二十歳の誕生日のときにもそうしたけれど、今日はまた特別な日。仏壇に向かって手を合わせ、春は今は亡き両親に報告する。
「お父さん、お母さん。私、大人になりました」
実際にその年齢になったのは昨年の五月だったので、もう随分前から大人の扱いをされている。ときどきは祖父の晩酌に付き合い、そのうちに祖父よりも酒に強いことが判明した。どうやらこれは母からの遺伝らしく、父はあまり酒は得意ではなかったという。というより、少し飲んだだけではしゃぎすぎてしまったのだそうだ。
両親が生きていれば、彼らとも酒を酌み交わし、今日という日を祝えただろうか。晴れ着姿を褒めてくれただろうか。想像して、笑って、振り返り時計を確認する。もうそろそろ公民館に向かわなければ、道が混んでしまう。それに、友人たちも待たせることになるだろう。
「それじゃ、行ってきます」
習いに行って何度も練習して、手伝ってもらいながらなら自分で着付けられるようになった振袖。髪のセットや化粧も研究した。鏡を見ると、写真の中の母によく似た姿があって嬉しくなる。
「おじいちゃん、私そろそろ出るねー」
「おうおう、気をつけて行けよ。終わったらみんなで家に来い。写真を撮ってやるから」
「うん!」
年明け、寒さが沁みるけれど心が浮き立つ今日、礼陣の町で春たちの代の成人式が行なわれる。
公民館前が非常に混むのは年に数回といったところで、そのうちの一回が成人式だ。あとは礼陣大学の入学式や卒業式があるけれど、北市女学院大学に通う春にはあまり関係がない。だからたぶん、こんな混雑を経験するのは、もうほとんどないだろうと思う。
ついでにいうなら、見知った顔がこんなに集まるのも、もしかするとこれが最後になるかもしれない。いくら礼陣出身者が夏祭りに帰って来るからといって、同年代ばかり一か所に集まるのは、成人式の他にないだろう。
同窓会だよ、と昨年成人式を経験した幼馴染は言っていた。幼い頃から学区の垣根を越えて一緒に遊びまわっていた子供たちは、大人になると礼陣を離れたりして、一旦はばらばらになってしまう。それからまた礼陣に帰って来る人々は少なくないけれど、やはり昔のように一緒に時間を過ごすことは少なくなる。今日はその貴重な一日だ。
「あ、須藤さんだ。久しぶりだね」
「羽田さん? わあ、振袖似合ってる! 本当に久しぶりだけど、元気だった?」
「元気元気ー。佐山ちゃんもね、元気だよ。会ってないけど、連絡よくくれるんだー」
人混みを掻き分けて、最初に会ったのは中学時代の同級生。羽田は礼陣の町から出て、山向こうの隣町である門市で働いている。その一番の友人である佐山は、もっと大きな町に越していき、そこで仕事をしているそうだ。けれども二人とも籍は礼陣に置いたままなので、成人式のために帰ってきている。
「園邑さんたちは?」
「千花ちゃんとは公民館前で待ち合わせしてるんだけど……あ、着いてるみたい。佐山さんと会ったって」
スマートフォンのメールアプリの画面には、たくさんのメッセージが表示されている。高校時代にやっと持つようになった携帯電話は、そのうちもっと便利な機械に変わり、今では無料メールアプリでのやりとりが主流だ。礼陣にまだいる人とも、離れてしまった人とも、すぐ傍にいるようなスムーズな会話ができる。
けれどもやはり、実際に顔をあわせるのはまた違った楽しみがある。春の場合、千花とは大学が一緒なのでよく会うけれど、他のかつて付き合いが深かった友人たちはほとんど町を出てしまっている。年末から年明けにかけて挨拶をした人もいるけれど、今年に入ってやっと会うことのできる人々も多い。
「じゃ、須藤さんと一緒に行けば佐山ちゃんに会えるね。楽しみだなあ、きっとすっごくきれいな振袖着てるんだろうな。お化粧もばっちりきめちゃってさ」
「そうだね。急ごうか」
早くみんなに会いたい。逸りを抱えて、春は羽田とともに公民館前へと進む。あまり伸びなかった身長は人波をすり抜けるのには便利だけれど、前を見るのには不便だ。そこは羽田に補ってもらいながら、目的地を目指した。
一方、公民館前には千花と佐山がいて、待ち合わせの相手を背伸びをしながら探していた。千花がこの場所に到着した時には、もう派手な晴れ着姿の佐山がそこに立っていた。長い睫毛には羽根までついている。それを見た途端に、千花は「私ももう少し着飾ってくるべきだったかな」と思ったものだった。赤い振袖と盛り上げた髪は、これでも随分飾ってもらったのだけれど。――着付けも髪のセットも化粧も、全部お隣の一家にやってもらった。相変わらず頼りっぱなしである。
「園邑、須藤さんたち見つかった? まあ、須藤さん小さいから見えないかもしんないけど」
「うーん……でも羽田さんと一緒みたいだから、わかると思う。それか、詩絵ちゃんのほうが先に来るかもしれないし。もしかしたら男性陣が来てくれるかも」
「今のところ、どの気配もないけど」
佐山と千花が、少々早く来すぎたのだ。けれどもほんのちょっとでしかない。もう公民館前は人でいっぱいだし、久しい再会を喜ぶ一団もそこかしこに見ることができる。でも千花たちの待ち人は、なかなかこの混雑を抜けきれないようだった。
「だからはねちゃんにもっと早くおいでって言ったのに……」
「まあまあ、羽田さんが早く来てたら、春ちゃんと会ってなかったかもしれないし。こうやって佐山さんと待ち合わせを共にできるのも、ご縁ってことでひとつどう?」
「どう、って。本当に暢気なんだから、園邑は」
思えばいつかは酷く険悪だった二人が、こうしてお喋りをしながら友人たちを待てるというのも、感慨深いものだ。恰好は他に比べれば地味かもしれないが、こうして今日を迎えられるということを、千花はただ喜ぶことにした。それが一番良い。
そう思ったとき、少し遠くから、「おーい」と呼びかける声がした。耳がちゃんと知っている、この低い声は。
公民館前の千花と佐山を見つけたのは、新だった。ここまで来る途中、牧野と会って、互いのスーツ姿を指さして笑いあっていた。晴れの日だからとネクタイを少々派手なものにしていたのが、変にツボに入ってしまったのだ。
ひとしきり笑って、「元気だったか」「元気だよ、そっちは?」と定番の応酬を繰り広げたあと、千花たちが目に入ったのだった。
「あ、気付いた。……でも、春はいないな。やっぱり家まで迎えに行くべきだったか」
「会うの久しぶりだろ? ちょっとくらい離れてたほうが感動するって、たぶん。ていうか、ざまあみやがれ」
「そんな言い方ないだろ、マキ。自分だって彼女いるくせに」
新も牧野も、礼陣に帰ってくるのは久しぶりだった。正確には年末年始に帰省はしていたのだが、それぞれ家の都合もあって、ゆっくりできなかった。友人たちとは今日まで会っていない。現在、新は県内大城市の国立大に、牧野は県外の私立大に在籍している。礼陣の町を歩くのは、夏に帰ってきて以来だ。
日々連絡は取っているものの、しばらく直接春に会うことがなかった新は、今日を本当に楽しみにしていた。ただ会えるのではない、振り袖姿が見られるのだ。前撮りした写真は送ってもらって見ることができたのだけれど、今日はそれとは違う着物らしい。
「早く春に会いたい。よし、マキ、急ぐぞ」
「焦りすぎて人にぶつかるなよ」
二人は人の合間を上手にぬって、公民館前へ向かった。
さて、その姿をもう少し離れた場所から、それも背後から見つけたのが詩絵だった。しかもそこからは、千花と佐山、春と羽田の姿も捉えることができた。問題はそこまでいかに素早く行くかだ。
「春たちを拾って……は、ちょっと無理だな。やっぱり公民館行ったほうが早いか」
「そうだね。でも開場までまだ時間あるよ。焦らないでいいんじゃない?」
ここまではひかりと一緒に来た。同じ美容室を、同じ時間帯で予約していたのだ。申し合わせたわけではないのに、詩絵とひかりは昔からタイミングがいい。水無月呉服店で借りた振袖を着付け、美容室こいずみで髪と化粧を整えるという礼陣女子の定番の流れをクリアした二人は、少しずつ前に進むことにした。
歩きながら、夏から今まで積もった話をする。あとで同じことを、友人たちに改めて話すのに、たぶん何度話しても何度聞いても飽きないと思ったから言ってしまう。
今、詩絵は県内公立大の教育学部で学んでいる。礼陣からは離れて暮らしているが、連休があれば頻繁に帰ってきて、実家の店を手伝う生活をしていた。そしてひかりは県外の専門学校で勉強をしている。めったに帰ってこられない礼陣の町を、ゆっくり見て満喫したかった。
そんな調子で進んでいくと、あともう少しで目的地、というところで見知った顔に出会った。すらりと背の高い彼女は、中学時代の同級生である小日向だ。
「あ、加藤さんと笹木さん」
「小日向さんじゃん! うわー、スタイルいいから振袖も似合うなあ。一人?」
「ええと、園邑さんからメール来てて、合流するつもりだったんだけど……」
「じゃあ一緒に行こう! どうせみんな集まるんだし」
詩絵の提案に、小日向はぱっと顔を輝かせた。ここまで一人で来たようで、千花から連絡はもらっていたものの、やはり不安だったらしい。
小日向はずっと礼陣に住んでいる。通っている大学も、北市女学院大学だ。高等部からそのまま進学したのだった。
ますます賑やかになったお喋りは、公民館に近づき、とうとうゴールに到着した。そこには先に千花と佐山と合流していた新と牧野もいて、七人は再会を喜びあった。
「ほーう、新ってばスーツなんか着ちゃって。これで仕付け糸つけっぱなしとかだったら笑えるんだけど、大丈夫?」
「ちゃんと確認してきた。春に格好悪いところは見せられないからな。……詩絵も、別人みたいに見違えてるけど」
「それ褒めてるつもり?」
やいのやいのと騒いでいるうちに、やっと「着いたー」という羽田の声がした。片手は大きく上に、もう片方の手ははぐれないよう春と繋いでいる。もちろん新の視線は、羽田を通り越して春へと注がれていた。鮮やかな紅梅色を纏った、愛しい愛しい彼女に。
「春! やっぱり振袖似合うな。そもそも浴衣だって似合うんだから、似合うに決まってるよな。ここまで来るの大変だっただろ。オレが迎えに行けば良かったか」
あからさまに詩絵とは、というよりもそこにいる他の女子に対するものとは違う反応に、みんな呆れる。呆れながらも、これでこそ新だ、変わらなくて安心した、と思いながら息を吐いた。
「落ち着いてよ新。……久しぶりだね。また背伸びちゃった?」
春がにっこり笑うのと、公民館が開いたのは、ほぼ同時だった。人の波に流され、けれどもはぐれないようにしながら、集まった面々は会場へと移動した。
式自体は何の変哲もなく進行し、予定時間通りに終わった。その後の親睦会からが本番だ。
昔馴染みが集まって、軽食をおともに積もる話を語り始めると、もう止まらない。礼陣で生まれ育った者は多くが幼い頃から顔見知りなので、だんだんと輪も大きくなる。
「成人代表が筒井ってのも、なんか変な感じだったよな」
「変って何だよ。立派なもんだっただろ」
筒井は高校を卒業してから、役場に勤めている。それで声がかかったのだろうと思うが、案外真面目に役目を務めあげたので、仲の良い者たちは驚いていた。
「朗も一応社会人なんだなって感心した」
「博希ぃー……。一応ってお前なー……」
がっくりと肩を落とす筒井に、沼田は楽しそうに追い討ちをかける。そんな沼田は普段遠い地の国立大の学生をやっているので、礼陣に帰ってくるのは久しぶりだ。先ほどから筒井に限らず、新にも「相変わらず須藤のことしか考えてないの?」などと毒を含んだ言葉をかけていた。
「働いてる人は偉いよね。俺も就活頑張らないとな」
「まだ先だろ。それよりさ、浅井は彼女とどうなの? このあいだの喧嘩は解決した?」
「うーん、解決っていうのかな。もう怒ってはいないみたいだけど」
浅井は隣県の大学に、塚田は地元の礼陣大学に通う学生だ。頻繁に連絡をとっているようで、塚田は浅井の様々な事情を把握している。礼陣のかつての子供たちは、彼らに限らず交友関係を長く続ける。気軽に連絡が取れるツールが発達したことで、さらに距離が縮まっている気がする。
アプリ内で「礼陣」というグループを作って、やりとりをしていると、頻繁にタイムラインが更新される。誰かが言ったことには、誰かしらが反応する。大抵はこの町の話題で、発信元は地元に残っている者であることが多い。
「このあいだ、春が送ってくれた酒の写メさ。向こうの友達に見せたら、飲みたいから買ってこいって」
「酒屋さんで売ってるよ。あとで一緒に行こうか」
「ていうかみんなで飲もうよ! このあと春ちゃんの家に集まるんでしょ?」
「おじいちゃんが張り切ってるから、来てくれると嬉しいな。もう酒瓶ずらーって並べて待ってるんだから。あのお酒もあるよ」
他愛もないお喋りの内容は、大人のそれになった。けれどもノリはあまり当時と変わらない。今日は何して遊ぼうか、何の教科を勉強しようか、そんな調子だ。
「新は残念だな、誕生日三月だから、まだ十九歳だもんな。早く大人になれよ!」
「シノ、うるさい。オレ以外にも早生まれはいるだろ」
「秋公からも連絡来てるぞ。地元でもう飲み始めてるって。新とも早く飲めるようになりたいってさ」
飛鳥が新にスマートフォンの画面を見せながら、にやにやしている。それが悔しくて、新は「あと二カ月早く生まれたかった」と思う。そうしたら、このあと須藤家で行なわれる宴会でも、春と一緒に酒が飲めたのに。
ちなみに飛鳥は礼陣大学の学生をやっていて、無料メールでやりとりをしていた秋公は有名私立大に籍を置いている。秋公はもともと礼陣の人間ではなく、高校だけこちらに来ていただけだったので、成人式は彼の地元で参加している。けれどもまるで同じ場所にいるように、スマートフォンを通して会話ができるのだった。
「アキもこっち来られれば良かったのにね。みんなで飲み会やりたかったな。新は飲めないけど」
「詩絵まで言うか。……全く飲んでないわけじゃないぞ」
新をからかっていると、詩絵の肩を叩く者があった。そのまま笑顔で振り返ると、そこには少し緊張した面持ちの浅井がいた。会うのは夏以来だ。
「加藤、元気そうだね」
「浅井もね。ちゃんと食べてる? まだそっちにサンドイッチ残ってたよ。使ってるのうちのパンだから美味しいよ」
「うん、食べた。加藤のとこのパン、美味しいよね。……あと、晴れ着、似合ってる。大人っぽいというか、女性らしさが出てるっていうか」
「ん、ありがと。女大将がこんな格好、おかしいっていわれるかと思ってたんだけどね」
今日のために髪を伸ばして、化粧をした詩絵は、会場で噂されるくらい見違えていた。あれがかの「社台の女大将」かとささやきあう声は、本人の耳にも届いている。素直に褒めてくれたのは友人たちと家族くらいだ。勇敢なのか馬鹿なのか、正面切ってからかってきた筒井と塚田は、すでに女大将の威力が増した拳をくらっている。
「おかしくなんかないよ。加藤は、昔からちゃんと女の子らしかったと思う」
「お世辞なんかいいよ。何にも返せないんだし。それより、浅井も春のとこの飲み会行くでしょ? 良いお酒用意してるってよ」
「そっか、でも俺は早生まれだから。誕生日、来週」
「ありゃ、それは残念。でも美味しい料理も用意してくれてるみたいだし、一緒に行こうよ」
明るく笑う詩絵に、浅井も笑顔を返す。しかしそれはどこか翳っていて、詩絵は首を傾げた。それから、さっき耳に入った話題を思い出す。――たしか浅井は、彼女と喧嘩をしたのだとか。しかもそれはちゃんと解決していないようだった。
「もしかして、彼女のこと心配? 浅井は優しいもんね」
「……ええと、彼女とはうまくいってないんだ。付き合ったはいいけど、なんだか喧嘩ばっかりで」
「なんだよ、相談なら乗るよ? 一応アタシも女子だしさ」
恋愛相談なら、詩絵は慣れっこだ。春と新を見届け、千花の恋を応援し、今でも友人たちからの相談や惚気を頻繁に受けている。自分は恋をしたことはなく、せいぜいが憧れ程度だが、この手の話に関してはプロなのではと思っていた。
「じゃあ彼女と別れるから、加藤、俺と付き合ってくれる?」
だがプロは、自分が好意を持たれることに慣れていなかった。だから、ずっと気づかなかった。
「……なんでそうなるのよ」
「小学生の頃から、ずっと加藤のこと好きだった。女の子として見てた。……だめかな」
気づかなかったけれど、答えははっきりしている。
「だめだよ、それは。ちゃんと彼女と話し合わないで、それはだめでしょ」
「だよね。加藤ならそう言うと思ってた。そう言ってほしかったんだ」
これまで彼女の言い分をただ聞くばかりで、ちゃんと話しあったことはなかった。喧嘩だって、彼女が一方的に始めて、浅井が負ける。その状況を変えるために、よく効く応援と、長かった初恋を吹っ切ることが必要だった。
「ありがとう、加藤」
「お礼を言われる意味が分かんないんだけど。こっちがごめんねって言わなきゃいけないのに」
その光景を見ながら、ひかりと塚田がしみじみと頷いていた。あの二人も少し大人になったな、なんて思って。
親睦会のあとは大勢で須藤家に向かい、宴会を開いた。須藤翁が用意してくれた酒はどれも今後飲めるかどうかわからない逸品で、まだ成人していない早生まれ組は悔しがった。
宴会の様子をスマートフォンのカメラ機能で撮って、千花は遠くの町にいる海に送った。いくつもいくつも。はしゃぐ春とそれを押さえる新、つまみを追加で作る詩絵と小日向、乾杯をする佐山と羽田、浅井を囲んで肩を組む牧野、塚田、筒井。こちらはデジカメで写真を撮るひかりと、レンズに向かってポーズを決める飛鳥、巻き込まれる沼田。そんな千花を撮ってこっそり海に送ったのは、春。
その写真はさらに各地にいる先輩たちに転送され、拡散していく。みんなが「成人おめでとう」とタイムラインにメッセージを返してくれる。
晴れの日は広がって、彼らの新しい一歩を祝う。