双子の弟が町を離れて一年目、夏に戻ってきたときは、まだ美和の姿が見えていた。ほかの多くの礼陣の人々がそうであるように、町の外に出ると、常識がまるで変わってしまうので疲れるらしい。町に戻ってくるのが楽しみだったと言っていた。けれども向こうでの生活も、なんとかこなしているようだ。人間には人間の生活がある。鬼のいらない生活が。
さて、年末年始の帰省の折には、まだ弟には美和が見えるだろうか。見えるということは、互いの存在を求め合っているということで、つまりは美和は鬼に成れず、弟は大人になりきれていないということなのだけれど。

礼陣には二種類の人が住んでいる。人間と鬼――昔から互いの存在を意識して暮らしてきた。鬼のいる生活は、その姿が見えなくとも礼陣の人々にとっての「当たり前」になっていて、だからこそ町の外に出るとその常識が通用しなくなり、戸惑うことがある。
この国には八百万の神がいるというが、そこには国で生まれ育まれた神のみならず、海の向こうから渡ってきた神々も含まれている。神も仏もいっしょくたにして、都合のいい時にその存在を思い出す。行事は商業的に使えるとわかれば消費され、本来の意味もわからぬ者が祭りを繰り広げる。
そんなふうになってしまった現代のこの国で、「鬼」などというものをただ一心に信仰している礼陣の人々は、下手をすればカルト教団扱いだ。だからこそ鬼の側も、人間の生活を阻まぬよう、姿を隠すようになったのだ。否応なしに見えてしまう人間は、まだまだいるけれど。
だが、姿が見えずともなお親しんでくれるというのは、鬼たちにとってはありがたいことだった。認識されなければ、消えてしまうのと一緒だ。そしてそのときが、鬼たちが人間たちとの繋がりを切るときなのだろう。
繋がりがなければ消えるまで。――本来、人間には認識されるはずのない人鬼の美和には、身に染みる言葉だった。美和が長い時間を人鬼として過ごすことができているのは、ひとえに美和を認識することのできる弟のおかげだ。それも、どうやら超能力の一種らしいということが判明してしまって、少々つまらない思いはしたが。

それはともかくとして、鬼の真実や町の裏側、自らの出自を一通り知ってしまった美和は、弟がよその町へ行ってしまっているあいだは暇だ。実家としている店に立ち、人の出入りを日がな一日眺めていたり、神社の境内に足を運んで鬼たちと話したりするのが、定番の過ごし方になっている。
一時期は町で最も恐れられているという呪い鬼のところへ通うこともしていたが、全てが暴かれた今、そう頻繁に訪ねることはなくなった。けれども会いに行くことはやめてはいない。周りの鬼がいくら止めても、美和だけは彼女の友達でいようと決めたのだ。
向こうは迷惑そうにしているけれど、応じてくれる。そして何気ない昔話なんかをしてくれるのだった。それは鬼や町、人間たちに対する悪意が大いに込められていたのだけれど、今の美和はそれに引きずられてしまうことなく話を聞くことができる。それを呪い鬼――葵は、『教えたのは私だけど、訳知り顔は腹が立つわね』と言っている。どうにも面倒な鬼だが、美和はそこを気に入っているのだった。
そうしているうちに、夏は秋になり、秋は冬になった。冷たい風を美和が感じることはないが、店を訪れる人の装いや、町の景色、鬼たちの話題から冬の空気を察することはできる。町を囲む山にはもううっすらと白い化粧が施されていて、同じ色の息を人間たちがしている。商店街を歩けば年末年始の準備が進み、新しい年に向かって時間が流れる。
濃い一年だったなと思いながら、美和は今日も店が落ち着いたころに、神社へ向かった。
神社には鬼たちがいつものごとく集まっていて、みんなで供物……というよりも差し入れというほうがしっくりくる菓子や果物を頬張っていた。
『どーもー。また美味しそうなの食べちゃって』
『おお、美和か。今日は今年最後の柿と、御仁屋のまんじゅうをたくさん貰った。人鬼は食えないのが残念だよな』
『食べるのなんて娯楽じゃないの。お腹も減らないくせに、そんなにむしゃむしゃと……
人間だったら太るよ、と言いかけて、美和は見慣れない鬼がいるのに気付いた。黒く長い髪から、他の鬼と同じ二本のつのがのぞいている。肌は影のように黒く、体にはこれまた黒いケープのようなものを纏っていた。鬼はさまざまなかたちをしているが、不思議と性別はわかるもので、美和にもこの鬼が一目で女性だと判断できた。
『私とははじめましての鬼がいる! 今まで鎮守の森にいたの?』
『ああ、美和は最近森に入らないから知らなかったか。しばらく奥のほうにいたしな。去年の春に生まれた鬼で、ずっと力を蓄えていたんだ』
鬼が生まれるとはどういうことか、美和は知っている。おそらくは彼女も、もとはこの町の人間だったのだ。けれども昔の記憶はすでになく、こうして鬼としての生を送っているのだろう。鬼と親しみ、人間を見守り、これからも暮らしていくのだろう。
ケープの鬼はことりと首を傾げて、美和を見上げた。他の鬼と一緒に座って食べていたのは、どうやら苦いチョコレートのようだ。以前、弟の幼馴染が「甘いものはだめだけど、これも別の意味でだめだな」と遠い目をしながら食べていた。あれはバレンタインデーのころだったか。
『苦いの、好きなの?』
美和が尋ねると、ケープの鬼はこくりと頷いた。そして、小さくきれいな声で答えてくれた。
『甘いよりも、苦いが好き。だから苦いが好きな鬼がいるって、噂広めてもらった』
『なるほど、そうすればそのうち町の人の耳に届いて、そういうのを持ってきてくれるってわけか。それはともかくとして、声、きれいだね。天気がいいときの、遠川の流れみたい』
美和が思ったことをそのまま言うと、ケープの鬼は恥ずかしそうに、ぺこりと頭を下げた。その仕草がまた可愛らしい。その分、チョコレートのパッケージにある凶悪な数字とのギャップが大きかった。
しばらく鬼たちの様子を眺めながらお喋りをしていると、やがてケープの鬼が、美和の袖を引っ張って、首を傾げた。
『食べないの?』
そういえば、自己紹介も何もしていなかった。周りも美和を紹介しなかったから、ケープの鬼にはこちらのことが何もわからないのだ。
『食べられないの。私、美和っていうんだけど、人鬼っていって人間の魂が鬼に成ろうとしている途中の半端な存在だから、できないことが多いんだ』
『みわ?』
『私の名前。弟から貰ったんだよ、良い名前でしょう』
鬼にはもともと、別個に名前があるわけではない。「鬼」「子鬼」などと呼べば、誰のことだか自然と伝わるようになっている。けれども名前をつけてもらった美和にはそれがややこしく思えてしまって、気心の知れた鬼には、美和だけが呼ぶ名前をつける癖がある。現にここにいる鬼たちにも、すでに名前がついているのだった。鬼は鬼同士で「鬼」と呼ぶが、美和だけにはその名前で呼ばれて返事をする。
『あなたにも名前をつけよう。私くらいしか呼ばない名前だけど、気に入ってくれると嬉しいな。……そうだな、きれいな澄んだ声をしてるし、……きよ、でどうかな。さんずいに青で、清』
『清? 私の、名前?』
赤い眼をほんの少し見開いて、清は自分の名前を何度も繰り返し口にした。そして指で地面に、その字を書いた。さんずいに、青。――それをじっと見ながら、清は呟いた。
『なんだか、懐かしい名前』
『懐かしい?』
生まれて二年もしないのに、懐かしいも何もないと思うが。……普通の鬼ならば。
美和は普通ではない鬼を知っている。そもそも鬼というかたちは、第二の人生。鬼になる前のことを、もしも憶えているのなら、『懐かしい』と思うのも不思議ではない。清は、そういう鬼なのだろうか。
『懐かしい気がするだけ。生まれて少ししか経たない私が、懐かしいはずない。でも、ときどき、懐かしくなるの。チョコレートも、町も、この名前も』
記憶は他の鬼と同じように、ほとんどない。けれども少しだけ感覚が残っているようだ。地面に書いた名前をそっと撫でながら、清は美和に言う。
『こんな字で、呼ばれていたことがあるような、気がしただけ。きよ、ではなかったと思うけど』
名前なんて持ったことがないから、きっと思い違い。清はそう言ったが、美和にはそれが彼女の「生前の記憶」であることがわかってしまう。
清という字で、別の読み方で、本当に呼ばれていたことがあったのだ。彼女はかつて、そういう名前を持った者だったはずだ。清だけではなく、他の鬼だって、本当の名前に近いもの、鬼になる前の自分に近いものに触れれば、何かを思い出すかもしれない。
けれどもそれでは、鬼と人間のバランスを保つのに都合が良くないのだ、きっと。
『でも、これからはきよに返事する。清、とても良い。ありがとう、美和』
目で笑った清に、美和はどういたしましてと笑みを返した。

人間だったことを忘れてしまう鬼もいれば、僅かでも憶えている鬼もいる。美和には人鬼になる前の記憶はないが、鬼に成ってから、人鬼時代の自分を憶えていられるだろうか。
それを考えるたびに、忘れたくないな、と思う。弟と、鬼たちと、過ごした日々をいつまでも留めておきたい。それはきっと、美和の抱える業だ。
『忘年会なんかやる人間の気が知れないわよ。こっちはさっきのことだって忘れないように必死なのに』
町を歩きながら、美和は独りごちる。人間には絶対に聞こえることのない、その声で。