鬼の住まう土地礼陣だが、特に存在を知られている鬼というのは少ない。そもそも鬼は普通の人間には見えず、見える「鬼の子」も、あまりに鬼の数が多いので、ひとりひとりを正確に憶えるということは難しい。
誰もが知っている鬼は、礼陣神社の神主。何年経っても見た目が変わらない彼は、人間と同じ姿をしていても鬼だと認識されている。
鬼が見える、あるいはかつて見えた「鬼の子」たちのあいだで、よく知られているのが子鬼。そう呼ばれる存在はたくさんいるのだが、中でもおかっぱ頭の少女の姿をした者が親しまれている。子供が親を亡くして「鬼の子」となった瞬間から、大人になるまで、長く見えるのが彼女ということもある。
そして最近――ここ二年ほどでその名が囁かれるようになった鬼がいる。そう、名だ。本来固有の名前を持たないとされている鬼だが、その女性の姿をした鬼には人間のような名前があった。鬼が見えない人々にも名だけは知られ、子供たちはとくに彼女を慕っている。なにしろ、鬼らしくないほどに、現代の遊びや話題、勉強にまで詳しいという。鬼の子を通じて彼女と話そうとする子供たちは、こう呼びかける。
美和鬼様、と。
『偉くなったものね』
何度目かになる台詞を、葵鬼が呟いた。礼陣遠川地区の進道家に封じられている、最悪と名高い呪い鬼である彼女だが、その力はこの何年かで少しずつ削がれつつあった。今でも町の全てを呪っているが、自分で手を下すまでもない、時間が経てば勝手に滅びる、と思うくらいに落ち着いた。実際、家に関しては彼女の目論み通りになりつつある。
葵鬼の強い呪いを宥めたのは、彼女のもとへ通い続けた美和だ。とはいえ、本人はそう思っていはいない。溜めこんでいたものを吐き出せば、そりゃあすっきりするでしょう、くらいの気持ちだ。
『偉く? そうかなあ、子供に人気のお姉さんくらいなものじゃない?』
並の鬼なら入った途端に呪いに取り込まれてしまうような、葵鬼を封じている部屋で、美和は悠々と過ごしている。鬼になる前、人間の魂と鬼の境にある人鬼だった頃から通っているので慣れているのだと思っているが、美和の持っている力が強くなければ、こんなことはできない。
『子供に人気のお姉さんが、呪い鬼のところに通ってるなんて知られるのはまずいんじゃない』
『呪い鬼のところに通ってるんじゃなく、葵さんに会いに来てるんだよ。知られてまずいことなんかなんにもない』
『……それ言えるの、あなただけよ』
呆れて息を吐く葵は、しかし、美和のことを嫌がってはいない。自分の思いを吐露できる唯一の相手として、今は認めてすらいるのだった。
人間から存在を認識され、鬼たちから一目置かれる美和だが、これまで唯一避けてきたものがあった。人鬼だった頃には見えることがなかったが、鬼に成ってからはその目につかないよう注意をはらってきた。――姿を現せば、彼は混乱するだろうと思ってのことだ。
『夜明けが近いね。私はそろそろ退散しようかな。おやすみ、葵さん』
『あ、待ちなさい。今は』
注意してきたはずだった。だが一方で、夜明け前なら大丈夫だろうという油断もあった。止める声を聞かず、いつものタイミングで葵の部屋を出て、まさかそこで出くわすとは。
「……え」
『あ、やば』
葵の封じられている進道家には、鬼が見える青年がいる。普段は家を出て独り暮らしをしているのだが、長期の休みには帰って来る。今はちょうど夏休み、この町で行なわれる夏祭りの直前だ。もっと気をつけているべきだった。
「和人さん……?」
進道海は、美和を見てその名を口にした。美和とよく似た顔をしている、人間の名前を。
美和は人間として生まれ、すぐに死んだ。双子として生まれた片割れは無事に成長し、美和はそれをずっと見守ってきた。
海は美和の双子の弟、和人の後輩だ。それも、和人をとても慕っている。それだけなら何の問題もなかったのだが、彼は美和が知る限り女性が苦手で、家で封じている葵鬼をひどく憎んでいた。その彼に、葵鬼の部屋から出てきたところを見られた。
これは厄介なことになる、と覚悟した。全てを説明しなければならないだろう。だが、それも聞いてくれるかどうか。美和はとりあえず、海の言葉を否定するところから始めることにした。
『和人じゃない。私は』
「……ああ、違うな。お前は鬼だ。和人さんにそっくりだけど、よく似た気配は昔から感じてた。それに、その部屋から出てきたってことは、前に会ってるよな?」
憶えていたのか、と美和は頭を押さえた。まだ美和が鬼に成っていなかった頃、つまりは鬼の子にも見えないかたちで存在していたときに、葵に会いに来ていたことを咎められている。鬼の子としての感覚が鋭敏な海には、美和の姿は見えなくとも、気配はずっと「和人に似た何か」としてとらえることができていた。
「神主さんが言ってた……らしい。葵の力が弱まっているって。それをやったのは、お前か」
『弱めたつもりはないけど。ただ、話をしてただけ』
「普通の鬼は会うことすらできない。呪い鬼にされて喰われる。なのにお前は平気なんだな」
睨むようにこちらを見る海の態度に、美和は少しイライラしてきた。和人にはあんなに懐いていたくせに、美和のことは鬼だとわかった途端に「お前」呼ばわりだ。傍らの襖の向こう、封じられている部屋で、葵鬼が笑いを堪えている気配が伝わってくる。
『あのね、海。さっきから失礼じゃないの。私はあんたの先輩の姉よ。双子だけど姉なんだから、せめて同じくらい敬いなさいよ』
「姉? 鬼がなんで姉なんだ」
訝しんだ海に、一歩近づく。ほんの僅かに怯んだそのときを狙って、美和はびしっと相手を指さした。
『私は美和。水無月美和よ。和人と一緒に生まれて先に死んだ双子の姉。何だったら和人に訊いてみたらどう? とにかく、これから私のことをお前呼ばわりしたら、返事はしないからね!』
一気にまくしたて、ぽかんとした海を見た。和人ならこんなことはしないだろうと思う。少なくとも、海の前では。こんなことをして、逆に信じてもらえなくなったらどうしよう。そう考え始めて、やっと海が口を開いた。
「……美和、って。今、町で子供が噂してる美和鬼様ってやつか? ゲームの攻略法だとか、難しい漢字の読み方とか、色々教えてくれるっていう」
いくら長期の休みにしか帰らないとはいえ、噂話の好きな町のことだ。歩いていれば子供たちの話題も耳にするだろう。美和は子供たちに感謝して続けた。
『そうよ、その美和様。でも敬称まではいらないわ』
「……ええと、じゃあ、美和さん」
勝った、と拳を握った瞬間に、葵鬼の気だるげな拍手が聞こえた。それは海もわかったようで、また眉を顰めて、襖に目をやった。
「美和さんは、葵とどういう関係なんですか」
『おや、敬語。やっと私を認める気になったか。葵さんとは、私が話したかったの。だからこっそりここに通い始めた。会話をしてくれるようになるまでは、ちょっと時間がかかったけどね』
目を細め、これまでのことを振り返る。葵鬼と初めて会った日から、彼女が呪い鬼になったその日の話を聞き、そして今日に至るまで。――美和が先に知った、葵鬼の「二人の子供」の話を、今年に入ってから海もようやく知ることとなった。
知ったのだから、彼もわからないわけではないだろう。葵鬼がなぜ呪い鬼になってしまったのか。この町を恨むに至った、その思いを。
『ねえ、海はなんで葵さんが嫌いだったの?』
「……美和さんに関係ありますか、それ」
『ないといえばないし、あるといえばあるかな。私が葵さんの力を弱めたっていうなら、あんたたちにできなかったことが私にはできたってことでしょう』
さらに言えば神主さんにだってできなかったよね、と美和がにやりとする。海の表情があからさまに歪んだのが見えた。だがここは目を逸らしてもらっては困るところだ。
「美和さんは、葵以上の力があったから……」
『力で抑え込もうとして、どうして葵さんと話ができるようになるの。私はね、本当に葵さんと話をしただけ。でも、それまで誰もそれだけのことをしようとしなかったよね』
「呪い鬼とまともに話ができるわけないじゃないですか」
『鬼になる前からだよ。葵さんが生きてるときから。葵さんの話を、誰も聞こうとしなかった。……これは海のせいじゃないね。当時のこの町の大人、みんなの責任。神主さんだってそう』
礼陣の人々は、鬼の存在を認め、鬼を正しいと信じている。疑う人は考えを改めさせられた。鬼がいることと、それが正しいと思うことは、違うのに一緒にされた。美和が鬼ながら疑問を持ち、納得するために葵と接触することを決めたのは、改めようとする者がいなかったからだ。さらには、神主もとい大鬼すらも、美和の行動によって葵鬼の呪いが薄まるのではないかという賭けに出ていた。
『人間だった頃の葵さんと、家族ですらちゃんと話をしなかった。葵さんが拒んでたって部分もあるだろうけど、そうなる前に葵さんの話を聞くことができたんじゃないの。……でもそうなってたら、海たちは生まれてなかったかもね』
「たち、って……やっぱり知ってるんですね、妹のこと」
『ごめん、かなり前から知ってたよ。でも、私には伝える術がなかったから教えてあげられなかった。あんたの前に出るのも怖かったし。和人と似てる女の鬼が現れたら、複雑な気持ちでしょ?』
海から答えはなかったが、今まさにそうだ、という顔をしている。それを確認してから、美和は話を戻した。
『海は葵さんを恨んだかもしれない。自分を殺そうとして、お祖父さんを本当に殺してしまった呪い鬼だから、それは仕方ないよ。でもその事態は防げたかもしれないってこと、呪いはもっと早くに薄めることができたかもしれないってことは、知っておいていいんじゃないかな』
「知ってどうしろと? 葵を許せって?」
『許すのは無理でしょ』
あっさりと言う美和に、海は驚いているようだった。
「美和さんは、誰の味方なんですか。葵を庇ってるわけじゃないんですか」
『私は私の思うとおりに動いてるだけで、誰の味方とかじゃないよ。……あのね、自分の立場をあんまり強固にしすぎて違う考えを受け付けないのは、人間だと諍いのもとになるし、そもそも疲れるし、鬼だと簡単に呪いを持つことに繋がるよ。気をつけなさいな。ああ、受け入れるかどうかは別の話だから、そこは間違えないで』
すらすらと述べてしまってから、ちょっと説教くさかったかな、と思った。人間相手に説教をできるほど、長く生きているわけでもないのに。だが、海はそれに頷いた。
「……そう、ですよね。美和さんが全面的に正しいとは思いませんけど、受け付けることと受け入れることが別物だっていうのはわかります」
『うん、それならいいや』
「身に沁みましたからね、色々あって。……それに、今の美和さん、和人さんと似てたので」
何を今更、と言いかけて、それが彼の賛辞だということに気づいた。夜明けの白い光の中で、笑ってみせる。――こんなことならもっと早く出てくるんだったな。
礼陣の子供たちのあいだで人気の、美和鬼様。その名前を、普段海外に出ていて、ときどき礼陣に帰って来る、弟も耳にしていた。
「会いましたよ、美和鬼様」
夏祭りを翌日に控えたその日、久しぶりに会った後輩からその名を聞いたときには、少し驚いたけれど。
「いつか和人さんが言ってた、よく似た鬼、ですよね。たしかに似てました。本人は双子のお姉さんって言ってましたけど」
「え、海、いつ会ったの? ていうか、まだ姉とか言ってるの? 僕は自分が兄のつもりだったんだけど……まあ、少しはやっぱり向こうが姉なのかなとも思ったこともあるけど」
動揺すると、後輩に笑われた。そうして、つい先日、という答えを聞いた。
「ずっと和人さんと、それから……礼陣を見守ってきたんですね、あの人。俺のこともよく知ってるみたいでした」
「そりゃあ、僕と一緒に道場に通ってたから。僕は鬼の子じゃないけれど、どうしてか、美和だけはわかったんだよ」
「わからなきゃ、あんなこと言いませんよね。……良かったら、美和さんのこと聞かせてくれませんか?」
「僕も今の美和のことは聞きたいな。噂通りなら、元気にやってるんだろうけどね」
元気に決まってるじゃない、という声は、今は海に聞こえて、和人に聞こえない。けれども思い出と今を語りあってみれば、たしかに美和がいるのだった。