礼陣の町に、また春が巡ってきた。この国では始まりの季節であり、人々が新しい生活に踏み出すときだ。この町にも、いくらかの人々が出ていったかわりに、いくらかの人々が入ってきて、新生活を始める。
生まれてからずっとこの町にいる子供たちにも、同じく新年度はやってくる。中央地区にある中央中学校も、新入生を迎え、一学年上がった生徒たちが登校する。
もちろん学校に来るのは、子供たちだけではなく。
「先生、おはよー!」
「井藤先生、またよろしくお願いします」
「うん、おはよう。また一年間よろしくな」
教師たちにとっても、気を引き締めなければいけない始まりの季節。そして、新しい仲間を迎える季節なのだ。――今年は、大学を卒業したばかりの、ぴかぴかの新任がやってくる。十年前、かつては井藤もそうだったように。
十年ひと昔とはよくいったもので、これまでいろいろなことがあった。同期の服部はそのあいだに他の学校へ転任し(とはいえ礼陣にいることは変わらず、交流は続いている)、三歳になる子供までいる始末だ。井藤自身も人生の節目を迎えようとしている。いつか担当した生徒たちはすっかり大人になって、町の内外で活躍していると聞く。ときどき商店街などで顔を合わせることもある。
そんな経験を、新しくこの学校にやってくる者もするのだろうか。もしかしたら、いや、おそらくは確実に、町の人々とは顔見知りのような気もするが。なにしろ新任教師は、高校時代を礼陣の町で過ごしたという。そんなことを教頭から聞かされた。
生徒たちが教室に集まるより早く、職員室では会議が始まる。今日の予定の確認をし――午前中に始業式と各クラスでの学級会、午後には入学式がある――最後に今年度からこの学校に勤める職員の紹介があった。こういうのを勿体ぶる人なのだ、今の校長は。
「……では、次に日暮先生。今年大学を卒業したばかりの新人ですから、よろしくお願いしますよ。井藤先生、彼があなたのクラスの副担任になりますからね」
たしかにそう言われていたが、それならもっと早くに紹介しておいてほしい。そうしたらこちらも、相応の準備ができたというのに。井藤は苦笑いをしながら、新任の彼を見た。なるほど、たしかに見覚えのある顔だ。彼が高校生のあいだに、町のどこかしらで見たのだろう。
「日暮黒哉です。社会科を担当します。よろしくお願いします」
きちんと礼をしたその姿に、十年前の自分、いや、服部の姿が重なった。井藤は緊張こそしていたけれど、もっと緩かったと思う。そしてそのあと、もっと緩むのだ。とある生徒に茶化されることによって。それを思い出すと、自然と苦笑は解けた。
井藤が今年担当するのは、二年生のクラスだ。昨年度からの持ちあがりだが、クラス替えがあったので、揃う顔ぶれは違う。だが学年どころか全校の生徒を丸ごと憶えている井藤には、誰がいても問題はない。憶えているというのは、なにも顔と名前だけではなく、所属している部活は当然、その性格や趣味、特技まで把握しているということだ。すっかりベテランになった井藤は、一応は生徒からの人気と教員からの信頼があるので、自然に情報は集まってくるのだった。
「これ、今年の二年A組の名簿な。顔と名前は早めに一致させておいた方がいい。まあ、日暮先生はイケメンだから、向こうから寄ってくるだろうけど」
冗談と本気を入りまぜながら、日暮にクラスの出席簿を渡す。「ありがとうございます」と受け取った彼は、名前をざっと見ながら、井藤に尋ねた。
「井藤先生は、もうこの学校で長いんですよね」
「まあな。新卒からだから、十年になる。なぜか異動の辞令がないんだよな。一緒に入ったやつは他の学校に行ったのに」
「服部先生のことですか? そういえばさっき、北中にいるって聞きました」
「……詳しいね」
元同僚の現在の勤め先を知っていることに対して、ではない。井藤と一緒に入ったと聞いて、すぐに服部の名前が出てくることに対して、そう思ったのだ。この町の人にはよくセットで憶えられているので、そう珍しいことではないのだが、彼も高校時代には知っていたのかもしれない。
「日暮先生、高校はこっちだったんだよね。どこ?」
「礼高です」
「ああ、道理で」
出身校を聞いて、その「かもしれない」は「そうに違いない」になった。礼高、もとい礼陣高校には、井藤の教え子が多く行っている。特に騒がしかった連中、井藤に懐いてくれていた生徒たちは、日暮と同じ頃に礼陣高校の生徒だったはずだ。彼らから聞いた可能性が高い。
「それに先生、商店街でよく買い物されてますよね。オレ、高校の時によくバイトさせてもらってたので知ってるんです。加藤パン店にもいましたよ」
「加藤か! あいつなら話してるだろうなあ……」
日暮はこちらのことを、思った以上に知っている。けれども井藤は、まだ日暮のことをあまり知らない。ただ、名前はどこかで聞いたことがあった。教え子の会話からだったかもしれないし、商店街の噂話が元だったかも。どうにも思いだせないでいると、周囲の教員たちが動きだした。
「井藤先生、そろそろクラスに行かないと。日暮先生のことよろしくね」
「あ、はい。……さて行こうか、日暮先生」
「はい」
慌ただしく教室へ。生徒の出欠を確認したら、すぐに並ばせて、体育館へ連れて行かなければ。新年度の始業式は、きっと騒がしいだろう。気を配らなければいけないこと、やらなければならないことがたくさんある。それも日暮に覚えてもらわなければならない。
あまり表情の変化がないが、はたしてこの新任教師はついてこられるのだろうか。それだけが少し心配だ。井藤のテンションは大抵高めで、それにのってくれる生徒たちも元気いっぱいなのだが、彼はその勢いに乗れるのだろうか。
日暮を気にしながら二年A組のドアを開けると、そこには大歓声が待っていた。
「やった、やっぱり井藤ちゃんだ!」
「井藤先生のクラスで良かったー! イベントとか盛り上がりそう!」
まずは彼らの期待に応えつつ、この場を鎮めること。井藤の毎年の、いや毎日の、最初の大事な仕事だ。
「はいはい、俺が担任で嬉しいのはよくわかるけど、一旦静かにするように。挨拶はあとであらためてするとして、まず始業式だから廊下に並べ。静かにだぞ」
中学二年生は、大人になりたい子供だ。あまり厳しくしすぎても、子供扱いしすぎてもいけない。ちょうどいい付き合い方を、井藤自身もまだまだ模索中だ。結局はいつも、生徒たちが自分でなんとかしてくれていると感じる。彼らも自分自身と、常に向き合って戦っているのだ。
日暮は彼らと、どう付き合っていくのつもりなのだろうか。表情は生徒を見ても、まだ変わらない。落ち着いているように見えるが、にこりとも笑わない。服部も見た目に関してはあまり愛想がなかったが、彼はその上を行く。
人間、いろいろな人がいるのは当然だ。だが、笑っているに越したことはない。そのほうが好印象だからだ。微笑みすら浮かべずに井藤の隣に立っていた日暮は、生徒の目にどんなふうに映っただろう。
「新しい先生かな。イケメンじゃない?」
「彼女とかいるのかな」
……どうやら女子には、ただそこにいるだけでも好印象を与えているようだ。
始業式は例年通りに順調に進行し、そこで各担当教諭と新任の紹介もあった。拍手とざわめきの中、盗み見た日暮は、やはり真面目な顔をしていた。
教室に戻ってからはホームルーム。自己紹介をして、クラス委員を決めるところまでやったら、入学式の準備をする手筈になっている。つまり、ひとつのことにそれほど時間をかけていられない。こういう調整も、井藤たちの仕事のひとつだ。
「あらためて、みんなおはよう! 二年A組の担任、井藤幸介だ」
大きな声を出すと、生徒たちもつられるように心持ち大きな声で返事をしてくれる。そうではない子ももちろんいる。いていい。その子がどんな子なのか、井藤はちゃんと知っている。
「数学の授業を担当するけど、趣味は読書と料理だ。面白い本があったら教えてくれ。……と、こんな感じで、次は副担任に自己紹介してもらおうかな」
テンションを保ったまま、生徒たちを日暮に注目させる。期待の眼差しに彼はどう出るのか。井藤も興味津々だ。それを感じとったのか、日暮は井藤を一瞥してから話し始めた。
「日暮黒哉です。社会科を担当します。……趣味、は、歴史を勉強すること……?」
これは言わなくてはいけないのか、とでもいわんばかりの口調に、井藤は少々焦り始める。初めての場で、ハードルを上げすぎただろうか。いや、教育実習を経験しているはずだから、このくらいのことは大丈夫だろうと思っていた。
生徒たちの様子を見る。新任のイケメン教師とあって、女子の興味は逸れていないようだ。男子は……こちらもしらけてはいない。一部はむしろ目を輝かせている。そんな様相を見せている生徒たちに共通するものに、井藤はすぐに気がついた。
「日暮先生、特技は? スポーツとかやってない?」
話をふってみると、一瞬目を丸くしてから、生徒たちに向かって答えた。
「小学生の時から剣道をやってます。高校生の時、全国に……」
「やっぱり!」
「日暮先生って海にいのライバルだよな! 夏とか、ときどき心道館来てたもんな!」
特に日暮に興味がありそうだったのは、町の剣道場に通う生徒たちだった。中学校に剣道部はなく、剣道をやりたい子供たちは剣道場に入門しているので、そこで面識があったのだろう。町の有名人、心道館の息子と仲が良いなら、多少表情が乏しくても大丈夫だろう。子供たちが引っ張っていってくれる。
「先生、よろしく!」
「ああ……よろしく」
「日暮先生、彼女とかいないんですか!?」
男子に負けじと、女子も手を挙げる。井藤クラスはなぜかいつも勢いが良すぎる。あまり無茶なことは訊くなよと井藤が口を開きかけたその時、日暮は大真面目な顔を崩すことなく言った。
「彼女じゃなく、妻がいます」
一瞬の静寂のあと、クラスは激しく沸騰した。
入学式の準備をしつつ、日暮は生徒たちに度々囲まれていた。話しかけられるその内容は、大きく二通り。剣道のことと、「妻」のこと。騒ぐ生徒たちに「準備真面目にやれー」と井藤が声をかけると、一旦は散っていくが、また集まってくる。日暮が、質問をおざなりにせず、そのひとつひとつにきちんと答えるからだ。とんでもない新人がやってきたものだと、井藤は苦笑した。
けれども一方で、安心もしていた。日暮は愛想こそあまりないが、生徒には真摯に向き合ってくれるだろう。仕事のしかた、自分のあり方といったものは、服部に近いものがある。長らく失っていた半身を取り戻したかのような、そんな気さえしていた。
そういえば服部も、最初に「彼女いますか」と訊かれたと言っていた。そしてそれに、正直に「いる」と答えていたような。
「井藤先生、椅子の準備できました」
「あ、ありがとう。じゃあ生徒たち教室に戻そうか。おーい、静かに教室に戻れー。帰りのショートホームルームやったら終わりだからなー」
返事をして体育館から出ていく生徒たちを見送りながら、井藤は日暮を横目で見る。彼女がいてもおかしくない、平均以上のルックスではあるが、まさかそれを通り越して「妻」とは。大学を卒業してすぐなんじゃないのか。
「……日暮先生、指輪は?」
右手の人差し指で、自分の左手薬指をとんとんと叩いて、井藤は尋ねる。ああ、と何もアクセサリーのないまっさらな左手を――手首に時計はあったが――持ち上げて、日暮は言う。
「やっぱりつけてないと説得力ないですか」
「若いから。若すぎるから。今時、学校卒業してすぐ結婚……する人もいるけど、早くない?」
「実際はまだ結婚してないんで。妻になる予定の人はいますけど。どうせ夏に結婚するなら、もう妻がいるって言っても変わらないかと」
「夏……でも早い。え、礼陣の人? そんな急ぐ必要あるの?」
「今はアメリカにいますけど、礼陣生まれの礼陣育ちですよ。体弱いので、早めに籍入れようって話してたんです」
井藤の質問にも、何一つとして隠し事をしない。いや、井藤だからこそ、本当のところを話したのだ。相手が大人だから。
「いろいろ事情があるんだなあ……」
「はい。ところで、そろそろオレたちも行かないと」
教室に向かって早足で歩き出し、思い出した。日暮黒哉、その名前をどこで聞いたのか。商店街であることは間違いないが、問題はその内容だった。
町中が厳戒態勢になったので、よく憶えている。あの年の春、礼陣で殺人事件が起こった。犯人は逃走、間もなく指名手配となり、約一年経ってようやく捕まったのだ。――日暮黒哉は、被害者の息子だ。
ショートホームルームで学級通信を配り、次がつかえてるからと生徒たちを解散させた。吹奏楽部と生徒会役員、そして受付をする生徒だけが、学校に残って入学式に参加する。
それまでの時間もせわしなく動き、新一年生を無事に迎えて、全てが終わったのは夕方も近くなってからだった。
それでもまだ翌日からの授業の準備をしながら、井藤と日暮はぽつぽつと言葉を交わしていた。
「日暮先生、高校だけ礼陣って聞いたけど。その前は?」
「門市にいました。で、高校卒業してからまたそっちに戻って大学行って。卒業したらまたこっちです」
「忙しいね。じゃあ、剣道も心道館の門下生ってわけじゃないんだ」
「はい。高校の同級生が心道館のやつだったんで、出入りはしてましたけど」
はじめ先生にもお世話になりました、と言いながら、日暮は小さく切った方眼紙にちまちまと文字を書きこんでいる。明日配布する学級通信に、日暮からの直筆のコメントを載せたいという井藤の提案に応じてくれているのだ。普段はワードプロセッサーソフトで一気に作ってしまうのだが、自己紹介くらいは直筆がいい。文字には、その人の性分が現れる。
しばらくして、「下手ですみません」と渡された方眼紙には、少し角ばってはいるが、大人らしく読みやすい字があった。さすがに中学生とは違う。
「いいじゃん。……へえ、洋楽聴くんだ。これを最初に言えば、もっと生徒食いついたかもしれないのに」
「すみません」
「いやいや、明日の楽しみに取っておけばいいんだよ。社会科だけじゃなく、英語の成績も影響されて上がってくれればいいな。日暮先生は、喋るより書く方が得意なの?」
「今朝のは、その、緊張してたんで。顔に出ないみたいですけど、オレ、緊張しやすいんです」
本当に顔に出ない。こうして話しているあいだも、全く表情を変えないのだから。服部もそうだったなと思って、井藤の頭にある考えが浮かんだ。あの服部ですら、あるときだけは表情を緩め、自然と笑うのだ。彼はどうだろうか。
「日暮先生。良かったら俺の家で飲まない? つまみも作るよ」
「ああ、そういえば料理が好きだって言ってましたね。詩絵……加藤さんたちからも聞いてます、先生の料理は美味しいって」
「自分で言うのもなんだけど、かなりの自慢だ。飯で人を笑わせられる自信がある」
「なんで教師やってるんですか……しかも数学……」
呆れながらも、日暮が少しだけ、笑ったように見えた。実際に食べればもっと笑ってくれるだろう。さて、今日は何を作ろうか。惚気られたから、自分も近々結婚する予定の彼女を紹介して、仕返しもしてやろう。
またこの町での春が巡ってきた。新しい一年が、出会いとともに始まる。この町に来て、この町にいるから、迎えられた季節だ。