礼陣駅前大通りに面する居酒屋に入ると、迎えてくれたのは高校時代の同級生だった。学生時代からアルバイトをしていて、そのまま社員に登用されたらしい。
「日暮はもう来てるよ。ごゆっくりどうぞ。……進道や里がいないと、なんか変な感じするけど」
周囲から見てもそう思うらしい。それくらい、高校時代は、いや、大学に入ってからも、よく一緒につるんでいた。自分は遠く北国の大学に行ってしまったので、帰省したときだけ集まっていたが。
今回は二人だけでの飲み会だ。とはいえ、アルコールはなしだが。車で来てしまったし、そもそも自分も黒哉も飲めない部類に入る。
通された席で、黒哉がスマートフォンを弄っていた。こちらに気づくと片手を挙げて「お疲れ」と呟くように言う。
「お疲れさま。どうだ、仕事は?」
「まあなんとか。井藤先生に助けられまくってるけど。連は?」
「メモをとりながらやっとだな。まだ覚えなきゃいけないことがたくさんあって、余裕がない」
「そんなもんだよな」
社会人といわれるようになって、まだひと月もない。不安だらけ戸惑いだらけで、毎日必死になっていたら、黒哉から連絡があった。せっかく帰ってきたのだから、礼陣で食事でもしないかと。
連と同じくこちらに就職を決めて帰ってきた里も誘ったらしいが、先ほど「残業で行けない」と返事があったという。彼は彼で、忙しいようだ。そう思うと、定時で帰れる自分はまだいいのかもしれない。
「毎日実家から門市まで通ってるんだろ、連は。朝早くないか?」
「御旗から道路が通ったから、昔よりは楽に行ける」
「運転慣れてるんだろうな」
「おかげさまで」
会話が途切れがちなのは仕方がない。連も黒哉も、もともと話すのが得意な方ではないし、話題といっても仕事のことばかりだ。いつだって潤滑油の役目は、里や海だった。――海は、まだ学生をやっている。県外にいるので、しばらくは会えない。
だが、手が空いていればスマートフォンを通じて会話をすることができる。ウーロン茶と何品か食べ物を注文してから、連からメッセージを送ってみる。そのほうが反応があるのだ。案の定、そう待たずに着信音が鳴る。
「暇だそうだ……けど、本当かどうかわからないな」
「オレが送ったら忙しいって言うかも」
そういうヤツだ、と黒哉が笑った。それでようやく、連も気を緩めることができた。
[黒哉といるんですか?]と連に。
[お前なんで連さん勝手に連れてきてんの]と黒哉に。
海の態度が相変わらずで、酒も入っていないのに愉快だった。
仕事のことを考えずに笑えたのは久しぶりだということに気づくと、今日までどれだけ緊張していたかを思い知らされる。地元に戻ったとはいえ、慣れない会社に落ち着かず、娯楽も手につかない日々が続いていたのだ。
進学先ではなく、地元の企業にあたりをつけて就職活動をしたのは、長期休みのたびに帰るのが楽しみだったからだ。こっちのほうが気が楽だと思っていた。一人っ子でもあったから、そうして暮らした方が自分のためにも家族のためにもなるだろうと考えていた。でも、現実はそんなに単純なものではない。
どこにいようと、大変なものは大変だし、それを乗り越えていかなければならない。そんな当たり前のことに、躓き、疲れていた。――疲れていたのだと、たった今、気付いた。
「……おい、海からずるいだのなんだのってすごい送られてくるんだが。何送ったんだよ?」
「黒哉のおかげで気分転換ができてるって」
「道理で」
遠くにいる海も、目の前にいる黒哉も、疲れてはいないだろうか。黒哉は何を思って、食事に誘ってくれたのだろう。
「黒哉」
「なんだ」
「気を遣ってくれたのか。俺や里を心配して」
「そういうのじゃない。またこの町で集まって飯が食えるんだなと思っただけだ」
サトは来れなかったから次の機会だな、となんでもないように言う黒哉は、上手に「社会人」をやれているのか。そういえば、中学校教師をしている彼は、他の先生に助けてもらっていると言っていた。周囲になかなかなじめない連とは、違うのかもしれない。
「緊張しないのか、仕事」
「するぞ。初日はがっちがちだったし、今でもよく噛む。まともに授業ができているか、振り返る余裕もそんなにない」
「それにしては落ち着いているように見えるが」
「……まあ、それは。もっと面倒なことを知ってるからな」
そうだった、黒哉はもともと、当たり前のことに動じるような人物ではない。緊張もうまく隠せる、というより、感情表現がわかりにくいのだ。
「連も緊張してたのか」
「かなり。うまくやらなければならないと思うと、余計に」
「だよな」
海もさっさと味わえばいいのに、という言葉をたぶんそのまま打ち込んで、送ったのだと思う。連のところにも追加のメッセージがきた。
[まだ学生やってる俺じゃ頼りないと思いますけど、疲れたら連絡ください。話し相手くらいはできますよ。]
だろうな、と頷いた。この町で出会った人々は、連に優しい。
隣町の御旗で生まれ育ち、そこであまり上手に人間関係を築くことができなかった連だから、高校からこの町に通うようになってからは楽しかった。中学時代からは考えられないくらい友人ができて、どんどん親しくなった。
これならよそでもやっていけるかもしれないと、思い切って飛び出してみたら、たしかに昔よりはうまくやれた。でもやっぱり礼陣に戻りたくなって、どうせあちらの寮も出なければいけないということで、帰ってきたのだけれど。――単純に順調に進むなんて、甘くはなかった。
「俺は社会人に向いていないかもしれない」
思いつくままに弱音を吐いて、ウーロン茶をあおる。店員が注文を間違えて、ウーロンハイでも持ってきたのではなかろうか。それとも心を開ける相手が目の前にいるから、極端なことを言ってしまうのか。
「そのうち慣れるんじゃねーの? ……オレたち、礼陣の環境に順応しただろ」
黒哉は注文用のタッチパネルを弄りながら言う。そういえば黒哉も、元はこの町の人間ではないのだった。礼陣に来て、その環境に慣れて、変わった。
そう思うと、「向いてない」と判断するのは、まだ早いかもしれない。今の環境には、たとえば海のように自分を全肯定してくれる稀有な人間はいないし、それぞれに仕事があって忙しいから、黒哉のようにじっくりと愚痴を聞いてくれる者も時間もまだない。けれどもそれを構築するためのきっかけが何かしらあれば、案外良い方向に物事は動くかもしれない。いや、動かせるかもしれない。
結局、自分が動かなければ、何事も変わらないし、変えることはできないのだ。弓道を始めたときだって、高校入試の時だって、大学受験のときだって、そうだったじゃないか。
余裕はたしかにほとんどない。でも、わずかに残っている「まだ頑張れる」という気持ちに、今はかけてみよう。
「あー、でも無理すんなよ。病んだら元も子もねーから」
心配してくれる友人も、そう遠くないところにいるわけだし。
「ありがとう。……黒哉は、何かないのか?」
「しいていうなら、自分があんまりよくない中学生活送ったから、生徒に影響しないかどうか気を遣ってる。オレみたいなのを出さないために、教師になろうって思ったんだから、良い先生にならなきゃな」
「黒哉ならなれる」
「海と違って、連は断言してくれるから嬉しいよな。アイツに同じこと言ったら、たしかにお前みたいのが増えたら礼陣の環境が酷いことになる、なんて言うんだぞ」
「海じゃないといえない台詞だな」
噂をすれば、また追加のメッセージ。二人で飲みながら、三人で会話をする。そのうち残業が終わったらしい里が加わって、結局四人でのグループ会話になった。今からでも来るか、と里に訊いたら、疲れてもうだめだー、と返信があったが、たぶん遠くにいて来られない海に気を遣っているのだろう。もちろん、疲れてもいるのかもしれないけれど。
新社会人の、飲みの夜はまだ続く。店に入ったときに迎えてくれた高校時代の同級生が、奢りだ、とおまけをつけてくれた。