礼陣出身者は、礼陣に帰せと。そんな密かな決まりがあるのだとか、噂が流れてきた。噂がばかにできないものであるということを、その礼陣出身者当人は、よく知っている。自分の身に起こったちょっとした出来事が、いつのまにか町で話題になっているという現象には、生まれたときから慣れっこだ。
とにもかくにも、噂通りにされたのか、単に希望が通ったからなのか、やつこは礼陣駅前交番で仕事をすることになった。根代巡査、と呼ばれることにはまだ慣れない。けれどもそう呼ばれるのはめったにないことなので、ほぼほぼ気楽に構えている。もちろん、手抜きはしないが。
「やっこちゃん、暇そうだね」
しかし基本的には平和な町、警察が出ていくほどの事件はめったに起こらない。せいぜいが駐車違反や自転車の運転を取り締まるくらいで、たまに他の場所で勤務している人々と会うと、「そっちは暇でいいねえ」なんて声をかけられることもあるそうだ。本当に羨ましいのか、それで給料をもらっているなんてなどといった意味の嫌味なのか、はかりかねるところもあると先輩は言う。こののんびりした先輩もまた、礼陣の出身だ。つまりはやつこと同じ境遇なのだった。
そもそもやつこは、警察官になると決めたときから、礼陣で働きたいと思っていた。かつては鬼が見え、呪い鬼を追い、陰ながら町を守ろうとしていたやつこだった。だが大人になるにつれ、他の多くの鬼の子と同じく、視界に鬼をとらえることはできなくなっていった。気配はまだうっすらと感じられるが、もう鬼追いはできない。子供の頃と同じようには、町を守ることはできなくなってしまった。
だから人間にできる真っ当な方法で、町を守る方法を考え、実行に移した。目的は変わらない。ただ礼陣の人々の助けになりたいと、そのための力を持っているなら鍛えて使わなければと、そうして選んだ道だ。
平和でいい。鍛えた剣道の腕も、訓練以外で振るうことがなければ、それはそれで良いことだ。相手が呪い鬼だった頃だって、そうだったじゃないか。そんなふうに言い聞かせながら、やつこは「暇です」と笑顔で頷いた。
「礼陣らしい、……わたしたちが過ごしてきた日常と同じ、ちょうどいい暇さですよね」
「そうだけど。でも暇な時は仕事を自分で見つけなくちゃね。書類整理するとか、掃除するとか、見回りに行くとか」
それなら見回りがいい。鬼追いだって、基本は町を見回って、鬼たちの様子を確認することだった。呪い鬼を神社へ帰すというのは、それが必要になったときだけのことで。
書類の整理や掃除は、神社でやっていることとほぼ同じだ。掃除はそのまま、書類に関しては社務所で手伝わせてもらった事務のようなものだろう。もちろんこれは例えだけれど、そう考えていれば大変なことではない。
鬼追いの経験は、人間と鬼の両方と関わったことは、ちゃんと人間の世界で役に立つ。
「今、僕らにできることは見回り以外のことだね」
「そうですね、わたしたちしかいないですし。じゃあ、掃除でもしますか」
鬼追いやっこはもういないけれど、より成長したやつこがここにいる。

夕方になって、本日分の日誌を書いていると、外から「やっこちゃん」と声がかかった。この交番に勤務している人々は、ほとんどが礼陣出身者だけあって、こうして名前で呼ばれることが多い。それも、耳慣れた呼び方で。
やつこが椅子ごと体を回して振り向くと、小学生の頃からの親友たちが笑って手を振っていた。
「お仕事、お疲れさま」
「差し入れって、持ってきても良かったのかな」
「ゆいちゃん、さっちゃん! 学校ってもう終わる時間なの?」
立ち上がり、駆け寄って二人の手をとる。春とはいえ、まだ夕方は少し肌寒く、握った手も少し冷えていた。先輩に許可をとって、室内に招き入れる。差し入れにと持ってきてくれたお菓子は、一応公務員である手前、受け取れないのでその場で広げて、二人に出した。
結衣香と紗智は、北市女学院大学の二年生になったばかりだ。やつこの礼陣着任が決まったとき、大喜びで「おかえり」と言ってくれた。頻繁に連絡もくれていたので、しばらく離れていても、疎外感はなかった。やつこがいないあいだの町の様子も、二人を通じて知ることができた。
日誌をきりのいいところまで仕上げてしまってから、礼陣銘菓おにまんじゅうを頬張る二人に向き直る。
「ごめんごめん、お待たせ」
「ううん、お仕事中なのにおしかけてきたのがいけなかったんだし。さっちゃんはね、止めてくれたんだけど。わたしがどうしてもって言ったから、ついてきてくれたんだ」
「ゆいちゃんだけやっこちゃんに会いに行こうなんて、ずるいじゃない」
差し入れが駄目だってことまでは気がまわらなくてごめん、と紗智が謝る。礼陣駅前交番は空気が緩く、近所の人がよく果物やお菓子を置いていこうとするので、友人たちがつい厚意で持ってきてしまうのも無理はない。やつこ自身も少し前、受け取ってしまいそうだったところを先輩に注意されている。
そういう先輩も本来は美味しいものに目がない人なので、御仁屋の箱をうらめしそうに見ていたけれど。
「学校はね、今日はわたしもさっちゃんも早く終わったの」
「そのうち忙しくなるから、こうやってのんびりしていられるのも今のうちだけど。やっこちゃんは、仕事大変?」
「うーん、学校で習ったこととか訓練したことよりは、ここにいるほうが楽だよ。昔からずっとやってたことの延長みたいで」
暢気な返事をするやつこに、先輩が「こら」と言う。舌を出したら、結衣香と紗智に笑われた。ちょっとは仕事らしいことをしようと、二人の通う学校のある北市地区付近の様子を聞いたが、特に変わったことはないという。
けれども紗智は、少し考えてから「しいて言うなら」と言葉を続けた。
「たぶん、今年から礼大に来た人たちだと思うんだけど。社台のほうでよく騒いでるみたい。神社にゴミとか捨てていくんだって、小学生の子たちが怒ってた」
「大学生かー……。この町で怒らせると怖いものを、まだ知らないな」
礼陣大学の学生で、よそからやってきた者には、毎年そういった輩がいる。町のことがわかってくると、実は人々に常に見張られているということに気がついて、次第におとなしくなるのだけれど。たしかによそから見ればちょっと怖い地域だ、と思ったのは、やつこ自身が礼陣を出てからだ。
「ありがとう、気をつけてみるよ」
「何かあってからじゃ遅いもんね」
何か、というのは、彼らが人に迷惑をかけるということと、彼ら自身が酷い目に遭うということの両方を指す。そしてその何かのために、やつこたちはいる。――これがきっと、礼陣の人間は礼陣に、といわれる所以だ。
「すいませーん!」
「大変、大変なんです!」
大声をあげながら交番に駆け込んできたのは、小学生の一団だ。学校帰りに寄り道をしていたのを叱れるような雰囲気ではない。一部の子は泣きそうになっている。
やつこは子供たちに駆け寄り、落ち着いて尋ね返した。
「何があったの?」
「大人の人たち……ええと、たぶん最近神社にゴミを捨ててる大学生だと思うんだけど」
「鎮守の森に入ってっちゃったの! 出てこられないかもしれない!」
一番後ろにいた女の子がとうとう泣きだしてしまう。結衣香と紗智が子供たちを宥めに立った。やつこは先輩と顔を見合わせ、心の中で呟いた。――遅かったか。
「わたしが行ってもいいですか。……森には入れませんけど」
「でもやっこちゃん、まだ気配はわかるって言ってたよね。任せていいかな」
この事態は、礼陣の人間でなければ解決できない。礼陣を知っていなければ正しい行動がとれない。だからこそ、やつこは礼陣に帰ってきたのだ。
「根代八子、行ってまいります!」

鎮守の森に入ってはいけない。そこは人間の世界ではないから、出てこられなくなってしまう。そんな礼陣の常識を、外から来た人間は知らない。
捜しに森に入れば行方不明者が増えるだけだ。たとえ鬼が見える者でも、勝手に森に入って簡単に出ては来られない。頼みの綱はその場を支配する鬼。
――
ああ、みんないる。もう見えないけど、ちゃんとわかる。
神社の境内のあちこちに、鎮守の森を気にする鬼たちの気配がある。やつこに助けを求めている。鬼追いができなくなってしまった、かつての鬼の子である自分を、まだ頼ってくれている。
……外から来た人でも、ここにいる期間が短くても、みんな人間が好きだもんね。できれば、助けてあげたいよね」
鬼と人間を繋ぐことが、大人になってしまったやつこにもできるというのなら。その役目を果たそう。
社務所に走り、鍵のかかっていない引き戸を思い切り開ける。そしてそこに住まう彼を、声を張り上げて呼んだ。
「神主さんっ! いいえ、大鬼様! 鎮守の森に入った人間を、助けてあげてください!」
彼だって、起こったことを知らないわけではないだろう。でも、人間のしでかしたことは、人間でなければ始末をつけられない。人間であり鬼と心を通わせられたやつこが頼まなければ、彼も動けないのだろう。それは鬼追いをしていたから、彼の近くにいたから、理解している。
「やっこさん、来てくれてありがとうございます」
社務所の奥から、青年の姿をした彼が歩いてくる。やつこがいくら年を重ねても、彼の姿は少しも変わらない。それはつのこそ見えないが、神主と呼ばれるその人こそが、この町の鬼をまとめる者だから。――大鬼という、存在だからだ。
「あなたが願ってくれたから、私も堂々と彼らを助けることができます。……さて、森に参りましょうか。ほんの少しだけ待っていてくださいね」
微笑んでから、き、と空と森との境界のあたりを睨み。大鬼は風のように、やつこの脇を過ぎていく。鎮守の森へ向かって、一直線に。
……お願いします、神主さん」
森に入った人間たちは、まもなく帰ってこられるだろう。彼らに説教をするのは、人間である自分の役目だ。そのためにやつこは待っている。見えない鬼たちに「もう大丈夫だよ」と声をかけながら。鬼追いだった頃と同じように、鬼たちを慰める。
そうしているあいだに、森に入ったという大学生たちが、きょとんとした顔で帰ってきた。ほ、と一息ついてから、すぐに眉を寄せ、やつこは彼らのもとへ歩いていった。

「今年もやっぱりやらかしたけど、やっこちゃんのおかげでスピード解決だね。さすが鬼の子」
「元、ですけどね。何度も言いますけど、もう気配くらいしかわかりませんし。実際あの人たちを森から出したのは神主さんです」
帰りがけに再度先輩に褒められ、やつこは少し照れる。まだ鬼の子と呼ばれることが、鬼と人間の両方と関われることが、嬉しかった。力を失いつつあっても、役に立てるのだ。
――
帰ったら、うちの鬼さんに報告しよう。わたしはまだまだこれからだ。
もう鬼追いではない。子供でもない。けれどもやつこは礼陣の人間で、誰かを助けることができる。
――
わたしは、ここにいる。ここにいよう。
そのために選んだ道だ。そしてその道は、まだ先へ長く続いている。