北市女学院高等部一年の小日向優子には、憧れの人がいる。女子にしては背が高い優子よりも、もう少し身長があって、背筋がきちんと伸びた人。眼鏡の奥の瞳が優し気で、けれども頼りがいのあるその人は、北市女高の誇る生徒会長だ。彼女が傍を歩けば、優子に限らず誰だって振り返る。声をかければ、笑顔で応えてくれる。
そんな彼女に少しでも近づきたくて、優子は学級委員長になった。生徒会役員になると、他の部活ができなくなってしまうので、できるのはここまでだ。委員長をしていれば、会議で必ず会うことができる。もしかしたら顔を覚えてもらえるかもしれない。淡い希望ではあるけれど。
会議は月に一度開かれて、各学級の様子や問題点などについて話し合うという。とはいえ基本的にはお淑やかなお嬢様学校なので、問題はなかなか表面化せず、「特に変わりなし」という結論で終わることがほとんどだ。だから会議はいつも短いらしい。
せめてもう少し会う時間があればいいのに、と思うのは、きっと優子だけではないだろう。生徒会長はみんなの憧れなのだから。

そんなことだから、今日のこの瞬間の優子はとても幸運だったといえるだろう。クラスで集めた課題のノートを職員室に運ぶ途中、正面からやってきた生徒会長と目が合った。
「あら、大変そうね。手伝いましょうか」
しかも向こうから、こんなに優しく声をかけてくれるなんて。夢でも見ているのではないかと思ったけれど、腕に伝わるノートの重さも、それが急に軽くなったのも、これが現実だという証拠だった。
優子が返事をする前に、生徒会長はもうノートの半分以上を持ってくれていた。
「あ、あの、大丈夫です。会長さんのお手を煩わせるわけには……
「そんなのいいのよ。こんなに分厚いノートをクラス全員分、一人で運ぼうって方が無茶だわ」
そう、このノートはただのノートではなかった。北市女学院高等部の英語の授業で使う、学校オリジナルの英文日記帳なのだ。一年間たっぷり使えるように、一般的なノートよりも厚く、装丁もなかなか立派につくられている。大抵のクラスは二人がかりで運ぶのだが、小日向は誰にも声をかけることができなかった。
実は入学してから少しして、風邪をひいて数日休んでしまったのだ。やっと登校できたときには、もうクラス内にいくつかのグループができていて、優子はそこに入り損ねた。副委員長になった子から、休んでいたあいだのことを聞いたものの、彼女とも仲良くなるとまではいかなかった。というよりむしろ、委員長になっておいてすぐに休んでしまったものだから、彼女にはとても迷惑をかけてしまったのだろう。少し距離を置かれているような気さえしていた。
そういうわけで、ノートを運ぶという仕事も一人でやっていたのだ。自分がいないあいだは、副委員長がやっていたのだろうし、これくらいは当然のことと思っていた。
四十人分のノートはずしりと重かったけれど、仕方がない。これも自分が体調管理を怠ったせいだ。
でもまさかそのことで、入学式に一目見て憧れた生徒会長と話せるなんて。なんだか周りに悪い気もするけれど、それ以上に嬉しくて胸が高鳴っていた。
「あの、会長さん、ありがとうございます」
「どういたしまして。……ああ、それから、会長さんっていうのはなんだか落ち着かないわ。野下でも桜でも、好きに呼んでちょうだい」
「そんな! 畏れ多いですよ!」
「大袈裟ねえ」
くすくすと上品に笑う生徒会長、もとい野下桜は、近くで見ても綺麗だった。目鼻立ちのはっきりとした顔と、ほのかに良い匂いのする髪に、優子はうっとりする。
あんまり見惚れすぎて、危うく桜の言葉を聞き逃すところだった。
「一年一組なのね。委員長さんかしら?」
「え。……あ、はい! 一応学級委員長です」
「それじゃ、あなたが小日向優子さんね。これから会議でよく会うことになると思うから、よろしくね」
驚いた。桜は優子のことを、ちゃんと知っていたのだ。どうして、と訊けば、全クラスのクラス委員は把握してるわ、と頼もしい答えが返ってきた。さすがはみんなに慕われる生徒会長だ。
感心しているあいだに、職員室に辿り着いてしまう。もう素晴らしい時間はおしまいか、とちょっとがっかりしながら、優子は一年生の英語を担当する教員のところへノートを持って行った。
「失礼します、一年一組です」
「はい、ノートですね。あら、小日向さん一人? だめじゃないの、誰かと一緒にやらなきゃ」
困ったように息を吐く教員に、優子は言葉を詰まらせる。無理にでも誰かに頼まなくてはいけなかったのか。良かれと思って、一人で運ぼうとしたのだけれど。
すると桜が割り込んで、ノートの束を机にどさりと置いた。その音に驚いて、優子と教員は同時に桜を見る。微笑んでいるのに、妙な迫力があって、優子は息を呑んだ。
「偶然他の子が忙しかったのかもしれないですよ。自分の仕事をきちんとやろうとした小日向さんを、まずは褒めてあげてください」
桜が言うと、教員は咳払いをしてから「そうね、ご苦労様」と優子に笑みを向けた。とりあえず頭を下げておく。
そうしながらも、桜の堂々とした態度をかっこいいと思っていた。先生に対して、全く物怖じしないなんて。そうして優子を守ってくれるなんて。もし桜にそんな意図がなかったとしても、嬉しかった。

「あんな言い方ないわよ」
職員室を出てから、桜は溜息交じりに言った。その表情はいつもの優等生然とした彼女からは想像できなかったもので、なんというか、普通の女の子が不満そうに口をとがらせていた。思わずぽかんとしてしまった優子に、桜は続ける。
「せっかく小日向さんが頑張ったのに、それをあろうことか『だめ』だなんて。間違ったことなんかしてないんだから、気にしなくていいからね。……まあ、重いものを持つ仕事は、誰かに手伝ってもらうに越したことはないけれど」
「は、はい……
優等生というのは、先生のいうことをよく聞くものだと思っていた。けれども桜はそうではないらしい。不満も言うし、相手を言い負かすことだってする。優子の中の桜の印象が、一気に更新されていく。背筋を伸ばして、笑顔を浮かべながら上品に振る舞うだけではなく、強い意志と態度を持っている人に。気弱で人に流されがちな優子が、そうなりたいと思う姿に。
けれども桜はけっして雲の上の人や高嶺の花なんかではなく、優子と同じ女子高生なのだということも、同時に理解した。
「あの、野下先輩」
「ん?」
「どうしたら、野下先輩みたいになれますか。堂々としてて、強い人に。わたしはいつも人に一歩遅れてしまって……中学生の時は、嫌がらせを受けている同級生に手を差し伸べることすらできませんでした」
苦い思い出がよみがえる。そして今は、遅れた一歩を取り戻せなくて悩んでいる。せっかく志望校に合格して、新しい日々が始まったはずなのに、弱いままではどうしようもない。
桜のように、優しく強くなれたら、そんなふうに変われたら、どんなにいいだろう。同じ高校生なのだから、きっともっと頑張れば、桜のようになれるのかもしれない。でも、頑張り方がわからない。
優子の言葉に、桜は少し驚いたようだったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「小日向さんは、ちょっと私を買いかぶりすぎてるわね」
「そうですか?」
「だって私、そんなに強くないもの。本当に強い人はね、さっきみたいな場面でも感情的になったりしないで、もっと上手に立ち回るわ。それに私だって、同級生が嫌がらせを受けていたとして、適切に対処できるかと問われたら自信がないもの。見なかったふりをして、逃げてしまうかもしれない」
そうは言うけれど、桜はきっと逃げないだろうと優子は思う。困っている人を何とかして助けようとするはずだ。でも、適切な対処って、なんだろう。
「私もね、まだまだ模索中なのよ。生徒会長としてどう振る舞うべきかとか、北市女の生徒として模範的な行動ってなんだろうとか、そもそもそれってそんなに大事なことなのかな、とかね。考えることはたくさんあるわ」
「野下先輩でも、まだまだなんですか?」
「まだまだよ。だからね」
不意に、優子の手がとられる。桜は優子の手を両手できゅっと包み込んで、にっこり笑った。
「だから、一緒にいい方法を探していきましょう。少しずつでもいいから、ね」
桜にもわからないことが、優子にわかるだろうか。でも桜と一緒なら、見つかるかもしれないと思える。この人は、一緒に行こうと言ってくれている。
なんとなくだけれど、桜が人を惹きつける理由がわかった気がした。たしかに北市女の生徒として模範的で、美人で、人をまとめる力がある。でもそれ以上に、この人は相手と同じ目線になろうとする。一緒に考えようとしてくれる。けっして他人を下に見たりはせず、上に媚びもしない。そしてその態度は、おそらくはこれまでの努力で身につけてきたものなのだ。
優子は頷いた。桜と一緒に歩きたいと思った。一緒にいられるのはこの一年だけだけれど、この人からたくさんのことを学び、この人と一緒にたくさんのことを知っていこうと思った。
「そういうわけで、これからもよろしくね、小日向さん」
「よろしくお願いします、野下先輩」
大丈夫だ。何があっても、桜が一緒なら怖がることはない。ほんの少し、勇気が出た。

次の英語のノート提出のとき、優子は副委員長と二人でノートを運んでいた。今度こそは声をかけようと思ったところに、相手のほうから声をかけてきたのだ。「どうしてこのあいだ、一人でノート運んじゃったの」と。優子のことを迷惑だなんて、当人はこれっぽっちも思っていなかったのだった。
「小日向さんとはもっと絡まなきゃと思ってたんだよね」
そう言って笑う彼女は、どこか中学時代の同級生に似ていた。
一緒に歩いていると、桜とすれ違った。会釈をすると、華やかな笑顔を向けてくれた。
だから優子も、満面の笑みを浮かべた。