礼陣の町に冬が近づいてきている。紅葉の散っている山に囲まれた街の匂いに、暖房の埃が焦げたようなそれが混じっている。そんな今日この頃、高校三年生はいよいよ進路が決まってくる。
就職組はもう結果が出始めていて、進学組で推薦試験を受ける者は最後の追い込みにかかっていた。海は彼らを横目に、自分も受験勉強を進める。礼陣には文系の公立大学と女子大があるだけで、理数系の、特に医療系の分野を学ぼうと思う海は、必然的に町を離れるという選択をしなくてはならなくなる。一年生のうちから、県内国立大の医学部、隣県国立大の医学部などを調べてきたが、やはり一番良さそうな進路は、遠く離れた薬科大を目指すことだった。父もそれには賛成してくれている。
順調にことが運べば、この町にいられるのもあと数か月。生まれ育ってきた、慣れ親しんできた土地を離れるための準備を、すでに町を離れた先輩たちに相談しながら少しずつ進めている。
『海は今日も熱心に勉強しているな』
『なんでも、志望校の合格圏内にいるそうだ。思えば小さい頃から頭の良い子だった』
学校に侵入して、こそこそと話し合っている鬼たちの声も、町を離れればもう聞こえなくなる。町の外には鬼がいなくて、それが「当たり前」なのだから。この町を出たとき、海は「鬼の子」という肩書を持たなくなるのだ。
それでも鬼たちは寂しがることなく、海を応援してくれていた。もちろん人間――父だけでなく、学校の教員や先輩、後輩たちも。噂好きで親切な、町の人々だって。
……そういえば」
鬼たちのお喋りから、ふと意識が離れる。制服のポケットに、飴を入れっぱなしだったことを思い出したのだ。さっき廊下ですれ違ったときに、後輩から貰った飴だった。紅茶の味がするらしい。
喉がつらくなるといけないので、と飴を渡してくれたその子の笑顔が頭に浮かぶ。ここ最近、気が付けば思い浮かべている、可愛らしい笑顔。見た人を魅了するような。
そんな園邑千花という女の子の魅力にやられてしまった、自分もその一人なのだと、海はようやく受け入れ始めてきたところだった。何度も思い出して、夢にまで出てきたら、意識していることを認めざるを得ない。
飴を口に放り込んで、甘いなあ、と思った。たしかこれは、甘さが控えめな飴だったはずなのに。

廊下でその姿を見かけたとき、真っ先に声をかけるのは、大抵は詩絵だった。
「あ、先輩! お疲れさまです。体育だったんですか?」
移動教室のとき、特別教室棟ですれちがうことがある。その瞬間を千花はいつも期待する。少しでも顔が見られればラッキーだ。そしてそのラッキーは、詩絵がよく引き寄せてくれる。海に憧れている彼女が、彼らを見つけるのは早い。
「お疲れさま。その通り体育のあとだから、あんまり近づかない方がいいよ。汗臭いかも」
「そんなの気になりませんよ。夏でもあるまいし。あ、夏でも気にしませんけど」
苦笑いする海と、一緒に並んでいる連、サト、黒哉たち先輩のグループ。彼らと会ったとき、千花はまず会釈をして、とりあえず微笑む。うまく微笑むことができているかは、少し気になるけれど。うまくいっていなくても、詩絵と春が明るくカバーしてくれていると思う。
会ったついでに、詩絵は黒哉とアルバイトの話をする。黒哉は詩絵の両親がやっているパン屋でたまにアルバイトをするので、今度はいつ入ってほしいだとか、そういう話を軽くしておくのだ。そのあいだ、ときどきだけれど、海が千花に声をかけてくれることがある。
けれども今日はその前に、海が咳をした。ほんの少しではあったが、もしも受験勉強を頑張らなくてはいけないこの時期に、風邪なんかひいていたら大変だ。ただでさえ、後期中間テストが近いのだ。そんな考えが頭を巡った次の瞬間には、千花はもう、スカートのポケットから飴を取り出して、海の前に立っていた。
「あの、これ、もし良かったら。空気が乾燥してますし、喉がつらくなるといけないので。紅茶の味なんですけど、嫌いじゃなければ貰ってください」
よくすらすらと言葉が出てきたな、と内心では自分に驚いていた。だってほんの二か月ほど前、千花はもう二度と海の顔を見れないのではないかと思うほど、混乱していたのだから。
女子が苦手な海に近づいたり、頭を撫でたり、さらには何秒も密着していてしまった。無意識だったり不可抗力だったりはしたのだけれど、そのことで嫌われたりはしていないかと、気が気ではなかった。嫌われるのは怖い。千花は海のことが好きなのだから。好きになったことが知られると嫌われると思っていても、やっぱり好きな気持ちを諦められない。
そんな混乱が、今は嘘のようになくなって、しっかりと相手に向き合って飴を差し出していた。合唱部に所属している千花は、喉のケアに気を遣っていて、常に飴をいくつかポケットに忍ばせている。でもまさか、こんなかたちで使うことになるとは思わなかった。
海は少しびっくりしたような顔をして、それからふわりと表情を和らげた。優しく千花に笑ってくれて、飴を受け取った。
「ありがとう。千花ちゃんは優しいね」
「いいえ、そんな。飴はいつも持ってるので……。あ、連先輩と黒哉先輩と里先輩もどうぞ」
照れて赤くなっているであろう顔を隠しながら、他の先輩たちにも飴を渡した。そうして別れた後、急に胸がどきどきしてきた。思えば、大胆なことをしたものだ。飴一個のことだが、千花にとってはそうなのだ。
「やるじゃん、千花」
「海にい、喜んでたよ。あれははじめ先生におやつ作ってもらったときくらい喜んでたね」
詩絵に肘でつつかれ、春がにんまりと笑う。ことに海と幼馴染である春には彼の感情がよくわかるようだった。それを教えることで、千花の密かな恋を応援してくれている。
「そうかな。そんなに喜んでもらえたかな」
「相当嬉しかったと思う。あんなに表情が柔らかい海にいは、私もあんまり見たことないから」
嫌われていないなら良かった。千花は安堵しながら、自分の行動を少しだけ褒めてやる。自分に恋愛感情を持った女子を特に苦手とするらしい海に、好きだということをばれないようにしなくてはならないけれど、ちょっとくらいの親切もしてはいけないというわけではないのだ。
ただ、距離を縮めるのは、二か月前の保健室でのできごとが限界かなと思っている。あれはやりすぎた。春曰く、「海にい、別に嫌がってはいないみたいだけど」ということらしいが。
そう、あのときのことは春に全部話したのだった。パニックになりながら、嫌われたらどうしようと半泣きになりながら、一部始終を聞いてもらった。今、幾分か落ち着いていられるのは、そのおかげということもある。
廊下を教室に向かって急ぎ気味に歩きながら、詩絵が隣で口を開く。
「良い感じだと思うんだけどなあ。本当にこのまま気持ちを伝えないつもり?」
千花が海を好きなことは、親友である詩絵ももちろんのこと知っている。詩絵が海に向けているのは憧れであって恋愛感情ではないし、親友の恋路ならば当然応援したいと思ってくれているので、そうしてくれているのだ。でも千花はそれに、困ったように笑って返すことしかできない。
「伝えたら、その時点でアウトだもの。春ちゃんから聞いただけでも、たくさんの女の子がふられてるみたいだし……
「それは今までの話だよ。千花ちゃんに対しては、なんか海にいも違うみたいだなって、私も思ってるんだけど」
「私に限って例外なんてことないよ、きっと」
だって、海は意志が強そうだから。自分の考えを、曲げることのない人だろうから。そのあたりは幼馴染である春もわかっているようで、曖昧に唸る。
「後輩の一人でいいの。嫌われるより、そのほうがずっといいもん」
念を押すように、自分にも改めて言い聞かせる意味で千花が言うと、春と詩絵は複雑な表情で顔を見合わせた。


春休みに夕飯のレシピを教えてもらった一件以来、千花は海とほんの少しだけメールのやり取りをしていた。話題は主に、料理のこと。ちょくちょく簡単なレシピを送ってもらって、それにお礼を返している。たったそれだけだ。
たまには千花たちの学年で流行っていることや、春とその彼氏である新の様子なんかも教えたりしていたけれど、保健室での一件からこっちは、そんな話題はない。せいぜいが怪我の手当ての礼くらいだ。そもそも学校で会える時に話してしまえば、他に取り立てて用はないのだった。
携帯電話の画面を見て、千花は溜息を吐く。表示されているのは送ってもらったレシピの一つで、質問する余地もなく詳細に書かれている。それでも千花は、うまく作れた例があまりないのだけれど。でも挑戦するだけしてみるようになったのは、進歩だと思う。
これまでは隣に住んでいる葛木一家に、特に食事の面では世話になりっぱなしだった。だからこそ千花が料理をすることはなく、このことに関してだけは不器用なまま育ってしまったのだが。それが自分で夕食を作って、遅くに帰って来る父に食べてもらいたいと思うようになったのだから、海にはその点でも感謝している。――本当は上手にできたら報告して褒めてもらいたいのだが、上手にできたことがないから、まだ一度も報告できていない。
「あんまりこっちから連絡して、好きなのが伝わっちゃってもいけないし。これでいいんだ、これで」
独り言を呟きながら、シチューの材料を丁寧に切る。温かいものが美味しい季節になったので、ぜひともこれは成功させたい。父は寒い外から、とても気温の低い時間に帰ってくるのだ。そのために今日は葛木家での夕食は辞退し、レシピとにらめっこをしている。
玄関のホワイトボードには、父の字で「今日も帰りは夜中になります」とあった。それでもシチューなら、作っておけば温めて食べることができるだろう。一緒に食べることはできなくても、美味しいとは思ってほしい。
夢中になって作っていると、気が付けばかなり時間が経っていて、自分の手際の悪さに呆れた。けれどもいざ味見をしてみたら、これまでに作ったどの料理よりも美味しくできていて、思わず飛び跳ねて喜んだ。これは父にも満足してもらえる予感がする。
「きょ、今日こそ、海先輩に、上手にできましたって報告してみようかな……
きれいに皿によそって、携帯電話で写真を撮って、メールに添付する。[市販のルーはさすがですね! 美味しくできちゃいました!]とおどけた文章を打って、震える指で送信した。
褒めてもらえるかな。褒めてもらえるといいな。それ以上は望まないから。望めないから。そんな気持ちで胸をいっぱいにしながら、撮影が終わったあとのシチューを独りで食べた。

放課後は、学校で講習を受けて、終われば図書館に移動し、閉館時間までたっぷり勉強をする。とっくに部活も引退してしまっているので、他にやることはない。家に帰ると剣道の稽古に来た子供たちに会ってつい話し込んでしまうので、できるだけ帰りを遅くしているのが、最近の海だ。
それに図書館で勉強していたほうが、同じ学年の仲間と一緒に取り組める。いつものメンバーは連、サト、黒哉、それから莉那。そのうち連は列車の時間があるので、そして黒哉はアルバイトがあるので早めに抜ける。黒哉はそもそも図書館まで来ないこともしょっちゅうだ。
今日も今日とてそんなもので、閉館を知らせるメロディーが館内にゆったりと流れ始めるころには、海とサトと莉那の三人になっていた。
「やっぱりオレ、予備校の直前対策申し込もうかな。父さんにも言われたんだよ、このままじゃとても間に合わないって」
野球での推薦がだめだったときのことを考えて、サトは一般入試の準備をしている。実際、小論文でかなり躓いているらしいので、推薦は難しいのではといわれていた。スポーツ推薦でも学力が必要ないというわけではない。
「どこの予備校? 北市の?」
「いや、社台の満桜塾。あそこ結構良いらしいよ」
莉那とサトが予備校の話題で盛り上がっているあいだに、海の携帯電話が震えた。父からかと思ってすっかり油断していたら、画面を見た瞬間に心臓が跳ね上がった。
表示された名前は、「千花ちゃん」。海には連絡先を、普段自分が呼んでいる名前で登録する癖がある。しかしこちらから何か送ったわけでもないのにこの名前が出るのは珍しい。保健室の一件以来は一度もなかったのではないか。
「海君、どうかした?」
動揺が顔に出たのか、莉那が首を傾げた。「別に」と答えて、一旦携帯電話をポケットに突っ込み、とりあえずは図書館を出る。あまり長居していると、司書が眉を八の字にしてこちらを見てくるのだ。
「進道、はじめ先生からメール? 夕飯の支度、当番だった?」
「いや、今日はしなくていいって」
朝言われたことを、さも今メールで受け取ったかのように返事にする。そうして莉那と別れ、サトとも別れてから、そっとメールを見た。
そこには冗談っぽい文章と、美味しそうにできたシチューの画像があった。作った料理の完成品をこうして見せてくれるのは、初めてのことではないだろうか。以前にどうだったか訊いたときには、「あんまりうまくできなくて」とか「ちょっと失敗しました」とか、恥ずかしそうに返事があったものだった。それが今回、やっと自分から見せたいと思うものができたらしい。
「美味しそうだな」
自然と笑みがこぼれた。千花が料理を成功させたことが、自分のことのように嬉しかった。そしてこんなふうに報告をくれた千花を、可愛いと思った。――春や、他の後輩の女の子たちに思うようなものとは、明らかに違う「可愛い」だ。いいかげん、それは自覚した。
自分を捨てて、殺そうとまでした女から産まれたのだという意識があるせいで、一生女性なんか好きにならないだろうと思っていた。好感は持っても、恋愛などしないだろうと。かといって男性を好きになるかといえば、そう単純なものでもなかった。このまま独り身を貫いていくんだろうと、そう思っていたのに。この年になって、初恋なんかするなんて。自分のことのはずなのに、わからないものだ。
しかも相手は、来年には離れるはずの後輩で。幼馴染の親友で。母親がいなくて雨の日が苦手という、共通点が何かと多い、そんな女の子。
「通じるものがあるから惹かれたのかな……いや、単に可愛いってのもあるけど」
口に出してしまってから、恥ずかしくなった。人間には聞かれていないようだったが、鬼は周りでくすくすと笑っていた。さっきから、本当に油断してしまっている。
隠れるように玄関に飛び込んで、ごまかすように大きな声で「ただいま」と言った。けれども、返事がない。父はまだ道場のほうにいるのだろうかと居間を見ると、普通に座っていた。いや、眉を寄せて、考え事をしている……
「父さん、帰りました」
「あ、ああ、海、おかえりなさい。ごめん、夕飯がまだで……
声をかけると、父は我に返ったように慌てて立ち上がり、台所へ向かった。夕飯の支度ができていないなんて珍しいことだが、その理由は座卓の上を見てすぐにわかった。湯呑が三つ、置いてある。父のいた側に一つ、向かいに二つ。座布団も同じ数だけある。どうやらついさっきまで、客が来ていたらしい。
「夕飯は俺も手伝います。誰か来てたんですか?」
「ちょっとお客さんがね。先に着替えておいで」
はっきりと人物を言わないということは、海の知らない人なのかもしれない。たとえば父が道場を開けない日に勤務している、調剤薬局の関係者とか。けれどもよく考えてみれば、そちらも町の人なら、海が知らないはずはないのだ。疑問は残るが、まずはさっさと着替えて夕飯の支度だ。千花に負けないように、美味しい夕飯を作らなければ。
そうしているうちに、客のことはすっかり忘れてしまった。

ベッドの中でふと目が覚めた。階下から物音がするので、父が帰ってきたのかもしれない。時計を見ると、時刻はまだ日付が変わる前だった。
父にシチューの自慢でもしてからもう一度寝ようかと思い、体を起こす。ただでさえ父と顔を合わせる時間は少ないのだから、ちょうど目が覚めたこの機会を大事にしたい。そっと部屋を出て、足音を立てずに、千花は階段を下りた。
しかし半分ほどで、足を止める。父は誰かと話をしているようだ。相手の声はしないので、電話だろう。いずれにせよ邪魔しては悪いので、静かに部屋に戻ろうとしたときだった。
……ええ、千花に話すのは、もう少し考えてからにしようかと」
自分の名前が聞こえたので、千花は思わずその場に立ち竦んだ。盗み聞きをしようという気は全くなかったが、気にしないこともできなかった。
そうしたことを、すぐに後悔することになるとは、思いもしなかった。
「私たちが本当の親ではないと知ったら、千花が何と思うか……
父は今、何と言ったのだろう。頭の中で繰り返して、考えてみたけれど、その言葉が変わることはなかった。

昼休みは教室で弁当を広げる。人の席を借りて、海、連、黒哉の三人で、ときどき口喧嘩などもしながら賑やかに過ごす。もちろん喧嘩をするのは海と黒哉で、連はそれを止める役だ。サトは購買にパンを買いに行ってから戻ってこないので、おおかた教師に捕まっているかしているのだろう。
「連さん、小論文どうですか? 良いの書けました?」
「いや、たぶん再提出だ。南村先生、ざっと目を通してくれたあとで首傾げたから」
「あー、南村先生の癖か。あのあと絶対赤入るんだよな」
推薦入試が近い連は、今は小論文と面接の練習で日々を送っている。二年生になってから突然進路を遠く離れた北国の国立大に設定して、それからはずっとそこに行くための勉強をしている。推薦枠には入れたが、もしもそれがだめなら一般入試を狙うという。どうやらそこにいる教授が目当てらしいが、連にしては思い切ったものだと、誰もが思っていた。本人すら「俺もそう思う」と言うくらいだ。けれども連は高校に入ったばかりの頃とは変わって、人付き合いに怯むことがほとんどなくなった。変われたから遠くへも行けるのだと、胸を張っていた。
みんな少しずつ変わっている。その中でも海は、自分が一番変わってしまったような気がしていた。なにしろ、今年の三月には、まだ「恋愛なんかくだらない」と思っていたのだ。実際落ちてみたら、そんなふうに切り捨てられるものではないのだとわかってしまった。
そういえば、昨日千花から送られてきたメールに返事をしていない。あのあと大急ぎで夕飯を作って、食事のあとはすぐに風呂に入ったり洗濯物を片付けたりとずっと動いてから、倒れ込むように寝てしまった。忘れていたわけではないのだけれど、タイミングがなかなかつかなかった。
会ったら「良かったね」くらいは言おうと思ったのだけれど、今日はまだ顔を見ていない。二年生とすれ違うような授業もなく、かといってわざわざ言いに行くのも変だ。やはりメールで返すのが自然かと携帯電話を手に取ったとき、明るい声が降ってきた。
「ねえ、りんご食べる? ちょっと色変わっちゃったけど、美味しいよ」
明らかに中身を数人で分けて食べることを想定した大きさのタッパーを持って、莉那がにっこり笑っていた。一緒に昼食をとっていた女子のグループにはもう配ってきたらしい。黒哉が真っ先に「どうも」と手を伸ばした。それに連と海が続く。
「美味いな。どこの?」
「青森。今年はこれが最後かな。お父さんの知り合いが送ってくれたんだよ」
黒哉と話しながら、莉那は至って自然に椅子を引き寄せ、男子グループに加わる。それでも同性からのやっかみがないのは、莉那の態度が平等であるのと、すでに彼氏がいるからだ。けれども海は、何の遠慮もなくこちら側に入ってくる莉那が、少しだけ苦手だ。そこに下心が全くないというわけではなかったことを知ってしまったときから。
莉那は一年生のとき、連が好きだった。告白したが、連にその気がなかったのでふられている。でもそれだけではなくて、連に莉那の告白を断るようにたきつけたのは海だった。友人にすら下心のある女子を近づけたくないと思うほど、恋愛ごとを嫌悪していたのだ。
そのこともあってか、莉那は海に、たまに冷たい視線を向けることがある。そんな彼女に、今の海の状況が知れたらどうなるだろう。千花を、莉那が可愛がっている後輩を好きになったと知ったら、莉那は呆れるだろうか、それとも怒るだろうか。
「そういえばね、千花ちゃん、今日は学校お休みしてるのよ」
そんなことを考えていたものだから、突然その名前が出てきたときはぎくりとした。どうして今、その話題なんだ。何の脈絡もなかったと思うが。
「園邑さんが? 風邪でもひいたのか」
「具合悪いって連絡あったのよ。ほら、私たちって家がお隣同士だから、いつも一緒に登校してるじゃない。千花ちゃんってめったに体調崩さないから、珍しいなって思って。りんごだって、二年生の教室まで配りに行こうかと思って用意してきたの」
だからこんなに大きなタッパーで持ってきたのか、と納得しながらも、頭の中の大半は千花への心配で埋まった。昨日飴を持ち歩いていたのも、自分が風邪をひいて喉の調子が悪かったからではないか。本当は、人の心配なんかしている場合ではなかったのではないか。
メールでは、あんなに元気そうだったのに。
「今日は講習終わったらすぐ帰って、お見舞いでも持って行こうかな。何がいいと思う? ねえ、海君」
「え、俺ですか」
まさか話を振られるとは思っていなくて、慌てて莉那を見る。そして、頬が少し引き攣った。莉那は笑っているのに、どこか海を試しているようで。この目は、いつかも向けられた。莉那の告白を邪魔しようとしたことが莉那にばれたときだ。
「なんで俺に?」
「体育祭前に捻挫したとき、手当てしてくれたの千花ちゃんなんでしょ? だったらお礼しなきゃ」
どこまで知っているのかはわからないが、莉那もそのことは聞いているらしい。でもそれ以上に含みを持った目でこちらを見てくるので、耐え切れなくなって視線を逸らしながら、海は鞄から財布を出した。手当ての礼をしなければいけないのはたしかだ。
「これで、千花ちゃんの好きなアイス買っていってください。アイスじゃ寒いと思ったら、莉那さんが何か適当に見繕ってくれればいいですから」
「そういうつもりで言ったんじゃないのに。……でもまあ、百円だけ受け取っておきましょう」
莉那は苦笑いしながら百円玉を一枚ポケットに突っ込んだ。残りは海の手に戻ってくる。それと一緒に、言葉も。
「ホント、千花ちゃんには優しいよね、海君。私が同じことしても、お見舞いなんかくれないでしょ」
そんなことないですよ、と言う前に莉那がどんどん継いでくる。
「千花ちゃんなら傘に入れるし、千花ちゃんなら廊下で会ったときにまめに話しかけるし、千花ちゃんになら手当てを任せる。そして千花ちゃんが具合悪そうなら心配がわかりやすく顔に出る」
ずらずらと並ぶ実例は、こちらがつっこむ余地を与えない。莉那を止めてくれるよう助けを求めると、連はきょとんとしていて、黒哉はにやにや笑っていた。期待は脆くも崩れ去る。というか、連以外はわかっていてやめないし、止めないのだ。他でもない海自身の表情と行動が、千花を好きだということを、ずっと気にしていたのだということを周りに知らしめていた。
「莉那さん、からかうのはやめてください。俺は本当に千花ちゃんの具合を心配してるし、それくらいだったら春にだってしますよ」
「うん、そうかもね」
たぶんこれは、莉那なりの仕返しなのだ。かつて自分の恋路を邪魔されたことへの、ささやかな復讐なのだろう。だから強くは言い返せない。だからここまで言わせてしまう。
「あのね、海君。私は自分のことは別にいいけど、妹みたいに可愛い女の子を傷つけられたら、さすがに怒るよ。もし千花ちゃんを泣かせるようなことがあったら、今度こそ許さないから」
礼陣高校のアイドル、美人生徒会長といわれているが、所詮それは莉那の表の顔に過ぎない。本当の彼女はしたたかで執念深い、海の苦手な女性像そのものだ。それでも付き合いをやめないのは、他の尊敬する相手にもするように敬語で話すのは、彼女との関わりは絶つことができないし、絶対に勝てないという自覚があるからだ。
……肝に銘じます」
「うん。よろしくね」
莉那が離れていったあと、どっと疲れがきた。意外にも、黒哉が海の思いを代弁してくれた。
「莉那、結構怖えんだな」

 

連とサトは小論文の添削と面接練習のために居残りをしている。黒哉はアルバイト、莉那は千花のお見舞いのために講習が終わるなりさっさと帰った。今日はわざわざ図書館で勉強することもないかと、海も一人で帰路につく。校門を出たところで、商店街に寄っていこうと思い立った。夕飯の材料を買って帰り、何か拵えておこう。ついでに、今度千花に送るレシピも考えられたらいい。
駅裏商店街は今日も人間と鬼で賑やかだ。威勢の良い声が飛び交い、モノが流れる。店の人は、というよりも町の人々はほとんどみんな、海の顔を知っている。人当たりの良い表の顔を。挨拶をしながら歩いて、適当に買い物をして、商店街の東端に辿り着く。和菓子屋御仁屋のすぐ脇には石段があって、上には深緑色の大きな鳥居がたっている。夕暮れの中では真っ黒だ。そこが礼陣のシンボル、礼陣神社。またの名を鬼神社。礼陣に住まう鬼たちを祀るための神社である。
海はそこに、中学生の時までは足繁く通ったものだった。高校生になってからは、買い物のついでに寄っている。買い物袋を提げて石段を上りだすのは、もはや習慣だ。端を通れば、参拝客とすれ違う。
いつものように参拝をして、鬼に声をかけつつ神主の様子を見たら、すぐ帰るつもりだった。それが日課で、今の海の「当たり前」だから。――けれども今日は、なんだか様子がおかしい。
石段で人間とはすれ違ったが、鬼には会っていない。気配は境内に集まっている。それも普段以上の数が。異常が足を急がせた。走って見えた境内では、姿かたちの違う様々な鬼が揃って一か所にかたまっている。その向こうに透けているのは、蹲っている人間の女の子だ。
『あ、海。良かった、困ってたんだよ』
こちらに気づいて駆け寄ってきた鬼が言う。そんなのは見ればわかる。拝殿の脇に隠れるように蹲る女の子が、誰なのかということも。
「千花ちゃん……?」
具合が悪くて、学校を休んでいたのではないのか。莉那が見舞いに行ったはずだけれど、会わなかったのか。疑問が一歩進むたびに湧いてくる。鬼を掻き分けて蹲る彼女の傍に立つと、とんでもなく小さくなってしまったように見えた。
「千花ちゃん」
呼びかけると、ぴくりと肩を震わせた。それからゆっくり顔をあげて、海と目が合う。泣き腫らして、まだ涙をいっぱい溜めたその目と。
――
千花ちゃんを泣かせるようなことがあったら、今度こそ許さないから。
莉那の声が脳裏に響いた。海が泣かせたわけではない。でも、千花はこんなに悲しそうに泣いていてはいけないのだ。彼女の感情に鬼たちが同調してしまうから。鬼たちが悲しめば呪いを溜めこんでしまうから。……そうじゃない。海が、千花を泣かせたくないから。こんなにつらそうな表情を見たくないから。
「どうしたの……?」
屈みこんで尋ねると、千花は手でごしごしと目を拭った。冷えて赤くなった手も、おもいきり擦ってしまった目や頬も、それから無理やり作ろうとしている笑顔も、何もかもが痛々しい。それがそのまま海の胸に伝わってきて、苦しくなった。
「か、海先輩こそ、どうしたんですか? あ、買い物の帰りですね。今夜は何にするんですか?」
取り繕うような声は震えている。たぶんそれは、寒さのせいだけじゃない。鬼の誰かが、『千花、ずっと泣いてたんだ』と言った。ずっとって、いつからだ。
「具合悪くて、学校、休んだんじゃ……
「ああ、あの、午前中はそうだったんですけど。午後はちょっと動けて、病院に行こうと思って」
嘘だ。病院は駅前の通りにあるから、千花の家からここに来たのなら方向が違う。もし本当に病院に行ったのだとしても、いつからここにいて、いつからこうして蹲っていたんだ。そのあいだ鬼たちはずっと千花を見ているだけで、神主は彼女に気づかなかったというのか。今も出てきていないし、何をしているんだ。湧き上がる怒りを抑えて、海は千花の隣に座った。それから鬼たちに、離れるように目配せをする。たくさんの鬼たちは、そろそろとその場を退いていった。
「病院には、行ったの?」
……
千花が黙って俯くだけで、さっきのはやはり嘘だったのだとわかった。
「具合はどう? 莉那さんが、お見舞いに行くって言ってたよ」
「大丈夫です。全然平気です。だから先輩も気にしなくていいです」
喉から絞り出すような声だった。大丈夫と言いながら、彼女は海を遠ざけようとしていた。――その声で遠ざけられるのは嫌だと、海の中で誰かが叫んだ。誰でもない、自分自身だ。その声で拒絶されるのは、もういやだ。
……海先輩?」
胸のあたりで、声がした。
耳で聞いて、目で見て、肌で感じて、初めて頭で理解した。自分が今していることが、どういうことか。わかってからも、離れることを、千花を抱きしめることを、やめられなかった。あまりに冷たい体を放せなかった。いっそう強く抱きしめながら、口をついて出たのは再びの問い。
「どうしたの?」
千花からすれば、海のほうがどうしたのかと思っているだろう。でも海は、千花の理由を知りたかった。あんなにつらそうだったそのわけを、教えてほしかった。もう二度と、あんな顔をさせないために。
千花はしばらく黙っていたが、やがて「父が」と切り出した。
「父が、本当の父ではないかもしれないんです」
コートの上からだったが、海は胸が濡れるのを感じた。

階下から聞こえる声は、きっと耳を塞いでも聞こえるのだろうと思った。
「私たちが本当の親ではないと知ったら、千花が何と思うか……。いずれは話をしなければならないとしても、今は私が不安で仕方がないんです」
その言葉は頭の中で響く。まるで鬼の声のように。だから余計に、嘘だとは思えなかった。鬼は、この町の神様は、嘘を吐かないはずだから。
父も同じだ。こんな悪い冗談を言うような人ではないし、その声は本当に不安そうだった。――本当に千花が、自分の子供ではないような。
「ええ、引き延ばしていてもいけないことはわかっています。でも、もう少しだけ、私が勇気を持てるまでは、話せないと思います。私はあの子の父親でいたいんです」
そこまで聞いたところで、音をたてずに部屋に戻った。急いで布団に潜りこんで、ぎゅっと目を瞑った。けれどもなかなか朝にならなくて、握りしめた手は痛くて、あの言葉が現実だということを思い知らされるばかりだった。
千花の頭を巡る父の声は、何遍繰り返しても変わらない。「私たちが本当の親ではないと知ったら」と言っていた。「私たち」ということは、幼い頃にこの世を去った母もまた、産みの親ではないということなのだろうか。
――
そういえば、私、いつから鬼を見ることができたっけ?
礼陣では、親を亡くした子供が鬼を見る。その子は鬼の子と呼ばれる。千花は自分が母を亡くしたから鬼の子になったのだと思ってきたが、鬼が見えたのは母が亡くなる前からではなかったか。
そう思った途端に、記憶がよみがえる。父と母と、三人で遊んだ小さな庭には、家族以外の影もあった。あれは莉那たちのような近所の子供などではなかった。頭に二本のつのがある、人間とはかたちが違うもの。よく似た姿の者もいたけれど、つので人間ではないとわかった。
それが見えていたのは、まだ母が、もしかしたら母ではないかもしれないその人が、まだ存命中の頃からだったように思う。
「やだ、なんで、こんな記憶……
不安を覚えた脳が作りだしたイメージにしては、ぼんやりしすぎてもいないしはっきりしてもいない、リアルな感覚だ。あの頃すでに鬼の子だったということは、今まで両親だと思っていた人たちは本当の親ではなく、本当の親は少なくとも片方が死亡しているということになる。
じゃあ、千花はいったい、誰の子供だったのだろう。
……私、誰?」
長い夜を眠らずに過ごし、朝日が昇っても動けなかった。父が出かけて行く音を聞いてから、莉那には具合が悪いとメールを送り、学校にも休むと連絡をした。「園邑です」と名乗ることに、強烈な違和感を覚えた。
自分は千花という名ではあるけれど、園邑の姓を名乗れるような者ではないかもしれない。ならばこの家にも、本当はいてはいけないのではないか。父の、母の、娘ではないのなら、ここにはいられない。そんな考えにかられて、服を着替えてから家を飛び出した。飛び出したところで行き場がない。千花の居場所は、どこにもない。
迷った末に辿り着いたのが、神社だった。もう鬼を見ることはほとんどできないけれど、気配なら感じられる。ここにたくさんの鬼がいるのがわかる。鬼と一緒ならいてもいいかもしれない、なんて思いが過ぎって、拝殿の脇に座り込んだ。そうして、問うてみた。
「ねえ、私、誰の子供なの?」
答えはない。あったかもしれないけれど、千花にはもう聞くことができない。鬼の子ではあるが、千花が鬼たちを見る力と聞く力は微弱だったようで、中学を卒業する頃にはわからなくなってしまっていた。今更力が戻ってくるはずもなく、千花はただ静かなこの場所で、隠れるようにして縮こまっていた。
時間の感覚はわからなかった。けれどもとんでもなく長い時間、そうしていたような気がする。気が付けば夕暮れで、それでも寒くなかったのは、きっと鬼たちが周りを囲んでいてくれたからだった。
そこへ人間が、海がやってきたのは、千花にとっては幸運だったのか、それとも不幸だったのか。少なくとも、泣き続けてぐしゃぐしゃになった顔は見られたくなかった。
今こうして、抱きしめてもらっていることは、夢みたいに心地が良かったけれど。一度零れると溢れて止まらなくなった言葉は、自分で嫌になっていた。

泣きじゃくりながら話す千花を抱きしめる腕を、海はそのあいだ少しも緩めなかった。それは彼女が好きだからという理由ではなく、罪悪感からくる行動だったことを、静かに認める。
自分は今、誰も知らない千花の秘密を知っているのだと思うと心が高揚した。冷たくなっていたけれど、細いのに柔らかい体をこの胸に収めていることに、ほんの少しの幸福を覚えていた。彼女は泣いているのに、自分はなんてことを考えているんだと思っていた。もう一本腕があったなら、自分を殴り飛ばしてやりたい。
でも、今しなければならないことはそんなことではない。傷ついて泣いてしまった千花を、どうしたらまた笑顔にすることができるのか。それを考えなければならない。それもさっき見たような無理やり作った笑顔じゃなくて、自然な、いつもの、海が可愛いと思う千花の笑顔を取り戻さなくてはならないのだ。
それなのに。
「あのさ、千花ちゃん。親がいないのは、俺も同じだよ」
口をついて出たのは慰めの言葉でも何でもない、ただの海自身の話だった。
……先輩には、お父さんがいるじゃないですか」
「うん、いる。俺を育ててくれた、立派で、尊敬できる父さんだ。でもね、俺はあの人の本当の子供じゃないんだよ」
え、と声を漏らして、千花が海を見上げた。海はちょっと笑ってから――こんなときにどうして笑えるのか自分で不思議だったが――続きを話した。
「父さん……はじめ先生は、周囲には父親って言っているけれど、戸籍上は兄なんだよ。そして戸籍上の父親は、俺のお祖父さん。ややこしいよね」
「戸籍上、ってことは、血の繋がりはないんですか?」
「ううん、血縁関係ではあるよ。それでいうなら、はじめ先生は伯父だね。俺を産んだ人の兄だから」
冷静にそんなことを話せるのも不思議だ。今まで産みの親のことは、思うだけで不快だったのに。だって自分を産んだ母親は、子供を捨てて、それから、殺そうとした人なのだから。今でも夢に見るくらい恐ろしくて、憎らしいその人のことを、落ち着いて話せたのはこれで二度目だ。一度目はやむを得ない事情があって先輩に話したきりだったから、自然に切りだせたのは初めてだ。
「俺ははじめ先生の子供じゃない。でも、はじめ先生のことは本当の父さんだと思ってる。だって、俺のことを今までちゃんと育ててくれたんだよ。俺が父さんって呼ぶことを許してくれてるんだよ。それでどうして、本当の親じゃないなんていえるの」
そこまで言って、ようやく気付いた。海が千花に言いたかったのは、これだということに。千花の話を聞いていて、ずっと共通点を感じていた。海にも、千花にも、本当の子供ではなくても、ちゃんと愛して守ってくれる人がいたのだ。千花にもそれに気づいてほしかった。同じように思ってほしかった。
もしかしたらそれは傲慢かもしれないけれど、否定されるかもしれないけれど、同じ気持ちを持ってほしかったのだ。
だって、自分たちはよく似ているのだから。まるで最初から、一緒になることが決まっていたみたいに。
「千花ちゃんは、お父さんが好きだよね。春からよく聞いてる」
……はい、大好きです。私をとても大切にしてくれて、いつもは忙しいけれど、お休みのときには色々なところに連れて行ってくれるんです。そのあいだはずっと一緒で、手を繋いだり、腕を組んだりしてくれて、私のこと、いつまでも子供扱いで……
また、千花の目から涙がこぼれた。けれども、さっきまでのそれとは違うのが、海にもわかった。
「本当の子供みたいに、ずっとずっと、私のこと、育ててくれました……!」
千花が愛らしく素直に、誰かのためになら頑固にだってなるような女の子に育ったのは、彼女を取り巻く環境のためだ。育ての父が、そしてもういないという育ての母が、千花を心から愛していなければ、こんなふうにはならないのではないかと、海は思う。
父が海をそう育てようとしてくれたから、そう思える。
「それなら、千花ちゃんのお父さんは本当のお父さんだよ。千花ちゃんは間違いなく園邑千花で、お父さんの子供だ。血が繋がっていようといなかろうと関係ない。愛してくれた人が親だ」
千花は小さく、けれどもたしかに頷いた。そして涙をもう一度拭う。今度は、無理やりじゃない。
……そうですね。海先輩の言う通りです。私、何を怖がってたんだろう。怖いのはきっと、お父さんのほうだったのに。私にこのことを知られることで、どうなってしまうか、すごく不安がっていたのに。私が勝手に泣いてちゃ、だめですよね」
「ショックを受けて当然のことだとは思うけどね。俺も初めて自分のこと知ったときは、やっぱりショックだったし。……でもまあ、血縁とか戸籍とかのややこしさを考えてるうちに、全部どうでもよくなっちゃったけど」
「あはは。そうですね、先輩のお家はちょっと複雑すぎです。あ、笑っちゃいけませんよね。ごめんなさい」
「いいんだよ、笑って。千花ちゃんは、笑っててよ」
笑顔が見たかった。そんな独りよがりでも、千花が少しでも元気になってくれるなら結果的には良かった。もう大丈夫かな、と思うと、海の腕は自然と緩んだ。
それでも千花は、離れなかった。
「ありがとうございます、海先輩。……私、笑ってますね。お父さんにも、笑って向き合います。これからもお父さんって呼んで、大好きって言います。その勇気をくれて、ありがとうございます」
……うん。それじゃ、送っていくから帰ろう。千花ちゃんの家にさ」
「はい!」
立ち上がろうとして、やっと二人は離れる。いつのまにかぐっと下がっていた気温に気づいて、少し震えながら顔を見合わせ、笑いあう。
暗いから、顔が赤くなっているのはばれていないだろう。たぶん。

*
 * *

先輩、先日はありがとうございました。それから、少し長いメールになることを先に謝っておきます。
珍しく父が土曜日に休みをもらったので、その日は大城市までドライブに行きました。たくさん父と遊んだ帰りに、私は父の電話を盗み聞いてしまったことを告白しました。
動揺はしていましたが、父は私の疑問に正直に答えてくれました。まず、私の実の親ではないということ。これは本当のことでした。母は病気で子供を産めなくなってしまったのだそうです。
それでどうして私が園邑の家に来たのかというと、父の話によると、母の病気が判明したその日に、鬼が赤ちゃんの私を抱いて連れてきたというのです。
両親が私を子供として迎えたのは、そのあと色々な手続きを経てからのことでしたが、誕生日は初めて私に会った日ということになっています。
五月二十六日は大雨だったそうですから、私が雨の日に不安になるのは、そのときの記憶が少し残っているからかもしれません。
ともかく、両親は私を引き取りたいと申し出てくれて、本当の子供にしてくれたのはたしかなことのようでした。母が亡くなってからも、父は周りの手を借りながら、私を一生懸命に育ててくれました。
先輩の言う通り、父が私の本当の親になってくれたからこそ、できることだったと思います。そのことに気づかせてくれたことは、とても感謝しています。
家に帰り着いてから、父は私を抱きしめてくれて、「まだお父さんと呼んでくれるかい?」と尋ねてきました。もちろん、「当たり前だよ、お父さん」と答えました。お父さんはお父さんです。
実の親についてはもう聞かないことにしました。知ったところで、私が生まれてからずっと鬼の子だった以上、もう会えないのはわかっていますから。会えたとしても、たぶんその人を親だと思うのは、難しいと思います。
私はこれからも堂々と、園邑千花を名乗ります。ここが私の家です。
先輩のおかげで、私も父も困ったことにならずに済みました。たくさん迷惑をかけてしまいましたが、これからも今まで通りに接してくれると嬉しいです。
先輩もどうか、お父さんといつまでも仲良く、幸せでありますように。
それではまた、学校の廊下で。受験勉強、がんばってください。
千花より。

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まるで最初から一緒になることが決まっていたみたいだ。そんなことを、メールを読み返してみて、海は改めてそう思った。
千花とは共通点が多いとは思っていたが、違うこともある。一つは千花は母親にも恵まれていたということで、もう一つは五月二十六日に生かされたか殺されかけたかという点だ。
千花は五月二十六日に、鬼と両親によって生かされた。海は同じ日に、呪い鬼と化した実母に殺されかけている。経験は違うが、その大雨の日が不安を呼び込むのは一緒だ。
「仕組まれたみたいに、千花ちゃんに惚れたなあ……
あのあと、学校で会った千花は笑っていた。ちょっと照れくさそうにしていたが、たしかに笑顔だった。あの笑顔をずっと守りたいと、もう泣かせたくないと、海は思う。できるならこの手で、千花を幸せにしたい。
「大助さんの真似でもするかな。卒業式の日に告白、とか」
いつか自分で馬鹿みたいだと思ったことを、今度は自分でやってみたいと思う。千花の好みは「お父さんみたいな人」のようだから、ふられるかもしれないけれど。
そんなふうに考えてから、俺も変わったなあ、と苦笑した。そんなことばかり考えていて、細かいことには気がまわらなかった。