幼馴染の家を訪れると、とはいっても当人は遠い町で独り暮らしをしていて今はいないのだが、一人残った家主が優しい響きの声で返事をして戸を開けてくれた。
「おや、春さん。いらっしゃい。今日はどうしました?」
「おすそわけに。色々作りすぎちゃって」
ストレートの長い髪を揺らし、春が微笑むと、はじめは「これはこれは」と言いながら差し出された紙袋を受け取った。中には小さな保存容器がいくつか。春の得意料理の数々であり、同時にはじめが慣れ親しんだものでもあった。それらは、はじめの息子である海が、ずっと以前に春に教えたものだったから。
「ありがとうございます、夕飯にいただきますね。それにしても、本当にたくさん作りましたね」
「食材を山ほどもらったので。……おばあちゃんから」
おや、と、はじめが目を見開く。春が何の補足もなく「おばあちゃん」と呼ぶ相手は、一人しか思い当たらない。その人はときどきこの町にやってきては、たくさんのお土産を置いていくのだ。昔からそうだった。
「おばさん、来てたんですね。まだ家に?」
「いえ、昨夜来て、今朝帰りました。相変わらずです」
困ったように笑う春は、しかし、その人のことが好きだった。はじめもそうだ。彼女にはたまにしか会えないけれど、たしかに世話になっていたのだから。
はじめにとっての「おばさん」で、春にとっての「おばあちゃん」。何にも縛られず自由に生きたいと望み、それを実行しているその人は、年に数度この町にやってくる。須藤翁の元妻は、一所に誰かと留まっていることが難しい性質なのだった。
はじめと、その親友である須藤智貴が、小学校を卒業した翌日のことだった。
「あんたはもう、自分で生きていけるね。母さんはこの町を出ていくから」
智貴にそう言い残して、彼女は旅立った。卒業式より前に離婚届が提出されていたことは、その後に知った。智貴の父が最初から母の性分をわかっていて結婚し、生まれた子供が小学校を出るまで見届けたら、あとはその生き方を任せることにしていたということも。
智貴は、けれども寂しがることはなかった。母がどこかに行きたがることは常であったし、その日のために母が多くの「準備」をしてきたのだとわかっていた。
「離婚じゃ鬼の子にはならないんだな。母さん、ときどき帰ってくるつもりだからか」
「智貴は暢気だね」
「そういう人だからな、母さんって」
そもそも父と結婚したのだって、お見合いで、「私は一人旅をしていないと落ち着かないんです」ときっぱり宣言したうえでのことだったという。大抵の相手はそれで諦めてしまうのだが、父は違った。
「そりゃ、自由でいいな」
感心して、笑って。見事に母を射止めたのだった。十年以上の結婚生活を送れるくらいに、母は父を、父は母を気に入った。それから母は、いつか家を出ていくことを計画しはじめ、父は母を解放する準備を始めた。
家を出た母は、それでも智貴が成長する過程で節目になる時期には帰ってきて、たくさんのお土産を置いていくようになった。はじめにも変わらず優しかった。
智貴の結婚が決まったときにはすっ飛んできて、嫁を褒めたものだった。孫が生まれたときも、嬉しそうに抱いて、「この子は千秋さんに似て美人になるよ。間違いないね」と断言し、また旅立っていった。
この忙しい人が長く家に帰っていたのは、おそらく、息子と嫁が飛行機事故に遭ったときだけだろう。それでも旅に出ていたことを、後悔することだけはしなかった。
乗員乗客全員死亡ということが発表され、合同葬儀が執り行われてからしばらくして、また旅に出たのだから。自分は空を飛ぶ鉄の塊を、少しも恐れることはなく。
「おばさんに会えたら、いろいろ話したかったのに」
はじめが溜息交じりに呟くと、春はふふっと上品に笑った。そうしていると、本当に母親にそっくりなのだった。
「おばあちゃんもはじめ先生のこと気にしてましたよ。そろそろ息子がいないことにも慣れただろうけど、大概寂しがり屋だからねって」
「もう……おばさんってば」
須藤家の節目だけではない。はじめに何かあったときも、あの人はどこからだって駆けつけてくれた。母のいないはじめにとって、その人は長いこと、母親のように接してきてくれたのだ。そして多分、今も。
「とにかく、おばさんが元気なら何よりです。春さん、お惣菜本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
もう一度にっこり笑って、ぺこりと頭を下げて、春は踵を返す。
はじめに渡した総菜のうちのいくつかは、「おばあちゃん」と一緒に作ったものだ。いつもよりも懐かしい味がするのではないだろうか。
あとで容器と一緒に返ってくるだろう感想を楽しみに、祖父と暮らす家へ帰る。ときどき帰る誰かを待つために。