鹿川透が礼陣に引っ越してきたのは、冬のことだった。もうじき小学五年生も終わりになろうかという、冬休み明け。道にはジャクジャクした水分の多い雪が敷かれていた。そして町のぐるりを囲む山々は、真っ白に染まっていた。
そんな冬が、また巡ってくる。それを過ぎたらいよいよ中学生になって、透は少しだけ大人に近づく。両親に負担をかけたくないので、早く大人になりたかった。
けれども両親は、彼らなりにちゃんと持ち直しているらしいというのが、この一年でよくわかった。隣町の大企業で、手痛い失敗がきっかけとなりリストラの憂き目にあった父は、この町の新しい職場でうまくやっているようだ。透にはよくわからなかったが――これも子供だからで、大変悔しいことだ――失敗したとはいえ積み上げてきたキャリアは本物だった父は、今の会社では重宝されているという。
母も随分落ち着いた。あれが大変、これが大変、と言わなくなった。それどころか最近では、毛糸を買ってきて編みものまで始め、「近くにドイツ人の、手芸が上手な方がいるのよ。ドイツ語の教室もやっているんですって。お母さん、行ってみようかしら」なんてうきうきと言うようになった。
それでも隣町にいた頃より収入が減ってしまったのはたしかで、以前より質素な暮らしをしなければならなくなったのだからと、透はずっと欲しいものがあっても必要最低限のもので済ませてきた。お小遣いを貰わない生活にも慣れたし(家事の手伝いをすると少しだけもらえる、その分だけは受け取ることにしている)物を大事にするようになったと実感している。礼陣に引っ越してきてから、環境はまるで変わってしまったけれど、物事はうまくまわっているようだった。
そんなふうにして、一月から十二月までを過ごした町は、いつでも美しい景色と賑やかな人々で満ちている。
雪が融けて暖かくなった頃には、友達と一緒に色野山に遊びに行った。花の蕾をつけている木々や草花を、間近にじっくり見たのは初めてだった。やがてそれが一斉に開いて、山を色鮮やかに染め上げたのも壮観だった。そしてその頃になって、もう一度山に遊びに行って、今度はお花見を楽しんだのだった。
夏に向かうにつれて、町はそわそわしてくる。学校でも、図画工作の時間に「夏祭りポスター」の課題が出た。毎年八月の後半に行なわれる夏祭りの、告知のためのポスターを募集しているようで、小学生から大人までこぞってコンテストに参加するという。小学生の部、中学生の部、高校生の部、一般の部とあって、透たちは小学生の部に挑んだというわけだ。
結果は他校の子に決まったが、透たちも参加賞をもらえた。ノートと鉛筆、消しゴムのセットは、透にとっては本当に助かるものだった。
夏祭りには子供神輿も出る。御輿行列のときにうたう唄を、透も友達から習った。礼陣の子供はみんな唄えるというし、その調子が上手なので、感心したものだ。そもそも透の通う遠川小学校では、年に数回合唱コンクールを行なうので、そのせいか大抵の子は歌が上手だ。けれども合唱曲を歌うのとは全然違う、不思議な抑揚のある唄は、上手な子は大人に負けないくらい本当に上手だし、苦手な子は平坦になってしまって、お経を聞いているよう。透はどちらかといえば、本番もお経側だった。
本番の神輿行列は、そんなことは気にならないくらい楽しかったけれど。みんなで唄いながら町中を練り歩き、沿道のたくさんの人たちから声をかけられる。駅前広場で行列が終わったら、お菓子とジュースを貰って、お喋りをしながら一休み。休んでおかなければ、この後の縁日巡りで力尽きてしまうと、友達に言われた。
そしてたしかに縁日巡りは面白く、忙しかった。子供は駅裏商店街に出ている出店に限って、値切り交渉が許されている。友達がみんな大人と渡り合って、品物を安く手に入れているのを見ていると、透もやってみたくなった。いざ挑戦してみると、大人たちは「鹿川の坊ちゃんは祭りが初めてだもんな、おまけしてやらあ」と簡単に値下げに応じてくれて、少し物足りなかったが。
祭りの最後の花火大会は、神社の境内で楽しんだ。ちょうど高台になっているそこから、河川敷で打ちあげられている花火はきれいに見えた。ここなら絶景だ、と教えてくれたのも友達だった。
秋になると紅葉が山を彩り、その下を歩いて遠足に行った。春とはまた違う顔を見せた山々に、透は感動しきりだった。そんな透を見る友達が嬉しそうなのも、印象的だった。
礼陣の人々は、礼陣を好きになってもらいたがる。楽しいこと、素晴らしい場所を、たくさん教えてくれる。そしてこっちが笑顔になると、相手も喜ぶのだった。
そうして過ごした一年で、透が最も多く足を運んだ場所は、学校以外であれば礼陣神社だった。鬼を祀っているというこの神社は、町の人々の手で運営されている。お守りなどの授与は、ここに住んでいる神主がやっているが、境内の掃除や社の修繕といったことは町の人が交代でやっている。日曜日には透の友達である八子が、祖母と一緒に掃除をしに来る。透はそれを狙って来ることもしばしばだった。
けれども何度か、一人だけで神社に来たことがある。もともと寺社仏閣は好きなほうで、興味を持って調べたこともあったから、礼陣神社にはとりわけ関心があった。鬼を祀っているということも、その鬼が実在するということも、興味深かった。
そう、透は鬼を見たことがある。節分の日に、頭に二本のつのがある鬼を見た。それは凶暴になってしまった鬼だったようで、八子が竹刀で叩いておとなしくさせていた。そんなファンタジーが、この町では現実で、しかも鬼を見たことのない人を含む誰もが、鬼の存在を信じている。
だから町の人が、友達が、「神主さんは鬼なんだよ」と言うのも、疑いようがなかった。つのはなく、浅葱袴の普通の大人、それも若いほうに見える神主は、しかしずっとその姿が変わっていないのだという。しかも、神官らしいのは格好ばかりで、あとはちっとも神主らしくないのだった。
「透君、こんにちは。今日はお一人ですか」
穏やかに微笑んで立っているけれど、特に何をしているわけでもない。ただそこにいる。
「こんにちは。神主さんは相変わらず、境内の掃除とか、神官としての仕事をしていないんですね」
普通、この神社のように設備が一通り揃っていて、一応ではあるが管理者がいる神社は、もっと忙しいものだと思う。境内をきれいに掃き清め、参拝者に授与するものや祈祷の道具の準備をし、氏子をまわったりするのが、透の知っている神主の仕事だ。けれどもこの神主と呼ばれている人がそうしているのを、透はほとんど見たことがない。参拝客と話をしていたり、巫女らしき人と何か相談をしていたりはしているようだが、それ以外に何か仕事をしていたことが、そんなにあっただろうか。
祝詞をあげたりもしないようだ。祝詞は神様への挨拶や報告のようなものだと透は捉えている。しかし神主がこの神社に祀られている鬼そのものならば、たしかに祝詞は必要ないのだった。だって、自分への挨拶になってしまう。いつぞやも、八子あたりがそう言っていた。
「そうですね、祝詞はあげたことがないです。地鎮祭なんかも頼まれればやりますが、形ばかりですね」
神主に改めて尋ねると、のほほんとこう返ってくるので、透は呆れたものだった。神様本人だろうが、一応神主を名乗るなら、儀式の類はきちんとするべきなのではないか。
夏祭りのときは、神主らしく立派な恰好をしていたのに。つまりは神官としての正装だったのだけれど、あれも恰好だけだったのかと思うと溜息が出る。それでもこの町の人々は、神主に親しみながら、敬意を払っているのだった。
「せめて神職の資格をちゃんと取ればいいのに」
「私はこの町から離れられませんからね」
神主は、透の言葉を少し困りながら受け止める。仕事に関する話をするといつもそうだ。自分でも神主らしくないと思っているのかもしれない。
けれども人間たちが「神主さん」と呼ぶから、この神様は、大鬼様は、神主でいるのだろう。そこにいるだけ、なのだけれど。そこにいるだけでいいのだ。
「……あの、神主さん。俺、礼陣の町が好きです」
「そうですか。それは良かった」
透が町を好きだと言うと、神主は目を細めて喜ぶ。町の人たちと同じで、もしかすると町の人たち以上に、神主は礼陣の町が好きなのだろう。他の人にも好きになってほしいくらいに。
「季節感とか、夏祭りの賑やかさとか、住んでる人とか……みんなあったかくて好きです。好きだから、神主さんにはもうちょっとちゃんとしてほしいというか……。俺、神社そのものも神社の仕事も、すごく好きなので」
「そうですね。祀られているのが自分でも、神主である以上はきちんとしなければいけませんね」
神主がまた苦笑する。でも、透は考えたのだ。この人がこの土地の神様で、礼陣から出られないなら、出られる人が仕事を学んで来ればいい。それらしい適当なものでこれまでやってこられたのだから、それもいいのだろうけれど、正しいやり方とされているものも学んでおいたほうがいいと思う。
人がいて、町があって、四季があって、神がいる。それで十分なのかもしれないけれど、でも。
「俺、神主さんの代わりに、勉強してきます。早く大人になって、両親と町に恩返しがしたい。ここが町にとって大切な場所なら、俺がこの先もここを守れるように勉強します」
町に触れて、町について知った。町が好きになって、町のために何かしたいと思うようになった。恩返しのために、早く大人になりたい。今できることでは、まだまだ足りない気がする。
「その心意気、とても嬉しいです。そうですね、透君が勉強したことをさらに私が教われば、もっと広く世の中を見られますね。それは良い考えだ」
うんうんと頷いて、神主は透の頭を撫でた。心の底から愛しいと思うものに、そうするように。
「もうすぐ君がこの町に来て、一年になります。そのあいだに、たくさんのものを見て、たくさんのことを感じ、考えてくれたんですね。礼陣の大鬼として、これ以上に嬉しいことはありませんよ」
「……まあ、できたらですけど。なにしろうち、あんまり裕福じゃないので。大学とか行けるかな」
「行けますとも。透君なら、自分の信じた道を行けます。私が保証しますよ」
礼陣の町の神様が言うのだから、これ以上に信頼できる保証はない。透は照れて笑い、それから、心の中でそっと約束した。
いつかかならず、この町を良くする人になろうと。そんな大人になろうと。そのためなら、今、そしてこれから、どんな苦労もしよう。大丈夫だ、大変でも、周りの人が支えてくれる。ここはそんな町だから。
「……おや、雪だ。もうすぐ山も白くなりますね」
また礼陣に、冬が来る。透にとって二度目の冬が。