かかりつけの病院まで、いつもなら歩いてでも行けるし、そうするところだ。でも今は、そんな悠長に構えていられないし、そもそも動くことすらできない。
大助は兄と叔父から贈られた中が広い車の、助手席に亜子を乗せた。そしてはたと、やっぱり後部座席のほうが良かっただろうかと思う。考えるより、今はとにかく行動しなければならないのだが、どうにも混乱してうまく振る舞えない。
兄は、甥が生まれる時、どうしていただろう。何度も聞いたはずなのに、肝心な時に思いだせないのだった。
「大助」
ぐるぐるとかきまぜられる頭に、細くもしっかりとした声が響く。そこでようやく、はっとした。
「どうした、亜子。苦しいのか」
「そうじゃなくて。……もう、あんたが慌ててどうするの。わたしは大丈夫だから、このまま車出して。落ち着いてよ」
大助はもちろん経験したことなどないが、陣痛には波があるという。先ほど痛がっていた亜子は、この瞬間はどうやら冷静なようで――痛くないとは限らないが――呆れたような笑みさえ浮かべていた。
もしも今日が平日なら、亜子は痛みを堪えながら落ち着いてタクシーを呼び、病院に向かったかもしれない。大助がいないのだったら、きっとそうしていた。そして大助へは、電話での連絡だけがいっていただろう。ここから職場までは少々距離があり、毎朝車で数十分かけて通勤しているのだ。帰って来るのにも当然同じ時間がかかる。どれだけ急いでも、道そのものが縮まってくれるわけはない。
そういうことを考えれば、やはり今日が日曜日で、本当に良かった。改めて深呼吸をすれば、少しは役に立てそうだ。
「よっしゃ、行くぞ!」
「お願いね。……多分この子も、もう出たいんだと思うんだ」
結構前から暴れてたし、と亜子が自分の腹を撫でる。その大きな膨らみを、大助もこの何か月かの間に幾度も撫で、手に伝わる「生きているもの」の感触を味わった。
「お腹蹴りまくってたからね、きっと大助に似てるよ。遠川狂犬ブラザーズ三代目、どう?」
病院に向かう道すがら、また亜子の呼吸が荒くなってきた。もうすぐ、本当にすぐに生まれてくるのだと、実感させられて少し焦る。
「今住んでるの遠川じゃねえし、複数いなきゃブラザーズにはならねえだろうが。いいから大人しくしてろ」
何度も同じやりとりをしているのに、いつもと違う。急いで病院に車を停め、荷物を持ちながら亜子を支えた。院内からスタッフが、こちらに気づいて走ってきてくれる。それで少し、ほんの少しだけ、安心した。
大丈夫だ、ちゃんと生まれる。何度も神社に通い、鬼に頼んだ。――子供を守ってくれる、礼陣の鬼に。もう見えないけれどたしかにそこにいる、彼らに。
『大助の子だ、守らないわけないだろう』
そんな声が、聞こえたこともあったような気がする。

父親になる、という実感はなかなかわかなかった。そもそも父親とは本来どういうものなのか、大助はよく知らない。大助自身の父親は、海外をまわって仕事をする人だった。仕事仲間でもあった母も常にそれに付き添っていて、大助と顔を合わせることはほとんどない両親だった。そうして大助が六歳になる少し前に、飛行機の事故で二人とも亡くなってしまった。
大助にとって父は土産を持ってたまに会いに来る人で、育ての親は十二歳離れた兄と七歳離れた姉、そして母の弟である叔父だった。もっというなら、向かいの家に住んでいた亜子の両親と、それからこの町に存在している鬼たちも。親代わりはたくさんいるが、血の繋がった両親のことはほとんど記憶にない。そんなことだから、いつまでも自分が父親になって本当に大丈夫なのか、悩むことになった。
亜子は「大丈夫」と笑っていた。大助は恵さんと愛さんの弟で、利一先生の甥で、鬼の子なんだからと。自分が受けた愛情を、子供にもかけてあげてと。
「だいたい、くーちゃんの世話ができてるんだから、自分の子供にそれができないってことはないでしょう。それでも何か不安だっていうなら、遠慮なく助けを求めたらいいじゃない。わたしはそうするつもりだよ。そのために礼陣に住んで、この町で家族をつくるって決めたんじゃないの」
兄の子、大助にとっての甥を可愛がりながら、亜子は言っていた。礼陣は子供を大切にする町で、そのために様々な面での助けを得ることができるようになっているのは、実際に親を亡くした大助が身をもって知っている。だから職場の近くではなく、この町で暮らしていくことを選んだ。
誰もが得られるわけではない条件を、大助は手に入れられた。それは心強く思っている。けれどもその支えは、子供を不幸にすることがあれば自分が排除されるということとひきかえだ。それも鬼の子――人間とは違う、力を持った者たちと交流することができた大助だからこそ、よくわかっている。
鬼は優しく慈しみ深いが、それを与えるに値しない者からは、ときに命さえも奪う。それだけの力を持っている。ときどき、子供が産まれたら自分は鬼に喰われるのではないかと思うことがあった。
そう考えて眠るたびに、夢の中で声がしたのだけれど。『大助を喰うはずがないだろう』と、少女のそれが。少し懐かしい響きが。
「なれんのかな、父親。俺でも」
何度目かの不安に、亜子が振り返る。変に力の入った足取りはもうおぼつかなくなっているのに、笑顔は強い。こいつは本当に母親なんだな、と、母をもよく知らないのに思った。
「なる」
断言するその口調が、表情が、……そうだ、あの声の主に、子鬼に似ていた。


はたしてその報せは、家族だけでなく町に、町の中のみならず外にまで、さらには海外へも飛んだ。あっというまに返事がくるのも、時代の流れを感じさせる。まったく、便利な世の中になった。
しかしさすがに産声までは届けられず、これは大助と亜子と、駆けつけてくれた兄と姉、亜子の両親、それから他の少しの人々だけの思い出になった。
子供は、たくさんの人々が待ち望んでいたその命は、無事に生まれた。それどころか声も体も大きく、元気で、曰く「大助にそっくり」らしい。
男の子であることは事前にわかっていた。だから名前も考えてあった。画数が良くないだのなんだのと揉めつつも、そんな運は乗り越えていくだろうと、大きく成長してほしいと願ったものだ。
[つまりごり押しなんだな]
海外にいる流からそんなメッセージが届いて、大助は声に出して「うるせえ」と返した。
さほど意識していなかったのに、兄の子の名前と、モチーフは似ている。いとこ同士仲良く育ってくれればいいのだが。
「紅葉には発音しにくいかもな。いや、兄ちゃんに似て賢いから大丈夫か?」
「そのうち呼べるようになるよ。……それにしても、さすがに抱き慣れてたね。うちの子で練習したかいがあったってものだ」
「別に練習してたわけじゃねえけど。それにこれからわかんねえよ。本当に俺に似てるなら、大樹は紅葉みたいに大人しくはしていないだろうし」
兄と話をしながら、これからのことを考える。やはりまだ、自分が我が子――大樹にとって良い父親になれるかどうかはわからないし、想像もできない。しかしたとえ父親が頼りなくても、この町には大樹が育つために、手を伸ばしてくれる人々がいる。人間も、鬼も。もちろん大助が父親として頑張らなくてはならないのだけれど。
「お父さん、こちらへ」
「あ、はい。……耳慣れねえなあ、お父さんって」
大助自身はほとんど使った憶えのない言葉だ。でもこれからは、そう呼ばれる。
「気分はどう? お父さん」
まだあやふやな声で、亜子が言う。
「こっちの台詞だ。……母さん?」
こちらもまたあまり使ったことのない言葉で、呼び返してみる。
四月十日、一力大樹が生まれて、一力大助は父になった。