大学生活も、残り一年をきった。案外短かったな、と千花は思う。なにしろ入学した直後から忙しかったので、一日一日が矢のように過ぎていった。それはきっと、とても幸せな日々だったのだろう。そういう時間ほど早く経つものだ。

現在の千花は、礼陣にある大きな学校、北市女学院大学の四年生。就職活動にも本腰を入れなければならない。そんな矢先に、いくつかの話があった。

一つは、門市のラジオ局から。大学のラジオサークルで活躍していた千花は、番組作りから放送まで協力をしてくれていたラジオ局関係者と親しくなっていた。三年の秋以降はサークルを引っ張る立場になっていたこともあって、この道のプロと直接やりとりすることも増えた。それだけでもありがたいことだったのだが。

「入社試験、受けてみないかって言ってくれたんだ。アナウンサー部門で」

中学からの親友で大学も一緒(同じ学部だが学科は違う)の春に報告すると、ぱっと笑顔を咲かせて、拍手とともに喜んでくれた。

「すごいねえ! でも千花ちゃん、謙遜して言ってない? 本当は、受けてみないか、じゃなくて、受けてほしいって声かけられたんじゃないの? こんな逸材、よそにとられたくないもんね」

「そんな……」

手を振って否定したけれど、本当のところは春の言うことが当たっていた。どちらにせよ就職が確定したわけではないので、油断はできないし、まだまだ勉強が必要だ。でも千花はこの話を受けるつもりだった。現場の雰囲気は、これまでラジオをやってきたから、ある程度はわかっている。仕事の流れや必要な知識も、三年かけて教わってきた。だからこそ求められるものは多いだろう。受験者は当然ながら、他にもいるのだ。千花よりももっと相応しい人材が、きっといる。

「とにかく、受けるんだったら頑張ってね! 千花ちゃんの声が卒業後もラジオで聴けるようになったら、喜ぶ人たくさんいるよ。まだまだ孤独な学生生活が残ってる海にいとか」

「が、頑張る。でも他にも選択肢をちゃんと考えておかないと……。簿記講習は入れたけど、公務員試験対策も申し込んだほうが良かったかな」

あれこれ考えながらも、一番千花の心に響いたのは「海にい」という名前だった。高校生の頃に好きになって、付き合うようになり、四年のあいだ遠距離恋愛を続けてきたその人。彼の通っている学校が県外の薬科大なので、なかなか会えないけれど、ラジオサークルでやっている番組のポッドキャスト配信をいつも聴いてくれているという。そしてそのたびに、感想をメッセージアプリに送ってくれていた。

千花に付き合っている人がいるというのは、周知のことだ。友人たちだけではなく、ラジオのリスナーのあいだでも有名で、けれどもそれで人気が落ちるということはなかった。むしろ千花がパーソナリティーを担当する週には、恋愛相談のメールやSNSでのメッセージが多くなる。千花に声をかけたという局の担当者も、もしかするとそういう人気に目をつけたのかもしれない。――というのは千花ではなく、春の想像だが。

「そういえば詩絵ちゃんも、今年は教員採用試験あるよね。みんな進路がはっきりしてていいなあ」

「だから私はまだはっきりはしてないんだって……。春ちゃんこそ、おじいさんのお仕事継ぐんじゃないの?」

「おじいちゃんは認められた職人だからね、それなりに稼げるけど。でも私はそうじゃないもん。工芸の修行をしつつ、生活や将来のために勤めに出るのが、現代社会において求められているのだよ」

「じゃあ新君と結婚して主婦に」

「それも新のとこのご両親と話さなきゃいけないからね。新のお母さんとそれなりに仲良くはなったけど、やっぱり向こうとしては私が入江家に嫁ぐのが望ましいと思ってるし。だからうちに婿入りするっていう新と揉めてるんだよね。今時どっちの家に入るかなんて問題、どうかとも思うけど」

どうやら春もいろいろと問題を抱えているらしい。そして手元の企業案内等の印刷物――大手はともかく、地元の中小企業はまだエントリーを受け付けている――をおもむろに眺めだすあたり、やはり就職はしなければという考えなのだろう。もう少し前なら、この状態が三年生になってすぐに始まっていたはずだ。自分たちの世代は、短期決戦型といわれている。

「……千花ちゃんこそ」

「うん?」

企業案内から少しだけ顔をあげ、春が問う。

「海にい、卒業は私たちより後だけど。それからはどうするつもり? 結婚とか考えてる?」

「わ、私はまだ、そんなの……。でも、海さんはどうかな。真面目な人だから、ちゃんと考えてるのかも。でもそんな話、したことない……」

そもそも学校を卒業してすぐにそういうことを考えるのはどうなのだ、というと、さっき千花自身が春に言ったことを謝らなくてはならない。春と、それから新の人生に、口を出すべきではない。親友とはいえ、別個の体と心を持った他人なのだから。

「勿体ぶるしね、海にいは」

春が溜息を吐いた。海とのあいだにあったことは春に相談というかたちで報告しているから、全てを知っているだけに、もどかしくて呆れているのだろう。

そんな会話をしてから家に帰ると、玄関に父の靴があった。いつも朝早くに出勤して夜中に帰って来るのに、随分と早い帰宅だ。「ただいま」と声をかけると、ちゃんと「おかえり」も返ってきた。

「千花、今日はどこに行っていたんだい?」

尋ねる父は、リビングでノートパソコンと資料を広げていた。仕事を持ち帰るなんて珍しいなと思いながら、「春ちゃんのところ」と答えた。

「就職活動の話とかしてたんだよ。あのね、お父さん、ちょっと話したいことがあって……」

「僕も千花に話したいことがあるんだ。それでちょっと早く帰ってきたんだよ」

「そうなの? それならお先にどうぞ」

父が早く退勤してくるくらいのことだ、重要度はそちらのほうがずっと高いだろう。千花は父の向かいに座り、言葉を待った。

咳払いを一つしてから、千花を真っ直ぐに見て、父はそれを告げた。

「千花。お父さんは、再婚を考えてる」

「……ええと、それは」

驚くようなことではなかった。千花は毎年夏になると、父と海外旅行に行くのが恒例になっている。千花が高校三年生のときの旅行から、そこに女の人が加わるようになった。フランス人の女性で、千花とも一所懸命に日本語で話そうとしてくれるし(千花がいくらか言葉を解せるにもかかわらず、だ)とても優しい。なにより父と、仕事仲間だと説明されたけれど、もっと深い仲であることを察するのは容易だった。その人のことかと問うと、父は頷いた。

「今までどうしようか迷っていたんだけれどね。お母さんのこともまだ愛しているし。けれども僕は、彼女のことをお母さんと同じくらい好きになったんだ」

知ってるよ、という言葉を呑みこむ。それ自体は、千花にとっても問題ではない。父には幸せになってほしいし、千花もその人のことが好きだ。結婚するなら早くしてしまえばいいのに、とまで思っていたけれど、同時に、たぶん自分の存在が枷になっているのだろうともわかっていた。

「でね、仕事のほうでも、定年までの残りの時間を向こうで頑張らないかって話が出ているんだ。しばらくはこっちと行き来して引継ぎをして、本格的に移るのは千花が大学を卒業した後になる予定だよ」

「お父さん、この家を出るの? 向こうで結婚するのは、私はまったくかまわないけれど」

「僕が言いたいのはね、千花。君も一緒に行って、向こうで新しい家族を始めようっていうことなんだ」

向こう。外国。この町から出て、新しい生活を。卒業してから。千花の頭の中を、言葉が積み木を散らかすように転げている。それをきちんと積もうとしても、「納得」というパーツがどうやら足りないようで、すぐにばらばらと崩れてしまう。

「……この家は、どうするの」

「お母さんとの思い出があって、千花が育ってきた家だから、手放すのは惜しいけど……売りに出そうと思ってるよ。でもまだ考えている段階だから、本格的に動き出すのは千花の返事を聞いてからだ」

千花が描いていたものとはまったく違う未来が提示される。――これが、もう一つの話。

まずは状況を整理するのに頭がいっぱいで、返事をするのは少し待ってもらった。自分の話、ラジオ局の入社試験を受けるつもりだということは、とうとう言えなかった。

父の再婚には反対しない。父も、その再婚相手も、大好きだ。でも、千花まで外国で暮らすというのは、また別の話だ。だって千花は仕事のことだけではなく、とても大事な約束をしている。この町で海が帰ってくるのを待っているという約束を。

 

 

五年生から実務実習が始まる。現場に実際に出るようになれば、寂しさも少しは和らぐだろうかと、海は独り暮らしの部屋で食事の用意をしながら思った。何はともあれ食べること、は尊敬する父から教わった最も重要なことで、習慣だ。自分自身も妹分や後輩たちに教えてきた。

海が薬科大に進んだのは、そもそも父と、自分が三歳のときに亡くなった祖父の影響だ。もっと遡ることもできるが、海が知るのはそこまでである。進道家の人間は代々、剣道場を開く傍らで、薬剤にも精通していた。父も薬学を学び資格を持っている。小中学生向けの剣道教室をやっていない曜日は、薬局の非常勤職員として働いて、海を育ててくれた。亡き祖父も同じだ。海も今のところは、同じ道を行くつもりでいる。

独り暮らしにしてはきちんとした夕食をテーブルに揃え、音楽プレーヤーをスピーカーにセットしてから電源を入れた。ポッドキャストを再生すると、故郷で放送されている、学生がやっているラジオ番組が部屋に流れ出す。それを聴きながら食事をするのが、いつからか日課になっていた。

『――では、今週もいただいたメッセージを、どんどん紹介していきましょう!』

『今週も千花さんに、恋愛相談がたくさん届いてますよ』

『うわ、本当にたくさん。いつもありがとうございます。お役に立てるよう頑張ります!』

故郷、礼陣にある女子大の、ラジオサークルで制作している番組。隣町の門市にあるラジオ局の協力を得て、毎週枠をもらっているそれは、しかし海の住んでいる地域ではリアルタイムで聴くことができない。せっかくの人気番組……というより、千花の声を聴けるチャンスなのに。

ただ声を聴きたいだけなら、彼氏という立場を利用して電話でもすればいい。無料通話アプリなんて便利なものもある。だが、ラジオでの千花の声は、また違う雰囲気があるのだ。どちらも聴き逃すわけにはいかない。

番組を聴くあいだに、食事は終わり、片づけもさっさと済ませてしまう。そこまでが終わるのと、番組がエンディングを迎えるのは、だいたいいつも同じくらいだ。音楽プレーヤーの電源を切ったあとは、どっと寂しさが押し寄せる。――自分がこんなにも寂しがるなんて、故郷を離れるまでわからなかった。故郷ではいつも、傍に誰かがいたから。人間も、人間じゃないものも。

今年になって急に寂しさが増したのは、四年制の大学を卒業した友人たちが社会に出ていったせいもある。まだ学生である海を置いて、彼らは大人になっていく。それは進路を決めたときからわかっていたことなのに。

「千花ですら、俺より先に学校を卒業するんだもんな」

昨夜、千花からメッセージが届いた。就職活動をするなかで、世話になっているラジオ局から嬉しい誘いがあったらしい。うまくいけば、来年の今頃にはもう働いているだろう。一つ年下の彼女もまた、海の先を行く。

ゆくゆくは千花を養えるような環境をと考えている海だが、その日はまだまだ遠そうだった。

『来週のテーマは“今一番欲しいもの”です。メールやファックス、ツイッターなどで、あなたの欲しいものを教えてくださいね』

さっきまで聴いていたラジオ番組の、千花の言葉が思い出された。届かない声で、答えてみる。

「……甲斐性」

そんなことを言っている時点でまだまだだと、自分でもわかっている。

 

今年の春の大型連休は平日によって分断される。よほど仕事に融通の利く人でなければ、広告にあるような「超大型連休」は夢のまた夢だ。そもそも誰かが働いていなければ、社会は動かない。

[さすがに一年目で休むわけにはいかないからな。休みはカレンダー通りだ。]

[こっちも休みはない。海が帰って来るなら、どこかで時間はつくってやる。]

[休日出勤がほぼ決まってるんだよなー。せめて定時に終わりたい。]

[休みといえば休みだけど、会社の親睦会で旅行に行くの。]

メッセージアプリのグループ画面は、同級生社会人組の予定で埋まっていた。連、黒哉、サト、莉那は、それぞれに忙しいらしい。気軽に帰省しても、みんなが学生だった頃のように相手をしてくれるかどうかはわからない。でも、どうやらできるだけ集まれるようにはしてくれるようだ。どうして黒哉が仕切っているのか、というところにつっこみを入れて、一度スマートフォンの画面をオフにする。

海だって長い休みがあるわけではない。平日には講義や実習がある。大型連休の前半と後半、どちらで帰省するか決めるのは、全員のスケジュールを把握してからのほうがよさそうだった。

同級生はそれでいい。だが、千花はどうだろうか。長期休暇に帰省しても、ラジオの打ち合わせがあるとか、父親と旅行をするとか、そういった理由で会えない日も多い。ラジオも家族も友人も、千花にとっては大切なものなので、こちらの我儘に無理に付き合わせる気はない。それは短い連休でも同じだ。

一応予定を聞いておこうかともう一度スマートフォンの画面を表示させると、メッセージアプリの着信アイコンが点いていた。黒哉から文句でも来たか、と思って開いたが、相手が違った。

「……そっか、そうだよな」

メッセージを見て、思い出した。いつか、いつかと先延ばしにしていたことがあったことを。あの小さな町のことだから、どうせ噂ででも聞いているんじゃないかと、父にきちんと話さずにいたこと。それはこのメッセージを送ってきた千花も同じだったようで――もっとも彼女の場合は父親と顔を合わせる時間も少なかったが――互いに親には、自分たちの関係を言っていなかった。

[私たちのこと、ちゃんと親に言いませんか?]

突然すみません、のあとにこう続いていた。どうして今、突然、なのかという疑問が湧かなかったわけではないが、父には話したほうがいいだろうと納得できた。きっと笑って、「知ってたよ」なんて言ってくれるのだろうけれど。父はそういう人だ。

そうだね、そろそろ。と返信して、なんて言おうかと考える。さすがに互いの親が居ぬ間にこっそりと彼女を家に泊めたことまでは白状しなくていいか。

連休の予定が、一つ決まった。このときはまだ、何も知らないまま。

 

 

声をかけてくれたラジオ局の採用試験だけは受けようと、千花は先にエントリーを済ませた。そうして結局、父には相談も報告もできないままに、ありがたくも一次選考通過の報せを受け取ってしまった。なんて早い、という思いが、嬉しい、よりも先にあった。

花見シーズンもそろそろ落ち着いて、周囲では大型連休の予定などが話し合われている。千花の持つスマートフォンの画面上でも、毎日タイムラインが動いている。久しぶりにみんなで集まってご飯でも、という提案から、先輩たちは仕事の予定を考えて日程を調整している。県外で学生をしている海も帰って来るという。社会人組の都合に合わせるらしい。

そのときに時間があれば、きちんと話ができないだろうか。春に言われてから、千花も真剣に考え始めたのだ。将来のことをどうにかするために、まず現在を固めたほうがいいのではないか。就職活動もその一つだ。

思えば千花は、そしてこれまでの記憶では海も、親に自分たちの関係を伝えていなかった。この町のことだから誰かしらから聞いているかもしれないけれど、直接言及したことは、こちらからもあちらからもない。恋人がいる、ということすらも、千花は父の前で口にしたことはないのだ。

父は千花を外国に連れて行きたいと言っている。けれども千花は、この町に残りたい。そのためにはそうしたい理由を父に説明しなければならない。もちろん「ラジオをやりたい」ことも言うけれど、こちらは最終試験に合格できるかどうかがまだわからない。それに千花個人のレベルでなら、番組を作って発信することは世界のどこでだってできる。

この町にいなくてはならない理由を説明するのに、ラジオだけではなく、海の存在も必要だった。だから思い切って、海にメッセージを送ったのだ。――利用するようで、申し訳なくはあるのだけれど。

[そうだね、そろそろ。]

どこかぼんやりとした返事を見つめて、心の中で謝る。海にも、父にも。自分はあんまり我儘すぎやしないだろうか。

外国行きの話が出ていることは、親友である春や詩絵にすら話していない。詩絵は彼女自身のことで忙しいだろうし、春に言えばそこから海に伝わってしまう可能性がある。今回の件に関しては、ちょうどいい相談相手がいなかった。千花にまだ鬼が見えたのなら、状況は違ったかもしれないけれど。

礼陣にいる鬼と呼ばれる存在が、かつて千花には見えた。母を亡くした――実際は「実の父親」もどうなっているかわからない――子供であったために、彼らと交流することができたのだ。この町では、そういうことになっている。けれども年齢もじきに二十二を数える千花には、すでにその気配すら感じることができなくなっていた。

相談したところで、鬼は人間に極力干渉しないようにしているらしく、どうにもならないのだけれど。それでも誰かに打ち明けられるだけ、気が楽になったかもしれない。

「悩んでても仕方ないよね。やらなきゃいけないことは山ほどあるんだし、頑張らなくちゃ。連休にはたぶん、海さんに会えるし。そのとき元気がなかったら、心配されちゃうもの」

普段離れているだけに、海には心配をかけたくない。彼には彼の大切なことに集中していてほしい。本当なら、そうなのに。

「……迷惑、かけちゃうかな」

迷惑だ、なんて言わない人だから、つい考えてしまう。本当はどう思っているのだろうと。

 

ラジオ局以外にも試験を受けたり、町の企業説明会に通ったりしているうちに、四月も末になってしまった。連休中の父の予定は聞いている。話をするなら今のうちだろう。

海は連休の後半、五月に入ってから帰ってくるということだった。タイムラインから察するに、高校時代の同級生たちと飲み会をするという予定が入っている以外は、会う時間もとれそうだ。というより、春や莉那あたりにとらされるだろう。小姑がおせっかいすぎる、と海がこぼしていたこともあった。

休みの一日目は父が仕事でいないので、春と一緒に門市まで出かけた。門駅で、帰省してくる詩絵と新と待ち合わせているのだ。そのまま買い物をしたり、お茶をしたりする手筈になっている。

「今年の大型連休は最大十連休、か。実際、そんなふうに休みとれるところって、大きいところなんだろうね」

列車内の中吊り広告を眺めながら、春が嘆息する。中小企業の多い礼陣にはあまり現実的ではない数字ではあるが、それでも有休をとるなりできる人はいるのだろう。千花の場合、「あんまり休みはあげられないかもしれないけど」とラジオ局からは言われている。

「新君はそういうところを受けてるんだよね。しっかり働いてしっかり休めるところで、礼陣にも営業所があるところ」

「うん。門市とか、周辺も考えてるって。大きいところだったら門市のほうが良さそうだけど」

「それで春ちゃんの家から通うんでしょ? 新君は本当に春ちゃん第一だよね」

千花からすれば少々羨ましい話だ。卒業したら一緒になれることが決まっているのだから。そのためにクリアしなければならないと春が言っていた問題も、今回の連休と夏休みを使って解消していくつもりらしい。

千花はそれができるだろうか。段取りとしては、父に先に簡単な説明をしておいて、それから海に会ってもらう予定だが、そこまでこぎつけられるか。理想としては「海がいるから千花を礼陣に残していっても安心」と父に思ってもらいたいが。千花が外国に行きたくないのではなく、礼陣に残りたいのだということを、正しくわかってほしい。

列車が駅に到着し、春と喋りながら少し待っていると、スマートフォンに連絡が入った。まもなくしてやってきた詩絵と新は元気そうで、待ち合わせ時間に遅刻しそうになっただの、列車の中でうとうとしていただの、軽口を叩きあっている。

「いいなあ、気軽に会える距離にいて」

「そうでもないよ。大城市は広いからね。住んでる区が違えば会うことないよ」

「そんなにしょっちゅう詩絵と会いたいとも思わないしな」

「その言い方腹立つわー。わかってるって、アンタは春が一番」

挨拶もそこそこに中学高校のノリに戻れるのは、このメンバーの楽しいところだ。詩絵が盛り上げてくれて、新がそれに反応し、春と千花が笑う。この完璧な空気を壊したくなくて、千花はやはり抱えていることを言いだせない。歩きながら、喫茶店で昼食をとりながら、まずは詩絵と新の近況を聞いていた。

「出願はしたんだよね。七月に試験。その前に、六月中に教育実習があるから、礼陣には帰るよ」

「わあ、詩絵ちゃん、忙しいねえ……。でもこっち帰ってくるんだ」

「第一希望は礼陣で働くことだからね。もし試験に落ちても、臨時を狙う」

礼陣じゃなくても県内にはいたいなあ、と言う詩絵に、急に外国に行くかもしれないなんてことを言うのは躊躇われる。

「新は就活の手ごたえどう?」

「うまくいけば五月中に内定が出る。門市の会社なんだけど」

「門市なら通勤圏内だよね。自家用車オーケーなら車あったほうがいいよ。礼陣は列車逃すとタクシーしかない田舎だから」

新も当然礼陣に住むことを前提に活動している。春も礼陣中央地区や南原地区の企業に狙いを定めているので、最終的に全員の希望が叶えば、また礼陣に揃うことになる。

「千花はラジオ局の、どうなってるの? 一次通ってるんでしょ?」

「ええと実はその、前に通過の報告した一次ってのは書類審査で……そのあとに一次面接があったんだけど、その結果が昨日来たんだよ。受かってた」

「順調じゃないの! おめでとう」

「でもまだ先は長いよ。実技もあるし、面接はうまくいけばあと二回。途中で講習もあるんだって。ずっと局には出入りさせてもらってたけど、こういう事情はちゃんと勉強するまで知らなかったよ」

「でも千花は期待されてるんだろ」

「期待されてるってわけじゃ……。面接で会ったけど、私よりきれいに話す人はいっぱいいたから、実技は本当に緊張してるの」

実技試験を受けるところまできた、と父に報告したら、納得してくれるだろうか。千花が礼陣に残ることを認めてくれるだろうか。それほど頑固な人ではないけれど、千花に甘いからこそ一緒にいたいという気持ちが強いこともわかっている。

笑顔を浮かべていたつもりだったけれど、ときどきうまくできていなかったのか、買い物の途中で春に声をかけられた。

「千花ちゃん、良いことあったのに元気ないみたい。もしかして海にいと何かあったりした? しめとこうか?」

「違うよ。……あのね、試験のこととか、お父さんに話してないの。時間がなくて。でも明日はお休みみたいだから、ちゃんと報告するよ。大丈夫」

「そう?」

大丈夫、は千花の口癖だ。だからこの言葉を使ってしまうと、逆に心配されることがある。春も気にしているようだったけれど、それ以上追究はしなかった。親友だからこそ、その加減をわかってくれている。そうして話題を明るい方へと変えてくれるのだ。

「あ、このワンピースとか千花ちゃんに似合いそうじゃない?」

「そうかな」

「あー、千花っぽい。試着してみなよ」

「女子の買い物ってホント長いな……」

「新、文句言わない!」

友人たちとも別れたくない。どこにいようと変わらないと、わかってはいるけれど。

礼陣に向かう列車の中で、春と新が親を説得する話を始めた。といっても、今日は素直に実家に帰りなさい、と春が言い聞かせているくらいなもので、詳細までは話していない。それを聞いていた詩絵が、千花に尋ねる。

「千花さ、海先輩のこと、まだお父さんに話してないの?」

「あ、それもこの休みのあいだに報告するつもりなの」

「ショック受けるかもね。愛娘に結構長いこと付き合ってる人がいたなんて、って。千花のお父さんは普段町にいないから、なおさら」

「どうかなあ」

予定は立てているのに、未来が見えない。当たり前のことが、今は不安だ。

 

翌日、父は家で仕事をしていた。会社が休みだからといって仕事をしないわけではないのは、今に始まったことではない。千花がコーヒーを淹れて持って行くと、やっと手を止めて、「ありがとう」と微笑んでくれた。

「休みなのにどこにも連れて行ってあげられなくて、すまないね」

「いいの。たまには家でのんびり……もしてられないね。忙しそうだもん」

「すぐ終わらせるよ。最近、千花の話をゆっくり聞いてあげられなかったから」

再婚について父が話したあの日以来、父もまた、千花が言いかけてやめてしまったことについて気にしてくれていたらしい。それに、千花の返事も聞きたいだろう。

完全ではないけれど、言いたいことは準備してある。万が一の反論だって。もう千花は、成人した大人なのだ。自分もコーヒーを飲みながら課題や一般教養の勉強をして、父の仕事が一段落するのを待つ。

正午を過ぎた頃、昼食の準備をするために台所へ行こうとしたとき、やっと父はノートパソコンを閉じて、長く息を吐いた。

「お疲れさま」

「終わった終わった。そろそろお昼かな、どこかに食べに行こうか?」

「私が作るよ。たいしたものじゃないけど」

料理をするのも、昔よりは随分ましになった。食材を無駄にすることはなくなったし、難しくなければレシピに沿ってそれなりのものを作ることができる。不器用は不器用なりに工夫すればいいのだと開き直って、出来合いのものにちょっと手を加えるだけのメニューを覚えた。だいたいは海や春の助言があってこそだ。

トーストを割ってサラダやコロッケなどを挟んだサンドイッチは、見た目はよくできるようになっていた。サラダは残りものだし、コロッケは商店街の総菜屋で買ったものなので、千花はあまり動いていない。それでも父は「すごい」と喜び、褒めてくれた。

「千花はいつのまにか色々なことができるようになっているね」

「そんなにたくさんは……。それにほら、コロッケとか、買ってきたものだし」

「いや、一人でよく頑張ってる。……来年からは、寂しい思いはさせないよ」

来年。そうだ、その話をしなければ。まだ食事の途中だったけれど、千花は傍らに寄せておいた課題やテキストの間から、封筒を取り出した。

「それは?」

「……ラジオ局の、サークルでお世話になってるところの、一次面接通過の通知と実技試験の案内。私、来年からここで働きたくて、採用試験を受けてるの」

父は一瞬だけ瞠目してから、「そういえばラジオ……」と呟いた。千花の手から封筒を受け取り、中身を確認する。それから。

「一年生のときから、やっていたんだったね。僕はなかなかリアルタイムで聴く機会がなかったけれど、千花がどれだけ人気があって、どんなに楽しそうに番組を作っているか、それくらいの想像はできたよ」

千花が大好きな笑顔で、ふわりと笑った。血は繋がっていないけれど、知らない人が見れば「やっぱり親子だね、似てるね」と言ってくれる笑顔だ。困っているような様子はない。

「やっぱり、この道に進みたい? メディア関係は大変だよ」

「大変じゃない仕事なんてないよ、きっと。それもまだ選考途中だし、これからどうなるかわからない。でも私、どうなってもこの町に残りたいの。……お父さんと一緒なら行きたくない場所なんてないし、再婚することもお父さんが幸せならそれでいいって思ってるけど……」

父のことは好きだ。母が亡くなっても、千花を大切に育ててくれた。毎年の海外旅行だって楽しみだった。けれども千花は、もう自分で自分の道を選べる。本当に行きたい道が見えている。

「話すのが遅くなってごめんなさい。私、やっぱり、この町にいたいです。ラジオだって、放送局は門市だけど、この辺りの人に聴いてほしくて、みんなの話を聴きたくて、続けてきたの。そしてこれからも続けていきたい」

まっすぐに父を見て言うことができた。目の前の父は頷いて、封筒を戻し、千花にそっと返した。

「何があっても、そう思うかい?」

「うん、揺るがない。それにね、私、一人じゃないから。頑張れたのは、大切な人たちのおかげなの。この町に残っても大丈夫だよ」

心配しないで、と笑ってみせると、父は苦笑した。それはどういう意味の表情なのだろう。娘が手を離れていくことへの寂しさなのか、やっぱりもう父は必要ないと誤解されてしまったのか。はかりかねていると、父が再び口を開いた。

「これは人から聞いた話なんだけど。千花は今、お付き合いしている人がいるのかな」

これから話そうと思っていたことを、先に言われる。この町で噂になるのは仕方がないことなので、知っていてもおかしくはないけれど、どきりとした。

「あ……うん、そうなの。内緒にしてたわけじゃないんだけど。四年とちょっと、お付き合いさせてもらってる人がいるの。その人のことも話そうと思って」

「……そうか」

父から笑みが消えた。もっと早く報告すべきだっただろうか、後回しにしてしまったことで、かえってショックを与えてしまったかもしれない。優しい父だけれど、こんなときはベタに「そんなことは許さない」なんて言うのだろうか。千花が次の言葉を考えていると、父は無表情でその名を告げた。

「進道海君、だね」

「……なんだ、お父さん、名前まで知ってたの」

「知ってるよ。僕も千花には何も話していなかった。……もっと早く、この話をしておくべきだったね」

――四年より前に。その言葉に訊き返すより早く、父は継ぐ。

「この町に残るのなら、彼とは別れなさい。それが難しいなら、僕と一緒においで」

意味が理解できなかった。解っても、父はこんなことを言うような人じゃない。どうして、の声も出ないほど喉が渇いている千花に、「ちゃんと説明しようね」と話が続く。

それはあまりにも奇跡的で、けれどもあまりにも残酷すぎた。四年前どころじゃない、その始まりは、もう二十二年も前まで遡るものだった。

揺るがないと、さっき宣言したばかりなのに、千花の心は酷く乱されて、大切に溜めてきた中身がこぼれてしまいそうな感じがした。

「……すまなかった」

父が千花に気を遣ってこうなったのをわかるだけに、何も返事ができない。けれども千花は、もう一度同じ話を聴かなければならないのだ。海が帰って来る、連休の後半に。

 

 

平日を一日挟んで、連休の後半が始まった。朝一番の列車に乗っても、海の住む場所から故郷までは、結構な時間がかかる。原因は礼陣へ向かう列車だ。途中で乗り換えるそれは鈍行で、本数も少ない。夏祭りには臨時列車が出たり送迎バスが出たりするのだが、平常時はそうもいかないのだった。

同級生との連絡は問題なく取れている。明日の夜に仲間内で集まって、食事をすることになっていた。今日は家に帰り、それから父と話をすることになっている。

連休の前から、父には話したいことがあると言い置いていた。それが四月末日、「話は帰ってきてすぐにしなさい」と連絡があったのだ。何の話なのか、父には想像がついているのだろうか。それとも他の日は忙しくて、都合がつかないのだろうか。その疑問も、海は深く考えずに流してしまった。

忙しいといえば千花もだ。なぜか一向に連絡がつかなくなってしまった。春に理由を訊いても、「そりゃあ就活中の学生だもの、忙しいに決まってるじゃない」とあしらわれる。それにしても全く反応がないのは気になるというものだ。何か気に障ることでもしてしまっただろうか。いや、たとえやらかしていたとしても、千花なら無視することはないだろう。こんなことは初めてだ。

列車に乗って県を越え、大城市に。大城市から門市に。門市からは在来線で、ゆっくりと礼陣へ。道中も千花にメッセージを送ってみたが、何の返事もなかった。

「……こういうしつこいのも、嫌いだったのにな。昔は」

千花を好きになるより前、女性が苦手だった頃の自分は、もっとしっかりしていた気がする。今でも女性は基本的に苦手だが、態度はいくらか軟化した。許せるものと許せないものの境界が曖昧になった。そのほうが良いと言う人もいるけれど、海自身は、今の自分は恰好悪いのではないかとときどき思う。

かつては先輩たちの凛々しさや硬派さに憧れたものだが、それはどこにいってしまったのだ。

「まあでも、その先輩たちも……」

スマートフォンで、メッセージアプリのタイムラインを遡ってみる。高校まで剣道で目標にしていた者はとうに竹刀を置き、幼馴染と世界を飛び回りながらライターをしている。中学からの付き合いで、縁あって兄弟とも称された者は、先月子供が産まれたそうで、写真がよくまわってくる。――人なんて、変わってしまうものなのかもしれない。それとも海が相手を見る目が変わったのか。

考え事をしていたら、お馴染みのアナウンスが流れてきた。――まもなく、礼陣です。

駅に降り立つと、懐かしい匂いがして、懐かしい光景が広がった。新緑の山に囲まれた田舎の町に、人間と、犬と猫と鳥と、それから鬼。鬼はこの町にいるものではあるが、本来人間の目には見えないものだ。見える者でも普通は大人になれば見えなくなる。だが海は、何度故郷に帰ってきても、何年経っても、鬼をその目にはっきりと映していた。

正直にいって、嫌になる。鬼が嫌いなわけではない。自分の持つ性質が嫌なのだ。誰よりも恨んだ元人間、現呪い鬼――自分を産んだ女と、同じ性質だ。もっともあの女は高校を出てすぐに町を出ていったし、若いうちに人間としては死んだから、いつまで鬼を見られたのか、本当のところはわからない。

「……ただいま」

躊躇いながらも声をかければ、向こうから『おかえり』『海が帰ってきた』『待ってたぞ』と返事がある。声もまだ聞けるのだ。

人間と鬼の両方から「久しぶり」「元気そうだな」と声をかけられ、それに応えながら歩いていたら、遠川地区の実家、進道邸の前に来ていた。住んでいた頃は思わなかったのに、一度離れて休みに帰って来るようになってからは、この家は大きすぎるようだ。こんなところに一人で住んで、父は寂しくはないだろうか。……いや、道場を開けば賑やかになるから、きっと大丈夫なんだろう。

門前で物思いに耽る儀式を終えて、玄関へ向かい、戸を開ける。鬼たちがさあっとはけていくのが気配でわかった。

姿勢を正し、「ただいま帰りました」と声をあげてから、三和土の靴が多いことに気がついた。父が愛用している下駄の他に、使い込まれた渋い鼻緒の下駄、高級そうな革靴、可愛らしいパンプス。――なぜ女性ものが、しかも見覚えのあるものが、ここに。

「おかえりなさい」

訝しんでいると、父が現れた。よそに行くときに着るような着物姿で、真面目な顔をして立っている。いつもなら笑顔で迎えてくれるのに。

「……お客さんですか?」

「大事な人だよ。海が帰ってきたら真っ先にしなきゃいけない話があっただろう」

それはそうだが、先んじて当人が来ているとは思わなかった。それならそうと連絡してくれればいいのに、向こうからは何の音沙汰もなかったのだ。何が起こっているのかわからない。

「あがりなさい。部屋に荷物を置いて、すぐに居間へ。みなさん、待っているからね」

「……はい」

この緊迫感は何だ。海が話したかったのは、もっと明るいことのはずなのに。鬼たちに確認しようにも、今この家にはあの呪い鬼以外いないようだ。玄関を開けるなりはけていったのも、いまさらながら気になた。

父の言う通りに自室に荷物を置き、土産を持って居間に行くと、思った通りの人たちがいた。

使い込んだ下駄の持ち主、幼い頃から世話になっている須藤翁。見覚えのあるパンプスは、やはりここ最近連絡が取れなかった千花のもの。そしておそらく革靴を履いていたであろうその人は、写真で見せてもらったことのある、千花の父親だった。

海が膝をついて「いらっしゃいませ」と言うと、千花の父親も深く頭を下げた。

「はじめまして。千花の父です」

「……はじめまして」

ちらりと見た千花も、頭を下げていたが、表情がわずかに覗いた。顔色が悪く、少しの笑顔もない。こんな千花を見たのは、いつ以来だろう。

堪え切れずに、その場で質問をぶつけた。

「あの、父さんは俺の話したいと言った内容をわかっているようですけど。急にこんな大掛かりなことになったのはどうしてですか? それに須藤のじいちゃんまで……何か関係が? 靴はなかったけど、春もいたりします?」

「海、まずは席につきなさい。それから順番に話すから」

父に窘められ、一層疑問が濃くなる。話をするのは海のほうだったはずだ。なのに、向こうから話があることになっている。異様な状況の中、慣れてしまった丁寧な所作で移動し、空いていた須藤翁の横に座った。千花の真向かいだ。だが千花は、こちらを見ようとしなかった。俯いたまま、唇を結んでいる。

「春は庭に控えている。この場に居合わせるのは、千花ちゃんにとって酷だったからな。だがあれも須藤の子だ、万が一に備えなくてはならん」

「じいちゃん、言っている意味がわかりません。万が一って何ですか。千花にとって酷って、いったい何の話ですか」

せっかく持ってきた土産だが、この場で出せるような雰囲気ではない。父に目をやると、眉を顰めて座卓を見つめていた。――夏の、鬼封じのときに、父はこういう顔をする。嫌な感覚が一気に湧き上がってきた。

「俺が話をしたかったのは、ここにいる園邑千花さんと交際をしていると、それだけのことですよ。そりゃ、今まで父さんにも打ち明けていなかったのは悪かったと思いますけど。それがなんでこんなに物々しいことになっているのか理解できません!」

とうとう早口でまくしたてる。だが、父は、そして須藤翁と千花の父親も、少しも驚かなかった。千花などはさらに俯いてしまって、もうどんな顔をしているのかわからない。

静かさを破ったのは、意を決したような、父の声だった。

「海、“それだけのこと”じゃないんだよ。千花さんと君とは、本来そういう関わりを持てないはずだったんだ」

びくりと、千花の肩が震えた。海の喉から、「どうして」と、かすれた声が出た。

「どうしてそういうこと言うんですか。俺たちが付き合っちゃいけない理由なんかあるんですか。関わりを持てないって……」

「海、一旦黙れ。……なあ、はじめよ。最初に気がついたのはこの俺だ。ここは一つ、俺に話をさせちゃあくれないか」

須藤翁が重みのある低音で言うと、父は唇を噛んで頷いた。それで預かった、とでもいうように、須藤翁は海を見て話し始めた。

「お前は葵ちゃんの子だな、海」

よりによって、あの女の名前から。

「違う」

吐き捨てるように否定するが、それでもかまわん、と須藤翁は続けた。

「お前が認めても認めなくても、事実だからな。海は葵ちゃんが産んで、この家に預けた子だ。そうしてまた出ていった葵ちゃんは、だが、もう一度礼陣に戻ってくる途中で亡くなった」

「それで最悪の呪い鬼になりやがりましたよね。でも関係ないでしょう、そんなの」

「どうして葵ちゃんがもう一度ここに来ようとしたと思う? ……また同じことを繰り返そうとしたからさ」

同じこと? 何と? 怪訝に思う海に告げたのは、おそらくこのことが他の者の口から語られることに堪えられなくなった、父だった。

「葵は二人目の子供を産んでいた。たぶんうちに預けに来る途中で事故に遭ったんじゃないかと、僕らは推測していた。ただ、その形跡はあったのだけれど、事故現場の周辺で見つかったのは赤ん坊を寝かせておく籠だけで、子供は見つからなかったんだよ。……当時は」

「だからそれが、何の関係が」

「子供が消えたのは、鬼が助けたからなんです」

半ば怒鳴りかけた海を遮ったのは、落ち着いた声だった。千花の父親だ。彼を見ようとすると、千花も目に入ってしまう。

「二十二年前の、五月二十六日でした。礼陣には珍しく大雨が降っていました。私と妻は病院にいて、家に帰ろうと外に出たところでした。そこへ子供の姿をした鬼がやってきたんです。産まれたばかりだと思われる、赤ん坊を抱えて」

ぽたり、と。千花の髪の間から、雫が落ちたのが見えた。須藤翁と、父と、そして千花の父親の話が続いているものならば、導かれる結論は一つだ。

葵が死んだのは二十二年前の五月二十六日。千花の誕生日は二十二年前の五月二十六日。

「私たちは鬼から子供を引き取りました。そうして、妻が死んでからも、私はこの子に自分の娘として接してきました」

千花の父親が、彼女と血が繋がっていないことは知っている。じゃあ誰が本当の親か、なんてことは考えなかった。その必要はないと思っていたからだ。けれども、そこではっきりさせておくべきだったのだ。

「私は最初、須藤さんにこの話を打ち明けました。すると須藤さんが、心当たりがあると、進道さんを紹介してくれたんです。話をすり合わせて、おそらく間違いないだろうということに」

そうしたら、こんな間違いは起きなかったのに。

「千花は、海君の血縁です」

「君たちは、少なくとも葵と同じ血を分けた、兄妹なんだよ」

吐き気がした。千花の微かな嗚咽が、座卓一つしか隔てていないのに随分と遠くに聞こえた。何に吐き気を覚えたのか、細かくはわからない。憎い女の血を引く女が存在していたこと、その子と知らずに出会ってしまったこと、よりによって恋なんかして、関係を持って、挙句――。

「海!」

それから先は、もう考えたくなかった。

 

気がつけば、自室の布団の上にいた。本当に吐いたところまでは憶えているが、それからどうやってここまで来たのかはわからない。ただ、傍らでタオルを絞っていた春を見て、須藤翁の言っていた「万が一」とはこのことか、とは思った。

「あ、気付いたね、海にい」

「……ごめん、どこからが夢で現実なのかわからないんだけど」

「そうだよね。まあ、少なくとも今は現実」

春は口元だけで笑っていた。その目が、全て現実だと語っている。吐いた原因も、全て本当にあったことなのだろう。――それなら千花は、どうしたのだろうか。

「春、お客は」

「みんな帰った。……正直、私に何ができるのかはわからないけど、千花ちゃんのことはしばらく任せてくれないかな。連休中は、たぶんもう会えない」

春も一連の話は知っているのだ。進道家と繋がりのある、須藤家の娘として。そして、千花の友人として。いつ知ったのかは、わからないが。

「私たちにも言わなかったんだよ、千花ちゃんは。海にいより先に知ったのに、今日まで時間があったはずなのに、抱え込んでた。そりゃ、そうだよね。私たち、親友だけど、結局は体も心も別物の他人だもの。あんなこと、誰に相談できるっていうの」

私が知ることになったのも、おじいちゃんが関わってるってだけの理由だから。春はそう言って、自嘲を浮かべた。

「……そっか、俺に落ち着いて状況説明できるように、教えられたんだな。そのために控えてたんだろ」

「控えてたのは、また別の理由だよ。……海にい、まだ鬼が見えるでしょ。感情が鬼に影響しちゃう性質も、変わってないらしいんだよね。私が控えてたのは、海にいの影響を受けて鬼封じが解けてしまったときのため。おじいちゃんがあの場を離れられなかったら、封じの籠を渡すのは私しかいないじゃない。外に神主さんや、愛さん、それから鬼追いをしてる子もいたんだよ」

「なんだ、呪い鬼対策か。……俺の所為で、そうなったときの」

「海にいだけじゃない。千花ちゃんも同じ性質だから、実は結構危なかった」

これも葵から受け継いでしまった性質だ。自分も、千花も、同じものを持っている。そう考えるとまた吐き気がこみ上げてきた。気づいた春が洗面器を寄越して、背中を擦ってくれた。

「ごめん、話しすぎたね」

「いや、いい……事実は受け入れなきゃいけないんだろ」

どうしたって、変わるものではないのだから。だが、大人たちは、気付いた時点でどうにかできたはずだ。葵の子供が海だけではないと、その子が同じ町にいて、春の友人なのだと、どうしてすぐに教えてくれなかったのか。そうしたら、好きになんか――。

「もっと早く知っていれば、って思う? 私もそれ、おじいちゃんに問い詰めたよ。……答え聞いたら、納得しちゃったけど。早く知ってたら、海にい、千花ちゃんのことあからさまに避けるようになってただろうって。ある程度仲が良いまま、秘密にしておくのが無難なんじゃないかって、最初はそう思ったらしいよ。これ聞いたら怒ると思うけど、おじいちゃんたちがこの情報を共有するようになったのって、私がまだ中三のときだし」

「それって……七年前?!」

そのときなら、まだ千花と知り合ってもいなかった。半端に仲良くなるくらいなら、そのときに教えてくれればよかったのに。怒りをにじませた海に、春は「ほら怒った」と言った。

「私はすでに千花ちゃんと仲良しだったわけだし、友達と兄貴分がぎすぎすしてるのって嫌だもの。千花ちゃんだって、嫌われるのはしんどいだろうし。……まあ、結局おじいちゃんたちも、タイミングを逃しちゃったんだけど。そこは向こうも責められても仕方ないって思ってるよ」

気がつけば、二人が思った以上に惹かれ合っていた。機会を逃しすぎて、とうとう取り返しのつかないところまで来てしまった。それでこんな事態になったのだろう。

千花を好きにならなければ、海は女性を拒み続けていた。だったらそれより前に血の繋がった妹がいるなんてことを知ったら、大人たちが危惧していたように、海は葵だけではなく千花も憎んでしまっていたかもしれない。自分がそういう人間だということは、自分で一番よくわかっている。

結局、海がもっと早く大人になれば、よりシンプルに済んだ話だった。千花と恋仲になることもなく、傷つけることもなく、春の友達として適度な距離を保てたはずだ。

「……自分がもっと大人なら、なんて土台無理なこと、考えないでね」

「なんでわかったんだよ」

「妹分だから」

妹分なら良かった。葵と関係がなくて、自分を女の目で見ない子なら、平気だった。春は生まれたときからの付き合いだったから、より良かった。でも、千花は。

「海にい、これで千花ちゃんのこと嫌いになる?」

嫌いにはならないだろう。今更、なれないだろう。でも、どう接していいのかわからなくなった。いつか千花が泣いていたところを、先に抱きしめたのは海だった。今度はどうすれば。

「嫌いなのは、自分だ。千花じゃない」

「そう言うと思った。……しばらくは、海にいにも考える時間が必要だよ。連休が終わったら、夏までは会えないだろうから、ゆっくり考えて。でも考えた結果として生きるのをやめるっていうのはなしだからね。それが一番、千花ちゃんや周りの人を傷つけることになるから」

一番傷ついた人に酷な話だけどね、と付け足して、春は部屋を出ていった。使用済みのタオルが入った籠を抱えていったから、すぐに戻るだろう。

「……どうしたら」

何より重くつらい宿題ができてしまった。期限は夏だ。それはきっと、千花も同じことだ。

彼女は、どんな答えを出すのだろう。

 

 

しばらくは、彼は何に対して吐いてしまったのだろう、と考えた。千花のことが気持ち悪くなったのなら、それはそれで仕方ない、もう海からは離れた方がいいだろう。それが互いのためだ。

次に、このことが今後の自分の動きに影響するかどうかを考えた。ダメージは大きいが、それは自分の希望とは別のこと、と割り切ってしまえば問題ないと思えた。海のことを抜きにしてでも、この町に住んで仕事をして生きていきたいという気持ちは変わらなかった。彼の目障りになるのなら、門市に引っ越してもいいかもしれない。とにかく、父と一緒に外国へ、という選択は千花の中にはない。それを逃げ場にするのは嫌だ。

だから千花は、進道家に行った翌日には、父に宣言し直していた。一人でもここに残って、ラジオの仕事がしたいのだと。父は、それを認めてくれた。もしかしたら、海とは別れるものと思って、安心していたのかもしれない。こうして千花自身は、すっかり落ち着きを取り戻しているわけだし。

薄情者、と心の中で詰る。もちろん、自分自身をだ。他に誰がいるというのだ、みんな情で動いていたというのに。

ただ、どんなに薄情でも、海との関係をどうするかということについては、彼に対して明確な答えを示さなければいけないだろう。吐いた、ということが彼の答えだと受け取ってしまうのは尚早な気がする。あの状況で、あの場面で、冷静でいられるわけがないのだ。

それに、たぶんまだ千花には、希望がある。本当のことを知っても、海は自分のことを好きでいてくれるんじゃないかという、淡い希望が。そうだったらいいのに、程度のものだ。期待しすぎてはいけない。恋人はもう無理でも、たとえば春と同じように、妹分の一人になるくらいはできないだろうか。――実の妹であるから、ちょっと難しいかもしれない。

好きでいてもらえる可能性を考えるくらいには、千花はまだ海のことが好きだ。はっきりいって恋愛感情がある。本当は兄妹だったからといって、そう簡単には捨てられないくらい、これまで彼のことを恋人として愛してきた。

「……未練、だなあ」

諦められない。拒否されても、これ以上の想いはもう二度と持てないだろう。まだ若いのに、と誰かが言ったとしても、千花がそう思うのだから現在はそうなのだ。

それ以上は、今は考えられない。千花が思っている以上に、心は疲弊している。また考える余裕ができるようになるまで、割り切ったことにしておいて、休みたかった。他のもので心を満たすことで、安心したかった。

 

 

自棄になって飲みすぎ、もともと泊めるつもりだった連と、連一人では支えきれないからという理由でついてきた黒哉に、家まで連れてこられた。サトも玄関先まではついてきてくれた。

予定通りに行なった同級生飲みで、海は至って平気なふりをしようとした。そもそも酒には強いという自負があったし、いつも通りに行動できているだろうと自分では思っていたのだ。だが、実際はまったく駄目だった。

というわけで、二日連続で嘔吐し、喉と胃が痛い。自室ではなく広い客間に布団を敷いて、連と黒哉に心配されながら就寝することになった。黒哉まで泊めるつもりはなかったのだが、父が「いてやってくれますか」と引き留めた。

「何かあったのか」

シャワーを浴びてきてから横になっていると、連の声が降ってくる。泊まる二人に風呂を譲ったはずだが、連だけ先に戻ってきたらしい。

「変に明るく振る舞ってて、おかしいと思ってたんだが」

「そういうふうに見えました?」

「そうだっただろう」

さすがは七年来の友人だ。こちらのことをよくわかっている。……ああ、これも七年なのか、と思うとつい溜息が漏れた。

「あったといえばあったんですけど、連さんに言うにはちょっと……」

「俺じゃ頼りないか」

「そうじゃなくて、……未だに連さんには、俺の汚いところはあまり見せたくないんですよね。見栄を張りたいというか」

「そういうところは高校時代から変わってないな」

あまりに劇的に認識を変えられたものだから、連の「変わってない」にはホッとした。泣きそうなくらいだったが、部屋に黒哉が入ってきたので堪えた。

「風呂どうも。……で、何をいじけてんだ、海」

入ってくるなりこれだ。遠慮というものが、海に対してはまるでない。だからこそ海も、黒哉には遠慮せずに気持ちをぶつけられるのだが。

「うるさい。お前に彼女が妹だったことを知らされる気持ちがわかるか」

「意味わかんねーんだけど」

「わかんないも何も、そのまんまだよ」

全員布団に入って、電気を消す。三人とも夜目は利く。学生時代のように(海はまだ学生だが)とりとめのない話が始まった。酔っているせいもあって、海は黒哉相手に、前日にあったことを全てぶちまけた。連はそのあいだ、わざと寝たふりをしてくれている。起きているのはわかっているけれど。

「……そんな話、マジであるのか?」

「あったんだよ。俺と千花は血が繋がってんの。それもこの世で一番忌むべき血でな」

「まあたしかにそれは衝撃だったな。オレにはわかんねーや」

実際、黒哉や連がどの程度衝撃を受けているのかはわからない。海は酔っているし、二人はそもそもの反応が薄いタイプだ。だが、的確な言葉はくれる。

「でも、はじめ先生の妹なんだろ、お前らの母親って」

「母親って思いたくない」

「そこは今置いとけ。……それならはじめ先生にだって同じ血が流れてるぞ。忌むべき、なんて言っていいのか」

思わぬところから言葉を射られた。ちょっと酔いが醒める。――たしかに不適切な表現だった。海は、育ててくれた父のことは尊敬しているのだから。

「……そうなんだよな。俺はあの人のこと嫌いだけど、父さんにとっては妹なんだった。じゃあ、そこだけ訂正」

とはいえ、事実が覆るわけではない。どんな血であろうと、自分と千花に流れるそれが同じなのだということには変わらない。

「本当に血が繋がっているのか、検証したわけじゃないんだろう。その……事故の日と園邑が保護された日が同じっていうのは、ただの偶然ってことはないのか」

寝たふりをしていたはずの連が問う。もちろん偶然ということも考えた。というより、普通は簡単に繋げて考えるようなことはしないだろう。だが、この町はよそと常識が違うのだ。鬼が関わっているといえば、むしろ真実味が増してしまう。礼陣の生まれではなく、鬼が見えることもない連には、想像するのは難しいだろうが。

「偶然かどうか、それこそ鬼に訊けばわかるんじゃねーの? まだ見えるんだろ、海には」

そして黒哉の言う通り、真相を知っているのが鬼ならば、直接問い質せばはっきりする。だが、海にはこれまで鬼たちが口を噤んでいたことこそが、答えであったように思えてならない。大人たちの出した結論と同じ答えを、鬼たちが共有していたのかもしれない。

「当事者に話を聞くことも、できないわけじゃない。でもそれで、本当に兄妹だって言われてしまったら、俺はどうしたらいいんだよ。今更、兄になれって、千花を妹として扱えって言われても無理だ。手を出しておいて、そんなことできるわけない」

その答えは誰にも出せない。海と千花でなければ、決めることができない。あるいは、どちらかがどちらかの決定に従うしか。

「すいません、連さん。酷い話を聞かせてしまいました。黒哉もさっさと寝ろ」

布団を頭からかぶって、話を打ち切る。これ以上話せることはないし、話したくもなかった。

海がほとんど眠れなかったのを知ってか知らずか、連と黒哉は翌日の昼前には帰宅した。どうせ夕方までには、海も独り暮らしの部屋へ戻る。この町を出ていく。また、千花と離れる。

 

実家を出る支度をしてから、向かったのは父のいる居間ではなく、母屋と道場を繋げている廊下だった。片方は庭に面し、もう片方には部屋が並んでいる。そのうちの一つの前で、海は足を止めた。

普段はけっして開かれない襖の向こうには、この家で封じている呪い鬼がいる。かつて人間であり、町と人とを呪った、最悪と呼ばれるものが。――その名を葵という。海を産んで捨て、おそらくは千花もそうしようとした、当事者だ。

直接話ができるのは海だけだ。こんなことになった正しい経緯を知れる人間は、他にいない。避けて通ることもできるが、それはやめようという結論に至った。

連の言葉がきっかけだ。彼にはこの町の内側のことはわからないだろうと思っていたが、外側から冷静に見れば、誰も彼も憶測でしか話をしていない。それを真実だと信じ切っている。この町の「常識」こそが非常識なのだということを、つい忘れてしまっていた。

知ることができるなら、その方法があるなら、自分にしか成せないというなら、今のうちに正面から向き合っておこう。考えるのはそれからだ。

襖に手をかける。それだけで嫌な感じがする。いつかはこの感覚も忘れられるだろうと思っていたのに、いつまでたってもその日は来なかった。

それは今日のためだったのかもしれない。

『海』

部屋を開ける前に、よく知っている声がした。振り向けば、幼い頃から全く姿かたちの変わらない少女がいる。おかっぱ頭には二本のつの、瞳は赤く、着物は白い。子鬼と呼んでいたそれが、庭にいた。

「……そうだ、お前にも話があるんだ」

だからやってきたのだろう。海が自分から真実を知ろうとするのを見計らって、教えに来たのだろう。

「お前も当事者だよな、子鬼」

問えば、首肯が返ってくる。千花の親に赤ん坊を手渡せるほどの鬼は、他にいないと思っていた。普通の人間の前に姿を現して、赤ん坊を助けるなんてことができるのは、よほど力の強い鬼だ。当時存在していて、それが可能だったのは、海が知る限りでは大鬼とこの子鬼しかいない。

『葵と話をするか、私が全てを話すか、どちらか一方を選ぶこともできるぞ』

「同じ話をしてくれるとは思えないから、両方聞く」

『……そうか』

まずは子鬼の語る真実を聞くことにした。今のうちでなければ、きっと冷静に聞けないから。

『葵が人間として死ぬとき、傍にいたのは私だった。葵を喰わなければと思ったからだ』

子供を粗末にする悪人は、鬼に喰われる。子鬼はそれを実行しに行ったのだという。だが、その先で待っていたのは、問いだった。

――これで最後だろうから、あなたを試してあげる。車の中には、子供がいるわ。今朝早くに、生まれたばかりの、赤ん坊……。また、私が、捨てようとした、赤ん坊。礼陣の鬼は、どちらを選ぶの? 私を喰らうか、子供を救うか。……選んでみせてよ。

葵を喰っていれば、そのあいだにも子供は死に近づく。子供を救えば、葵の魂は呪いを持つだろう。迷った子鬼が選んだのは、子供の命を救うことだった。

『私は子供を雨から守り、病院にいた夫婦に預けた。……子供は助かり、その夫婦に引き取られることになった』

「それが千花、か」

別々に考えることもできたはずの事象は、これで繋がってしまった。千花は紛れもなく葵の子であり、海の妹だった。

「俺に話せば、千花を憎むと思ったか」

『思った。海に話すのは危険だと判断した』

「じゃあ、せめて千花には教えてやれば良かったじゃないか。俺たちが出会った頃、千花はまだお前が見えた」

『それは千花に、父親と血の繋がりがないことを教えることにもなる。できなかった』

人間も、人間より力を持っているはずの鬼も、どうして器用に立ち回れなかったのだろう。機会を逃して、間違えて。――昨日までなら子鬼を責めていたかもしれないが、今の海にそんな気は起きなかった。

『海にも千花にも、つらい思いをさせた。私たちが悪かったのだ。子供を守るなどと言っておきながら、何の役にも立たなかったし、むしろ害をなした』

「うん。でも、千花を救ったのは正しかったよ。それを聞いて、変に安心した」

海が呪い鬼に苦しんできたことは、無意味ではなかったのだ。苦しむことが良いことだとまでは言わなくても、千花が生きることとひきかえだったのなら、仕方ない。あまりに簡単に、そう思えてしまった。

「じゃあ、葵鬼と話をする。たぶんろくに話なんかできないだろうけど。……何かあったら神主さんに伝えるなりしてくれればいい」

先日は呪い鬼対策がとられていたようだが、今日は違う。子鬼が呼ぶ前に来てくれてよかった。葵鬼の封印が解けても、子鬼が走り回ってなんとかしてくれる。してくれなければ困る。

『わかっている』

子鬼の返事を聞いて、海は襖を開けた。

 

葵鬼は封印によって、この部屋に留め置かれている。呪い鬼は本来なら神主もとい大鬼に呪いを祓われるのだが、葵鬼の呪いは祓うには強すぎるために、二十二年のあいだずっと進道家で力を抑えるだけの処置が施されてきた。

かつて幾度、葵鬼を倒そうとしたことか。そのたびに逆に殺されかけたが、なんとか助けてもらって生きている。

今回は倒そうとは思っていない。しかしだからといって、葵鬼が海に危害を加えないということもない。

『また殺されに来たの?』

封印に使っている籠に寄り掛かる、若い女性の姿の鬼。いつもならば力を黒煙のようなかたちにして部屋に充満させているのに、今はそれをしていなかった。

「殺されるつもりは今回もない。そっちもやけに寛いでるように見えるけど」

『私が手を下すまでもなさそうだから、余裕を見せてあげてるのよ』

葵鬼の、死んだときの年齢のまま変わっていないであろう顔が、よく見える。父にも自分にも似ているが、今は千花の面影があるように感じる。一瞬怯むと、葵鬼は愉快そうに笑った。

『どう? あの子と見た目の歳に差はないわよ。似ているかしら』

「……似てない」

『嘘ばっかり。せっかくよく見えるようにしてあげてるんだから、わかるでしょう』

この部屋にいながらでも、葵鬼には外の様子がわかっている。この家で何があったのか、町で何が起こっているのか、見通している。そうして得たものが、今回の彼女の武器らしい。

『声は似ているでしょう。ずっとそう思ってたわね』

「知らない」

『あの子と同じ姿になってあげてもいいのよ。そのほうが楽しくお喋りできるでしょう』

「いらない」

いっそ恨み言を吐いてくれればいいのに。千花に似た声で、今までにないような穏やかな話し方をするものだから、調子がおかしくなる。逃げ出したいのを堪えて、葵鬼を睨んでみたが、彼女の笑みが崩れることはなかった。

葵鬼は、海が動揺するのを楽しんでいる。この呪い鬼にも楽しめることがあったのかと、頭の中の冷静な部分で思った。だが、人をいたぶることに楽しみを見出しているという点では、やはり葵鬼は呪い鬼なのだった。

「そんなことはどうでもいい。ただ確認させてくれれば。お前はたしかに、千花を産んだのか?」

翻弄されないように問う。返ってきた答えは、はたして予想のできていたものだった。

『あんたが見ているものが全て。あんたが聞いたことが真実。否定してほしかった? あの子に手を出した罪悪感を拭い去りたかった? そんなことはさせないわよ』

この肯定が、この言い回しが、海にとってダメージになるとわかっていてそうする。それが結果的に海を殺すことになるのだと、この呪い鬼はわかっているのだ。――結局、何も変わっていない。葵鬼の目的は、ずっと「海を殺すこと」。いや、正確には。

『別にあの子と結ばれたいのなら、それでもかまわないでしょう。でもあんたたちは全く同じ血が流れているのだから、子孫を残すにはリスクがある。私はね、この家が途絶えさえすればそれでいいの』

深く恨んだ進道の家を、断絶させるために呪い鬼になった。死してこの家に戻ってきた。何度も海を殺そうとしたのは、海がこの家の末であるからだ。

『それにしても愉快だこと。恨み憎んだ女を思い出させるような女の子を、わざわざ選んで好きになるなんて。……少しでもそれを悔いたから、吐いたんでしょう?』

「……!」

言い返せない。葵鬼の言う通り、聞いたこと見たことが真実で、自分の一瞬の気持ちさえも見透かされてしまっているのだから。この鬼は、なんとも恐ろしく、おぞましい。だがおぞましいのは自分自身も同じなのだ。

今まで認めてこなかった。ずっと否定してきた。でも、今回ばかりは……いや、今回からは。

「……その通りだよ。なんでよりによってお前の子なんだ、って思った。だけど俺が千花を好きになったのは、お前に似てるからじゃない」

葵鬼の言うことは間違っていない。彼女がこの家を、町を、恨むのもきっと仕方のないことがあった。この町に囚われてしまったからこそ、彼女の人生は奪われたのかもしれない。

けれどもそのことと、海が千花に抱く気持ちには、何の関わりもない。

「千花が千花だから、好きになった。もう今更、兄妹だからって変えられない」

結末は呪われているかもしれない。葵鬼の目論み通りに、この家は滅びるのかもしれない。それでも捨てられない思いだと、たった今、海自身が確かめた。これが罪でも悔いずに背負おうと決めた。

『ああ、そう。今は勝手にそう思っていればいいわ。そうしていつか後悔して、自分自身を殺せばいい』

最悪の呪い鬼は目を細め、片手を軽く振った。途端に、部屋に黒く濃い煙が充満する。それに弾き飛ばされるようにして、海の体は襖に背中から叩き付けられた。

『もっともその前に、あの子があんたに応えるかどうか』

煙の向こうから、笑い声が高く響く。これ以上話すことは何もないし、話をする必要もない。海は襖を後ろ手で開け、部屋を出てから素早く閉めた。

外では子鬼が、安堵の表情で待っていた。

 

 

メッセージアプリの、彼の画面に更新はない。ときおりグループ会話に入ってくるが、千花と直接話をすることはなかった。やりとりのないまま時間が過ぎて、気にならなかったといえば嘘になる。けれども、いったい何と話しかけるのがいいのかわからない。

そのまま、いつのまにやら、どこにいても自然に汗ばむような気温と湿気の季節になっていた。自分の誕生日にすら言葉を交わせないのか、と唇を噛んだ日も、もう随分と遠い過去のように感じる。

――当然だよね。私の誕生日は、彼にとっては呪いの始まりと同じだもの。

そうひとりごちたこともすぐに忘れなければならなかった。それどころではなかった。なにも千花の人生は、彼一色だったわけではない。彼を考えないでいられるための「他のこと」はたくさんあって、全部が大切だった。

だから、そう、忘れたわけではないし、忘れようとしたわけでもないのだ。

「千花ちゃん、今日もサークル?」

「うん。春ちゃんは卒業制作進めるの?」

「やらないとできない、できないと終わらない、だからね。ていうか、千花ちゃんこそ卒論大丈夫なの? 毎日忙しいでしょ」

「ちゃんとやってるよー」

春とは例の一件以降も、変わらず友達でいる。ただ、互いに彼や、あの話し合いについて持ちだすようなことはなかった。たぶん春のほうが気を遣っているのだろう。千花から切り出すまでは言わない、とか。別の話題はいくらでもあるということが、おそらくは気遣いの難易度を下げていた。

忙しいくらいが、誰にとってもちょうどいい。春は同じ芸術学部ではあるが専攻が全く違ったのも、もしかしたら都合が良かったのかもしれない。顔を合わせにくいということがさほどないのは、そもそも顔を合わせる時間が減ったからだ。

大切なことを逃げ道にしたくない、とは思ったけれど。実際「考えない」という選択をできるだけの道はたくさんあった。今でもそうだ。

「あ、千花先輩来た! 遅いですよー。新しい企画についていろいろ聞きたいことあるんですから」

「ごめんね。でも私の意見は本当に参考までにしないと、この後大変だよ」

サークルでは通常の放送の準備と並行して、秋以降の新しい企画を作っている。千花たち四年が引退した後に開始されるものだ。残る人もいるのかもしれないけれど、少なくとも千花はもう直接の関わりは持たなくなる。

後輩たちはきっとうまくやってくれる。そのうちこれも、千花が考えなくてはいけないものではなくなっていく。その代の上手なやり方というものがあって、だんだんとこちらが口を出すべきではない領域ができていくのだ。すると千花の「考えない」ための行動の選択肢は、一つ減ることになる。だがそれは必然。後輩たち含むサークル仲間は千花とは別個の人間であり、こちらの事情には何の関係もない。

「企画だけじゃないんです。ほら、千花先輩がパーソナリティーやる週以外にも、恋愛相談は多いんですよ?」

もちろんサークル仲間だけではなく、ラジオを聴いてくれる優しいリスナーたちにも関係がない。相変わらず千花に恋愛相談をしたがる人々はいて、こちらの言葉を求めてくれている。だから平気な声で、自分の心をリスナーに近づけようとして、これまでと同じように応じてきた。うまくいっているのだろう、メッセージが減ったり、千花の様子がおかしいという声があがったりすることはない。

大丈夫だ、ちゃんとやれる。そんな自信がついてかえって良かったのだと思うことにした。

「それは私だけに送られてくるものじゃないからね。みんなで応援するものでしょう」

「でも先輩が目当ての人多くて、秋に引退するのが残念ってよく添え書きが」

「嬉しいけど、毎年のことだから。さあ、残念なんて思わせないくらい面白い企画、みんなで作ろう! 次の放送が楽しみになるようなのをやろうよ。ずっとそうしてきたんだから」

そうだ、そうしてきた通りにして、きれいに引退しよう。自分がこのラジオサークルを貶めるようなことはあってはならない。今は、今なら、そのために動くことを許される。

卒業研究、サークル活動、そして就職活動。それらで頭をいっぱいにしていたい。

彼から番組の感想すらなくなったことを、気にせずにいたい。

 

くたくたになって帰路につくと、今日も終わる、と安心して溜息が出る。心が乱されずに済んだ、あるいはそういうことがあっても今日は終わるのだから問題ない、という安堵。忙しさを乗り越えた達成感とは違う。

「事実」を知った日から、ずっとそうだ。割り切ったことにして心の隅に追いやったものは、それでも消えるわけではない。気にしないようにしても、たしかな存在感を持っている。

考えていても疲れる。見ないようにしても疲れる。それならどうするのが正しいのだろう。

「ただいま」

声をかけても返事のない家は、けれども自分の育ってきた愛しい場所は、結局来年の四月に売りに出されることになりそうだった。千花一人で住み続けるには維持が難しい、と父に諭されてしまったのだ。それならば仕方ないだろうと、千花はこの話を呑むことにした。

引っ越しの準備もしなければ、と頭の中に項目を一つ足しても、なお「事実」は消えない。ならば向き合おうかと思っても、ひとりではどうにもできず、転がしておくことになってしまう。相手がその話を良しとするかどうか、そもそも千花と話そうとしてくれるかもわからないので、手出しができない。

何度目かの溜息を遮るように、スマートフォンが着信を告げた。隣の家からだ。夕食の誘いに、ありがたく乗ることにした。――疲れているのを隠さなければ。笑顔を作って、家を出た。

隣に住む葛木一家は、ここのところなかなか全員が揃う機会がなかった。というのも、長女である莉那の結婚に関する話が進んでいて、少々忙しかったのだ。

彼女を含め、知り合いにはめでたい話が多い。二つ上の先輩は子供を産んだ。同級生からの嬉しい報告もたくさん届いている。そのたびに千花も一緒に喜んだが、あの日以来、嫌な自分がそっと語りかけてくる。このままじゃ私が得られないものを、この人たちは得ていくのか。あわてて打ち消しても、それはまたやってくる。

「千花ちゃんが来てくれるの、なんだか久しぶりだね。……違うか、私が家にいないから会ってないだけだ。あとで部屋でお話しようね」

出迎えてくれた莉那に、千花は小さく頷く。莉那と話をするとなれば、彼のことは避けられないだろう。なにしろ彼の同級生で、数少ない女性の友人だ。それとももう何か聞いていて、触れないでいてくれるだろうか。そう思う一方で、もし彼の近況を知っているなら、教えてほしい気持ちもある。抱えた矛盾を隠しながら、一家と食卓を囲んだ。

「お父さんから聞いたけど、お家、手放しちゃうんですって?」

莉那たちの母が、残念そうに言う。いつ話したんだろうと思ったが、千花のことも家族のように扱ってきてくれた人たちが、いつまでも知らないわけもなかった。

「はい。お父さんはいなくなっちゃうし、私一人で住むにはちょっと大きいので……」

「千花ちゃんがお隣じゃなくなるなんて、何か変な感じー。お姉ちゃんも引っ越しの準備してるし、なんか一気に寂しくなるね」

次女の玲那が溜息交じりに言い、三女の実那も同意する。年下のこの子たちは、それぞれが生まれたときから知っているので、千花としても離れて暮らすことが考えられなかった。でもたとえお隣同士のままでも、いつかはこの子たちだって、この家から出ていく。莉那がそうするように。

「大丈夫よ、千花ちゃんも私も、この町を離れるわけじゃないんだから。ねえ?」

「……そうですね」

たぶん、と加えかけてやめた。新しい住居を探すのに、門市も候補に入れていることは、この場では言えない。莉那が事情を知らなければ厄介なことになりそうだ。

「莉那さんは、遠川のほうに引っ越すんでしたっけ」

「そう、在さんの実家にね。少しずつ荷物を運ばせてもらって、徐々に慣れていってるところ。職場はちょっと離れちゃうけど、良い運動になるよ。千花ちゃんも早くおいでよね」

遊びに来い、という意味ではない。千花もそのうち遠川に住むようになるのだから、ということだ。莉那は千花もそのうち彼のところに行くのだろうと、だからこの町に残るのだろうと思っている。つまりは何も知らないのだ。

何でも噂になるこの町で、まったく話題にならないことがあるというのは妙だ。でも七年も隠せていたのなら、そういうこともできるのだろう。

食後に莉那の部屋へ行くと、たしかに物は減っていた。玲那と実那はお菓子とお茶を用意すると言って、まだ部屋には来ていない。二人きりのうちにと思ったのか、莉那が先に口を開いた。

「ここ最近の会話のなさといい、さっきの反応といい。千花ちゃん、海君とケンカでもした?」

会話、というのはメッセージアプリ上の、グループ会話のことだろう。「礼陣」という大枠でまとめたそれは毎日何かしらの動きがあるが、たしかに海と千花が参加することは少なくなっていた。参加すればおのずと相手の目に触れることになるから、というのが千花の理由だったが、彼もそうなのだろうか。

「まさか。ケンカのしようがないですよ」

笑ってごまかす。でも嘘は言っていない。まともに話もしていない相手と、どうしてケンカができるだろう。

「そうね、海君ならケンカになりそうな時点で別れ話切り出してそうだし」

「そんな極端な人じゃないですって」

友人だからか、莉那は彼の話題になると少し意地悪になる。いつもなら流せるそれが、今日は胸にざっくりと刺さった。極端な人ではない、とは千花がそう思いたいだけではないか。別れ話にはなっていないと、信じたいだけで、本当はとっくに――。

「ちょっと、冗談よ。どうしたの?」

「え」

気づけば、頬を伝うものがあった。あわてて拭ったが、もう遅い。莉那はティッシュを千花に渡しながら、スマートフォンをもう片方の手で探っている。

「本当になんでもないですから! だから、直接連絡はとらなくても」

「千花ちゃんはなんでもないときに泣かないでしょう。それにそんなに必死にならない」

「仮に何かあったとしても、莉那さんには関係ないじゃないですか!」

思わず叫んでしまった。莉那は目を丸くしている。自分でも驚くほど大きな声だったから、家中に響いてしまったかもしれない。口を手で押さえても、出てしまった言葉が戻るわけはない。

「……ごめんなさい、言いすぎました」

手を下ろして、深く頭を下げる。顔をあげると、莉那は首を横に振ったが、表情は驚いたままだった。

「ううん、私もやりすぎた。ごめん。……でも」

知らないから、仕方がない。莉那はいつだって千花のことを可愛がってくれて、そこに悪気なんか少しもない。それはわかっているのに。

「今の千花ちゃんの口調、海君に似てたね」

苦笑交じりのその言葉が一番堪えた。

 

考えないようにしていた分が、一気に噴き出したのかもしれない。

葛木家を辞して家に帰り、時間を見ずにスマートフォンを操作する。

「春ちゃん……春ちゃん、春ちゃん……」

話を聞いてくれるのは、聞くことができるのは、当人以外では春だけだ。けれども互いの忙しさを理由にして、蒸し返すのが怖くて、何も言えなかった。

「もしもし、千花ちゃん?」

「春ちゃん! お願い、ちょっとでいいから、話がしたいの。……お願い」

春も優しいから遠慮してくれていたけれど、こちらの様子はいつも窺ってくれた。あとは千花が助けを求めるだけだった。

「大丈夫だよ。いつだって、何だって、聞くよ。そのための私だから」

待ってたよ、と優しい声が言う。しばらく、涙があふれて止まらなかった。

泣いて泣いて、気がつけば、家に置いてあったワインの瓶を開けていた。父が飲むのに買ってきたものだったが、かまわない。電話の向こうでは春が、祖父のとっておきからいただいてきたという、日本酒を飲んでいる。

「ほんっと、ごめんね。うちのおじいちゃんが余計なことするから、変なことになっちゃったんだよ。昔の事故なんかそっとしておけばいいのにさ」

ごめんというわりに、申し訳なさよりも憤りが勝っている春だった。酔いが回っているのもあり、千花も正直な気持ちを吐露する。

「先に春ちゃんのおじいさんに、変な相談持ちかけたのはうちのお父さんだよ。私を娘だって思ってくれていればそれで良かったのに、鬼から預かっただとか人に喋っちゃって。しかもだよ、自分の都合で私を海さんから引き離そうとしたり、兄妹だとか言い聞かせて納得させようとしたり、思ってたよりずっとデリカシーなかった! もうこれから、お父さんみたいな人がタイプだなんて言うのやめる!」

いや、半ば自棄だ。今まで父に遠慮してしまいこんできたものを、勢いでぶちまけているのだ。普段ならそれに罪悪感も覚えるかもしれないが、今の千花は言ってしまえばキレている。春も「言っちゃえ言っちゃえ」と促してくるので、アルコールの力も借りて言いたい放題だ。

「海さんも海さんだよ。人が集まってるところで怒りだすし、話を聞いたら倒れちゃうし、それから連絡ないし……先に連絡しなくなったのは、私だけど。でも、無事なら無事で教えてくれてもいいじゃない! ……私が大丈夫ですかって訊けばよかったのかもしれないけど」

「あれは仕方ないよ。千花ちゃんが気にすることじゃない。海にい、葵さん……ってお母さんのことだけど、その人の話になると急にメンタル弱くなるからね。本人が聞いたら否定するだろうけど、一種のマザコンだよ、マザコン。気にしすぎなの」

春の辛辣なコメントに、しかし千花は頷く。海は自分の母親の話になると「俺に母親なんかいない」とか言うけれど、それは自分が手放されたことを気にしているからだ。育ての父にやりすぎではないかとも思える尊敬を向けるなど、他人への依存が多少強いところはあるなと感じていたが、母親に対するある意味での「こだわり」はまた格別なものだった。

「だからね、ちょっと心配ではあったんだよね。千花ちゃんと一緒にいるときの海にいは落ち着いてたけど、それって千花ちゃんを通じてお母さんへの承認欲求を満たしてるようなところがあるんじゃないかって」

傍らからずっと兄役と親友の様子を見てくれていた春の指摘で、千花は記憶をたどってみる。あからさまにそんなそぶりを見せたことはなかったと思う。だからここは素直に、「違うと思う」と返した。

「兄妹だって明かされるまで、私とお母さんとを繋げて考えるようなことはしなかったんじゃないかな。あと、たぶん海さんは私を守らなきゃいけない、自分より弱いものとしてとらえてたと思う」

「そっか、じゃあ私の懸念は聞かなかったことにしていいや。でも、弱いもの扱いもどうかと思うな」

「うん。海さんだけじゃなくうちのお父さんも、私を見くびりすぎだと思う」

「だよねー。千花ちゃん、すっごく我慢強いのにね」

それに気づかないうちは、男どもはまだまだだよね。そう言う合間にかすかに聞こえる酒を注ぐ音は、何回目だろうか。春は随分ハイペースで飲んでいるのでは。そう思いながら千花もワインの瓶を持ち上げると、かなり軽くなっていた。いつのまに。

「千花ちゃんはさ、良い子だよ。こんなに良い子、海にいにはもったいないなって思うくらい」

「良い子なんかじゃないよ。……私の感情って、鬼に影響するんでしょう? こんなふうにばーって吐き出しちゃったら、良くないことが起こったりしない?」

「しないよ、大丈夫。私たちの知ってる鬼って、そんなにやわな人たちだっけ」

「……それもそうだね」

笑いながら、ワインに口をつける。先ほどよりゆっくり味わえるようになってきたけれど、舌のほうが疲れてしまっていて、美味しいかどうかは判断しかねる。春に日本酒の味を尋ねると、「よくわかんなくなっちゃった」と返ってきた。お互い、飲みすぎたらしい。

「ねえ、春ちゃん。こうやって海さんの話も聞いたの?」

グラスを揺らして液体の動きを眺めながら問う。先に文句を言ってしまってすっきりしたためか、緊張はなかった。もっと聞くのが怖いことだと思っていたのに。

「うん。心配いらないよ、向こうは元気だから。情けないところ見せちゃって、千花ちゃんにうまく接することができなくなってるみたい」

「本当に? 私のこと嫌いになったりしてない?」

「むしろ逆だよ。あのね、海にいはまだ鬼と話せるから、確かめたんだって。おじいちゃんたちの話が本当かどうか」

結論を促すと、本当だった、ということだ。海も千花も、葵という人が産んだことに間違いないらしい。それを認めてなお、海は言ったそうだ。

――それでも、俺は千花のことが好きなんだよ。困ったことに。

本当に困ったことだ。このことを父に知られたら、千花は強制的に海外へ連行されるかもしれない。その気持ちを、嬉しいと、自分と同じで良かったと、思ってしまったのだから。

「春ちゃん、海さんはまた帰ってくるかな。私と会ってくれるかな」

「夏休みには必ず帰ってくるよ。学校の都合で長くはいられないみたいだけど、八月十日までに帰ってきて、夏祭りが終わるまでは滞在するはず。……そのときまだ、海にいが意気地なしの甲斐性なしだったら、千花ちゃんから誘ってあげてくれる?」

きっと春は春で、海の尻を叩いているんだろう。なにしろ本当の妹より妹らしい、海の妹分なのだ。そしてこんなややこしい事態にも一緒に向き合ってくれる、千花の親友でもある。

「もちろんだよ。それまで私、頑張るから」

「あんまり頑張りすぎないでいいよ。文句があるなら言えばいい。私は千花ちゃんの味方をするから」

いつか助けてもらったみたいにね。春はそう言うけれど、いったいいつのことだろう。助けられた思い出ばかりだ。そして思い出は、またひとつ増えた。

 

 

八月九日、久しぶりの礼陣は祭りの前で、駅構内も通りも鮮やかな装飾が施されている。けれども今はその空気にうまく乗ることができない。毎年のことだが、鬼封じの前はどうしても張りつめてしまう。

早く終わればいいのにと、始まる前からそのことばかり考えて、帰省の足取りは重くなる。終わりさえすれば、あとは普通に夏休みを過ごせばいい。――去年までは、そうだった。

今年は鬼封じが終わっても、憂鬱が晴れないかもしれない。結局今日まで、千花とは一切連絡をとっていなかった。

「ただいま帰りました」

「おかえりなさい、海。疲れただろう」

「いいえ、別に。すぐ出かけるので、お茶はいいです」

父ともぎすぎすした状態が続いている。忙しくしていたこともあって、こちらも帰省の時期を知らせることくらいしかしていない。まともに顔を合わせるとまた謝られそうな気がする。そんな父は見たくなかったし、そう何度も「事実」を呑みたくもなかった。

だが様子が気にならないわけではなく、春やこちらにいる友人たちから、情報は得ていた。父はよく須藤家に出入りしているらしい。春曰く、「はじめ先生も大人なんだから、海にいが心配しなくても大丈夫だよ。遅れてきた反抗期をどうぞご自由に」ということだ。

居づらい家を出て、足は遠川地区から中央地区の住宅街へ。このあたりには知り合いが多く、それには千花も含まれるので、顔を合わせないよう願いながら歩く。やっと到着した二階建ての家の前で、表札を確認しながら、暑いせいなのか緊張のせいなのかわからない汗を拭いた。

呼び鈴を鳴らすと、インターフォンから「ちょっと待ってて」と明るい声が響く。赤ん坊の泣き声もした。来たタイミングがまずかったかもしれない。

だが、そう待つことなく、ドアは開いた。ぐずる赤ん坊を抱いた彼女が、にっこりと笑っている。

「いらっしゃい、海」

「お久しぶりです、亜子さん。……大樹、思ったより大きいですね」

「本当にわたしが産んだのかってくらいでかかったし、日々成長もしてるからね。大樹、ほら、海おじちゃん」

「おじちゃんて」

先輩だったその人は、もうすっかり母の顔をしていた。もっとも、たぶんこれが母なんだろう、くらいの認識しか海にはできないのだが。

ぷくぷくした顔でこちらを見上げた赤ん坊に、海は苦笑いを返した。

「大助は仕事なんだよね。夜にならないと帰ってこないよ」

家の中は、懐かしい先輩宅、大助の実家に雰囲気が似ていた。布やレース、ドライフラワーなどであちこち飾られているのは、たぶん亜子の趣味なんだろうとは思う。そしてこの感性を育てたのは、亜子の母や大助の姉なのだ、きっと。

「すいません、今日が平日だってことすっかり忘れてました。そうですよね、まだ仕事ですよね」

「呼んだの大助だから、気にしなくていいよ。わたしは日中家にいるし、実家に居づらければいつ遊びに来ても歓迎してあげる」

「……よく実家に居づらいってわかりましたね」

五月にあった事件については、友人と春以外に、大助も知っている。少し時間を置いてから打ち明けたのだった。だが、亜子に直接話した覚えはない。

「大助さんから聞いてるんですか」

「詳細はよくわかんないけど、はじめ先生と顔合わせづらいんでしょ? 遅れてきた反抗期?」

春と同じことを言う。どうやら「どうして顔を合わせづらいのか」までは知らないらしい。いや、この人は知っていても知らないふりをするかもしれない。

「反抗期っていいますけど、もうそんな歳じゃないです」

「その反論のしかたは、先に誰かに言われたな。しかたない、おじちゃんじゃなくお兄ちゃんにしてあげよう」

「納得いかない訂正ですね」

会話をしながら、アイスティーを淹れて、子供をあやす。器用な同時進行だった。大変ではないのだろうか。子供を邪魔だと思うようなことはないのだろうか。どうしてもそんなことを考えてしまう。

「やっぱり大助さんが帰ってきてから出直しますか」

「いいよ、面倒でしょ。それより大樹と遊んでやって」

「遊んでって、どうやって」

「抱っこしててくれれば。やっと人を認識できるようになってきたみたいなんだよね」

認識できない時期があるのかとか、赤ん坊を抱いたことがないだとか、思いついた言葉を口にする前に「はい」と差し出されてしまう。そっと受け取って、おそるおそる抱き上げると、せっかく大人しくしていた赤ん坊はまたぐずり始めた。

「亜子さん、やっぱ無理です」

「すぐ泣き止むから大丈夫。首だけ気をつけてて、たまにのけぞるから」

「のけぞるんですか?!」

戸惑っているうちに、赤ん坊は落ち着いたようだった。こちらよりよほど順応力がある。こういうところは親に似たのだろうか。ついそうこぼすと、亜子は「寝るのを優先させたんでしょ」と笑った。

「それかはじめ先生のおかげかもね」

「父の?」

「この子連れて買い物に出たとき、ちょうど会ったの。あんまり懐かしそうにしてるから、抱っこしてもらったんだよ。子供がすっかり大きくなっても、憶えてるんだね」

もう随分昔のことだと思っていた。でも、父からすればそうではないのかもしれない。実子ではない海を預かり、育てた。その苦労はそう簡単に忘れられるものではないだろう。

「大切にしてきたつもりだったのに、独りよがりでした。……だって」

「何のことですか」

「はじめ先生に会ったとき、そう言ってたよ。それで親子喧嘩でもしたかなって思ってたんだけど。違う?」

だから家に居づらいと思ったのか。ようやく納得できた。「違いますよ」と返して、肩が濡れていることに気づいた。

「あ、よだれ」

「しまった、ガーゼ渡すのすっかり忘れてた! ごめんね、海。服大丈夫?」

「問題ないです。だってこういうものなんでしょう」

「……はじめ先生と同じこと言うんだね、あんた。さすが親子」

どうやら、亜子が父に会ったときに、同じ状況になったらしい。思ったより、海は父に、育ててくれた彼に、似ているようだった。

すっかり眠っている赤ん坊を亜子に預け、ベビーベッドに寝かせてもらう。この子も父親似だ。

「大助さんみたいになるんですかね」

「どうかな。でも、みんなそう言う。大助は、俺に似ると面倒だ、なんて言うけど」

「何が面倒なんですか。大助さんくらいまっすぐ育ったら、いいと思いますよ」

「暗にわたしが曲がってると?」

そんなことはない、と即答できずに笑ってごまかす。時計を見て、やはり一度帰ろうと思った。父が人に愚痴をこぼすぐらい落ち込んでいたのなら、ちゃんと話そう。ぎくしゃくしたままの鬼封じは、きっとうまくいかないし、葵鬼の思うつぼなのだ。

あとでまた来ます、と言ったら、みんなで待ってるよ、と返事をしてくれた。

 

大助によると、今年の鬼封じは久々に荒れるかもしれないとの予想がされていたのだという。五月のあの日のことがあったから、うまくいかないのではないかと。――あの日のことを大助が知ったのは後からだが、厳戒態勢のことはその前に把握していたらしい。

「思ったよりお前が立ち直ってるみたいで良かった。もしかしたら来ないかと思ってたんだぞ」

「立ち直ってはいませんけどね。でも、それと鬼封じとは別ですから」

「そう簡単に納得できるわけねえよな。ま、はじめ先生と話したんならいいや」

大荒れは回避できるだろう、と大助は言う。うまくいくかどうかは、海の精神力にかかっていた。実際、あの日は海の影響を受けた呪い鬼が同時に何体も現れたそうだ。しかし海だけの影響ではないだろう。千花も同じ性質を持っているのだから。

「ご迷惑おかけしました」

「大変だったのは姉ちゃんと、神主さん、今の鬼追いだけどな。俺はもうなんにもできねえし。……で、今回の鬼封じだが、荒れても何とかなるように準備が進んでたはずだ。封じの札を神主さんじゃなく姉ちゃんが用意するとか、新しい封じ籠を春が作るとか」

「そんなの初めて聞きましたけど。春は何も言ってませんでしたし……。というか、それじゃパワーダウンになりませんか?」

大鬼たる神主ではなく、力のある人間が用意した札。長年封じ籠を用意してきた須藤翁ではなく、その孫がおそらく初めて作ったであろう籠。「大荒れ」の対策としては弱いように思われる。だが、今回より重視されたのは、葵鬼を強く封じることではないのだった。

「もう葵鬼本体の力が落ちてるんで、それほど強力な封印じゃなくてもいいんだってよ。それよりお前の精神を安定させることを優先させたんだ。不信を抱いたままの相手が用意したもので封じるんじゃ、確実性に欠ける。……ってのが神主さんと、春のじいちゃんの判断だ」

「あの人たちは……」

たしかにあの日のことで、何も教えてくれなかった人々や鬼を恨まなかったわけではない。父とすら、今日まで距離を置いていた。しかしそこまで配慮されては、むしろ居心地が悪い。割り切っていつも通りに葵鬼を封じるというわけにはいかなかったのか。

「そもそもなんで大助さんがそんなに詳しいんですか。葵の力が落ちてるなんて話も初耳です」

「神主さんから無理やり聞きだした」

あの大鬼様から「無理やり」話を引き出せるなんて、大助のほかにはできないのではないだろうか。それはともかくとして、その判断があとに影響しないことを祈りたい。

「俺からの話はこんなもんだ。何か質問あるか」

「質問ったって、答えられるんですか? 大助さん、さっきはなんにもできねえなんて言ってましたけど、十分すぎるくらい動いてますよ」

もう鬼は見えないはずなのに、これでは鬼追いをしていた頃と変わらない。神主はそんな大助を認めて、話をしてくれたのかもしれない。でも、これはわかるだろうか。

「葵の力が落ちたとされる原因は? 五月に会ったとき、向こうが手を出してこなかったんで、納得できないわけではないんですが」

「そうだな、手を出さなかったんじゃなく、出せなかったんだ。呪いを薄めたやつがいる。時間をかけて、じっくりとな。神主さんにも子鬼にもできなかったことを、やってのけたのがいるんだろ。心当たりは?」

「……なくは、ないです」

たぶん、接触したことがある。姿を見たことはまだないが、葵鬼を封じているあの部屋に、出入りしていた鬼がいた。しかし、礼陣の全てを憎むほどの呪い鬼を懐柔できる鬼だったのだろうか。自らは呪いに蝕まれず、葵の呪いを薄められるような力を持つ鬼とは、何者なのだろう。

それ以上のことはわからなかったが、とにかく今回の鬼封じは、いつもと違うものなのだ。

大助から話を聞いた翌日、八月十日。家中を清め、神主を家に迎え、いよいよ今年の鬼封じが始まる。

「海君、調子はいかがですか」

神主はいつもと変わりないようだ。頷いてみせると、「それなら」と微笑んで、葵鬼のもとへと向かった。彼のほかに鬼はいない。鬼封じの日は、進道邸には近づかないのが常だ。

海は何もしない。ただ、封じ終わるのを、静かな心で待てばいい。

けれども全てが終わったら、しなければならないことがある。

 

 

夏祭りを知らせる街灯の装飾が、夜風に揺れる。

昼間は暑いが、陽が落ちるとそうでもない。薄いカーディガンを羽織って、千花は駅前広場に佇んでいた。駅前広場には子供神輿を置くための台や、祭り用のステージ、櫓がすでに組まれている。あと十日で、この町最大のイベント、夏祭りだ。ラジオでも告知している。交通機関が平常時と違う動きをすることもあり、情報は大事なのだった。

そして祭りのあとに、サークルの、千花が関わる最後のオンエアがある。つまりは、夏休みといえども忙しい。忙しくても、逃げるわけにはいかなかった。

連絡を、こちらからするなら今日だろうと思っていた。けれどもその前に、メッセージは届いた。彼は意気地なしでも甲斐性なしでもなかったのだ。出した答えがどうだろうと、関係なく。この状態を終わらせようとはしてくれたのだから。

「千花」

櫓を見上げていたところへ、声がかかる。こうして呼ばれたのは、いつ以来のことだろう。振り向いて、笑顔を作ろうとして、やめた。別に作る必要なんかない。

「お久しぶりです、海さん」

そういえば、告白もこの場所だった。

 

「お囃子の練習、聞こえますね」

「御輿行列の送り太鼓かな」

ベンチに並んで座り、適当な話をする。急に切り出せるような勇気は千花にもないから、相手を責めることはできない。

けれどもどちらかが始めなければ、終わらないのだ。

「……ずっと何も連絡しなくて、ごめん」

どう話したものか考えていたら、先に言われた。

「こちらこそ、何も言わずにすみませんでした」

それはこれまでのことに対してでもあり、これからのことでもある。謝って終わりにはならない。

「びっくりしましたね。兄妹だって話」

あれからの続きをしなければならないし、終わらせなければならない。あのときの千花は、泣くだけで、何も言えなかった。

「それもびっくりしたけど、いきなりその話するんだ」

「だって私、あなたと違って、文句の一つも言えませんでしたから」

「あの場で言えたらすごいよ」

「でも、言うべきでした。そんなこと、今更話題にされても困るって。わかった時点でさっさと言ってくれれば良かったんです。……そうしたら、」

この先は、さんざん愚痴を聞いてくれた春にも言ったことがない。何度も考えたことだけれど、これこそ今更だと思ったから。

顔をあげて隣を見ると、息を呑んだような表情があった。そこへ、聞き逃させまいと、はっきり告げる。

「そうしたら、もっと早く、海さんのことを知れたのに」

「……え?」

「そりゃ、春ちゃんから話だけは聞いてましたよ。でも、言ってくれれば中学生のうちに、ちゃんと会えたかもしれないじゃないですか。こんなに素敵な人なら、もっと早く」

「待って待って」

何故か話を遮られた。首を傾げて、気付く。やっとこちらを向いてくれた。

「何か」

「てっきり、言ってくれれば好きにならなかったとか、そういう話かと」

「すみません、それはないです。少なくとも私は」

早口に言うと、海はさらに驚いたようだった。この人は、やはり千花をどこか見くびっている。――好きにならないはず、ないじゃない。

「付き合うことは、もしかしたらなかったかもしれませんね。でも、絶対好きにはなってました。それが恋だろうとそうでなかろうと関係なしに、私が海さんを好きにならないはずはないんです」

何度も考えたのだから、それ以外の答えはない。どう考えても同じところに着地するのだから、今更のこと。

この想いを、見くびってもらっては困るのだ。

「……俺は、わかんないよ。千花が妹だって言われたら、その……もともと母親が好きじゃなかったわけだし、女の子も苦手だったし」

「知ってますよ。だから私のほうが、言いきれる分強いんです。私を必要以上に守ろうとしないでください。優しい言葉だけで会話しようとしなくてもいいんです。妹だろうが彼女だろうが、気を遣わないでいいんですよ」

言いたいことはそれだけだ。これで引かれたならそれまで。

「何があろうと、私はこれまでも、これからも、海さんが好きです」

 

千花はこんなに喋る子だっただろうか。高校時代に会ったときの印象は「大人しそう」だったと思う。おそらくは、春や莉那や亜子が、海に対してはなかなか口うるさい部類にいたせいだ。彼女らに比べれば、たしかに千花は静かで、いつも穏やかに笑っているような子だった。

しかしそれはたしかにこちらの勝手な思い込みだったのだろう。本当の千花は、情熱にあふれた、意志の強い子だ。

かつてはそういう子ほど苦手だったはずなのに、これが千花なのだと認めると、まったくそうは思わないから不思議だった。

そしてたぶん、これが答えなのだろう。

「過去のことは、今じゃわからないけど」

千花から目を逸らせないので、逸らせないまま、なんとか言葉を発した。

もしももっと早くに兄妹だとわかっていたら。大人たちが危惧していたように、海はその事実を拒絶したかもしれない。千花を見ようとしなかったかもしれない。けれども、その考えに「千花から受ける影響」は含まれていないのだ。

出会ってから、意識するようになってから、それを好意だと認めてから、実際に海は変わっている。たぶん、変われている。

「今のことなら、ちゃんと答えは出てるんだ。千花には負けるかもしれないけど」

「勝ち負けを決める場じゃないです」

「それもそうだね」

今この瞬間だって、変わりつつある。千花が変えている。だから彼女の言う通り、妹でも彼女でも関係ないのだろう。

「千花が好きだ。……今更、それ以外の答えなんて出ないよ」

「そうですか。本人から直接聞けて光栄です」

ああ、やっと笑ってくれた。もう何か月、この顔を見たいと願ったことか。

「……本人から、直接?」

「春ちゃん経由で聞いてます」

「春め……」

「春ちゃんにばっかり愚痴ってるからですよ。でも私の気持ちを聞いてないってことは、春ちゃんは本当に私の味方をしてくれてたんですね。もう一生頭上がらないなあ」

妹分はその役割をしっかり果たしていたようだ。千花の中でのランク付けが、自分より上でも仕方がない。つまり、大助の見立ては正しかったのだ。

昨日、「話をするだけならいちいち呼び出したりしねえよ」と押し付けられたものがあった。門市のデパートの、地下食品売り場にある店のロゴが入った袋が二つ。片方は千花に、もう片方は春に、これまで世話になった礼として渡すといいとのことだった。

春には、鬼封じが終わった直後に渡しに行った。何も言わず作っていた封じ籠が正しく機能したので、その報告もしたかった。

――私、役に立った?

もう一度言わなければならない。役に立つも何も、まさに一生頭が上がらない功労者だ。

「……千花、これ」

「何ですか? 気になってはいましたけど」

「白状すると、大助さんに買ってきてもらったお菓子。これまでのお詫びに……」

「この場合、お礼は大助先輩でいいんですよね。あとでメッセージ送っておきます」

大助にも礼を言わなければ。いや、品物の代金を払うのが先か。

「俺、だめだね。情けない……」

「そうですね。依存心が強くて、人の好意になかなか気づかなくて」

「仰るとおりで」

今日の千花は容赦がない。これまでもそう思ってきたことを、やっと言っているだけなのだろう。

「一度手に入れたものはなかなか手放せない性分なんだって、進道家の男の人はみんなそうだって、春ちゃんが言ってました」

「また春か。反論できないけど」

「だけど私なら、全部まとめて愛してるので、ご心配なく」

そう、ずっと想ってきてくれたことを、やっと言ってくれているだけなのだ。

 

神社のほうから聞こえてきていた、祭り囃子が止んだ。練習が終わったらしい。

言いたいことを一方的に言いすぎた気もするけれど、春曰く「海にいにはそれでちょうどいい」らしいので、申し訳なく思うのはやめにした。

「千花さん、夏祭り一緒にまわりませんか」

まだ顔が赤い海が、なぜか敬語で尋ねてくる。

「はい、ぜひ。……たぶん、今年が最後なので」

「最後?」

「来年からは、ちょっと難しいかなって。……来年、父が再婚して、外国に移住するんです」

「え、何それ。聞いてない」

「言ってませんから。それで……」

続けようとすると、突然両肩を掴まれた。海が怖い顔で詰め寄ってくる。さっきまで小さくなっていたのに、どうしたというのだろう。

「そういうことは先に言えよ! だからさっき、全部言ったのか?! 心残りなくして、それで遠くに行こうってことかよ!」

「いや、待ってください。あの、最後まで」

変なところから話を始めてしまったせいで、勘違いしてしまったのだということはすぐにわかった。

「あの、遠くに行くのは父で」

「だから千花も」

「私は行きませんってば! 父が家を売りに出すので引っ越しはしなきゃいけませんけど、礼陣かその近辺にはいるつもりです!」

「じゃあ最後って?」

「就職が決まったんですよ! ラジオ局に!」

本当は、もっと落ち着いて話したかった。でも、今のは千花も良くなかったので、これ以上の文句はなしにする。

「決まったっていうか、内定をもらったんですけど。……それで来年からは忙しくなってしまうので、もしかしたらちゃんと夏祭りに参加できるのは最後かなって。父の話から始めたのはすみません。引っ越しの話は別にしなきゃいけなかったんですよね」

「……なんだ、就職か。もうそんな時期だもんな。おめでとう」

「はい、ありがとうございます。あ、それで職場が門市なので、あっちも含めて引っ越しを検討中なんですよ。そういう意味でも、夏祭りの参加が難しくなりそうで」

これでわかってくれただろうか。少なくとも、千花が海外へ行くという誤解はなくなっただろう。しかし海はまだ何事か考えているようで、千花の肩から手を離さない。

「……就職は、めでたいよ。それもラジオ局。ずっとやってきたのが、認められたんだよな。連絡とってないあいだも、ポッドキャストでちゃんと聴いてた」

「ありがとうございます」

「だから、良いことなんだけど……門市か……」

「礼陣に部屋借りて、通うこともできますよ。莉那さんに相談して、常田先輩に物件調べてもらったりもしてます」

それでもまだ難しい顔をしている。以前、礼陣で待ち続けると約束したから、できるだけこの町にいてほしいのかもしれない。

「あの、礼陣で暮らせるように考えますから」

「不都合じゃなきゃ、うちに来たらいい」

ら、を発音する前に、そう言われた。そしてその意味を把握する前に、続く。

「部屋は空いてるし、父さんもでかい家で寂しくないし、たぶん独り暮らしするより美味い飯が食えると思うんだけど」

「最後のちょっと失礼じゃないですか」

「あ、ごめん」

咳払いを一つして、少し間をおいて。

「……俺もそのうち帰るから、そのまま一生いたらいいよ」

「一生、ですか」

どういう意味かわからない千花ではない。だから軽率な返事はできないし、してはいけない。これこそ、再びの失敗がないようにするべきことだ。

父は反対するだろう。でも、まったく話ができないわけではない。

「一生の話なら、ちゃんとしなきゃだめですよね。今度こそ」

「……今度こそ、な」

「あんまり時間ないですよ。父を説得できます? もちろんはじめ先生もです」

「するしかないだろ。千花は?」

「私は勝算ありますよ」

今度は笑える。笑ってみせる。

「頼もしいな」

「そうじゃないと、あなたの妹もお嫁さんもつとまりませんよね」

そうしてこんな曖昧な言葉じゃなく、明確なものをもらおう。泣くのは嬉しい時だけだ。

 

「そうだ、誕生日おめでとうございます。当日に言うのは初めてですね」