大学生活最後の夏――順調にいけばそうなるはずだ――長期休みに礼陣に帰ってきた和人は、夜の色野山展望台に出かけた。流の運転する車の助手席に乗って、山の中腹にある駐車場まで行き、そこからは歩く。夏だからこそできるピクニックだ。

提案したのは流だった。同じく夏休みで、そのあいだは和人の実家の店を手伝うか、大学に顔を出して卒業研究を進めるかしていた彼が、夏祭りを目前にして和人を誘った。夜に山に行くというのは珍しくなく、高校を卒業してすぐに免許をとった流の運転する車に乗ることもとうに慣れていたので、いつもと同じように遊びに行くつもりで了承した。

「よく夜の山になんかいけるわね。虫除けしてく?」

夕食をとってから和人が野下家を訪れると、虫よけスプレーを手にした桜が流のあとをついてきていた。小学一年生の頃からの付き合いだが、このしっかりした妹は、いつだって兄を想い、同じように和人のことも慕ってくれていた。

彼女の足元の猫と、庭の犬も。十年以上生きた動物たちは、人間に比べるとずっと大人だ。あと何年ここにいてくれるだろうかと、できれば長く生きてほしいと思いながら、和人は猫を撫でる。

「虫除けは車に積んであるから大丈夫だよ。和人、行くぞ。トラ、桜をよろしくな」

「トラに頼んでいかないでよ。和人さん、気をつけていってらっしゃい」

「うん、いってきます」

玄関を出てから、庭に寄って犬を撫でた。そのあいだにエンジンの音がして、それに呼ばれるように玄関前の通りに出る。車庫から出た車は、眩しいライトを点けて和人を待っていた。

「展望台、誰かいると思う?」

シートベルトを締めながら流に尋ねると、苦笑交じりの答えがあった。

「できれば今日は、誰もいないといいな」

以前にもこうして出かけたことがあったが、そのうち何度かは展望台に数組のカップルや大学生の集団がいた。冬はともかく、夏は涼みながら夜空を見上げるのに最適な場所である色野山展望台には、人がいない方が珍しい。

誰もいないといい、というのは、他のグループやカップルも同じことを思っているのかもしれないけれど。なにしろこちらも、一応はカップルだ。高校の終わりから付き合い始めて、今が四年目。普段は離れているだけに、なかなかその時間の長さを実感できないのだが。

夜道を出発した車窓からは、あまり人の姿が見えない。いつもどおりの、田舎の夜だった。

 

色野山の駐車場には、他の車はなかった。ここまで登ってくるような人もいなかったし、もしかすると今日は貴重な「誰もいない日」なのだろうか。車を降りて虫よけスプレーを露出している腕に噴射し、二人で展望台を目指した。

色野山には、二十二年の人生で何度も来た。幼い頃から家族と花見だの紅葉狩りだので連れてこられるし、学校に通うようになってからは毎年のように山に来る行事がある。山に囲まれたこの町では、特に登りやすく整備されている色野山は、人々と寄り添うようにして存在している。

和人も大学進学のために礼陣を離れはしたが、結局帰省のたびに流とともに来ているので、やはり毎年訪れていることになる。夏祭りの花火を見るには、色野山展望台はちょうどいいスポットであるということもあった。

夜でも人が来ることを想定して、展望台までの道には明かりが灯っている。それを頼りに、いつものように他愛もない話をしながら、流と並んで歩いた。大学がどうだの、試験がどうだっただの。帰ってきたときにもしたような話を、繰り返し。

「大学生活最後の夏だけど、学校の友達とどこか行ったりしないの? ええと、キリさんとか、あっし君っていったっけ」

「キリさんは地元でバイト。あっしは漫画描かなきゃいけないから」

「あ、僕やっとその漫画読んだよ。面白かった。ええと、ライトノベルのシリーズの、コミカライズなんだっけ」

「そうそう。……和人こそ、茶木君とかと遊ばないのか?」

「みんな地元に帰ったよ。それに卒業研究進めなくちゃいけないし、だんだんみんな遊んでる場合じゃなくなってきたかな」

「そっか。和人の卒研ってなんだっけ」

「礼陣の文化と歴史について。この休みのうちに、平野先生にもたくさん話聞いておかないと」

「今は一力先生だけどな。あー、やっぱり大助連想するからよりちゃん呼びのほうがいいな」

自分たちが話す声以外は、風が草木を揺らす音、地面の小石が蹴飛ばされて転がる音くらいしか響かない。展望台が近くなっても、誰かがいる気配はなかった。この町の大学生も、地元出身者以外は、みんなよそへ行ってしまったのだろうか。

けれどもきっと、それも今のうちだけ。祭りの日には、みんな帰って来る。この町を故郷とする人々も、ほんの少しばかり縁がある人々も。一年で一番この町が賑やかになる日が、今年もやってくる。

展望台から見渡す町の、ところどころに提灯が灯っている。夏祭りの準備はほぼ終わっていて、町はポスターや飾りに彩られている。提灯もその一つだった。

「わ、本当に誰もいない。こんな日もあるんだね。そういえば、今年も夏祭りのステージ……」

無人の展望台を見渡し、流にくるりと振り返って、和人は言葉を切る。夏祭りのステージに出るのなら、今のうちに練習しておかなくちゃ。僕はしばらくベースも弾いていないし、歌もちゃんとうたっていないから。そんなふうに続くはずだったのに、全部疑問に流された。

流は少し離れたところで立ち止まって、真剣な目をして和人を見ていた。羽虫を集める街灯の下、その表情は妙にはっきりと見える。スポットライトを浴びているみたいだ、と思った。虫がいなければ、きっと完璧だ。

「どうしたの、そんな顔して」

嘘やごまかしが下手な幼馴染が笑わないのだから、よほどのことがあるのだろう。近づいていって、高い位置にあるその顔を見上げる。幼い頃は流と和人の身長にそう差はなかったはずなのに、いつのまにか流のほうが随分大きくなってしまって、今では頭一つ分の違いがあった。高校を卒業する頃にはお互い身長が止まっていて、その頃から変わっていないはずだ。――ちょうど、ただの幼馴染ではなく、恋愛対象として付き合いだしたころから。

そういえば、流が和人に勢いで告白したときと、表情が似ているような気がする。

「何かあった?」

かすかに笑顔を浮かべて問う和人から、流は一瞬だけ目を逸らした。けれどもすぐに向き直って、一歩、近づいてくる。

「和人、俺さ。ずっと公務員になるって言ってたよな。役場に勤めて、ずっと礼陣にいるって。そうしたら、店を継ぐ和人と、いつまでも一緒にこの町にいられるはずだって思ってた」

「うん」

それが自分たちにできるベストだろうと、そう思っていた。互いに継がなければならない家があるのだから、こんなかたちでしかいられないものだと。

「……でも、本当にそれでいいのか。役場で働くようになれば、そりゃあ親父も安心するだろうけど……そうやってこの町にいつまでもいて、外の世界を知らないで」

「そうだね、流はここから出たことないよね」

外に行きたいと、憧れたという話も聞かない。休みの日などに遠出することはあっても、それ以上を望んだことは――礼陣の外で暮らしたいとは、一言も言わなかった。

「外に、出たくなった?」

「というか、出るべきかなって。俺はもっと色々なものを見て、聞いて、知らなきゃいけない。じゃなきゃどうして、この町のために働けるだろうって思ったんだ」

ただ敷かれたレールに沿うことに、疑問を抱かなかったわけではないけれど、だからどうするということはなかった。でも、それではきっといけない。町に縛られたまま町を動かす仕事をすると、必ずどこかに偏りが生じる。町の外からやってきた同級生や、町の外に出た和人の影響で、流はそう考えるようになっていた。

「それで、皆倉先生に相談してみた」

「亜子ちゃんの……お父さんとお母さん、どっち?」

「最初はテレーゼ先生に、次に光輝先生に。そうしたら、ドイツの知り合いを紹介してくれた。ちょっと話もさせてもらったんだ。それで、決めたよ」

ここまで聞けば、もう続きはわかっていた。和人は頷き、微笑んだまま静かに次を待った。ほんの少し、寂しさを覚えながら。

「俺、役場は蹴る。卒業したらまずドイツに行って、それからいろんな国をまわる。日本に帰って来るのがいつになるかは決めてない」

「……そっか」

そう言うと思っていた。きっと決めたら曲げないだろうとも。たとえあの厳しい父親に反対されたって、流はこの町を出て、広い世界へと旅立っていくのだろう。

そのことを告白するために、今日はここに連れてこられたのだと、今わかった。大切なことは、いつも町が見渡せる場所で言う。高校の屋上や、この展望台から、これまで過ごしてきた狭い世界を見下ろして。

決めたのなら、和人はここで待っていればいい。大学を卒業してこの町に戻ってきたら、流が帰ってくるまで、店を守りながら待っていよう。ここには、和人にしか認識できないけれど、双子の妹もいてくれることだし。寂しいかもしれないけれど、今まで離れていたのだから、今度もきっと大丈夫だ。

心の中でそう覚悟した。笑顔で「いってらっしゃい」と言おうとした。でも。

ざ、と土を蹴る音がした。相手の動きに対する反応には自信があった和人だったが、剣道をやめてから随分経つせいか、それとも相手が流だったからか、されるがままになる。

突然抱きしめられ、抵抗しようとも思わなかった。もう何度も、この体温を感じてきてはいるのだけれど、今日は特別腕の力が強い気がする。

「一緒に行こう」

耳元で、低い声が囁いた。ときどきそうやって名前を呼ばれ、愛の言葉を告げられるが、それらとはまた違う音色だ。少し、震えているような。

「……一緒に、って」

「和人が店を継がなきゃいけないのはわかってる。だからこんなのは我儘だって理解してるんだけど、やっぱり俺は和人と離れたくないんだ、もう」

ああ、そうか。と和人は目を閉じる。そして腕を、流の背中へとまわした。広すぎて、抱きしめきれないそこに。――流も、同じ気持ちでいてくれたんだ。変わらずに。

四年間、全く会っていなかったわけではないし、関係もどんどん深まっていったけれど、どうしても遠かった。会えない時間がひどくもどかしくて、ときに病むこともあった。それくらい、愛しくなっていた。ずっとずっと好きだったその気持ちが、少しずつ別のかたちに変わっていった。

離れたくないと思う。ずっと一緒にいたいと思う。その選択をしたいと、心の底から願う。

「流は、僕が迷うの、わかっててくれたんだね」

けれども和人は、この町にも戻ってきたかった。自分を守ってくれた、守るべきもののある、この礼陣の町に。こうして愛しい体温に触れていても、迷っている。

「まだ時間はあるし、和人がどんな答えを出しても、俺は納得するから。……待ってるから」

いつかは理解しきれなくても即答できたのに、今は理解していて答えられない。二つの気持ちを秤にかけて、どれくらい流を待たせることになるだろう。

 

翌日の昼間、店を手伝いながら、和人は双子のきょうだいと並んでいた。ちょうど同じくらいの年頃の、和人によく似た娘。けれどもその頭にはつのがあって、瞳は赤い。そしてその姿は、和人にしか見えないのだった。名を、美和という。和人が名付けた。

『昨夜は楽しかった?』

にやにやしながら尋ねてくる美和に、和人は苦笑しながら、心の中で返事をした。美和には昔からそれで伝わる。

「楽しかったけど、ちょっと真剣な話をしたよ」

『真剣な話?』

「卒業したら、一緒に海外に行かないかって」

今日はまだ客の入りがない。店の奥ではパート従業員が、和人の母と雑談をしていた。何気ない話だ。天気のことや、祭りのこと。

それを割って、美和が叫んだ。もちろんこの声も、和人以外には聞こえないのだが。

『それ、実質プロポーズじゃないの! 流からしたら随分勇気のいる話だったはずだけど、あんたは何て答えたのよ?!』

「え、ああ、そうか……そういうことになるか。まだ返事はしてないんだ、だって海外に行ったら、店には関われなくなっちゃうし……」

『今と何が違うのよ。店には私がいるんだから、迷う必要なんてなんにもないじゃない』

「美和は他の人には見えないじゃないか……」

『今はね。あんたが私を選んでるからよ。流を選べば私は……』

厳しい眼差しで、美和は和人を見た。けれども言葉は継がずに、そのまま表情を緩める。そして和人に、触れられもしないのに手を伸ばした。

『いつだって、私たちは間違わなかった。私の思いはあんたの、あんたの思いは私の。だからこそ私はあんたに言うわ』

答えはいつもここにあった。答えがあったから、和人は美和を信じ、縋り、手放すまいとしてきた。町を離れてからも、美和がいればといつも思っていた。

けれども、それではいけないことも、本当はとうに気がついていた。――鬼が見えるのは子供のときまで。和人は、大人にならなければならなかった。

「言わなくていいよ。自分でちゃんと選んで、決める。それが君と同じ答えであると、僕もわかってる」

大人になるということが、自分で答えを出すということならば。美和という絶対だった存在と、決別するということならば。道はおのずと見えてくる。

 

秋の頃には、結論が出ていた。公務員試験をすっぽかした流は当然父親に叱られたが、卒業後の希望を伝えて、しばしの冷戦状態を乗り越えたのちに「好きにしなさい」という回答を得た。

和人も両親に自分の気持ちを伝えていた。これまで卒業したらすぐに店に入る気だったこと、けれどもそれはこの町に戻ってくれば居場所があるという安心感からの甘えであったということ。ちゃんと大人になるために、あえて町を離れるという選択をしてみたいこと。

美和が見守るその前で、和人は宣言した。

「僕は、流と一緒に日本を出る。二人で世界を見てくる」

自分で決めたことだ。両親は思ったよりあっさり認めてくれ、そして安心もしてくれた。流が一緒なら大丈夫だと。

そうして時は過ぎ、春を迎えた。

 

礼陣を発つにあたって、和人と流は約束をした。夏には、正確には夏祭りの時期には、礼陣に帰って来ること。これはこの土地に生まれ育った者として外せない条件だった。もう一つは、知人との連絡を絶たないこと。身の安全を知らせるためでもあったし、なにより大切な人たちとの繋がりを保っていたかった。

『いってらっしゃい』

「いってきます」

美和と会話をするのは、これが最後になった。大人になり、人生を流とともに歩むと決めた和人には、もう指針だった美和は必要なくなったのだ。いや、それは間違いで、美和が傍にいなくても歩けるようになったのだ。美和は見えなくなってもちゃんと礼陣にいて、夏に和人たちが帰ってくるのを、店を守りながら待っているのだろう。

「よっしゃ、行こうか、和人」

「うん。流となら、どこまでだって。……そもそも、僕がいなきゃ言葉わかんないでしょう」

「身振りと簡単な英会話で何とかならないかなと思ってたんだけど……」

二人の旅が始まった。長い長い道が、生まれ育った町から。