礼陣の人間が山を越えると、これまでの生活と外の世界の暮らしとのギャップに参ってしまうという。それはよく言われることだが、まさか自分にも当てはまるとは、実際に外に出てみるまでわからなかった。

尊敬する先輩が、外へ出た年に少し変わってしまった時点で、心配しておくべきだった。覚悟がほんの少しでもあるのとないのでは、随分と心持ちが違っただろう。

一年。たった一年で、海も疲れてしまった。支えてくれたのは礼陣や各地に散らばった友人たちから来るメールで、頻繁に互いの苦労を労い、癒されていた。

そうして迎えた大学二年の夏休み。礼陣に戻り、鬼封じの儀式を終えて、ようやく一息ついたころ。海は自分の家ではなく、幼馴染のいる須藤家に来て、ぐったりしていた。

「海にい、ごろごろするなら自分の家でしなよ」

幼馴染の春は四月に大学生になった。背は相変わらず低い方だが、しっかりものだ。高校生の時までおさげにしていた髪は、今は解いていて、ますます亡くなった母親に似てきた。

「家には誰もいないから。父さんは大会の引率に行ってるし」

「寂しがりだなあ。すっかりよそにやられちゃって」

『なんだ、海は寂しがりなのか』

台所でそうめんをゆでる春の隣に、子鬼がいる。春にはもう見えていないようだったが、海にはまだその姿をはっきりと捉えることができる。礼陣にあたりまえにいる鬼たちが、よそへ行くとまったくいなくなるのも、海にとってはなかなか慣れることのできない環境だった。――さすがに一年以上経てば、よその暮らしにも馴染んできたが、やはり礼陣に戻ると昔からの当たり前が恋しくなる。これでこそ自分の育ってきた場所だと、つい土地や人に甘えてしまう。

できるだけ人のいるところに行って、自分の存在を確かめる。今日はそれがたまたま須藤家だったという、実はそれだけのことなのだ。友人たちの誰かや、恋人が捕まれば、そちらを頼る。

「寂しがりなんじゃなく、話し相手が欲しいだけだよ」

「それが寂しがりだって言ってるの。千花ちゃんに連絡したらふられたってとこ?」

「人聞きの悪い。……たしかに千花にメールしたら、今日は用事があるって言われたけど」

「そりゃあ、今日は……」

春の声に、ざあっと水を流す音が重なった。茹であがったそうめんをよく冷やし、つゆと薬味と一緒に居間へ持って来るまでは実に手際が良く、海が手伝う隙がない。

「おじいちゃん、お昼ー」

須藤翁が返事をするのを聞きながら、とりあえずつゆを薄めて、薬味を好きな分入れた。夏の昼食は簡単で良い。

 

外から神輿唄が聞こえてくる。夏祭りのために、子供たちが練習しているのだ。昔は海と春も、子供神輿を楽しみにしながら参加したものだった。

「今年も威勢がいいな」

「少子化だっていうけど、ここの子供はあんまり減らないよね」

お盆を過ぎてから開催される夏祭りは、海にとって苦しい時期の向こう側だ。鬼封じを終え、重い気持ちが取り払われたあとにある、心から楽しめるもの。だから夏祭りは子供の頃からずっと好きだった。ある年は春を連れて、またある年は友人たちと、町中を練り歩き、駅裏商店街の出店をまわった。

昨年帰省した時も、久しぶりに集まった友人たちと祭りを歩いた。知人への挨拶も一通りし、鬼たちともほんの少し言葉を交わした。今年もきっとそうなるだろう。

最後の花火は恋人と見たのだったが、今年はまだ誘えていない。春の同級生で、大学生になったばかりの彼女は、どうやら忙しいようだ。

「春、千花ってサークルとか入ってるの? そういう話全然聞いてないんだけど」

春と、海の恋人である千花は、同じ地元の女子大に通っている。学部も同じだ。専攻は違うらしいが、基礎科目は一緒に受けることが多いという。それらのことを、海は千花からではなく、春から聞いていた。千花はあまり自分のことを話さない。

食器を洗いながらの問いに、春は笑いながら「今更?」と言う。

「いつもメールして、何話してるの。千花ちゃん、サークルは入ってるよ。ちょっと忙しいところで、休みでも活動があるの。だから今日も海にいの相手ができなかったんだよ」

「へえ……」

思えば一年、自分のことばかりで、千花の話をあまり聞いてこなかった。故郷を離れて、新しい環境に馴染むのに精いっぱいで、千花もそれを励ましてくれるばかりで。それでも愛想を尽かさないでいてくれるのだから、千花はどれほど我慢強いのだろう。

それともそろそろ限界を感じて、サークル活動に打ち込むようになったのだろうか。そもそも何のサークルに入っているのだろう。――付き合っているのに、知らないことばかりだ。

「帰省してから、まだ一回も顔合わせてない」

「あっちもこっちも忙しいから、仕方ないんじゃないの。……大丈夫だよ、千花ちゃん、海にいほど寂しがりじゃないから」

少し棘のある春の言葉は、海にはよく刺さる。礼陣に戻っているあいだのみならず、千花をはじめとする知人たちには甘えすぎていたのかもしれない。

「そういう春は、新が礼陣を離れてから寂しくないわけ」

「寂しくはないよ。……昔は、離れたくないと思ってたけど。でもお互い進路を決めて、離れることにしてから、受け入れられるようになったなあ。もちろん会うのは楽しみだけどね」

「新は寂しがってるんじゃないの」

「うん、寂しいって言ってた。新は正直だから、そういうのすぐ言うよ」

礼陣の人間が山を越えると、これまでの生活とのギャップに疲れてしまう。その疲れを癒そうとして、礼陣を求め、甘えるようになる。それが一方的になってはいけないと、わからないわけではないのに。

「ちゃんと千花の話も聞かなきゃな」

「千花ちゃんは千花ちゃんで、海にいを優先させたくて話さないんだろうけど……でも海にいが何も知らないのはかわいそうだね」

食器を片付け終えた春が、時計を確かめてから、意味深に笑った。

「もうちょっとうちにいるでしょ。お茶とお菓子、出してあげるから」

 

須藤家ではラジオ専用機が現役で、電源を入れるとFM放送が明るく流れだす。午後二時の時報のあと、その番組は始まった。タイトルコールに、女の子の声が続く。

『こんにちは! 北市女学院大学ラジオサークルがお送りしますこの番組。本日のお相手は、四年の千里あや子と』

『一年の園邑千花です。よろしくお願いします!』

驚いてラジオと春とを交互に見る海に、春は茶を淹れながら言う。

「入学してすぐの頃、千花ちゃんがアナウンスが上手なことを知ってる先輩が、千花ちゃんを誘いに来たんだよ。北市女大のラジオサークルって、前から結構有名だったんだね。ファンも多いんだって」

「そんなこと、千花は一言も……」

「恥ずかしかったんじゃない? 私から教えてもよかったんだけど、こういうのは本人から聞くか、実際の放送を聴いたほうが良いんじゃないかなって思って」

これが千花が忙しい原因だったようだ。番組の企画から原稿作成、本番の動きなど、全て放送局の力を借りながら自分たちでやるというのが、北市女学院大学ラジオサークルの活動らしい。実際に放送に声がのらなくても、裏方としてやることが多いのだ。

「パーソナリティーがローテーションだから、千花ちゃんの声が聴けるのは月に一回くらいなの。今日ちょうどその日だったから、海にいが来なくても、メールでラジオつけるように言おうと思ってたんだ」

「千花がラジオやってることじゃなく?」

「驚いてほしかったんだよ」

ラジオからは千花とその先輩の、生き生きとした声が響く。メールを読んだり、町のニュースを報せたり、一時間ほどの番組は順調に進行していく。リスナーからの悩み相談があれば機転を利かせて答え、嬉しいことがあったと聞けば一緒に喜ぶ。千花の声が、たくさんの人々を笑顔にしていることは、想像に難くなかった。

『夏の思い出について、こんなメールもいただいてます。ラジオネーム、元値切り上手さんから』

夏の思い出、というのがどうやら今月のテーマらしい。先ほどからこのテーマに寄せて、いくつもメールが読まれていた。

『あや子さん、千花ちゃん、こんにちは! はい、こんにちはー。……夏の思い出といえば、やっぱり夏祭りですね。昔は屋台で値切り交渉に勝って、美味しいものをたくさん食べたものです。それからお祭りの最後に上がる花火、去年は彼氏と見ることができましたが、今年も誘えるかな? 今から楽しみです。ということです。千花ちゃん、これって礼陣の夏祭りかな』

『値切り交渉ってあたりが礼陣っぽいですね。私は値切り苦手だったんですけど、友達がそうやって美味しいものをゲットしてるのを見て、かっこいいなあって思ってました。それはともかく、今年も彼氏さんと一緒に花火見ましょう! 好きな人、大切な人と見るのが、一番良いですから』

『千花ちゃんも一緒に見たい人いるの?』

『いますよ。元値切り上手さん、まだ彼氏さんを誘っていなかったら、ぜひ今日のうちに声をかけてみましょう! 私も今日中に頑張って誘います!』

この発言は千花のファンが聴いたら驚くのではないだろうか。海がラジオを指さしながら春を見ると、にこにこしながら言った。

「千花ちゃんいっつもだよー。初登場が五月だったんだけど、そのときから彼氏いることを窺わせる発言が普通にあったし、だからこそ千花ちゃんが出る回を狙って恋愛相談を送るリスナーもいるの」

「そんなものなのか……」

ローテーションで月に一回程度しか声を聴くことができなくても、パーソナリティーにはそれぞれファンがついているという。千花には千花の声や言葉が好きなファンがいる。今の千花は、たくさんの人に愛されているのだ。

「負けてられないよ、海にい。千花ちゃんから連絡が来る前に、花火に誘ったら?」

「……そうだな」

この放送がはっきりと聴けるのは、礼陣を含む門郡と門市まで。逆にいえばその狭くはない範囲で、千花は今日中に一緒に花火を見たい人に連絡をすると宣言した。

こっちから声をかけたら、喜んでくれるだろうか。千花を「みんなの」ではなく、海の独り占めにしてしまってもいいだろうか。――ラジオを聴けるのはこの一回限りだろうから、これくらいは許されるだろう。

「ちなみに過去の放送は、北市女学院大学ラジオサークルのホームページからポッドキャスト配信してるから、県外にいても聴けるよ」

「あ、そうなんだ……」

もっと早く知っていれば、寂しがらずに済んだのに、なんて。いや、それはそれで故郷が恋しくなったかもしれない。

 

千花を花火に誘うついでに、ラジオを聴いたことも伝えた。するとその夜に電話がきて、「黙っててごめんなさい」と謝られた。

「なんだか恥ずかしくて。本番中は勢いで喋れるんですけど、毎回緊張してるんですよ」

「勢いで付き合ってる人がいるって言っちゃったのか」

「すみません……名前とか、本人を特定できるような情報は出してませんから!」

「それは頼むよ。身元がばれたら千花のファンから恨まれる」

この声は、ラジオを聴く不特定多数に向けられたものではなく、海への言葉。自分の存在を確かめられるもの。寂しさを振り払うもの。

早く直接会いたい、と思うのも甘えだろうか。この気持ちがある以上は、海は礼陣から離れることはできない。一時的に遠くへ行っても、ちゃんと戻ってくる。

そこには愛しいものがあるから。愛しい声が響くから。