礼陣には鬼がいる。彼らは不思議な力を操るが普通の人間には見えず、しかしながら礼陣の人々はその存在を認めている。ここが山に囲まれた閉鎖的な里だった昔から、土地が広がり山向こうの人とも簡単に行き来ができるようになった現代まで、それはなぜか変わらず残っている「常識」だ。
鬼を見ることができる子供「鬼の子」も少なくない人数がいて、申し合せたわけでもないのに同じ証言をする。ある人は集団ヒステリーの一種ではないかと説いたそうだが、それだけでは説明のつかないことも多く起こっている。
その謎を解き明かそうと、あるいは鬼がいるものなら見てやろうと、興味本位で町にやってくる人間も情報が広まるにつれて増えた。町はここぞとばかりに彼らを歓待し、お土産をたくさん持たせて帰らせる。その最たるイベントが、八月の半ばを過ぎた頃に開かれる、夏祭りだ。
――と、いうのが人間たちから見た鬼と、それに関連する話の一部。土台は、鬼とはこの町を守る神であるという信仰と、事実。
興味にかかわらず、外からやってきて住みつく人ももちろんいて、やってきてそう経たないうちに町に巻き込まれていく。
鬼を祀るために古くからある神社、礼陣神社。子供たちは「鬼神社」とも呼ぶそこは、広い境内をもち、子供たちが禁忌さえ犯さなければ自由に遊ぶことができるようになっている。拝殿脇には縄跳び用の縄やボールなどが用意され、いくつかの樹木には登りやすいように節やこぶがわざと残してある。
そもそも礼陣の鬼は、子供を守る神様なのだと言い伝えられていて、いつからいるのかわからない「神主」もそう語る。住んでいる地区を問わず、ここに来ればまず退屈することはないので、とくに小学生以下の子供たちはこの場所に集合するのが定番だ。
子供たちを見守るのは、神社にときどきいる巫女や、地域の大人たち、そして鬼。鎮守の森に入らない、ご神木には登らない、参拝に来た人の邪魔にならないよう気をつける、といった決まりを年長者から代々受け継ぎながら、ここで子供たちは育っている。
長縄跳びで遊ぶ、学校も学年もばらばらの子供たちの様子を、今日も鬼たちが赤く光る眼を細めて見ていた。体の小さい、人間の子供とそう変わらない姿をした子鬼らは、遊びにまざることもある。気づくのは鬼が見える鬼の子だけだが、「いるよ」と言えば見えない子もそういうものだと振る舞う。
縄を回す小学六年の女の子、沙良も、鬼をその目に映すことのできる一人だ。沙良の視界には、一緒に遊ぶ同い年や年下の人間の子供たちと一緒に、頭に二本のつのをもつ鬼たちも、当たり前のようにおさまっている。もっとも、二年ほど前までは、当たり前ではなかったのだけれど。それどころか鬼という存在すらも、沙良にとってはお伽噺の中のものでしかなかった。――小学四年生になる直前までは、沙良はこの町の子供ではなかったのだ。
両親を事故で亡くし、この町に住む伯母に引き取られ、それから異形を見るようになった。二本のつのと赤い眼という共通項はあれども様々なかたちをしている鬼は、当時の沙良にはそう表現するしかなかったのだ。
彼らが見えるのはこの町ではおかしいことではないのだと、伯母をはじめとする町の人々は教えてくれた。そして鬼自らも、そう自己紹介した。彼らの存在とこの町の常識に慣れた今の沙良には、鬼の友達までいる。
その最もたる者が、まさにこの瞬間、沙良の回す縄を跳ぶおかっぱ頭の子鬼と、縄跳びを傍で面白そうに眺めている人間の成人女性のような姿の鬼だった。
おかっぱ頭の少女の子鬼は、自分を子鬼とそのまま呼ばせる。他にも子鬼と称せるものはいるのだが、ちゃんと特定できるのだそうだ。そもそも鬼には別個の名前というものを持たないのだと、教えてくれたのはこの子鬼だ。
一方成人女性の姿の鬼は、初めから「美和」と名乗ってきた奇特な鬼だ。なんでも、この名前は大切な人間から貰った大切なものなのだとか。他の鬼の子や、鬼が見えない子供までも、彼女のことだけは「美和鬼様」だとか「美和さん」と呼んで親しんでいる。
ああ、それからもうひとり。小さすぎて隠れがちな、けれどもいつも沙良の近くにいてくれる、豆粒のような鬼がいる。そんななりだが沙良がこの町に来て初めて言葉を交わした鬼で、名付けもした。沙良は「豆太」と呼んでいる。
人間たちと、鬼たちと、どちらとも交流をすることのできる沙良を、よそ者扱いする人はいない。沙良は礼陣の子供だと誰もが認め、自分でも堂々とそういえた。
ひとしきり遊んだ子供たちは、境内から続く石段の下の菓子屋におやつを買いに行ったり、木の下に座って休んだり、今日は遊び尽くしたからと帰ってしまったりする。沙良は何人かの友達に手を振って、自分は参道脇の木陰に腰を下ろした。すると子鬼と美和が寄ってきて、一緒に座る。豆太は沙良の肩の上が定位置だ。
「子鬼ちゃん、一緒に遊んでて疲れない? 今日は結構長く、縄跳び続いちゃったけど」
『私はいくら遊んでも平気だぞ』
「美和さんは? 見てて途中で欠伸してたよね」
『ごめん。今日、天気いいからさー』
沙良は動くのも好きだけれど、こうして誰かとゆっくり話をするのがもっと好きだ。子鬼や美和の豊富な知識を、豆太と一緒にふむふむと頷きながら聴いているのは、心地よいひとときとなる。見た目とは逆に、子鬼は昔話を、美和は最近の噂などをよく話してくれる。実際、年齢も子鬼のほうがずっと年上で、美和は鬼の中でもずっと若い方なのだという。豆太はもっと幼く、二年前に出会ったときはまだ生まれたばかりだった。
『おー、向こうの子たちゲームやってるね。最近発売になったやつ』
「美和さん、もう知ってるの?」
『当然。ステージ3のボスって意外なキャラなんだよね』
「まだ言わないでよ。わたし、やってすらいないんだから」
だが抵抗むなしく、ゲームをしていた子たちがこちらへやってくる。彼らの目的は、ゲームの攻略法を美和に尋ねることだ。この二年で何度同じことがあったことか。
「沙良姉ちゃん、美和鬼様そこにいる?」
「どうしてもボスが倒せなくてさ。まさか今までレベル上げまくってた味方が、そのままボスになるなんて思わないもんな」
やっぱりネタバレされた。苦笑いしながら、美和が得意気に披露する攻略法を彼らに伝えた。鬼の見えない子供たちは、よく沙良を通訳にして、美和に質問や願いを投げかける。美和は大抵の質問になら答えるし、願いはきける範囲できく。固有の名前があることと、ゲームやスポーツ、本の話題に明るいところが、子供たちに人気がある理由なのだ。
『……こんな感じで攻略できると思うんだけど、だいぶレベル上げちゃってたら、属性攻撃でなんとか粘るしかないよね』
こんなこと、他の鬼は言わないし、知らない。
「やっぱり頑張るしかないかー。ついでに明日の漢字テストなくしてほしいんだけど、美和鬼様にお願いできない?」
『それは無理。ゲーム一旦やめてテスト勉強したらいいじゃないの』
「……無理だって。勉強しなさいって言ってるよ」
「だよなー」
人間と鬼のあいだを取り持つことが、沙良は嫌いではない。ゲームや本の先の展開や、スポーツの試合の結果を知ってしまうことになっても、この役目を拒否しようとはしない。それが自分にできることだから、というのもあるけれど、約束もしたのだ。
――わたしのあとを引き継いで、沙良ちゃんにやってほしい。
その言葉に、小学四年生だった沙良は、しっかりと頷いたのだ。だから。
日曜日でも仕事に呼ばれれば行ってしまう忙しい人が伯母なので、沙良は家事もきちんとこなす。やりかたは子鬼や美和が教えてくれた。遊んだ帰りには商店街に寄って、今日の夕飯の献立を考えながら買い物をするのが日常だ。
「子鬼ちゃん、何食べたい?」
『今日の味噌汁は豆腐がいい』
「はいはい」
『まだサラダほうれん草残ってたよね。新玉ねぎがあったから買って一緒に食べたら?』
「美和さん、うちの冷蔵庫事情について本当に詳しいよね……。あ、豆太にビスケットも買おう」
お喋りをしながらの買い出しも、家に帰り着いてからの賑やかな夕飯の準備と食卓も、沙良の毎日の楽しみになっている。人間と食事をするのが好きだという子鬼にも、なぜかものが食べられるようになったのが二年前からだという美和にも、それから沙良と片時も離れたくない豆太にも、喜んでもらえる。何より伯母の帰りが遅くなっても沙良が寂しくない。
鬼がこの町にいて、自分に彼らが見えて、良かったと思うのはこういうときだ。ただひとりきりで知らない町に、寡黙な伯母に連れられてやってきたというだけだったら、沙良の時間は両親を亡くしたあの日で止まってしまっていたかもしれない。前を向こうと思えたのは、そうしなければこの町の特殊な部分を受け入れるのが難しかったからで、また特殊な部分を解ろうとしたからこそ前を向けたともいえる。自分で世界を開かなければ、世界に心を開かなければ、現在の沙良はなかっただろう。
顔をあげたから豆太に出会えた。子鬼が、美和が、手を差し伸べてくれた。沙良はそう思っている。もちろん助けてくれたのは、鬼だけではないのだけれど。
「ただいまー。……やっぱり伯母さん、まだ帰ってきてないか」
きっと遅くなるのだろう。沙良を引き取ったがために、伯母は忙しくなった。だったらせめて、美味しい夕食を作っておこう。家の玄関に荷物を置いて、靴を脱ごうとしたときだった。
『さらちゃん、誰か泣いてるよ』
それまで肩の上でおとなしくしていた豆太が、自分こそ泣きそうな声で言った。それを合図に、沙良の後ろについてきていた子鬼と美和の表情も険しくなる。そうして何かを探すように、外へ出て辺りを見回し始めた。
またか、と沙良も唇を噛む。これでも以前より、随分減ったのだそうだ。けれどもそれは、完全になくなるわけではないらしい。
人間が心を痛めるのと同じように、鬼も傷つくことがある。その辛さや苦しさが積もり積もって爆発すると、鬼は自分の力を押さえられなくなり、暴走する。その結果、他の者に害を与えてしまう。――そういう状態になってしまった鬼を、「呪い鬼」という。
沙良もこの町に来たばかりの頃、呪い鬼に遭遇してしまったことがあった。他の鬼とは違い、近くにいるだけで恐ろしさを感じるそれに、そのときの沙良はただ震えることしかできなかった。
けれどもそれは、当時の話。まだ沙良に、勇気と味方が足りなかった頃のこと。
「泣いてるなら、行かなくちゃね。豆太、道案内お願い。子鬼ちゃん、美和さん、今日もよろしくお願いします」
『まかせて』
『ちゃっちゃと終わらせて、ご飯食べに帰ってこようか!』
『遠くないといいんだがな』
玄関の鍵をかけなおし、沙良は夕暮れの町を走りだした。豆太が『近いよ』と言ったので、自転車はいらない。常にポケットに忍ばせている札と、仲間たちの助けがあればいい。
呪い鬼が人間に手を出してしまう前に、その苦しみを祓うため神社に帰してやるのが、「鬼追い」。この役目を担うのは鬼の子だが、いつも鬼追いができる者がいるというわけではない。沙良が役目を受け継ぐまでは、もう鬼の子としての力、鬼を見る能力が薄れてきてしまった高校生が、ほぼ独りで頑張っていた。呪い鬼に襲われそうになった沙良を助けるため、その人は竹刀一本と札一枚で戦った。
呪い鬼のこと、鬼追いのことは、その人から教わった。優しい心、他者を助けたいという強い思いが、人間と鬼の両方を救うことになるのだと知った沙良は、自分も鬼追いをしたいと、しようと決めた。決めるまでは、いくらかの時間が必要だったけれど。
沙良には呪い鬼を大人しくさせるための、つまりは戦うための武器がなかった。鬼追いをしたいと思っても、それを告げても、前任者は難色を示した。だが豆太が、そして美和が、沙良の楯になると申し出た。豆太は実際、助けがくるまで、自分の力で透明な楯をつくり、沙良を呪い鬼から守ってくれていた。小さいけれど力のある鬼なのだ。
そこに子鬼が加わり、沙良は鬼を使役して呪い鬼を帰すという、これまで例をみなかった鬼追いになった。これまでは、鬼が呪いを得る原因の多くは人間にあったため、人間と鬼の橋渡しができる鬼の子にしか鬼追いは務まらないとされていた。しかし美和が『鬼のケアなら鬼にできるはず』と主張して、そのとおりにこれまで鬼追いがやっていた町の見回りを請け負った。それでも間に合わなければ、豆太が礼陣全域から呪い鬼の気配を感じ取る。
沙良は呪い鬼のもとへ辿り着き、神社へ帰すための札を触れさせるために、勇気をもって前に進めばいい。慈しみをもって呪い鬼に近づけばいい。本当に人間にしかできないことに、集中することができる。――その方法は認められ、沙良たちは二年、この町を守っていた。
呪い鬼の作りだした空間に入ったときの、肌が痺れるような感覚も。暗く光る眼に射貫かれた胸の痛みも。ひとりじゃなかったから乗り越えてこられた。呪い鬼ももとは優しい鬼なのだと信じられたから、相手に触れることができた。
「武器がなくても……ううん、武器がないからこそできた鬼追いチームだね。これなら大丈夫。わたしのあとを引き継いで、沙良ちゃんにやってほしい」
胸に響くその声に頷き、沙良は地面を蹴る。泣き続けていた呪い鬼に向かって、札を持った手を伸ばす。
鬼追いを無事に終えて家に帰ろうとしたところを、後ろから呼び止められた。自転車で付近を見回っていた、警察官だった。
「そろそろ小学生がひとりで出歩くには遅い時間だよ」
「ひとりじゃないです。ちゃんと子鬼ちゃんと美和さん、それと豆太がいますよ。やつこさん」
沙良が笑顔で返事をすると、警察官――根代八子も「そうだね」と笑った。二年前はまだ高校生だった前任の鬼追いは、町の守り方を、鬼を見ることができなくなっても可能な方法に変えていた。
「沙良ちゃん、ちょっと見ない間に立派な鬼追いになっちゃって。神主さんと愛さんも褒めてたよ。成功率百パーセントだから安心して任せられるってさ」
「うまくいくのは、鬼のみんなが助けてくれるからです」
「助けてくれるのは、沙良ちゃんが一生懸命で優しい、良い子だからだよ」
家まで送ってくれた八子は、沙良たちを褒めちぎって、駅のほうに向かって行った。見送ってから鬼たちに振り返る。
「ご飯、作ろうか。みんな頑張ったもんね」
礼陣には鬼がいる。彼らとともに暮らす人間がいる。昔から続いてきた関係は、少しずつかたちを変えながら、土地での暮らしを守っている。
鬼が人間を愛しんでくれるように、人間も鬼を愛しもうとしている。
「お腹空いたー。伯母さんはまだみたいだし、先に食べてようか」
『うむ、いただこう』
『いっただっきまーす。やっぱり食べ物を味わえる体って良いねえ』
『さらちゃん、さらちゃん、びすけっと』
「はい、豆太の分のビスケット。いっぱい頑張ってくれたもんね、いつも守ってくれて、本当にありがとう」
町で生まれ育った者も、外からやってきた者も、礼陣の町で暮らすのならば、その「常識」のもとで生きる。互いに互いを想う心を、胸に育てながら。そうして日々を過ごすのだ。それは一時的な興味や疑いになど負けるはずもない、強い強いもの。