真夏の前には梅雨がある。しとしとと降る雨も、ときどきならば風情があるが、長く続けばうんざりする。人間は洗濯物が外に干せないと言って空を恨む。しかしこの雨がなければ田畑や山が潤わないのも事実で、そう文句ばかり言ってもいられない。
礼陣の鬼たちはというと、その力によって雨に濡れることはないので、いつもどおりに町を歩いたり、神社の境内にかたまっていたりする。人間が鬼に感謝し、敬い、建立した礼陣神社に。
人鬼である美和は、「実家」である水無月呉服店の軒下で、傘を差す人間たちと傘を差さない鬼たちが通るのを眺める。しばらく眺めていたが、やがてそこを離れて、商店街の東端へと向かった。礼陣神社のほうへ。
石段を上がり、鳥居をくぐり、見渡す境内はいつも鬼で賑わっている。その様子は普通の人間には見ることができない。見えるのは、鬼の子と呼ばれる人間と、当の鬼たちだけ。それが礼陣の町の「当たり前」で、人間と鬼の共通の認識だ。
この町に住む二種類の人の、そのはざまに、人鬼はいる。人間の魂が鬼に成る、その過程の姿。そういうものなのだと思っていたけれど、そんなふうに段階を踏めるのはほんの一握りの魂で。あとはほとんど、人間の頃の記憶を消されて、いつのまにか鬼に成っている。この町にいる鬼たちは、そうやって「つくられている」。
美和もまた、人間の魂からつくられた存在なのだ。鬼をまとめる存在であり、人々の畏怖の対象でもある、大鬼によって。
美和は鬼についての真実を知った。ある呪い鬼の成り立ちを知った。ある子鬼の痛みを知った。あとは彼のことと、自分自身のこと。全てを知っているのは、大鬼だけなのだ。
「おや、美和さんではないですか。いらっしゃい」
小雨を浴びながら、神社の神主、もとい「大鬼様」が立っていた。まるで美和が来ることをわかっていて、待っていたかのように。いや、たぶん本当に、美和が来ることを予見していたのだ。なにしろ、美和のしばらくの行動を知っていながら見逃していたのだ。――呪い鬼に夜毎に会いに行くという、危険な行動を。美和が魅入られる危険をわかっていて、呪いが緩むのに期待した。
人間と同じ姿をして、穏やかな笑みを浮かべていても、彼はやはり鬼の長。町の人間からは神社の神主として親しまれ、鬼たちからは長として慕われている彼は、この町の全てを把握している。この町を鬼の町としてつくりあげただけのことはある。
その彼に、美和はどうしても問いたいことがあった。大鬼の成したことの裏で、苦しみ悲しんでいる者がいることを知ってしまった今、真実を語ってもらわなくては気が済まない。納得して、鬼に成れない。
『大鬼様、お話したいことがあります。お時間、いただけますか』
睨むようにして詰めたが、それでもなお大鬼は笑みを崩さない。雨に打たれながら、静かに頷く。
「いいですよ。美和さん、社務所に行きましょうか」
『ここではだめですか』
「はい」
神社を囲む新緑に、しっとりと降る雨に、あまりにも似合いすぎる雰囲気を纏っている。美和が抱えている苛立ちを解きほぐすかのような表情。――そう、美和は苛立っていた。大鬼がしていることに、その結果に、間違いなく怒りを覚えていたはずだった。
本来ならば、魂の向かう道は自由。そのはずなのに、大鬼は魂をこの町という空間に縛りつけている。それを知ってからというもの、美和は大鬼にひどく不信を抱いていた。縛りつけているというのは、呪い鬼である葵の言なのだが。
『じゃあ、おじゃまさせてもらいます。……牡丹も来る?』
気持ちを落ち着かせながら、美和は振り向いた。そこには昔から一緒にいてくれたおかっぱ頭の子鬼、美和が牡丹と名付けた彼女がいて、こちらを心配そうに見つめていた。
『私が同席していては、美和は話し難くはないか?』
躊躇うように尋ねる牡丹に、美和は首を横に振った。
『牡丹がいてくれたほうが、私は安心。この掴みどころのない大鬼様をとっ捕まえておかなきゃならないんだから、協力してよ。それが私と葵さんの会話をこっそり聞いていた代償ってことで』
『言うではないか』
苦笑した牡丹に、美和はニッと笑って返した。それからまた大鬼に向き直り、『どうです?』と言う。大鬼は少しも戸惑っていないのが、また美和の気に障った。
「それでは、お二人でどうぞ。お茶も出しますよ」
『人鬼の私に対して、随分な皮肉ですこと。でも牡丹には、お茶とお菓子をあげてくださいね』
大鬼の後について社務所に乗り込む。それを大勢の鬼たちが見送り、そして、そっと目を閉じ、耳を塞いだ。これ以上は知らないことにしなければならないと、彼らは自然と覚っていた。

ちゃぶ台には淹れたての茶と菓子が三人分。大鬼と牡丹、そして美和の分だ。けれども人鬼である美和には、飲食ができない。この茶と菓子は、美和がここにいることを認めているという大鬼なりの意思表示なのか、それとも嫌がらせなのか。慈悲深い大鬼様に限って、後者はないとは思うが。
『さて、わざわざ問うまでもないと思うけど、一応確認しておきましょうか』
腰を下ろした美和は、まず胡坐をかいたが、思い直して正座をした。弟がこんな態度の美和を見たら、きっと「行儀が悪い」と叱っただろうから。それを読んだのか、大鬼がくすりと笑ったので、美和は顔を顰めてみせる。けれども今度はそれを、牡丹が窘めた。
『眉間にしわが寄るぞ』
『もったいない、って? わかったわよ』
眉間を揉んで、深呼吸をする。ちゃぶ台の上の茶と菓子は無視して、美和は大鬼を真正面から見据えた。
『大鬼様もご存知だったんですよね。私が葵さんと話をして、あの人の過去や、鬼の成り立ちを知ったこと』
先日、美和は呪い鬼葵との長い対話を一旦終えた。その内容が最初から最後まで全て大鬼の知るところとなっていたことが判明したからであり、葵が美和に自らの来歴を打ち明けたからでもあった。
大鬼は美和と葵がどのようなやり取りをしているのか知っていて、それどころか葵が呪い鬼となるまでにも関わっていて、しかし彼女を救わなかった。少なくとも葵がそう感じている。それについて大鬼はどう思っているのか、本当のところを聞きたかった。
そして、鬼の来歴についても、葵の言うことが真かどうかを確かめたかった。大鬼がそこまで語ってくれるかどうかは、今の時点ではわからなかったが。
「美和さんが葵さんと話してくれたおかげで、こちらとしても八月の鬼封じが楽になりそうで助かっています。五月末から六月頭にかけての荒ぶりも、今年は例年に比べて落ち着いていました。貴方には、お礼を言わなくてはなりませんね」
相変わらず笑みを浮かべたまま、大鬼はそう言ってのけた。美和は歯ぎしりしたくなるのを抑え、代わりに隣に座る牡丹の手をとった。牡丹は黙って、握り返してくれた。
『お礼なんかいりません。それより、葵さんの言っていたことが本当かどうかを教えてください。ほとんどの鬼が元人間だというのは、本当なんですか』
まずはここから解いていこう。現に美和がそうだし、葵も、葵が会ったことのある幾人かの鬼も、そうだったのだから。他の多くの鬼も同じであるのかを、美和は問う。
大鬼は細く息を吐き、それから口を開いた。一瞬で、笑みは消えていた。
「間違いではありませんよ」
そこにいたのはまごうことなき、礼陣の鬼たちの長だった。きりりと引き締まった空気を、美和は触覚のない肌で感じていた。
「人間は私たちを『鬼』といいますが、そもそもその前提から訂正しなくてはなりませんね。これは人間たちが私たちを定義づけるために使いだした、単なる呼称にすぎません」
ことり、と大鬼が、持っていた湯呑を置いた。
今は大鬼と呼ばれる彼がこの地に降り立ったとき、現在この町にいる他の鬼がそうであるように、その頭には二本の立派なつのがあった。彼がその力で、死にかけていたこの地をよみがえらせたが、それは到底人間にはできない業だった。
人ならざる力と、その見目から、人々は彼を「鬼」と呼び始めた。後から生まれた鬼を従える姿を見て、鬼の長、「大鬼」とした。彼を神として、脅威ではなく救い主として、この地に迎え入れた。
それが礼陣の鬼の始まり。それから鬼は、少しずつその数を増やしていく。
「初めによみがえらせたのは、私がここに来た頃、命を落としてしまった人々でした。魂を転じさせ、彼らのもともと持っていた力を増幅させ、仕事を手伝ってもらいました。鬼の力は、その人が持っているものを大きくしたものなんです。ですからもともとの力がある程度強い人が、最初の鬼ということになります」
礼陣に古くから伝わる昔話を、大鬼は真実として語る。聴き入る美和に、大鬼はさらに続けた。
「彼らに手伝ってもらうことで、この地の復興を成し遂げられました。けれども亡くなってしまった人々で、魂が天に昇れず彷徨ってしまった者もいたのです。そういう人のうち、鬼になれそうな人々は、私がよみがえらせました。そうして鬼は、少しずつ増えていったのです」
礼陣で死んだ者のうち、少しでも力のある者が鬼に成る。葵の話を、大鬼は認めた。その力の大きさによって、辿る道が違うことも。
力がわずかであれば、生前の記憶のない鬼に。力が強ければ、そのまま記憶を持った鬼に。前者が圧倒的に多かったが、後者もごく稀に現れた。大きな災害や戦があれば、そのとき鬼は爆発的に増加した。ただし、鬼に成れるのは、人間として死するときにこの地にいた者だけ。大鬼の力が及ぶ範囲――「霊陣」の中にいる者のみだった。
「鬼に成るだけの力を持っていない人々は、別の世界に送ります。彼らが死後に行くと信じているところ……たとえば天国といわれるところなどに。そうして輪廻を経て、また戻ってくる者もありました」
『鬼に成ることは、その輪廻を妨げることにならないんですか』
美和が率直に疑問をぶつけると、大鬼は「そうですね」と頷いた。
「そうかもしれません。魂の行く道を、私が限定してしまっているというのは、その通りです。私は、とても我儘なんですよ。この土地の人が愛しくて、別れたくない。それに人々も、人間と鬼が互いに姿を見ることができた頃には、それを望んでいました。この土地でまだまだ生きていたいと、やらなければならないことが残っているのだと、強く願っていたのです」
大鬼は彼らの望みを、自分の力を持って叶えた。それは大鬼自身の望みでもあった。生きている人間も鬼の力を求めていた。昔は利害が一致していたのだ。けれども鬼が増えるにつれ、人間の望みが大きくなるにつれ、バランスは崩れていく。
本来、人間には人間の暮らしのバランスがあった。それを大鬼は、鬼たちは、いつのまにか崩してしまっていた。崩れたバランスを再び元に戻すために、また外からやってきた人々がこの土地に来て「ここには化け物がいる」などと吹聴するのを防ぐために――鬼はさまざまなかたちをしていたので、山を越えてこの土地にやってきた人々には、彼らと交流する人間も含めてしばしば差別された――鬼たちは大鬼の号令で、姿を人間から隠すことにした。けれどもまったく交流を断つというわけにはいかなかったので、大鬼は人間の姿をとり、ここにあり続けてきた。
交流を断てなかった理由は、この土地を去れなかったわけは、ただこの土地が気に入っていたから、もともと生まれ育った場所だからというだけではない。土地のみなしごたちを育てるためというのが大きな理由だった。子供たちを救うというのが、大鬼がこの土地に来て、人間と最初に約束したことだったのだ。
これもまた、言い伝え通りだった。
そうして、「鬼の子」と呼ばれる子供たちには、鬼を見ることができた。だから鬼が見えなくなった人々も、鬼たちはまだこの土地にいると信じることができたのだった。
人間たちは鬼の存在を信じ続けて、鬼たちのほうも見えずとも人間を陰ながら助け続けて、いつしかこの土地独特の暮らしのバランスができあがっていった。
それが今の礼陣に繋がっている。人間と鬼、二種類の人が暮らす礼陣の町に。

昔は人々が望んでいたから、鬼を生んできた。けれども今、鬼になることを望まなかった者までもが鬼となり、この土地に呪いをもたらそうとしている。葵の存在は、どう説明するのだろう。
美和がそれを問う前に、大鬼は答えを用意していた。
「葵さんは、あまりにも持っている力が強すぎたのです。私の力の及んでしまう範囲では、力が合わさってしまい、当人が望まなくても鬼と化してしまう。葵さんが呪い鬼としてよみがえってしまったのは、そういうわけなのです」
鬼を、この町を、嫌っていた葵。どれだけ恨んでも、憎んでも、自らの持つ力とこの町の摂理から逃れられなかった。町の人も、彼女自身も、苦しめることになった。けれどもその前に、人間であるうちに、葵を救うことはできなかったのだろうか。
『大鬼様は、礼陣のこの土地の子供を救うって、昔の人と約束したんですよね。どうして子供の頃の葵さんを助けなかったんですか。どうして葵さんが心を痛めていくのを、黙って見ていたんですか。神様なんでしょ? 力があるんでしょ? どうして誰も葵さんを助けられなかったの?!』
……美和』
牡丹がさっきよりきつく手を握る。しかし美和は身を乗りだし、大鬼に詰め寄った。
それでも大鬼は動じない。わずかも美和から視線を逸らすことなく、告げた。
「美和さん。助けは、一方が手を差し伸べるだけでは成立しないんですよ。相手がその手をとらなければ、何も変わりません」
『葵さんが悪いっていうの?!』
「そうではありません。しかし、彼女がずっと心を閉ざしていたのは、事実です」
『誰のせいよ! 鬼を絶対とする風土が、葵さんを追い詰めたんだ!』
「ええ、そうです。しかし彼女は」
赤い眼を、どの鬼よりも色の深いその瞳を美和に向けたまま、はっきりと言った。
「鬼である貴方が伸ばした手には応えました」
途端に、美和の脳裏によみがえる、これまでのこと。鬼たちと話した記憶、根代鬼に会った記憶、葵に何度も会いに行って話をした記憶。喰われかけたことも、追い返されそうになったことも、それでも懲りずに色々な話題を持って行って、色々なことを教わった。全て葵の見解ではあったが、美和の問いには答えてくれた。気が付けば、美和は葵に魅入られていた。それが危険なことだとわかっていて。
いや、魅入られたのではない。絡めとられたのではない。美和から葵を好きになったのだ。周囲から見放されたと絶望し、この町の全てを恨むといいながら、本当は誰かと話をしたくてたまらなかったはずのその人を。
葵は、そんな美和に、応えてくれていたのか。美和を「救い」だと、少しでも思ってくれていたのか。
「葵さんに自ら触れようとする者は、これまで片手で足りるほどしかいませんでした。生前ですらそうだったと、彼女は思っているはずです。けれども美和さんは違った。貴方から彼女のもとへやってきて、恐れこそ抱いても、懲りることなく彼女のもとを訪れた。……それが彼女を、変えたんです」
『私が、葵さんを……
そうだったらいいと、思っていた。そうなったらいいと、願っていた。だからこの大鬼の言葉は信じたい。けれどもそれでは、大鬼のしてきたことの全てを認めることにもなりそうで。ともすれば、葵のことを裏切ってしまいそうで。――美和はすとんと座り込み、俯いた。
……こうなることを、大鬼様は予想してましたか』
「いいえ、貴方の行動は見ていましたが、予想はできませんでした。私には、未来を見通すような力はありませんでしたし、なにより葵さんと、貴方にも拒まれているようでしたので」
『はは、たしかに、拒んでたかも』
いつか、助けてもらった恩も忘れて。美和は自分が単純だということまで、すっかり忘れていた。
そしてこの瞬間、思い出した。大鬼は生前の記憶を失くした鬼と、そうではない強い力を持つ鬼のことは語ったが、人鬼についてはまだ何も言っていない。美和が何者かということについては、聞いていなかった。
人鬼は人間の魂が鬼になる過程。誰でもそれがあるわけではなく、相応の力を持つ者だけがその段階を踏む。美和が知っているのはそれだけだ。
それも大鬼は先回りして、静かに答えた。
「人間の魂が人鬼になるには、条件があります。持っている力が発展途上であること、今後伸びる可能性があること。……それを満たしているのは、大抵は子供です」
人鬼は鬼と違って成長する。かたちが人間とあまりかわらない。それは条件によるものだという。そうして力が満たされ、鬼として生きる準備が整えば、鬼に成る。
たとえば、美和が月音と名付けた鬼。彼女もまた、力を備えながらも発展途上のうちに死んだ、元人間だった。だから人鬼となり、やがて鬼と成った。
「人鬼の最初のかたちは、生前とほぼ変わりません。亡くなった瞬間から成長します。……けれども、美和さんは例外でした。貴方は本来、すぐにでも鬼に成れるほどの力を持っていました」
……例外?』
「ええ。生まれつき、非常に力が強かった。あまりに強い力を人間の身に収めておくことができなかったんですよ。……だから産まれてすぐに、人間としての生を終えてしまったんです」
その力は、有体にいえば超能力とも表現できるものだという。普通の人には見えないものを見て、聴こえないものを聴いて、気にならない気配を感じ取ることのできるようなもの。その素質を、美和は産まれながらにして異常なほどに持っていた。寿命を縮めるほどの強い力に、体のほうが耐えられなかった。
「本来なら、その力は双子である和人君と分けるべきものでした。けれども貴方は力をすべて引き取り、代わりに自分の生命力を片割れに与えた。貴方はそうして産まれ、死に、そして魂となりました」
突然の自分自身の話に、美和は戸惑っていた。けれども、話が理解できないわけではない。それは何故か、美和の胸にすとんと落ちて、上手に着地したのだ。
「和人君に貴方の姿が見えたのは、貴方が引き取った力がまだ少し残っていたからだと思います。同じ力が引き合っていれば、存在を認められるのは必然のこと。それは私にとっても救いでした」
『私たちが、大鬼様の何を救ったっていうの』
「実をいうと、魂となったあなたの扱いに、私は非常に迷っていました。あまりにも力が強すぎて、しかもまだ成長の余地を残している。けれども人鬼にするには幼すぎた。……赤子ですしね。鬼たちみんなで育てようかとも考えていました。しかし結論が出る前に、貴方は人鬼としてのかたちを与えられた。貴方の双子のきょうだいによって」
つまり、美和を人鬼にしたのは、弟だったということか。そしてこれまで美和を育ててきたのもまた、弟だ。美和が人鬼として生きてこられたのは、最初から弟のおかげだった。美和の得たかたちは、弟が描き出した「理想のきょうだい」の姿であり、人間として生きていればまさにこうなるはずの姿だった。
『なんだ、私が私でいられたのは、全部和人のおかげか。……ていうか大鬼様、五年も私の魂をどうするか悩んでたの?』
「すみません。私にとっての五年は、非常に短いんですよ」
鬼の寿命は人間より長い。ことに大鬼は、少なくとも九百年近く生きている。五年など一瞬だろう。そのずれを正してくれるのが、きっと人間だったのだ。
「もう一つ、貴方の力が強すぎたことも、悩みの原因でした。貴方は自分でわからないでしょうが、持っている力は葵さんよりも大きなものです。だから葵さんのところへ通っても平気だったんですよ。並大抵の鬼では、いくら人鬼だからといって、正気を保っていられません。葵さんが貴方を喰らわなかったのも、本当はそこに原因があったのではないでしょうか」
『そんなに? ……そうか、二人分だもんね。一人じゃ抱えきれないはずだったものを、今の私は持ってるんだ。そうして、成長してきちゃったんだ』
「ええ。ですからもし貴方が何かの拍子に呪い鬼になったら、封じる以外に手立てはありませんし、封じ方も葵さん以上に強固にしなければなりません」
さらり、と大鬼は恐ろしいことを言った。今は人鬼だからいいが、もし美和がすでに鬼に成っていて、その上で大鬼への苛立ちを爆発させていたら、今頃はとんでもないことになっていたかもしれない。想像して、ぞっとした。葵の苦しみを見ているから、余計に肌が粟立つ思いだった。
「いずれにせよ、美和さんは特殊な来歴によって、大きな力を持つ鬼です。鬼の生まれ方を知っているという点でも、他の鬼とは一線を画した存在となりました。貴方はこの子と並ぶ、立派な鬼に成るでしょう」
そう言って、大鬼は牡丹を見た。牡丹は困ったように笑い、謙遜を首を振って示した。それを見ていた美和に、大鬼は改めて告げる。
「以上が、私から話せる、鬼の成り立ちの全てです」

手を握ったり、開いたりしてみる。そこにそれほど力があるとはまだ思えない。けれどももし大鬼の言うことが本当だったなら、弟に未練が残る理由もわかる気がする。そしてこれから、鬼に成る意味も。
社務所を出てから、美和は拝殿前に座って、ひたすらに自分の手を眺めていた。そのあいだ、牡丹はずっと隣についていてくれている。
雨はいつのまにか止んでいて、曇天は夜の色に変わろうとしていた。鬼たちは鎮守の森に帰っていき、今夜の寝床を探し始める。
『美和。自分の存在に、鬼に成ることに、納得はできたか』
隣からそう問われ、美和は手に視線を落としたまま呻いた。
『うーん……まあ、成るべくして成るのかなとは思えた。和人から力を引き受けたんだもの、有効活用しなきゃもったいないよね』
これまでの、人鬼としての力の使い方は、たぶん間違っていなかった。あとは鬼に成るだけ。そして人間と鬼を、美和にできる方法で助けていくだけだ。力を使えるなら、そうするのが良い。
『牡丹はさ、自分が鬼であることに納得できてるの? 大鬼様の言うことが本当なら、牡丹だって昔は人間だったんじゃないの』
少し怖くて訊けなかったことを、さりげなく口にしてみた。いや、わざとらしかったかもしれない。牡丹がどう思っているかは、美和にはすぐにはわからなかった。
答えは、まもなくあった。
『人間だったさ。人鬼だったこともある。……たぶん美和に負けないくらいの力を持っていた』
『だろうね。みんなから一目置かれてるし。ていうか人鬼だったことあるんだ?』
『ああ。そしてすぐに鬼に成れた。でもな、鬼に成ってから力の使い方を間違えた。幼すぎたんだ。だから大鬼から忘却の罰を受けた。人間だった頃のことも、人鬼として過ごした時間も、もう憶えておらん』
どきり、と美和の胸が跳ねた。忘却の罰は、呪い鬼にならずとも、誤った力の使い方をした鬼が受ける罰だ。月音が受けたものと同じものを、かつて牡丹も受けたのだった。記憶を失くしていく恐ろしさを、牡丹も知っていた。
『真っ先に忘れたのは名前だった。人間だった頃の名前。それをとりあげられて、ただの鬼になることで、私はなんとか許された。けれども葵のことでまた罪を犯したから、今度こそ鎮守の森に封印されるかと思った。……実際は、大鬼は葵のことで手いっぱいで、私の相手などしている場合ではなかったのだが』
美和はやっと牡丹を見る。その表情はいつもどおり、口元に笑みを浮かべながら、眼は遠くを見ていた。
『私も美和のようにできたら良かった。そうしたら、葵を救えたかもしれない』
……ごめん。さっきは言いすぎたよ。牡丹は必死に葵さんに手を伸ばしてたんだよね』
『届かなかったんだ。救えなかったのだから、結果的には同じことだ』
だから美和が羨ましいと、牡丹は言う。そんな思いも背負っていこうと、美和は思う。
鬼の真実を知る者として、強い力を持つ者として、正しい道を行かなければならない。正しい鬼にならなければならない。人間が求めた、救いの存在に。それはきっと重く長く、過酷な道のりだ。それでも美和は、行こうと決めた。
今度こそ、鬼に成ろうと思った。
それでもまだ人鬼のままなのは、あと一片が埋まらないから。血と魂を分けた弟を心配する気持ちが、彼に必要とされたいと思う気持ちが、残っているから。
けれどもその時が来たら――弟を安心して手放せるようになったら――美和は鬼に成るのだろう。この町の多くの人々がそうしてきたように。この町の誰よりも大きな力を持って。輪廻に入らず、この町と人々に、手を差し伸べ続けるのだ。
『私は美和。鬼の美和』
歌うように呟いた言葉が、空気にとけた。