県内でも田舎と呼ばれる地域。けれども妙に学校が多く、大学周辺には学生向けアパートが並ぶ。高台になっているその地域をおりていけば、東西に商店街が展開されていて、人好きのする店主らが客を呼び込み、おまけをつけてくれる。たとえば総菜はスーパーで買うよりも美味しく、量が多い。
大学進学を機にこの礼陣の町に引っ越してきて、四か月が経った。学校は試験期間をほぼ終えて夏休みに突入し、お盆休みには実家に帰らなければならないのだろうか、ごまかして帰らずにいることはできないだろうか、と考える時期。――うちは親戚同士の折り合いが良くないので、できれば顔を合わせたくないのだ。集中講義があるからとでも言って、ここに留まりたい。
しかし家からは「いつ帰ってくるんだ」という催促のメールが来る。忙しいから帰れるかわからない、と返事をして、このまま夏休みが過ぎてくれないかと祈る。クーラーのせいではねあがる電気代と実家の針の筵とを天秤にかけて、八月の頭に迷う。
彼女と初めて出会ったのは、そんな憂鬱を抱えた、暑い日のことだった。

学校の売店のパンは、その一部を商店街の店から仕入れている。もちろん焼きたてのほうが断然美味いので、時間があれば商店街のその店まで買いに行く。おまけに夏休みは売店が休業してしまうから、パン屋に行く頻度は高くなる。おかずパンが充実しているのが嬉しい。
家にいても退屈だし暑いし、パンを買ってどこか涼しい場所、例えば神社の木陰とか町を囲む山とかで食べようと思い立った。学校の友人数人にも声をかけたが、みんな帰省しているか、用事があるかで捕まらなかった。
高台――社台地区という――をおりて、商店街へ。パン屋は商店街の西側、社台の住宅街をおりてすぐのところにある。加藤パン店。この町に昔からあるパン屋だということは、地元民から聞いた。
店に行くと、パンの焼ける香ばしい匂いとともに、「いらっしゃいませ」というどこかふんわりした声がする。店の奥さんはかつて町で評判の美人だったそうで、今でもその面影がある、おっとりとした人だ。
だが今日は、もっと元気な、威勢のいい声が、戸を開けた俺を迎えた。
「いらっしゃいませ! ……お、礼大の学生さん?」
ショートカットの、たぶん同い年くらいの女の子。目がぱっちりと大きく、店のエプロンが似合っている。夏休み限定のアルバイトだろうか。この町には俺が通う大学ともう一つ、女子大がある。それにしても、初めて会ったような気がしない。妙に気安いからだろうか。
「あら、いらっしゃい、松木君。パンもいいけど、たまにはお米食べなきゃだめよ」
奥から店の奥さんが出てきて、今日もおっとりとパン屋らしからぬことを言う。この人は客の名前をいちいち憶えているのだ。初めて来たときに一度聞いただけで、どんな人も忘れない。
「こんにちは。ここのパン、美味いので」
「ありがとう。そうそう、紹介するわね。この子、夏休みのあいだ店にいる、うちの娘。詩絵っていうの。松木君と同級生なのよ」
奥さんに押されるようにして、彼女が前に進み出る。そうか、初対面だと思えなかったのは、奥さんにどこか似ているからだ。鼻筋とか。どちらかというといつも店を手伝っている息子(中学生だったかな)のほうが似てはいるけれど、こちらもやはり親子なのだ。
「どうも、加藤詩絵です。普段は大城市にいるから、こっちの学生さんとはほとんど初めて会うんだ。松木君、はうちによく来てくれるの?」
「はい、まあ」
「常連さんよ。カレーパンが好きなの」
奥さんは俺の好みも把握済みだ。先に言われてしまっては、カレーパンを買わないという選択肢はない。実際、ここのカレーパンは甘口のカレーとカリッとした生地が絶妙にマッチしていて美味い。
それはともかく、詩絵という店の娘。彼女もすぐに名前を憶えてくれたらしい。店を離れていた割には接客も慣れていて、あとから来たお客さんには「詩絵ちゃん、おかえり」と声をかけられていた。大城市に行く前は、さぞや人気の看板娘だったに違いない。可愛いし。
三つほどパンをとってレジに持って行くと、詩絵さんは首を傾げた。
「これで足りるの? 男子が?」
「外で食べるのに大量に買うのも変でしょう」
「ふうん、外で。部屋にいると電気代がかかるし、どこか木陰でも探してのんびりしたほうがいいと思ったかな」
見事にこちらの考えを当ててくる。同じようなことを考える奴が、他にもいるんだろうか。俺の苦笑いをよそに、詩絵さんは素早くレジを打ち、パンの袋を笑顔で差し出す。
「神社や山は今の時期虫が多いから、虫除けしていくことをおすすめするよ。あと、写真に少しでも興味あったら商店街のギャラリーに行くのもいいと思う。イートインあるし、今写真展やってる村井さんはこの辺を中心に日本の野山を撮ってる人だから、室内にいながら自然の中にいる気になれる」
行こうと思っていた場所まで読まれて、もしかして彼女には特殊能力でもあるんじゃないかとすら思えてくる。とにかく貰った情報には礼を言って、パン屋を出てきた。
「ありがとうございました。またどうぞ」
別れ際の言葉に、心の中で「また来よう」と返事をして。
夏休みのあいだしかいない彼女とまた会うには、実家に帰らないことを選ぶしかない。電気代を犠牲にしてでも。――そうだ、俺は、また詩絵さんに会いたかった。

翌日の早朝、ランニングのふりをしてパン屋の前に行くと、詩絵さんが掃除をしていた。ときどき奥さんや息子が掃除をしているのを見かけたから、もしやと思ったのだ。
「あ、おはよう、松木君」
「おはようございます」
こちらに気づいた詩絵さんが、先に挨拶をしてくれた。すっかり俺のことは憶えてくれたらしい。あのあと、奥さんからも何か聞いただろうか。
「結局昨日はどこに行ったの?」
「教えてもらったギャラリーに。村井さんって人、すごいですね。動物とかも結構近くに寄って撮ってたりして」
昨日の会話もちゃんと記憶していてくれたようだ。パン屋を出てから、俺は詩絵さんの言っていた商店街のギャラリーに足を運び、そこで生まれて初めて真面目に写真を見た。そんな趣味のなかった俺でも圧倒されるほど、写真は良かった。
「でしょ? 村井さん、もともと礼陣の人ではないんだけど、写真展やるときはこの町の名前出してくれるから、ありがたいんだよね。他にもこの町には、イラストレーターやってる人とか、小説書いてる人、あと漫画家もいるね。伝統工芸やってる人も。わりと芸で食べてる人は多いんだ」
「ああ、漫画家は一人知ってます。礼大の学生だから」
俺の知っている漫画家は先輩だからともかくとして、他にもそんなに自由業の人間が集まっていることには驚いた。それを知っている詩絵さんにも。商店街には町の情報が集まってくると聞いたことがあるが、しばらく町を離れていたはずの詩絵さんもちゃんとそれを押さえているのだ。さすがは商店街の娘というべきか。
「そういう情報はどうやって集めるんですか」
「店にいれば自然に集まってくるし、本人が来店した時に聞くこともあるよ。……ていうか、松木君、同い年だよね? 敬語やめない?」
たしかに俺は浪人も留年もしていないから、詩絵さんとは同い年だけれど。いきなりタメ口は失礼かなと思って、ずっと敬語だった。詩絵さんは最初から敬語じゃなかったのに。
……普通に話していいの?」
「いいに決まってるじゃん。そのほうがアタシも楽だし」
馴れ馴れしいと思わないのは、彼女がさっぱりしているからだろう。付き合いやすいタイプだ。男女ともに友人が多いであろうことは、想像に難くない。
町の夏祭りが近い話とか、商店街や駅前でやっているイベントとか、詩絵さんの話題は豊富で、興味を引かれるものだった。人の扱いがうまいと言うと、商店街で鍛えられたからねと返ってきた。色々な人を相手にしてきたんだろう。俺のように外から来た人も、ずっとこの町にいる人も。町を離れてからもきっと彼女のやりかたは変わらなくて、町の内外にたくさんの知人をもっているに違いない。
「スマホでラジオ聴けるよね? 昼過ぎからそこの女子大のラジオサークルの番組やるんだけど、良かったら聴いてよ。友達が喋るんだ」
そしてたぶん、彼女は心からこの町が好きなんだと思う。語る端々から、それが伝わってくる。
詩絵さんの話を聞いていると、俺もこの町が好きになる。それから、楽しそうな、幸せそうな、詩絵さんのことも。

そうしてパン屋に通う日が続き、奥さんにも「詩絵に会いに来てるんじゃないの?」と笑われるようになった。詩絵さん本人は「まさか」と流していたけれど。
今日も暑い中パン屋を訪れると、詩絵さんが店先で、女の子二人と話していた。俺が来ると一斉に振り向いて、じっとこちらを見てくる。
「いらっしゃい、松木君。今日もカレーパン? もう少ししたら揚げたて出るよ」
詩絵さんが明るく応対してくれると、二人の女の子は顔を見合わせて「例の?」「例の!」と言った。それから俺に向き直って、口を揃えた。
「詩絵ちゃん目当てのお客さん!」
「え」
「違うって。もともと常連さんなの。春も千花もふざけすぎ」
呆れながら即答する詩絵さんだったが、俺は核心を突かれてどきどきしていた。それを悟られないようにしようとすると、女の子たちがさらに絡んでくる。
「でも、おばさんが詩絵ちゃんが帰ってきてから毎日来るって」
「実際のところ、どうなんですか?」
「こら、迷惑でしょうが。ごめんね、松木君。この子たち、女子大だから男子珍しいみたいで。彼氏いるのに」
「いや……こっちこそ女子に慣れてなくて」
片方は肩より長いストレートの髪、背が小さい。もう片方はウェーブのかかった髪、美少女。ウェーブのほうはどこかで声を聞いたことがある気がする。どこでだったか、と考えていると、すぐに詩絵さんから解答があった。
「この子たち、中学からの友達なの。小さいほうが春、この町に住んでる細工職人さんの孫。ふわふわしてるほうが千花、北市女大ラジオサークルの子。放送で喋ってたんだけど、わかるかな」
「ああ、だからか。どこかで聞いたことある声だと……
「ラジオ聴いてくれたんですね、ありがとうございます。すごく良い人だね、詩絵ちゃん」
詩絵さんたち三人を見ていると、姦しい、という字面に納得する。三人とも楽しそうで、たぶん俺のことを話しているであろう時も、俺は入っていけそうにない。そもそもこの女子の集団に入っていける男がいるんだろうか。
途中で詩絵さんが「アタシ仕事しなくちゃだから」と場を離れると、他の二人も「じゃあ買い物して帰ろっか」と頷きあう。けれども店を出るときには、意味深な笑みを浮かべて俺に声をかけていった。
「詩絵ちゃんをよろしくお願いします」
「結構ライバル多いし、本人はなかなか気がつかないと思いますけど」
それは薄々わかってはいたのだけれど、改めて言われると刺さった。

日が経つごとに町が賑やかになっていく。商店街の装飾も華やかで、盆過ぎにあるという祭りに向かって全体が動いているのがわかる。なんとか言い訳をして帰省を免れた俺は、その様子を追って見ていくことができた。
パン屋も出店をやるということで、その準備に詩絵さんが忙しく動き回っていた。「毎年のことだから」と笑っていたけれど、あんまり忙しそうなので手伝いを申し出たら、奥さんが俺をバイトとして採用してくれた。祭りまでの短期ではあるけれど、ありがたい話だった。
時折、店を訪れる客や通りがかりの人に「加藤さんとこの婿さんかい」と言われるのには困ったけれど。そう言われるまでなら俺一人が戸惑うだけで済むのだが、奥さんが「そうなのよー」と答えてしまったり、詩絵さんが「そんなわけないでしょ」と笑い飛ばしてしまうと、少しばかり話がややこしくなる。前者はともかく、後者はなかなかダメージをくらう。
町の出身者で、帰省している詩絵さんの高校以前の同級生などは、要注意だ。奥さんの冗談に本気で狼狽え、詩絵さんが否定して安心するような人物を、何人か見た。千花さんが「ライバル多いし」と言っていたのは本当だったのだと突きつけられる。
「バイトに入ってしまえば、一番距離が近くなるのは松木さんですから。大丈夫ですよ」
店の息子、中学生の成彦君が慰めてくれるけれど、そもそもどうして俺の好意に彼が気づいていて、詩絵さんが気づかないのか。その疑問に答えが出たのは、ある朝のことだった。
「こらー! 危ないからいたずらするんじゃない!」
バイトに来た俺が最初に聞いたのが、そんな詩絵さんの怒鳴り声。続いて子供たちが、わっと店の脇から出て、逃げていった。
「怖っ! 女大将だ!」
子供の捨て台詞に「うるさい!」ともう一言返してから、詩絵さんはこちらを振り向いた。それから目を見開いて、困ったように笑った。
子供たちがいたずらをしていたというのは、出店をたてるために借りてきた鉄パイプだったようで、詩絵さんはそれを直しながら――重いものなので、もちろん俺も手伝った――ちょっと昔の話をしてくれた。
「小学生の頃ね、ガキ大将だったの。運動しても喧嘩しても男子に負けなかったし、さっきみたいな悪ガキもアタシが一喝すれば黙ったもんよ」
ガキ大将なんて、それこそアニメのキャラクターの話だと思っていた。弱い者を生意気だと言って力で押さえつけたりするような、あの。そう考えたのを読まれたように、「ジャイアン連想したでしょ」と詩絵さんが口をとがらせる。
「間違ってはいないんだけどね。人のものとったり、空き地でリサイタルなんてこそしなかったけど、力はあったし、音痴だし。それでついたあだ名が社台の女大将。これがまた、中学まで順調に引きずっちゃって。学級委員とかにはならないけど、行事があれば積極的にリーダーシップとるような、そうでなきゃいけないような気がしてたんだ」
してた、と過去形にしたけれど、今でもそうなんだろう。友達と喋っている時も、店を手伝っている時も、詩絵さんはいつだって先頭に立とうとしていた。そして女大将だから、男子より強いから、女の子扱いされないんだと思い込んでいるようだった。
「そのおかげで得られたものもあったし、それでいいんだけど、やっぱりいつまでも女大将ってどうかなって思うときもあってさ。でもここ、田舎だから。一度染みついたイメージって消えないし、言い伝えられて蒸し返されて、さっきみたいに小学生にまで言われるんだ」
嫌じゃないんだけどね、と笑う詩絵さんは、たぶんそれが正直な気持ちなのだろうけれど。でも、そのために自分の魅力に気づかないのは勿体ない。
女大将だろうが何だろうが、詩絵さんは女の子で、一目で可愛いと思った。それをすぐに言えば良かったのに、俺はそうできなかった。
だから先に、こんなふうに言われてしまったのだ。
「アタシのこの町での立ち位置は、そんな感じ。松木君も、町の人に何言われても気にしなくていいからね。みんな、アタシが女らしくないってわかってて、からかってるだけなんだから」
この町に来て数か月の俺でも、そんなことは絶対にないって、わかっていたのに。

祭り当日の人出は、いったいどこから湧いてきたのかと思うほどだった。実際町の外からたくさんの人が来ているようで、その人たちは町の出身者だったり、縁もゆかりもなかったりもするという。この町の持つ特色や、いまだに残る懐かしい祭りの空気が、この賑やかさをつくりだすのだと詩絵さんは言う。
「さあ、神輿行列が終わったら忙しくなるよ。子供たちと戦わなきゃいけないからね」
「戦う?」
「中学生以下は商店街で値切り交渉ができるんです。商店街の大人たちは子供におまけをしつつ赤字を出さない加減をしなければならないし、子供はお小遣いの範囲内で祭りを最大限に楽しむために本気でかかってくるんですよ」
中学生以下の特権なら成彦君だってできるはずなのに、彼は店の手伝いにまわるようだった。俺に任されたのは呼び込みと、商品となる大量の蒸しパンを運んでくること。祭り限定の商品だそうで、このためにわざわざ来てくれる人もいるのだとか。
「町に来て一年目なら、お祭りを楽しんでほしいところだけどね」
そう言いながらも、大きなケースを重ねて渡してくる奥さんは容赦がない。表に出るともう人が集まっていて、成彦君が普通に応対をし、詩絵さんが子供たちを相手に値切りに応じていた。何人かの子供のグループの、一番威勢の良い子が前に出るようだ。かと思えば、次はおとなしそうな子が頑張っていたりして、見ているだけでも面白かった。
詩絵さんもああして育ってきたんだろうか。それとも昔から店の手伝いばかりしていたのか。どちらにせよ、人と接しているときの詩絵さんは、幸せそうで眩しい。
「松木君、次お願い」
「あ、はい」
見惚れていたら、あやうく仕事を忘れかけた。慌てて次のケースを取りに行き、戻ってきたら、見知った顔があった。千花さんと春さん。こちらに気づいて、手を振ってくれた。
「いらっしゃいませ」
「松木君だ。バイト忙しいでしょう」
「楽しい忙しさですよ。地元じゃ、こんなに盛大な祭りはなかったから」
応えると、女の子たちは嬉しそうにしていた。俺が相手をしたことよりも、祭りを褒めてもらったことに対して喜んでいるのは明白だ。この町の人は、本当にこの祭りを大事にしているようだから。
二人も蒸しパンを多めに買い込んで、「邪魔しちゃ悪いから」と他の店に移っていった。仕事をしながら詩絵さんから聞くことによると、意外にも、かつて値切り上手だったのは春さんらしい。詩絵さんが一番上手なのかと思った、と言ったら、よく言われるんだけど、と苦笑いされた。
「アタシがやっちゃだめでしょ。商店街の娘なのに」
「それはまあ……そうか。でもそれなら、詩絵さんは祭りで遊んだことはないのか?」
「あるよ。店の手伝いも、遊びも、この時期は全部全力。最後の花火大会はちゃんと見に行くつもりだし。あ、松木君も行く? そこの山の、展望台に行こうと思ってるんだけど」
色野山っていうんだよ、と指さしてくれた山は、俺がここに来たばかりの頃には桜色に染まっていて、今は夏の鮮やかな緑が映えている。あそこには展望台なんかあったのか。
「良い場所だから多少混むけど、嫌じゃなければ」
「とんでもない。行ってみたい」
「じゃ、決まりだね。たぶん春と千花も来るから。……まあ、あの子たちは彼氏連れだと思うけど、気にしないでね」
彼女らが彼氏を連れてくるというなら、詩絵さんと一緒に行ける俺は、どんなふうに見えるんだろう。それを思うと、また心臓がうるさく主張を始めた。一生のうちの鼓動数が決まっているという説が正しければ、俺は早死にするかもしれない。夏休みに入ってから、詩絵さんに出会ってから、たぶん寿命が縮まった。それを嫌だとは思わないが。

祭り二日目の夕方、蒸しパンをうまく売り切って店じまいをした加藤パン店から、俺と詩絵さんは山に向けて出発した。出店の骨組みは俺と店の旦那さんで片付けたので、もう力仕事は大丈夫、ということだった。
「姉さん、早くしないと場所なくなるよ。松木さんに花火を見せてあげるなら、もう行かないと」
「えー、でもまだ洗い物残ってるじゃん」
「そんなの僕がやるから」
成彦君が送りだしてくれて、俺は詩絵さんと並んで、商店街を歩き始めた。どこも出店をしめているところで、ちらほらと最後のおまけを貰っている小学生が見える。この道をずっと東端まで行き、そこから住宅街に入って抜けて、登山道の入口へ行くのだという。結構時間がかかりそうだったが、詩絵さんは歩くのが速いので、それに合わせていればあっというまだった。
「体力あるんだな」
「まあね。アタシ、体育教師目指してるから。中学の時に担任持ってもらった先生と約束したんだよね、先生みたいな教師になるって」
体力はともかく、教育論とか憲法の履修が不安なんだよね。そう言って口をとがらせる詩絵さんは、やっぱり女の子だった。出店を訪れた小学生や中学生、同年代以上の人々にも「女大将」と揶揄されていたけれど、俺にはどうやっても可愛く見える。
登山道を行く途中で、年配の方から「相変わらず男前な姿勢だねえ」なんて声をかけられていても、それに笑顔で応える詩絵さんは女子だ。一方の俺は「男のくせになよっとしおって」と背中を叩かれたが、これでも男なのだ。詩絵さんに負けてはいられない。
ようやく到着した展望台は、詩絵さんが事前に言っていた通り、人が多かった。その中に春さんと千花さんの姿をそれぞれ見つけると、詩絵さんは小さく手を振っていた。駆け寄ったりしないのは、彼女らの横に、男の姿があったからだろう。春さんの隣にいた男は、こちらに気がつくと、片手を挙げていた。詩絵さんとも知り合いらしい。確認してみたら、「あれも中学高校の同級生」ということだ。
「春たちは中学の終わりから、千花は先輩と付き合ってるんだけど、あっちも高校から。良いカップルだよ、ちょっといちゃつきすぎだとは思うけどね」
俺も詩絵さんといちゃつけるようになりたいんですが、とは言えず、「へえ」とだけ返事をしておく。そんなことを考えるようになるなんて、俺はかなり、詩絵さんのことが好きになっているようだ。
例えば花火があがったときに告白できたら、それはロマンチックかもしれないけれど、この人出では声が届かない可能性のほうが高い。それに他の人に聞こえたら、それはそれで恥ずかしい。この町では噂があっという間に広まるというから、それで詩絵さんに迷惑をかけても申し訳ない。
陽が沈んだ空に、最初の花火が打ち上がる。空を見上げる詩絵さんの横顔を、俺は横目で盗み見ている。
「あ、星型」
詩絵さんの呟きに慌てて空を確認しても、そこにはもう形を成していないちらちらとした光が落ちていく景色があるだけだ。せっかく花火を見に連れてきてもらったのに、あまり記憶に残らなかった。

祭りが終われば、この町は秋へと移っていく。詩絵さんがまた町を離れる日も近付いて、それでも俺は自分の気持ちを伝えられなかった。
「今度帰ってくるのは冬かな。正月休みなんて短いから、ちょっとだけだけど。そのときには松木君も実家帰るでしょ?」
「うん、まあ……
たぶんそのときこそは、帰らざるをえないだろう。ということは、次の春休みまで、詩絵さんには会えない。パンの入った袋を持つ手に、力が入る。
「詩絵さんの明るい声がないと、パン屋寂しくなるんじゃない?」
「そんなことないよ。お母さんもあれでなかなか活発だし。でも、どうしても寂しいっていう人がいるなら、連休とかに帰ってきてもいいけどね。アタシの大学、一応県内だし」
にやっと笑う詩絵さんは、はたして俺の気持ちを知っているのかいないのか。知ってたとしても、この人は意外に自分に自信がないから、「一時の気の迷いだろう」なんて流しているかもしれない。
その自信を持たせるのが、俺ならいいなんて思うけれど、今のいくじなしのままでは到底できない。俺ももっと精進しなければ。この町で、彼女を待ちながら。