ぐるりを山に囲まれた、礼陣と呼ばれる里があった。そこでは田畑と野山、川の恵みを受けて、人々が暮らしていた。そこにいるのは人間だけではなく、鬼と呼ばれる不思議な力を操る者たちも、ひっそりと生きていた。
鬼はかつて人間に堂々と手を貸しながら暮らしていたが、いつからか姿を見せないようになった。人間たちの生活が変わり、鬼の力を借りることで暮らしのバランスを崩してしまうようになったのだった。人間たちが自身の力で生きていけるように、鬼たちは見守ることに徹した。
しかし親を喪った子供には、その姿を見せて、親の代わりをし続けた。それは鬼が礼陣に降り立ったとき、人間に「子供たちを守る」と約束したからだった。鬼が見える子供たちは「鬼の子」と呼ばれ、鬼が見えない普通の人々も、そんな子供たちや鬼の存在を受け入れ続けてきた。
だがときどき、本当に珍しいことだったが、両親ともが生きているにもかかわらず、鬼が見える子供が現れた。生まれたときから鬼に親しみ、鬼と遊び、人間の世界と鬼の世界の両方を知ったその子供は、人々からとくに大切にされた。
ところが、病魔が子供を襲い、惜しまれながらも命を落とすこととなる。人間としての人生を終えたその子は、しかし、鬼を束ねる大鬼に魂を保護された。鬼と心を通わせられたその子供は、本当に鬼と成ったのだった。
子供の姿を保ったその鬼――子鬼には、人間だった頃の記憶があった。鬼の子相手であれば生前と同じように遊ぶことができ、よく人間を助けた。鬼に成ってもよくできた子だった。
だが、できた子だからこそ、過ちを犯してしまうこともある。子供が大きな力を持つのは、あまりにも早すぎたのだった。
平太という、鬼の子がいた。父親を亡くし、周りの人々と鬼たちに助けられながら、母と二人で暮らしていた。平太は子鬼と特に仲良しで、二人で遊ぶこともしばしばあった。通りで、川べりで、山で、二人は子犬のようにじゃれ合っていた。
「子鬼はいろんな遊びを知ってるな」
『生まれたときから、周りの鬼が教えてくれていたからな。山の食い物のことも知っているぞ。胡桃の実はしばらく埋めておいて、実が土にかえり種だけになった頃に掘り出し、割って食べる。美味いぞ』
「ははは。埋めた場所がわかるようにしておかなくちゃならないな」
たくさんのことを知っている子鬼のことが、平太は大好きだった。できることならいつまででも一緒にいたいと思うほどに。そして子鬼も平太のことが大好きだった。二人で遊ぶ時間は、どんなものより――それこそとっておきのおやつを食べるより楽しみだった。
けれどももとより人間と鬼。ただの鬼の子である平太には、いつか全ての鬼が見えなくなってしまうということも、子鬼は知っていた。それが自分たちの別れのときであり、けれども平太が大人になった証拠であるのだから喜ぶべきことなのだと、周りの鬼から聞いて知っていた。
それでも子鬼は、まだ幼い。知っていても、解ることはできない。平太と遊べなくなってしまうことを思うと、寂しくて仕方がなかった。ただでさえ成長が止まってしまった子鬼は、どんどん平太と背丈が離れていってしまっている。あとどれくらいで、平太は子鬼が見えなくなってしまうだろう。そのことがいつも不安だった。
けれども子鬼は他の鬼よりもほんの少しだけ強い力を持っていたために、鬼の子に姿を認められる時間が、幾ばくか長かった。平太以外の鬼の子と関わっていて、そのことに気づいた。成長し、他の鬼がぼんやりとしか捉えられなくなった「元鬼の子」になりつつある者にも、子鬼だけは見える。もともと持っていた力ゆえか、子鬼は他の鬼たちよりも存在感があるようだった。
だから平太とも、彼が母親を手伝っていくらかの仕事をするようになってからも、遊び続けていた。そのあいだにも平太の目に他の鬼が映らなくなっていく様子を見ていた子鬼の胸には、いつも安心と不安の両方がぐらぐらと揺れながらあった。
「子鬼とも長い付き合いになるな。……もう他の鬼はいるのかどうかわかんないけど、子鬼だけはわかるんだ。そのまま大人になれたらいいのにって思うよ。昔そうだったってじいさんばあさんたちが話してくれるように、鬼と人間がいつまでもお互いを見ていられるようになったら、この里はもっと面白いんじゃないかって」
『そうだな。私も平太といつまでもお喋りしていたいよ。大人になった平太と話がしたい』
平太は賢い子供だ。大人になったら、里の偉い大人たちがするような、理知的な話ができるかもしれない。そのとき、子鬼はこれまでに得てきた大人たちの知識や知恵を、平太に授けてやりたかった。昔に人間と鬼がつくりあげたという関係を、再び築けたらいいのにと思った。
けれども時が経つにつれて、やはり平太も他の鬼の子と同じように、子鬼の気配を感じ取れなくなっていった。子鬼が呼びかけるまで、ときには着物の裾を引っ張るまで存在に気づかないようになった。やっと子鬼の姿を見つけた平太は困ったように笑うのだが、子鬼は笑顔で返せない。ただただ、別れのときが近づいているのが恐ろしかった。
他の子供との別れは仕方ないと思って受け入れられたのに、平太に限ってはなかなかそうはいかない。子鬼にとって平太は特別な子供だった。生まれてまもなく父を亡くし、まだものを見るのもままならない頃から、ずっと世話をやいてきた子供だ。弟のように、大きくなってからは時折兄のようにも思えた平太を、子鬼は諦めることができなかった。
いよいよ平太が子鬼を無視するようになってきたとき――もう平太には他の鬼を認識することがほぼ完全にできなくなっていた――これが最後だと思って、子鬼は平太を必死で呼んだ。名前を叫びながらしがみついて、服を叩いて、やっとこちらに気づいてくれた。
「ああ、子鬼か。もしかしてずっと呼んでたか。ごめんな、もう俺には……」
『わかってる。だからこれが最後だ。……私と遊ぼう、平太。今まで連れて行ったことのない、とっておきの場所に行って』
泣きわめきすぎて、頭がおかしくなっていたのかもしれない。のちの子鬼がそのときのことを思い返せたのなら、そう言うだろう。
「とっておきの場所って?」
『こっちだ。……ただ、私について来ればいい』
平太の手を引いて、子鬼は歩いた。いつか人間たちが鬼たちのために建ててくれたという、大切な社のほうへ。
土地の名をとり「礼陣神社」、あるいは祀っているものからとって「鬼神社」とも呼ばれることがあるその社は、人間と鬼の繋がりを示す場所であると同時に、鬼たちのための神聖な場所でもあった。
ことに社を囲む雑木林は、鬼たちだけが出入りすることのできる場所として、人間たちが踏み入ることを禁じていた。「人間が鎮守の森に入ればたちまち迷って出られなくなる」と、子供たちは幼い頃から大人たちに教えられて育つ。もちろんのこと、平太もそれを知っていた。
だから子鬼にそこへ連れられてきて、平太は大層驚いたのだった。
「子鬼、この森には入っちゃだめだって、子鬼も言っていただろ」
『大丈夫だ。私と一緒にいれば迷わないだろう。鬼のための場所に、鬼と入るんだ。こちらが招いたのだから何の問題もない』
子鬼自身、そう思っていた。ずっと平太についていれば、遊び終わってから無事に帰してやれるだろうと。ただほんの少しだけ、鬼の秘密を教えてやるだけだと。特別な存在である平太に子鬼がしてやれることは、そのときはもう、それしか考えられなかった。
『行こう、平太』
平太も、もう鬼がほとんど見えなくなっていたとはいえ、子供の頃の好奇心をすっかり失ってしまったわけではない。子鬼が言うなら大丈夫だろうと、そのあとについていった。そうして平太の姿は、鎮守の森の中に消えたのだった。
里がにわかに騒がしくなったのは、平太がいつまでも帰ってこないことを心配した母親が、近所中を訪ねまわってからだった。もう日もとっぷり暮れて、道端では話している相手の顔さえわからないくらいの時間、人間たちは手に手に明かりを持って、平太を大声で呼んだ。
どんなに捜しても見つからない。川にでも落ちてしまったのかと心配する声を、平太の母親は敏感に聞き取って、さらに必死になって平太の名を叫んだ。
どうにもならなくなった人間が頼ったのは、鬼の子たちだった。鬼に平太を見なかったか尋ねてくれと縋り、彼らの口を通して平太の足取りを掴んだ。平太は神社のほうへ向かって行ったと、それでようやくわかった。
神社には大鬼様が、人間の姿をして、神主と呼ばれながら住んでいるはずだった。めったに姿を現さない大鬼様だったが、人間たちが大勢、それもひどく困った様子で境内に乗り込んでくると、さすがに心配だったと見える。
「どうしましたか、みなさん」
暗闇にぼうっと浮かび上がった血色の悪い男に、平太の母親は大粒の涙をこぼしながら縋りついた。
「神主さん、平太を見ませんでしたか。神社に来たかもしれないんです。それからうちに帰ってこないんです」
方々を捜しまわったあとで、もう泥まみれになってしまっていた人々を見て、大鬼様は鬼たちに声をかけた。人間たちには聞こえない、心だけでする会話を、礼陣中の鬼たちと交わした。鎮守の森の中にいる鬼たちにも声は届いた。彼らの声を聞き、そうしてやっと、大鬼様は口を開いた。
「平太君は鎮守の森の中に入ってしまったようです。今から私が捜しに入りますから、みなさんはどうぞ家で休んでいてください。ここにいるという方も、絶対に森へ入ってはいけませんよ」
平太は鎮守の森にいる。そのことに人間たちは騒めいたが、大鬼様の言葉を聞いて、全てを任せることにした。森に入った人間を、人間が捜しに入れば、帰ってこない者が増えるだけだ。鬼たちを信じている人間たちは、そのことをよく知っていた。
「神主さん、おねがいします」
平太の母親が深く頭を下げると、大鬼様はしっかり頷いて、森の中へと消えていった。
森の中では、子鬼が泣きながら平太を捜しまわっていた。ずっと一緒にいれば迷わないと思っていたが、この鎮守の森はたくさんの鬼の力が複雑に渦巻いていて、足を踏み入れた平太をあっという間に飲み込んでしまったのだった。
子鬼がいくら呼んでも、平太は返事をしない。もしかしたらもう、この声は聞こえなくなってしまったのかもしれない。平太は鬼の子ではなくなろうとしていた。他の鬼を見ることができなくなっていた。その状態で森の中にいては、ただただ迷うだけだ。人里にも帰ることができない。
こんなことになってしまうなんて、と子鬼は嘆いた。嘆きながら、平太を捜した。他の鬼に訊いても首を横に振り、一緒に捜してくれてもその鬼は平太には見えない。平太を帰り道へと導くことができる鬼は、もうどこにもいないのかもしれなかった。
『ごめん、平太。私がこんなところに連れてこなければ良かったのに。私が平太と別れたくないなどと、ずっと話をしていたいなどと思ってしまったから……』
鬼と人間が、いつまでも一緒にいられる時代は、もうとうの昔に終わってしまったのだ。人間は人間の、鬼は鬼の領分の中で生活しなければならなかった。それを子鬼は破ったのだ。子供を傷つけてはならない礼陣の鬼の、最も大きな罪を、子鬼は犯してしまった。
『平太、平太……』
どんなに呼んでも返事はない。平太は里に帰れない。今頃平太の母親は、どんなに子供を心配していることだろう。きっと子鬼が思うよりもずっと、つらい思いをしているはずだ。平太もどんなに母親に会いたいことだろう。このまま親子を別れたままにさせておくわけにはいかない。
もう一度平太を呼ぼうとしたとき、子鬼の頭の上に声が降ってきた。鬼を束ねる大鬼様が、この森を含む里中に呼びかけている声だった。
『平太君の行方がわからないと、皆さんが捜しています。誰か知っている者はいませんか』
もう頼れるのは、この声の主しかいなかった。子鬼は天に向かって、大きく口を開けた。
『平太は私が鎮守の森に連れてきた! それで別れ別れになってしまった! ごめんなさい、本当に、ごめんなさい!』
それから大鬼様が子鬼の目の前に降り立つまで、あっというまだった。
「今の言葉はたしかですね」
尋ねた大鬼様に子鬼は頷いた。下を向いたら、もう頭を上げられなかった。そうしているうちに、いったいどうしたのか、鎮守の森の外から歓声が聞こえた。
「平太君は里に帰しましたよ」
項垂れたままの子鬼に、大鬼様の声が降ってきた。今度は遠くからではなく、すぐ上から語りかけられていたとわかったが、視線は地面に落ちたままだった。
「人間を鎮守の森に引き入れてはいけませんよ。里と私たちが力を解放できるこの場所とは、空間そのものが異なってしまっています。……平太君も、もう少しで永遠に人間の世界へ帰せなくなるところでした」
もう謝っても仕方がない、許されないと、子鬼はわかっていた。このままこの身を滅ぼされても当然だと思っていた。その時を静かに待っていると、大鬼様は溜息交じりに続けた。
「貴方は力の強い鬼です。その力はまだ、皆さんの助けになるはずです。……私は貴方を消したりしませんよ。ただ、平太君と一緒だった頃を含む、今までの記憶をいただきます。貴方は鬼としてもう一度力の使い方をよく考え、しばらく森にいなさい」
平太のことを忘れるのは、消えるよりつらいことのように思えた。けれどもそれは一瞬のことで、まもなく子鬼の中から、平太を含むこれまでの記憶がなくなった。
忘れてしまえば、のちに平太という男が才を認められて大城のお殿様に引き抜かれ、そして二度と里へは戻らなかったという話を聞いても、よくあることだと思うだけになった。
ただ、鬼として礼陣の里の民を守るために力をふるう。そのことは子鬼の意識に残った。
それから年月を幾つも数え、子鬼は今、町となった礼陣に生きている。そうして人々とともにある。
ときおり何かが頭をよぎり、町を歩いてはみるけれど、遠い昔のできごとは、思い出せなくなっている。
昔の記憶はもうないけれど、人間のことはずっと好きだ。傍で見守り、ときには助け、大人になるのを見送っていく。これからもずっとそうしていく。
それが礼陣の鬼の役目で、姿を見止められなくとも果たすべきこと。昔々の大昔から、そういう約束なのだから。たとえ憶えていなくとも。