時が流れるのは早い。特に、忙しい時には。気がついたら一日が、一週間が、一か月が経っている。師走の礼陣の町は、クリスマスと年越しという大イベントの準備で慌ただしい。駅前広場には今年もイルミネーションの華やかな巨大なツリーがあり、道行く人々の注目を浴びている。商店街ではクリスマスケーキの予約のラストスパートと同時に、おせちの材料や正月飾りの売り出しが盛大に行われている。
もととなる宗教はばらばらなのに、都合のいいところをとって、祭りにしてしまう。それが日本人であるといわれれば苦笑しつつも認めるしかないが、こと礼陣の町に限っては、本当に「いいとこどり」だ。
この町には鬼がいる。鬼の存在を認め、その力を町の人々みんなで崇めている。町のシンボルである礼陣神社で祀っているのも鬼だ。この町は、一帯が一つの宗教を信仰する土地になっている。
それをおかしいと言おうものなら、大人たちはやんわりと矯正しようとする。あるものを認めなさいと、直接ではなくとも言ってくる。信仰の自由があるようでない、というのは、もしかしたらこの土地に限ったことではないのかもしれないけれど。
けれどもこういうことを改めて考えることは面倒で、実際に鬼たちが見えてしまう海は、ただそれが「当たり前」なのだと受け入れることしかしてこなかった。「おかしい」と全く思ったことがないわけではないが、いつも結論は「あるのだから仕方がない」。きっとこの町に暮らす、海と似たような立場の人間は、誰もが一度はそんなことを考える。
この師走の、忙しい時にでも。他に考えなくてはならないことが山ほどあるとしても。それを十八年繰り返した。時が流れるのは、早い。
半纏を羽織ってこたつ布団に潜り込むと、そのまま寝てしまいそうになる。けれどもそれを堪えて参考書を開けば、今度は幼馴染がそれを見て欠伸をした。なんでも、数式を見ると眠くなるのだそうだ。それでも成績は悪くないらしい。
「なにも、うちに来てまで勉強しなくてもいいのに」
春がもう一度欠伸が出そうになるのを我慢して言う。
「一応受験生だから。連さんたちとは違って、こっちは一般受験なわけだし」
海は苦笑しながら答える。第一関門であるセンター試験は、いよいよ来月に迫っていた。ならば家か図書館ででも勉強したほうが進みがいいのではないかと思うが、海にはどうしても春に話したいことがあった。それでいつものように、春の祖父に手入れをしてもらう剣道の道具を持ってやってきたのだが、本題はなかなか切り出せないでいる。
「連さんと莉那さんは決まったから、あとは俺とサトと黒哉。サトは惜しかったよな」
「そうだね。でも一般でがんばるんでしょ? サトさんなら大丈夫だよ。推薦で合格した連先輩と莉那先輩はすごいよね」
一息置いて、春は急須から濃く出した茶を湯呑に注ぐ。菓子鉢から、このあたりでは定番のお茶うけである御仁屋の一口まんじゅうを取り出して海に放り、自分でも一つ包みを開いた。
「でさ、海にい。このやりとり、もう三回目ってことに気づいてる?」
「……はい」
一つ年下の幼馴染は、なりは小さいが容赦がない。海が色々なことを教えてきたと思っていたが、いつのまにやらいくつかの分野では追い越されていた。その一つに、恋愛も含まれている。
「本題いつまでも言わないし、挙句の果てに勉強始めちゃうし、海にいは私に何の用事?」
いいかげんに焦れてきたのか、少し厳しい調子で問い詰められる。海はたじろぎながら茶を一口飲んで、目を逸らしながらぼそぼそと答えた。
「……千花ちゃんのことが、好きなんだけど」
「知ってるよ。あんなにあからさまでわからないほうがおかしいもん」
さらり。御仁屋の餡子よりさらりとしている。春の返事はそんなものだった。それに面食らっていると、追撃が来る。
「初恋だもんね。隠そうとしてもなかなか難しいよね。わかるよ」
「こ、このこと千花ちゃんにも……」
「ううん、千花ちゃんは知らない。千花ちゃんからすれば、海にいは相変わらず女子が苦手で、自分に好意を持とうものなら無理やりそれを引き剥がそうとする冷血漢だもの」
かつて春の言葉が、こんなに深く胸に刺さったことがあっただろうか。それが自業自得であるとわかっているからこそ痛い。好きな相手である千花からも「冷血」なんて思われているのかと考えると、なかなか座卓に突っ伏した状態から起き上がれなかった。
「海にい、ごめんって。半分冗談。でも千花ちゃんが、海にいは女子が苦手だからあんまり近づかないようにしてあげないとって思ってるのは本当」
「……じゃあ、告白なんかしたらびっくりされるな」
「そりゃあもう。ていうか、告白しようって気になったんだ?」
「うん。卒業式とか」
「遅い」
ちょっとだけ顔をあげた海を、春がまた鋭く刺した。何個目になるかわからないまんじゅうを齧って、もう一度「それじゃ遅すぎるよ」と言う。
「だって、大助さんはそうやって」
「大助先輩のはプロポーズでしょ。それに亜子先輩とこれからも頻繁に会えるっていうの前提での計画だからね。海にいが卒業式に千花ちゃんに告白して、付き合うことになっても、それからすぐ遠距離になっちゃうでしょ。そんなの千花ちゃんがかわいそうだよ。だいたい、海にいの行く学校って四年制じゃなくて六年制だし」
春の指摘はもっともすぎて、返す言葉がなかった。まったくその通りで、告白がうまくいったとしても、海はすぐに県外の大学に行ってしまうのだ。合格したら、ではあるけれど。そうなれば、千花を六年も待たせることになる。ちなみに千花の志望する進路は、春情報によると北市女学院大学、つまりは地元の女子大らしい。
「告白するならもっと早く。そうじゃないと千花ちゃんも不安なままだよ」
「向こうは俺が女子苦手だと思ってるんだもんな。実際苦手だけど」
でも、千花は違うのだ。自分から触れたいと思うし、その笑顔をいつまででも見ていたいと思う。彼女を傷つけるようなものからは守りたいし、泣かせたくない。――それをそのまま伝えればいいのに、海はそのタイミングに迷っていた。
「海にいはこれから受験だから仕方ないけどさ」
でもそれは、海だけの都合だ。
悩んでいるのは海だけではない。千花もまた、春に相談をしていた。
さすがに先月、突然「私、お父さんの子供じゃなかったんだー」と言われたときには驚いたが、よく話を聞いてみると、問題はあったがきちんと解決したようだし、そこに海も関係していると知って、春は海を見直したものだった。
「海先輩が助けてくれたんだよ。私とお父さんは本当の親子だって言ってくれたの。……だ、抱きしめてくれながら……」
その言葉に、もう一度驚かされたけれど。
海と違って、千花は頻繁に春に思ったことを報告してくれる。あった出来事も教えてくれる。けれどもいつも結論は、「海先輩に告白したら嫌われちゃうから、今のままでいいんだ」というところに落ちてしまっていた。
だから海からの告白が必要なのに、肝心の当人が卒業式だのなんだのと悠長なことを言っている。春はたいそう頭が痛かった。
「ねえ、春ちゃん。クリスマスイブのアルバイト、今年もやる?」
そんなこととはつゆ知らず、千花はいつもと変わらず春に話しかける。同じクラスで席は前後なので、よくお喋りはしていた。ちなみに進路も一緒なので、選択している授業もほとんど同じだ。必然的に、千花と一緒にいる時間は長くなっている。
「バイトやるよ。予定もないし、新とは二十三日に遊びに行く約束したから」
「そっか、良かった。今年も一緒にお仕事だね」
クリスマスイブのアルバイトは、去年からやっている、加藤パン店の手伝いだ。クリスマスケーキを予約していたお客さんの応対をするというもので、店の娘である親友、詩絵の頼みを引き受けている。洋菓子店やケーキ専門店ほどではないが、ケーキの予約が多く入る加藤パン店は、毎年忙しいのだった。
「ほら、詩絵ちゃんも言ってたけど、今年は黒哉先輩が手伝えないでしょう? 去年より大変になりそうだよね」
「年末に受験生を引っ張りだすわけにはいかないからね。……でもそうしたら、来年はもっと大変だね」
「それはまた、他の人員を探すんじゃない? 詩絵ちゃん、人脈広いし」
会話をしながら、春は思う。そういえば、海のところはクリスマスケーキなんて用意していただろうか。少なくとも作ったりはしないだろう。そんな話は聞いたことがない。昔は春の家に集まって、買ってきた大きなケーキを切り分けて、ささやかなパーティをしたものだが。
今年はさすがに、何かをするような予定は立てていないのではないか。海は受験生で、その父であるはじめには仕事がある。
「千花ちゃん、クリスマスに海にいに何かしないの?」
「え? ……私にできることなんて、あるかなあ。それにあんまり近づきすぎても」
「もうこれでもかってくらい近づいてるし、海にいはそれを嫌だとは思ってないよ。だいたい、海にいのほうから抱きしめてきたんじゃ」
「い、言わないで! 思い出しちゃうから! 恥ずかしいから!」
顔を真っ赤にする千花は可愛い。ショートケーキの上に載っているイチゴみたいだ。これは海じゃなくても惚れるだろう。実際、高校に入ってから、千花は何度か男子から告白されていた。全て断っていたけれど。「私、お父さんみたいな人が好きだから」で一刀両断だ。
そんな千花が、よりによって基本的には女子が苦手な海に恋をしている。両想いではあるが、当人たちはそれに気づいていない。自分のときも周りはこんなふうにもどかしい思いをしていたのだろうなと、春はこっそり自嘲していた。
父以外では海しか眼中にないのに、その海に嫌われるかもしれないから告白はしない。せっかく報われる恋なのに、もったいないと今の春は思ってしまう。
「それはともかく、クリスマスに何かプレゼントとかしたら、海にいは喜ぶと思うなあ。せっかくの機会なんだから活用しちゃおうよ」
「うう……中学生の時と、春ちゃんと立場が逆転した……」
贈るとしたら何だろう、と考えだす千花を見て、春は少し安心する。千花のほうが海よりかは面倒がない。だから海が動いてくれさえすれば、この恋はうまくいくはずなのだ。
「勉強するには甘いものだよね。お菓子でも作ろうか? 手伝うよ」
「春ちゃんはブラウニーの惨劇を忘れたの……? 私、料理は昨日のグラタンを真っ黒にするほどだめなんだよ」
ブラウニーの惨劇とは、中学三年のバレンタインデーの際に、受験の息抜きにとお菓子作りをしたときに起こった事件である。千花が手を加えると、なぜかブラウニーは「黒い何か」になってしまう。結局そのあとで親しい人たちに配ったのは、ほとんど詩絵が作ったものだった。けれども一部の男子には夢を見てもらうために、千花の手作りということにしておいている。
「でも成功率は上がってきてるんでしょ? 大丈夫だって」
「大丈夫かなあ……」
心配しながらも、千花が乗り気なのがわかる。きっと千花は、海のためなら何だってできるのだ。それは海も同じで、だからこそもどかしい。
それからクリスマスまではあっという間だった。二十三日から二十五日までは連休になっていて、そのうち二十三日は春がデート、二十四日は詩絵の家で店の手伝い、二十五日に千花の作戦決行というスケジュールを立てていた。何とも密度の濃い三日間だ。
十二月二十四日、前日のデートがよほど楽しかったのか、春と新がつやつやした表情で加藤パン店に現れた。
「詩絵ちゃん、来たよ。あ、千花ちゃんはもう来てたんだね」
「早いな、千花」
「他にやることないから……」
といいながら、本当は翌日のお菓子作りのために、詩絵に教えを請いに来ていたのだった。事前にクッキーを作ると決めていたので、詩絵からは材料をきちんと量ることと、焼き加減は勝手に調節しないで文明の利器電子レンジのオーブン機能に頼ることを教わった。いつぞやはそれでも失敗したのだが、今回は絶対に失敗できない。
「今年は土曜日だから、お客さんも早めに来ると思う。新は奥で箱の蓋つけて、春は伝票確認、千花は受け渡しをよろしくね。あとでアキと笹も合流してくれるから、それまでがんばろう!」
詩絵は何事もなかったかのように、てきぱきと指示を出してくれる。親友たちの心遣いに、千花は心から感謝していた。その分今日は、一生懸命働かなくては。
忙しさのピークは午後からだった。笑顔で「いらっしゃいませ」と繰り返し、ケーキの箱をお客さんに渡す。受け取る側も笑顔になってくれるので、千花はこの仕事が好きだ。この町の人の顔はほとんど知っているけれど、ときどきその中でも特に知っている人が来てくれたりもして、それもまた嬉しい。
そうしているうちに夕方になり、一番忙しい時間が過ぎて夜になる。この頃になると、もうほとんどケーキはお客さんのもとに渡っていた。
「あとちょっとだね。終わったらお給料と一緒にお土産渡すよ」
詩絵の声にみんなの目が輝く。一方で、あとちょっとでこの時間が終わってしまうのかと思うと、なんだか名残惜しくもあり……。
「……だからオレが食べるんじゃねーって」
「どうせ彼女のとこ行くなら変わんないだろ。なんで同じ時間に出てくるかな……」
そんなときに扉を開けて入ってきたのが、どうしてこの人なのか。千花は一瞬フリーズする。
それは向こうも同じだったようで、こちらを見て動きを止めた。
「お、今年もバイトしてるのか」
氷を溶かしたのは、店にやってきた黒哉の一言。千花は弾かれたように声をあげた。
「い、いらっしゃいませ! こんばんは!」
「……こんばんは」
黒哉と一緒にやってきた海も、しどろもどろに頭を下げた。
「いらっしゃいませ。予約しててくれたのよね。春ちゃん、伝票確認お願い」
「はい。それでは予約票お預かりします」
店の奥さんの指示を受ける春は至って落ち着いている。けれども千花のほうを見て片目を瞑ったところをみると、どうやら残る予約客が誰なのか知っていたようだ。当然だろう、それが仕事なのだから。いつかは必ず海がやってくると、もしかしたら仕事に入るずっと前からわかっていたのかもしれない。
「千花ちゃん、私が黒哉先輩の分持って行くから、海にいの分お願いね」
「う、うん」
打ち合わせをする後ろで、海が店の奥さんと話をしている。「はじめ先生はお元気?」「おかげさまで」というやりとりの声に、どきどきする。ケーキの箱を持って、彼の前へ。
「お待たせしました」
「ああ、ありがとう」
これは海がこの店に予約していたものであって、千花はただそれを渡すだけだ。それだけでも緊張するのに、明日には手作りのお菓子を渡しに行くなんて、できるのだろうか。
「ありがとうございました」
自分の声が遠くに聞こえる。ひと月前に飴を渡したときには、勢いでいけたのに。
仕組まれた。春がしきりに「今年は加藤パン店のケーキをみんなで食べよう」と言ってきたのは、千花に会わせるためだったに違いない。事前に知っていれば、あんなにぎくしゃくしなかったのに。黒哉に「良かったな」とからかわれることも……いや、それはあったかもしれない。
アルバイトから帰ってきた春と須藤家で合流した海は、気を利かせた幼馴染を褒めることも叱ることもできず、ただ負けた気がしていた。
しかしそれが序の口だったと知ったのは、翌日の午後。呼び鈴に応じて出た玄関先に、千花が立っているのを見たときだった。
正確にはその隣に春もいたのだが、海には千花しか見えていなかった。
「ど、どうしたの。ていうか、よくうちがわかって……いや、心道館だからわかるか。でも、なんで」
「あの、これを」
混乱している目の前に、可愛らしい袋が差し出される。少し震える手の上に、雪の結晶の模様が入った不透明の袋は、ぽてりと座していた。
そこに重なる、これも震えた、けれども透明な声。
「春ちゃんと一緒に、お菓子を……クッキーを作ってみたんです。先月のお礼を改めてしたかったのと、お料理修行の成果を見てほしくて」
海は基本的に菓子を作ることはないので、レシピも送ったことはない。だから何故クッキーなのかという疑問はあったが、千花がくれるものなので、素直に受け取る。
「ありがとう。わざわざお休みの日に、悪かったね」
「あ、違うんです。お休みだからとかそういうのじゃなくて、今日が良かったんです。……クリスマス、ですから」
そういえばそうだ。イブのうちに定番の流れは済ませてしまったから、二十五日は何でもない日のように思ってしまっていた。本来なら今日が本番なのだ。
クリスマスを祝うなんて、礼陣では比較的新しい行事だ。そもそも独特の鬼信仰に基づいて町がまわっているのだから、クリスマスなんて行事は必要ないはずなのだ。商業的に都合がいいから、いいとこどりをしているだけで。
でも、こんなことがあるのなら、それもいいかと思う。
「クリスマスだから、か。ちょっと待ってて」
貰ったならお返しをしなければ。今返せるものといったら、常備している客用の菓子くらいだけれど。台所に走っていって、戸棚から少しばかり高級なゼリーを選んで、少しばかりきれいな袋に詰める。色気も何もないけれど、今すぐにできることはそれくらいだ。
玄関に戻り、千花に袋を押し付ける。「わ」と声をあげが彼女の目が、真ん丸になって海を見ていた。
「こんなものしか返せないけど。今度、ちゃんとしたもの用意するよ」
早口に言うと、千花は瞬きをして、それから笑った。
「ありがとうございます。貰っちゃったら、またお返ししないとですね」
「それじゃいつまでたっても終わらないよ」
終わらなければいい。終わらせたくない。そのためには、言葉が必要だ。自分の気持ちを表す言葉が。今なら言えるか、と深呼吸をしようとして。
視界の端の、春を見つけた。
「……あ、春、ごめん。春の分のゼリー持ってきてない」
「私のことはそのまま無視してくれてよかったのに」
そう言って笑みを浮かべる春から、念が送られてくる。「どうしてそのまま言ってしまわなかったのか」と。けれども仕切り直すのもおかしいような気がして、何より幼馴染を見て我に返ってしまって、告白しようという気持ちはすうっと引っ込んでしまった。
「あ、あの、私はこれで失礼しますね。良かったらクッキーの感想ください。お土産、ありがとうございました」
千花も頭を下げ、春の手を引いて遠ざかっていく。それを見送り、見えなくなってから、海は深く溜息を吐いた。
一つイベントが終われば、また次のイベント。クッキーの感想をメールで送信しただけで(もちろん美味しかった)、結局意気地なしのまま年末を迎え、忙しく年を越した。
年が明けて学校に来ても、もう三年生はほとんど来ていない。センター試験が近いのに勉強を邪魔するわけにもいかず、千花から海へメールを送るのは、年始の挨拶以降は控えている。
クッキーの感想――とても美味しかった、というそれに、それはそうだよね、と思いながら年を越した。あれはほとんど、春が作ったものだ。千花が作ったものはやはりことごとく残念なことになっていて、同じ電子レンジの同じオーブン機能を使ったのに、どうして千花のは生焼けだったり黒焦げだったりするのだろう。形も、型抜きを使ったにもかかわらず歪だった。そんなものを渡せないと思って、春に頼み込んで出来の良い方を渡すことにした。千花が作ったものもちゃんと混ぜてあるので、「修行の成果を見てもらう」というのはまるっきり嘘ではない。はたして美味しかったのは、春のほうか、千花のほうか。
溜息を吐く千花を少し離れたところから眺め、詩絵が呟いた。
「年明け前にくっついちゃえば良かったのにね。このもどかしさ、すっごくデジャヴ」
「うん、客観的に見ると、私と新がどれだけ詩絵ちゃんと千花ちゃんを心配させたかよくわかるよ」
詩絵の隣で、春は遠い目をする。やっぱり千花を置いてどこかに隠れるべきだったなあと、春も後悔していた。そうしたら勢いでうまくいったかもしれないのに。
次の機会はバレンタインデーだが、その頃の海は試験の真っ最中だ。翌月のホワイトデーの頃には、試験に合格していれば、もう引っ越しの準備を始めている。一月は行ってしまい、二月は逃げ、三月は去る。イベントにこだわっていれば、確実に告白の機会は失われていく。
「もう、卒業式しかないのかな」
「まあまあ、春が気を揉むのもわかるけどさ。先輩と千花、連絡はとれるんでしょ? そう急がなくても大丈夫だと思うよ、アタシは」
「そうかなあ……」
たしかに、周囲が焦ったところでどうしようもないことではあるのだけれど。春はどうしても、海と千花が幸せになる瞬間が見たかった。
海が今まで、どこか暗い感情を背負い続けてきたのを知っているから。千花が色々な傷を乗り越えてきたのを知っているから。――二人があまりにも似すぎているから、二人まとめて幸せになってほしかった。
「くっついてそれでおしまいってわけでもないんだし、そう急ぎなさんな」
「でも、遠距離になっちゃう……」
「毎日会えることだけが幸せ? 春はそうだったかもしれないけど、千花と先輩はわからないでしょ。莉那先輩なんか遠距離でもうまくやってるしさ」
詩絵の言うことは正しい。物理的な距離ばかりが幸福の尺度になるとはいえない。春は、海には「早く告白しないと置いていかれる千花がかわいそうだ」と言った。けれども本当は、そうではない。幼馴染だから、妹分だから、海のことはよく知っているつもりだ。
寂しがり屋なのは、千花ではなくて、海のほうなのだ。
時が流れるのは早い。礼陣を囲む山々は、二月の終わりには色を変え始める。雪の白さは、その下の黒い土と木の幹に滲みて消えていく。まだ寒い日は続くが、それでも随分と和らいできた。街路樹に木の芽を見つけると、また季節が巡るのだということに気づく。
卒業式を間近に控えたその日、海はやはり須藤家にいた。春と座卓を挟んで向かい合い、御仁屋の季節の和菓子の新作を味わっている。今日はとくに春に何か相談があるというわけではなく、純粋にこの家に用事があって来ていた。
海の家には、ある鬼が封じられている。強い呪いを持ち、封印のバランスが崩れれば町全体を脅かしかねない、恐ろしい鬼だ。大学に合格していればこの町を離れることになる海の代わりに、封印のバランスを保つものが必要だった。それを用意できるのが、春の祖父、須藤翁なのだ。今日はそれを受け取りに来たのである。
「千花ちゃんに連絡した?」
待つ間に、春が尋ねる。もうしばらく、直接顔を合わせていない彼女の名を聞いた。
「連絡したくても話題がないんだよ。試験はまあまあ自信がある、ってことくらいかな」
「だよねえ」
会って話したくても、口実が思い浮かばなかった。千花からも、特に何かあるというわけではない。向こうは海を気遣っているのだろうけれど。それともやはりまだ、「冷血漢」だと思われているのだろうか。
「合格発表は明日だね。受かってたら、千花ちゃんにも報告しなよ」
「そうだな。喜んでくれるかな」
「喜ぶよ、千花ちゃんなら」
それから、どうする。町を離れる前に、やるべきことはやっておかなければ。後悔しないように、自分の気持ちをきちんと伝えなければ。頭ではわかっているのだが。
「なんだなんだ、合格発表前だというのにやけに大人しいな。菓子も全然食っとらんじゃないか」
ぼんやりとした空気をぶち壊すように、両脇に竹籠を抱えた須藤翁が居間にやってきた。ようやく最後の仕上げが終わったらしい。
「じいちゃん、ありがとうございました」
「礼なんかいらん。これが須藤家の仕事だ。そんなことより、お前がしょぼくれてるのが気にかかるわ。そんなんじゃ鬼にも影響があるんじゃないか」
海の感情は鬼を同調させる。そういう力があるようなので、感情のコントロールには気をつけてきたつもりだった。逆にいえば、鬼たちの変化を見ていれば、自分の持っている感情の正体もなんとなくわかる。ここ一年はつらいだとか苦しいだとか、そう思うことが少なかったように思う。
去年の今頃なら否定していたであろう気持ちを、今は認められる。これは千花のおかげだ。千花を好きになったからだ。
「俺が見る限り、鬼はしょぼくれたりなんかしてませんよ。静かなものです」
しかし、よくよく考えてみれば、噂好きの鬼たちが海の恋に関して何も言わないというのもおかしな話だった。いつもならわっと噂が広まるのに。例えば春の恋愛事情などは、本人を問い質すよりも鬼たちの噂を聞いていたほうがよほど詳細がわかった。それがもとで、春の彼氏である新をがっつりしめたこともある。
「妙なくらい静かです」
「まあ、平穏無事ならそれに越したことはない。お前も安心して町を離れられるだろう」
鬼に関しては、問題はない。でも安心して町を離れられるかといったら、まだそうはなれない。
「……俺は平穏じゃないし、しょぼくれてます」
「そうか。そんなら問題を解決しないとなあ」
にやりと笑う須藤翁は、はたしてどこまで知っているのか。春に視線で問いを投げてみたが、首を横に振る。海の恋愛事情を話すようなことはしていないのだろう。気づいているとしたら、それは須藤翁の年の功による勘だ。絶対に侮ってはいけない類の勘である。
「海が平穏だったことなんぞ、じいちゃんは一度も知らんわ。だがいつでも問題があれば解決してきただろう」
「うわ、酷い言い草ですね」
「でもおじいちゃんの言うことは合ってる」
本当の祖父のように接してくれた人と、本当の妹のように可愛がってきた子に言われては、おとなしくなんかしていられない。
「まあ、もし女関係ならさっさと決着つけてくるこった。いつまでも好きな女の子に告白できずにいたらとられてしまってそれっきり、ってのもいたからな。はじめのことだが」
「!」
しかし、本当にどこまで知っているんだろう、この人は。
第一志望校からの合格通知を受け取ったそうで、海が礼陣を離れることが本決まりになった。本人からメールでそれを知らされた千花は、学年末テストの勉強をしていた手を止め、これからのことを想像してみた。
礼陣を離れた海は、もしかしたら遠い町で新しい生活をするうちに、人が変わってしまうかもしれない。女の子も苦手ではなくなって、夏に帰省する頃には彼女ができているかも。もしそうなったら、自分はそれを祝福できるだろうか。
「できなかったら、嫌な子だよね」
そうでなくても、向こうの生活が海の「当たり前」になってしまって、千花のことなんか忘れてしまうかもしれない。そのとき、仕方がないと諦められるだろうか。
「未練がましいのは、嫌だなあ」
もし海が変わらなかったとしても、嫌われなければそれでいいという気持ちのままで、今まで通りでいられるだろうか。
「これは自信ある。今までずっとそうだったんだから」
でもそれが、このあと六年続いたら?
「……」
自問自答しながら、抱きしめてくれた温かさを思い出す。もっと触れたい。もっと傍にいたい。その気持ちを、これからも隠し続けていたら、千花はどうなってしまうだろう。
「……だめだなあ、我儘だな」
独り言が部屋に浮かぶ。そろそろ空間を埋め尽くしてしまいそうだ。これだから、独りはいけない。勉強を教わりに隣の家におじゃましようかと思ったとき、携帯電話に着信があった。
「あれ、海先輩? ……合格の報告、もらったばっかりなのに」
夕飯のメニューでも提案してくれたのだろうか。首を傾げながら本文を開くと、予想もしていなかった言葉があった。けれども返事はすぐにできた。迷いはなかった。いくらかなわぬ恋だからといって、しばらく会えなかったのが寂しくないはずはなかった。
[今から会える?]
[会えます。会いたいです]
指定された場所は駅前広場。冷たい風の吹く外へ、赤いコートをはためかせ、千花は全速力で走った。
「合格おめでとうございます」
「ありがとう。なんとか受かったよ」
久しぶり、よりも、元気だった、よりも、先に出てきた言葉がそれだった。
夕暮れの駅前広場は賑やかだった。学生の集団に、買い物帰りの主婦に、仕事終わりのサラリーマン。礼陣に住むたくさんの人たちの中に混じって、海と千花はベンチに並んで腰を下ろした。肩で息をする千花を心配しながら、海は買っておいた温かいココアの缶を隣に差し出す。千花は礼を言ってそれを受け取り、両手で包みこんだ。急いできたので、手袋を忘れていて、手は随分冷えていた。
「そんなに急がなくても良かったのに。あ、だめか、今って学年末試験前だ。時間を無駄にはできないよね。それなのに呼び出して、本当にごめん」
「いいえ、大丈夫です。行き詰ってたところだったので、気分転換したかったんですよ」
心なしか早口になるけれど、互いにきちんと聞き取れた。久しぶりに聞く声が、耳に心地よかった。
溜まっていた学生たちが、広場から出ていく。入れ替わりに別の集団が入ってくる。お喋りの声が、話題が、変わる。いつでもこの場所は、礼陣は、そうあってきた。人間も鬼も。鬼の声は、もう千花には聞こえないけれど。
「合格したからには、行かなきゃならないんだよね。ちょっと遠いんだ」
「はい、知ってます」
この場所を離れる海も、まもなく聞くことができなくなる。鬼の声だけでなく、この町の音を全て。隣で囁くように話す、千花の声も。
今、この瞬間、どんな音よりもうるさく響く心臓の鼓動も、離れたら意識しなくなるかもしれない。
「千花ちゃんは、ずっとこの町にいるんだよね」
「そうですね。北市女に行けたら、そうなります。もしだめだったら、町の外には出ることになりますけど、県内にはいたいですね」
「じゃあ、帰って来れば会えるかな」
「……会えますね」
山から冷たい風が下りてきて、人々に触れていった。コートの前を掻き合わせる人や、腕を擦る人が、まだまだ寒いねと口々に言いあう。誰も片隅のベンチでの様子には気づいていないのか、それとも気づかないふりをしていてくれるのか。海が千花の肩を抱き寄せても、こちらを見る人はいなかった。
「ごめん、寒いよね」
「……いえ、今はむしろあったかいんですけど……あの、ええと?」
突然のことに混乱しながらも、千花はしっかりと海を見上げていた。海は千花の瞳を真っ直ぐに見て、っ微笑んだ。優しく、でも、少しだけ緊張を入りまぜて。
「千花ちゃん、俺のこと、待っててくれる?」
「ま、待つって、帰省するのとかですか? 待つに決まってるじゃないですか」
「ええと、もちろんそれはそうなんだけど」
心臓の音にかき消されないように、けれども相手にしか聞こえないように。その言葉を、口にする。
「俺は、千花ちゃんが好きです。だから、君に俺がこの町に帰ってくるのを待っていてほしいと思うんだけど、どうだろう」
頭の中でゆっくりと、その言葉を繰り返す。片方は「無茶苦茶なこと言ったな」と思い、もう片方は「それってどういう意味なんだろう」とさらに混乱する。
そうしてやっと続いた言葉は。
「……だって海先輩、女の子苦手なんじゃ」
「そのはずだったんだけど、千花ちゃんは別。女の子だなあって意識するたびに、もっと近づけないかなって思った」
困ったように笑う海を、千花は瞬きを繰り返しながらも目を逸らすことなく見る。嘘じゃない。夢でもない。こうなることを、たとえば春は知っていたんだろうか。詩絵や、先輩たちは。
「というわけで、それを踏まえてもう一度。……俺の彼女として、待っててくれますか?」
夢じゃないなら、返事は決まっている。もし夢でも、答えは変わらない。本当は千花から言いたくて、けれどもずっと我慢してきたのだから。
海が一晩かけて考えて、それでもシミュレーション通りには言えなかった告白に、千花は自分の気持ちで返事をした。
「私、海先輩が好きです。好きだから、待ちます。私はここで、この町で、待ってますから。だから、帰ってきてくださいね」
夕闇に、花のような笑顔が咲いた。
その年の礼陣高校の卒業式は、前年より平和だった。というのも、前年は元生徒会長と現生徒会長が交際をしていることが知れ渡り、大変な騒ぎになったのだ。ついでにいうとその前の年は卒業生であり元生徒会長であったお祭男が答辞を大いに盛り上げてしまい、別れの寂しさなどどこへやらといった模様。しばらくとんでもない卒業式が続いていたので、今年の教師陣は大いに安心した。
卒業式の後、海たちは御仁屋で卒業祝いをした。後輩たちだけでなく、とうに大学生になっていた先輩たちもやってきて、場を盛り上げてくれた。御仁屋の主人は少々困り顔だったが。
「海たちが卒業なんて、時の流れは早いね。引っ越しはいつ?」
「月末です。部屋が空くの待たなきゃいけないらしくて」
とはいえしばらく食べられなくなってしまう御仁屋の甘味を、今のうちに思い切り味わっておく。引っ越しで惜しいのは、季節の菓子が一部食べられなくなることだ。夏は絶対に帰って来るけれど。祭りもあるし、その前に鬼封じの儀式がある。
海は結局、礼陣から完全には離れられないのだ。千花をここに残すことで、さらに楔を打ち込んだことにもなる。しかしもとより礼陣と縁を切るつもりもない。
自分は、自分を捨てた人――あの女とは違うのだから。
「海さん、ぼーっとしてたらとっちゃいますよ」
「え? ……いやいや、人の分まで取らないでよ、千花。春じゃあるまいし」
「海にい、私を何だと思ってるの」
賑やかな声の中で、ほんの少しだけ変わった呼び方を拾い、自然に話す。みんなそれに安心していた。離れてもこの二人は大丈夫だろうと思っていた。
春が亜子に、こそりと言う。
「海にいと千花ちゃん、遠距離でも大丈夫そうですね。海にいがすごく寂しがるんじゃないかって思ってたんですけど」
「それは離れてみないとわからないよ。って、大助も言ってた。わたしたちは、海がすごく甘えたがりなこと知ってるからね。でも、千花ちゃんがしっかりしてるから、気にしなくてよさそう」
くすくすと笑いあう二人に、海は気づいていない。
春風が吹く季節の礼陣で交わされる言葉は、「行ってきます」「行ってらっしゃい」、「いらっしゃい」「これからよろしく」。別れは一時的なもの、出会いはこれからへ続くもの。
旅立つ人を見送ったあとの町を、春と千花は駅に向かって並んで歩いていた。少し遅れてくるという詩絵を待って、隣町へ遊びに行くことになっている。
通り過ぎる人の中には、この町に来たばかりらしい顔も多く見える。
「大学生たくさん来たね。まだ町に慣れてないみたい」
「海さんもなかなか慣れないって。鬼が見えないのが、自然なのに不自然だって言ってた」
「連絡とってるねえ。……海にい、やっぱり寂しいんじゃ……」
生まれてからずっと育ってきた環境から離れて、知らない土地で暮らすことに、礼陣の人はなかなか慣れない傾向があるらしい。夏休みに帰ってきた海から、よそでの話を聞くのが楽しみなような、不安なような。何があろうと、千花が癒してくれるのだろうけれど。
「春ちゃん、なに笑ってるの?」
「海にいには千花ちゃんがいれば安心だなって思って。もう妹はいらないかな」
「そんなことないよー」
新しい日々の始まりを、礼陣の町では鬼が見守る。その中に不安げな色があることを、鬼の子としての力をほとんど失ってしまった春や千花では、もう感じ取れない。