卒業したらこの豪邸に部屋を用意するから住むようにと言われた。雪からではない、この家を取り仕切る雪の曽祖母からだ。
「どうせ教員採用試験を受けるのでしょう。安心なさい、もし万が一希望通りにならなかった場合は、うちの学校で働けばいいわ。そうすればどのみち、黒哉さんは礼陣で暮らすことになる。雪と一緒になることも考えてくれているのなら、卒業してすぐうちに住んだらいいのよ。そうしましょう」
強引ともいえる決定に、親族一同が諸手を挙げて賛成したという話は、どこまで本当かわからない。とにかくこっちが考えるまでもなく、一気に色々なことが決まってしまったのだった。
それがもう、去年のこと。無事に礼陣で中学校教師になれたオレは、まだ雪が帰らない光井家で、生活をさせてもらっているというわけだ。
大先輩である井藤先生に生活について尋ねられたときに正直に答えたら、ぽかんとしたあとに笑われた。
「日暮先生、すごいシンデレラだね。立場逆だけど」
そう、逆なのだ。こんなの学生時代の知り合いに聞かれたら、爆笑されるかドン引きされるかのどっちかだろう。
光井家に住まわせてもらってはいるが、とくに束縛されるということもない。夕飯を家で食べないときには一言連絡を、ということくらいだ。帰る時間は自由。休みの日には台所に入らせてもらうこともあり、光井家伝統の味を教わりつつ、オレに食事を任せてもらう。幸いにしてうちの味も、この家の人々の舌に馴染んでくれた。その報告をすると、雪はアメリカからメッセージを飛ばしてくる。
[日本にいる人だけ黒哉君のご飯食べれてずるいよー! 私もご飯食べに帰るー!]
向こうには雪のほかに、その両親がいる。雪の留学期間が終わったら、揃って帰って来るそうだ。
つまり、現在一緒に生活をしているのは、頂点に君臨する雪の曽祖母と、祖母と祖父。居づらくはないが、なんでここにいていいっていうことになったんだ、とはよく考える。
オレ自身は、自分はこの家に似つかわしい人間だとは思えない。幼少期から「父親が誰だかわからない子」として距離をおかれ、この町に来てからは母親が殺され、その犯人が実の父親だったというのは、もう町では有名な話だ。当然光井家の人々もそれを知っていて、なおオレが雪に近づくことを許してくれた。あらためて身の上を話しても(色々と言い訳をしてしまったことがあったのだ)、「それが何だというのです」と一蹴された。
あとになって思う。こういう人たちだから、変わった風習や信仰が根付く礼陣の町に入ってきても、動じずに暮らしてきたのだろう。
「黒君、おじいちゃんとかおばあちゃんとかお父さんとかいなかったものねえ。そうやって家族として迎え入れてくれるところがあって、アタシも嬉しいわー」
母親の生前の仕事仲間であり、なにかとオレの面倒を見てくれていたコトミさんと、久々に会った。近況を報告すると、しみじみと「嬉しい」を繰り返していた。
オレの母親は、中学卒業と同時に親と絶縁したらしい。母親の葬式にも来なかったその人たちがどうしているかなんてオレは知らないし、だから祖父母という存在などこれまで意識したことがなかった。父親は顔と名前しか知らず、父親だと思いたくない。
「家族って思っていいのかは、正直なところまだわかりません。それならコトミさんや樋渡さんたちのほうが家族っぽいような気がするし、かといって常田家ほど離れている感じもないし……」
常田家は腹違いの兄の家だ。兄、在も、今年結婚するという。相手はオレの同級生だ。
「黒君が良ければ、全部家族でいいんじゃないの。光井さんも可愛がってくれてることだし」
「可愛がって……まあ女系一族らしいので、男が増えて安心したとは言われましたね。おじいさんとお義父さんに」
「まあ、お義父さんですって。早く雪ちゃん帰ってくるといいわね。そうしたら戸籍上も家族になるもの」
そういう予定にはなっている。先にそういう予定を立てたのは雪の曽祖母だったが。オレたちはそれに乗っからせてもらうだけだ。
「それなんですけど、コトミさん。オレはてっきり自分が光井家に入らせてもらうものとばかり思ってたんです。でも確認したら、なんか違うっぽくて」
「違う? 何がよ」
「雪が自分の印鑑用意しなきゃだとか、口座の名義を変えなきゃだとか言ってるから、何かおかしいと思ってはいたんです。どうもアイツ、日暮の籍に入るつもりみたいで」
「あら、黒君、マスオさんになるの?」
「……ちょっと意味わかりませんけど、とにかく慌てて大奥様に訊いたら『それで何か問題でも?』って言われました。良いんですかね、向こうはすごい富豪なのに」
「向こうがいいならいいんじゃないの。黒君、気後れしすぎ」
今更富豪が何よ、常田さんちだって地元の不動産王じゃないの。そんなふうに言ってのけるコトミさんは、今までどれほどの家を見てきたんだろう。色々聞くこともあっただろうけれど。いや、主におかしな問題を持ち込んでいるのはオレだった。よく考えるまでもなくそうだった。
「……気後れ、ですか」
「気後れよ。そこはちょっとお兄さんを見習ってみてもいいんじゃないの」
在とは立場が違うだろう。そう思ったが、たぶんそういうことではないので、返せなかった。
出会った頃はわからなかったが、アイツはあれで意外と、学校一の美人に惚れられるだけのことはあったのだった。
雪が帰って来る直前になって、富豪だの気後れだの言っている暇がなくなった。学校は運動会を終えてまもなく中間テスト準備期間に入り、他のことを考える余裕がないくらい忙しくなってしまったのだ。行事のない通常業務も毎日大変ではあったが、そんなものは序の口だったのだと実感させられる。実際、オレの仕事量は他の教員より少なく調整されているのだった。だが、学ばなくてはならないことが多い。
「日暮先生も経験あると思うけど、テスト前は生徒の職員室立ち入り禁止。質問受けるなら一旦出て応対して。あと部活入ってる子たちと同じように、テスト一週間前から剣道場も休みにしてもらってる。問題の作り方とかは教科主任に遠慮なく訊いて吸収すればいい。もし機嫌が悪そうなら、御仁屋の豆大福でも差し入れてやって。好物みたいだからさ」
井藤先生が慣れた様子で教えてくれる。新しく来た教員には、毎度説明しているんだろう。それから教員らの食事の好み、接し方など、よく把握しているようだった。さすがは中央中学校勤続十年。本当に、どうして他に移らないのだろう。
忙殺される日々だけれど、生徒にはそれをできるだけ見せないようにするのも、井藤先生は上手かった。どんなときでも明るく元気に、「井藤ちゃん」と呼ばれれば「ちゃんじゃなくて先生だろー」と笑って応える。常に仏頂面(なのだそうだ。自分ではわからない)のオレにはなかなかできないが、見習いたい。
けれどもそれを言うと、井藤先生は、
「まあ、教師だって人間だしね。日暮先生は普通にしててもモテるし、それで良いんじゃないの」
そんなふうに返すのだった。
とにかく仕事に集中しなければならなかったので、雪への連絡などはついつい遅れがちになり、帰りが遅いので光井家の人々とも顔を合わせる時間が短くなった。もちろんこちらの状況を知っている人たちだから、何も言わないのだが。むしろ夜食で労ってくれるのは、ありがたかった。
そうしてやっとテスト当日、その後の採点、とクリアできた頃には、もう空気はすっかり夏だった。子供たちも夏休みを楽しみにしながら、勉強に部活にと励んでいる。
この学校には読書討論会という愛好会――人数の関係で部に昇格できていないのだ――があって、オレはその副顧問を任された。ようするに最近流行っているというビブリオバトルを学校内で、できれば他校の生徒ともやりたいということで持ちあがったらしいこの愛好会は、全員集まっての活動が週に二回。テストが終わって最初の活動に顔を出すと、テスト期間だったから本を読むのを我慢していた、という生徒たちが集まっていた。
「夏休みの初めに、北中と合同で活動しようって話が持ち上がったんです。先生たちで調整してくれると助かるんですが」
「もう北中とは話してるのか」
「礼陣の町の人はみんな知り合いですから、生徒だけで話をするなら簡単なんです。でも部活動となると、学校が関わってきますから……」
副顧問のオレでは何とも言えないので、顧問の先生に相談してみる。と、二つ返事でオーケーが出た。北中とはすぐに連絡をとるということだ。
安心して本日の活動を始めようとしたとき、教室の戸がそっと開いた。
「すみません。こちらに日暮先生がいらっしゃると伺ったんですが」
生徒たちが目をしばたたかせる。職員室に向かおうと立ち上がっていた顧問が、「あれ」と声をあげた。
「もしかして光井さん? どうしてここにいるの?」
オレは突然現れた雪を目の前にして、唖然としていた。
雪はにっこり笑って頭を下げ、「お久しぶりです」と言った。
「先輩もここで先生やってたんですね。私、黒哉君……日暮先生に用事があって」
あとで知ったことだが、顧問は雪の小学生の頃の先輩だったらしい。ほぼ保健室登校だった雪の相手をよくしてくれていたのだとか。
とにかく一旦、他の空き教室に雪と二人で移動した。生徒たちがこっちを見てニヤニヤしているのがわかったが、気にしないふりをする。
静かな教室で、久しぶりに会ったその顔を、やっとまともに見た。
「雪、帰るの今日だったか?」
「ふふーん。事前に知らせておいた日時は、わざと遅らせていたのだよ。……まあでも、きっと忘れてたよね。黒哉君、忙しかったみたいだし」
ひいおばあさまから聞いてるから大丈夫、と微笑む雪は、しかし少し拗ねていた。昔、見舞いに行くのが少し遅くなったときの表情と同じだ。
「悪かった。……おかえり」
「ただいま。なんにも悪くないよ、黒哉君は。私が驚かせたかったんだし」
「本当に驚いた。まいったよ」
素直に降参すると、雪は得意げに胸を張る。そのまま黒板を、掲示板を、ロッカーを、窓を、順番に見回して「懐かしい」と呟いた。
「私はここじゃなくて北中の出身だし、ほとんど保健室にいた記憶ばっかりだけど。ほんのわずか、教室で勉強したり、本を読んでたりしてたときのことも、ちゃんと憶えてるんだよ」
友達と何かした、というのは言わなかったし、今までも聞いたことはない。心配する声は多々あったものの、ごく普通の学生らしい会話というのは、中学生の時まではなかなかなかったのだという。高校に入ってからも入院期間が長く、友達といえるような人は少なかったと、以前に語っていた。
オレも似たようなものだ。中学生の頃までは門市にいて、片親だとかそういう境遇に同情や軽い興味は向けられたものの、親しい者はいなかった。仲良くなりそうだと大人が判断すれば、「特殊な環境で育った子だから気をつけろ」という言葉で遠ざけられた。今にして思えば、大人たちには遠ざける意図はなかったのかもしれないが、結果的に同級生は面倒だと思ったのだろう。オレも腫れもの扱いはごめんだと、他人を避けていた。
加えて、雪と同じ学校に通っていたことはない。だから、こんなことを言うのはおかしいのだけど。
「そうだな、懐かしいな」
自然と、そんな言葉が出ていた。
「黒板にらくがきしたかった。授業中にこっそり手紙をまわしたり、お喋りしながら掃除したり、してみたかったな」
「勉強しろよ」
「勉強はこれでもかってくらいしたもの、ひとりで。……みんなと同じように、遊びたかったの」
そうだ、独りでできることなら、十分にやったつもりだ。年の近い誰かと何かを、という経験は、オレも高校生になってからようやくできた。
だがそういうことがなければ、オレはたぶんこの場所にいなかった。
「もう学生時代みたいなことはできないかもな」
「そうだね、大人だもん」
「でも、もう独りで寂しいなんて言わせねーぞ」
「そんなこと、言ってられなくなるもんね」
この町に雪が帰ってきた。これからは同じ家で暮らす。一緒に時間をつくっていくんだ。誰かに言われたからというわけではなく、オレが、雪が、そうしたいと決めた。
「これからよろしくな」
「こちらこそ」
忙しかろうが疲れていようが、雪がいてくれればなんとかなる気がする。根拠はないが、そんなふうに思えてしまう。
雪もそう思ってくれるだろうか。いや、雪がどう思おうと、オレはオレのために雪を支えられるようになるんだ。
寂しい思い出も、昔の憧れも、これから全部「懐かしいもの」にしてやる。
「つーか、よく学校に入ってこられたな」
「井藤先生に通してもらった。日暮先生の奥さんだって。奥さんだよ、奥さん!」
「本当に奥さんになるのは明日からだけどな」