人鬼はいかなる人間にもその姿を視認することはできない。人間の魂が鬼へと転じようとするその過程の姿は、たとえ鬼を見ることのできる鬼の子であっても、目にすることは不可能だ。それが礼陣の鬼たちのなかでの常識だった。
しかし人鬼である美和は、それにも例外があることを知っている。自分の双子の弟は、人間だが、美和の姿が見えていた。鬼の子でもない、ごく普通の人間だ。彼には美和の姿だけは見えていた。だから美和はこれまで、自分の存在を保つことができたのだろうと考えている。どうやら人鬼を長くやりすぎると、認識されないことが原因で消えてしまうらしいので。
美和が十四年も消えずにいるのは、たぶん弟のおかげだった。今はこの町にはいないけれど、帰ってきたらまた美和にそっくりな顔で笑って、ただいまを言ってくれるだろうか。彼には、美和の姿が見えるだろうか。
『見えなくなっても、いつかは私と同じ鬼になる……か』
実家である水無月呉服店の店先で、美和は溜息を吐いた。ここから見える町の人々の格好は、薄いカーディガンを羽織っていたり、半袖だったりしている。さっきも夏の着物を仕立てたお客が、店から出て行った。――礼陣に、夏がくる。

美和が鬼に成って、触覚を持つようになれば、牡丹の言うこともわかるのだろう。
『じめじめしてきたな。菓子も傷みやすいし、この時期はどうにも苦手だ』
店で雨宿りをして、止んだ後もそのまま美和の隣にいる子鬼――牡丹は、美和の昔からの馴染みだ。なりは小さい子供のようだが、これでも江戸末期から明治、大正、昭和と生き続けてきた、大先輩である。礼陣の町の歴史にもそこそこ詳しく、しかし全てをその口から語ることはない。百五十年ほどの生の中で、彼女も思うところがあったのだろう。
最近では美和に修行と称して鬼たちの悩みなどを聞き出させたり、それによって鬼たちを癒したりということをさせたりしていたが、牡丹は癒しの対象に自分を勘定していない。ついでにいえば、礼陣で最も凶悪と言われる呪い鬼、葵鬼も含んではいない。
しかし美和は牡丹や葵の抱えている痛みも、せめて軽くしてやりたいと思って、勝手に動いている。その結果、「礼陣の鬼は人間が死後に変化した姿である」ということを知ってしまった。彼らは生前の記憶を失い、新たな生を得ている者たちなのだと聞いてしまった。
牡丹もそうなのだろうか、と思うとまともに顔を見られなかった。もしかしたらその子供のような姿も、子供のうちに死んでしまったために得たものなのだろうかなどと考えてしまうと、胸が痛んだ。五感が揃っていないはずの美和でも、痛い、苦しい、とは思うのだった。
『どうした、美和。眉間にしわが寄っているぞ。せっかく人間と同じ顔をしているのだから、もっと大切にしろ』
『大切にって。……うん、わかった。あんまり難しいことは考えないようにするよ』
眉間を指でぐりぐりと押しながら、美和は牡丹に笑ってみせた。苦笑だ。
その指を牡丹は、赤い瞳でしばらく見つめていた。美和が自分の顔から指を離すと、視線はその先端を追う。何かあるのかと、美和は首を傾げた。
『どうしたの? 私の指に何かついてる?』
『いや。……美和はまた力をつけたのだなと、そう思っただけだ』
『力?』
鬼は人間の持たない力を操ることができる。宙に浮かんだり、物を動かしたりすり抜けたり、あるいは壊したりと、できることは様々だ。やってはならないとされているが、人に触れずに痛みを与える、などということも可能である。その力で人間の生活に過干渉しないように、と鬼たちは普段から姿を隠し、陰の存在に徹しているのだが、見える者からすれば堂々と道を歩いているので全く隠れてなんかいない。
人鬼は鬼としての力も発展途上である。美和はやっと家の戸をすり抜けられるようになり、それを利用して夜にこっそり動いている。
ところがどうやら、牡丹の見立てによると、美和の力はもう一段階成長したようだ。本人が全く気付かないうちに。
『美和、指先に集中し、爪を伸ばしてみよ』
『爪? ……集中すればいいのね』
言われた通りに、右手の人差し指に意識を集中させてみる。ついでに『爪よ伸びろ』、なんて半ば冗談で念じてみた。冗談のつもりだったのだ。
立てた指の爪は、つう、と天井に向かって伸びた。先端は鋭く尖っていて、触れたものを傷つけそうだ。驚いている美和の隣、というよりも腰のあたりで、牡丹は腕組みをしながら頷いた。
『身体を変化させることができるようになったんだ。日頃の修行の成果だな』
『修行ったって、最近は鎮守の森にもあんまり行ってないのに。……へえ、私ってば、いつの間にこんなことできるようになったんだろう』
戻したいと思えば、爪はもとのきれいな形で、美和の指先に収まった。気をつけなければ歩く凶器と化してしまう。あまりこの力は使わないでおこうと思った。
『宙に浮く術はただの魂だったときから身につけているから、鬼としての基本的な力はもうほとんど使えるようになったな。それでもまだ人鬼のままなのは、美和が心から鬼に成りたいと思っていないからだろう』
牡丹の言う通り、美和はまだ本気で鬼に成りたいとは思っていない。成るなら、その仕組みを、そして自分の存在意義を知ってからがいい。鬼について納得ができるまでは、鬼に成ることをそのまま受け入れることはできない。それが美和の考えだ。
それに今は鬼に成るのが少し怖い。夜の活動によって、この町に鬼がいることの不自然さや違和感を、鬼の正体を知ってしまったためだ。この町の「あたりまえ」に、何の疑問も持たず溶け込むのは、なんだかおかしい気がしている。
けれども美和はそれをごまかして、『そうねえ』と牡丹におどけてみせた。
『鬼に成ったら、和人からは見えなくなっちゃうんだろうし。それは寂しいもの』
これだって嘘ではない。普通の人間である弟は、鬼に成ってしまった美和を見ることはできない。人鬼のあいだに、奇跡的に認識できているだけなのだ。何の挨拶もなしに姿を消してしまうのは、美和としても惜しい。
だが、牡丹はちゃんと美和の本心を見抜いていた。
『寂しいだけじゃないだろう。美和は鬼に不審を抱いている。だから鬼に成りたくない』
……
いままではっきり言わなかっただけで、きっと牡丹は知っていたのだろう。美和が夜に何をしているのか。何を聞いて、何を知っているのか。なにせ、どんな古株の鬼からも一目置かれている子鬼なのだ。
『葵のもとへ通って無事でいられるなんて、よほど気にいられたのだな、美和は。どうやら喰われないようだし、葵の呪いを少しでも解くことができるかもしれないと期待もしたから黙認していたが、魅入られるのは厄介だ。気をつけよ』
『いつから知ってたの』
『お前が初めに心道館に単身で乗り込んだ時から、私と大鬼はずっと知っていた。止めに入る機会を窺っていたが、予想以上に葵が口をきいたので、放っておくことにした。こんなこと、今までにあったことがない』
牡丹は大鬼の最たる手先だと、葵が言っていた。それはきっと真実なのだろう。鬼の総大将であり神社の神主としての姿ももつ大鬼は、牡丹と特に親しい。というよりも、まるで対等な存在のように扱っているのだった。
『そう。大鬼様と牡丹は、私が勝手に動き回るのを許してくれてたってわけ』
『賭けだった。美和が喰われるか、葵の力を弱められるか。事態は良い方向へ進んだ。葵は最近、呪い鬼をつくりだすことをしなくなった。美和が話し相手をしてくれるからか、むやみに力を溜めこむことをしなくなったのだ。感謝している』
今年の鬼封じは少し楽になるかもしれない、と牡丹は呟いた。毎年一度は行なわれるそれは、力の強すぎる葵を改めて封じる大切な儀式で、彼女を封じている進道家の人々と大鬼、その巫女以外は基本的に関わることを許されない。あまりにも危険だからだ。失敗すれば葵の呪いが外に漏れだし、惨事が起きる。
『葵から聞いただろう。一度鬼封じに不備が生じたとき、あれは自分の父親だった人間を殺してしまった。二度とそのようなことが起きないようにしなければならない』
……私と葵さんの話した内容まで知ってるんだね』
『すまないな、こちらには筒抜けだ』
ということは、美和が大鬼に不審感を抱いていることもお見通しなのだ。そして否定しないということは、鬼が死んだ人間の転じたものであるということも、葵のついた嘘というわけではないのだろう。間違っていれば、牡丹ならこの会話のあいだに訂正するだろうから。
『だが、こちらのことは気にするな。葵とは好きに話せ。これはきっと、美和にしかできないことだからな。あれはもう、私たちには耳を貸さない。……ことに、私には』
そういえば、葵が呪い鬼になった原因の一端は牡丹にあるらしい。そしてそれはどうやら、当時を知る鬼たちの間では有名で、しかしながらはっきりと口にするのは憚られるようなことのようだった。


夜になれば、鬼も人間も寝静まる。そう思っていたのは美和だけで、実際には人間だって夜遅くまで働いたり、飲み歩いたりしているし、大鬼様や牡丹は美和の行動を監視していた。それがわかってもなお、美和は葵に会いに行くのをやめようとは思わなかった。
葵とはまだ話したいことがある。どんなに恐ろしいことを明かされても、それが葵の呪いの一端だとしても、彼女の語りに、それを引き出すことに、美和はある種の快感すら覚えていた。魅入られるのは厄介だ、と牡丹は言っていたが、もう手遅れかもしれない。
今夜、再び心道館に忍び込もうとしていることも、きっと知られているのだ。そしてこれから話そうとすることも、大鬼様や牡丹の耳に入るのだ。
このことは、葵に言ったほうがいいのだろうか。いや、教えてしまったら、きっと何も話してくれなくなる。葵は大鬼様と牡丹を特に嫌っているのだ。――でも、そこまで嫌う理由は? 大鬼様はともかくとして、牡丹を嫌う理由は、今の美和にははっきりとはわからない。
葵がかつて人間で鬼の子だった頃、牡丹は頻繁に葵に接触していたという。葵はもともと鬼というものを嫌っていたので、それをしつこいと思っていたそうだが。やはり牡丹が大鬼様に近いということがあるのだろうか。
牡丹のしていたことは、今美和がしていることと、何か違いがあるのだろうか。情報を得るためというこちらに利する目的がある分、美和のほうがよほど質が悪いと思うのだが。
『とりあえず牡丹たちに知られてることは秘密にしておいて、今まで通りお喋りをする、というか私から一方的に話しまくる。これでいこう』
急に態度を変えてもおかしい。美和は葵が何であれ、彼女と話がしたいのだ。怖いもの見たさというのもきっとあるだろう。そういう意味でも、美和は鬼としてはまだ未熟な、子供のようなものだった。
気を取り直していつものように道場の戸を抜けて中に入ると、これまでとは違う空気を感じた。もう通い慣れた、夜の心道館のはずだった。家主はすでに夢の中、起きているのは葵だけというのが常だった。しかし、今夜は道場に人間がいた。
心道館道場の若き家主――海は脇に竹刀を置き、入ってきた美和を見据えていた。いや、美和の姿が見えるはずはないから、戸を見ているのだ。何をしてるんだろう、と思いながら通り過ぎようとした美和に、しかし彼は竹刀を取って素早く立ち上がり、確実にこちらをめがけて振り下ろした。
竹刀は美和をすり抜けたが、もし美和が人鬼でなかったら、強かに打たれていただろう。
『な、何? なんで海が……
よろよろと距離をとりながら、美和は呟く。人鬼は人間には見えない。そのはずなのだけれど――そういえば海は、美和の気配を感じ取ったことがあった。
……鬼じゃないのか?」
まさか見えているのでは、と思ったのは一瞬だった。海は竹刀を持ったまま、辺りを見回している。美和が見えていて竹刀を振ったわけではなさそうだ。けれどもタイミングが合っていたということは、気配は読まれていたのだろう。
こちらの力が強くなったからなのか、それとも海が敏いのか。どちらにせよ、ここに長く留まっているのは得策ではない。美和は逃げるように、葵のいる部屋へと向かった。
葵が封じられている部屋は、入るときの抵抗が大きい。だが今日は急いだためか、するりと抜けられたような気がした。転がり込むように入った部屋は、いつもなら葵鬼の呪いによって黒い煙が充満し壁をつくっているのだが、今夜は部屋の様子がはっきりと見えた。そこにいる、葵の姿も。
今夜は何もかもが違う。もしかして、来てはいけないときに来てしまったのだろうか。息を呑んだ美和を見下ろして、葵鬼が息を吐く。
『道場から入ったのなら、あれ……海がいたはずだけど?』
『いたけど、私の姿は見えなかったみたいで……でも、気配はわかってたのかな』
『わかるでしょうね。あれの感覚はどんどん研ぎ澄まされているし』
褒めているようなことを言いながら、葵は馬鹿にしたように嗤った。美和が呆然としていると、葵はそこへたたみかけるように続ける。
『これまでと違う状況に驚いた? たまにはこちらから仕掛けてもいいでしょう。どうせ全て、あの忌々しい大鬼と子鬼に知られてるんだから』
どうしてそのことを、という言葉を、美和はあわてて呑みこんだ。けれども一瞬でも思ってしまったことは葵に読まれる。
『町の鬼たちの噂は、あなたがここに通ってることでもちきりよ。子鬼とあなたがそんな話をしていたって。噂は鬼の子の耳に届き、あれは警戒する。こんなところに通う鬼なんてろくなやつじゃない、同じ呪い鬼か、と疑って道場で待ち構えてたってわけ。……ほら、来るわよ』
廊下を走る音が聞こえる。それはこの部屋の前で止まり、人間の低い声が襖の向こうから語りかける。
「おい、誰か来てるのか」
そこに、かつて美和の弟と親しげに話していた、子犬のような無邪気さはない。こんな側面も持っているのかと、美和はぞっとした。――海は、美和にとっても弟のようなものだった。それなのに、こんなに怒りに満ちた声が出せることを知らなかった。
「来ているならすぐに出ていけ。そこにいれば、呪い鬼に喰われるぞ」
一応は美和のことを案じているらしい。今日は海を心配させないよう、引いたほうがいいかもしれない。だが、それを葵が引き留めた。氷のような笑みを浮かべて。
『あなた、あの子鬼と私の関係をずっと気にしていたでしょう。今から話してもいいわよ。……むしろ、今夜を逃せば二度と聞けないかもね』
心が揺れる。牡丹と葵のあいだに何があったのかは、美和がずっと知りたかったことだ。それを知ることで、牡丹の抱えている傷も、葵が呪い鬼となってしまった理由もはっきりする。始まりがわかれば痛みを和らげるための何かができるかもしれないと思ってきた。
迷っているあいだにも、海の声がする。
「それとも、呪い鬼に捕らわれて出てこられないのか? ここによく来てたっていうのも、操られてたとか、そういう理由があるのか?」
返事をしてやりたい。でも、美和の声は届かない。気配を察知するだけでも、奇跡のようなことなのだ。人鬼とはそういうものだ。
「まさかとは思いますけど、和人さんじゃないですよね?!」
『!』
以前に海が美和の気配を感じたとき、「和人さんに似た気配がする」と言っていた。美和と弟のもつ気配は、よく似ているらしい。だからこんなにも焦っているのだ。早く否定してやらなければ。そのためには美和が出ていくしかないのだが、葵鬼の甘言に絡めとられてしまっている。真実を知るか、人間を安心させるか。――鬼として選ぶなら、後者なのだろうけれど。
礼陣の鬼は人間のために動くべきである。けれども救われるのは人間ばかりでいいのか。美和の中で二つの思いがぶつかりあっていた、そのとき。
『海、それは和人ではないぞ』
動けずにいる美和に、また別の声が聞こえた。同時に、葵が舌打ちする。――牡丹だ。今日もやはり状況を知っていて、ここに来たのだ。襖の向こうで、人間と鬼が会話を始める。
「子鬼? どうしてここに……
『お前が寝ないのが心配でな。私が変な噂を広めてしまったのが原因なら、気にするな』
「何であれ、夜中に呪い鬼と会ってるなんてただごとじゃないだろ」
『ただの噂だ。いいから休め』
さっき牡丹は、「それは和人ではない」と言ってしまった。葵のもとへ何かが訪ねてきていることは否定できない。休めと言われても、海だって納得できない。
しばらく部屋の前で話し合っているあいだに、葵の纏う空気は冷えていく。静かな怒りは、次第に強くなっていた。美和はどうすればいいのかわからず立ち竦んだまま。正体を明かしたくても、人鬼では不可能。「呪い鬼が増えるかもしれないのを黙って見ていられるか」と海が怒鳴る。――ああ、今夜は、来なければよかった。
そもそも美和が葵に会おうと思わなければ、こんなややこしいことにはならなかったのだ。今更自分の軽率さを後悔しても、どうしようもない。
『人の部屋の前でうるさいわね』
喧騒を、美和の思考を、遮ったのは葵だった。その声は襖の向こうまで届いたようで、あちら側の緊張が美和にも伝わってくる。
『全部子鬼のせいなんでしょう。美和が私のところに来るようになったのも、その噂が広まったのも、そもそも私が鬼になったのだって。今更何を騒ぐのよ』
言い捨ててから、葵は美和の両肩を掴み、自らに向かい合わせた。冷たく光る赤い眼と、美和のまだ困惑する瞳が、かちりと合った。
『私が人間だった頃、礼陣を出て行った話はしたわね。だけどそのあと、二回戻ってきたの。一度目は』
……やめろ」
襖を隔てて、制止の声があった。けれども葵は無視した。わざと聞かせるように、高らかに言った。
『一度目は、そこにいる自分の息子を捨てるためだった』
「やめろ! 誰に話してるのか知らないけど、そんなことを……
叫び声が上がって、ふつ、と途切れた。どさり、と何かが倒れる音と、それから何かがひきずられていくような音が続く。理解の追いつかない美和に、葵は眉を顰めながら呟いた。
『眠らせたわね、あの子鬼……。せっかくみんなまとめていたぶってやろうと思ったのに』
『眠らせたって、牡丹……子鬼が、海を? ていうか、息子って、海? だって海ははじめ先生の子供じゃないの?』
混乱をそのまま口にするので、美和は自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。頭の中で反芻し、やっと意味を掴む。
『葵さんの息子が、海?』
もう一度口にすると、葵は無表情のまま『そうよ』と唇だけ動かした。

 

十七年前の、八月。葵はしばらく離れていた礼陣に戻ってきた。目的は実家に寄るため。そして、腕に抱いていた赤ん坊を置いてくるためだった。
葵が産んだ赤ん坊だ。礼陣を発っての新しい生活の中で出会った男とのあいだにできたのだが、男は身籠った葵に日に日に冷たくなっていった。このままでは自分が男に捨てられるかもしれない。どうしたらいいのかわからず、誰に相談することもできないまま、葵は一人で子供を産んだのだった。
どこかに捨てることも考えた。けれどもそれは葵にとっても良い選択肢とはいえない。産まれてしまったものは、生きているものは、生かす方向でどうにかしなければならないのだ。葵に残された「正解」は限りなく少なかった。――自分で育てようとは思えなかった。父親に子供を持つ気はないのだし、経済的にも無理がある。何より自分の、進道の血をひく人間を、手元に置いておきたくなかった。
だから実家に戻ってきた。ここに子供を押し付けてしまおうと、そしてそれっきりにしてしまおうと思った。礼陣の人間なら何をしてでも子供を生かそうとするだろうし、葵が罪に問われることはおそらくない。子供は忌々しい礼陣の教育を受けて育つだろうが、縁を切ってしまえば関係ない。
久しぶりに降り立った礼陣の駅には、鬼がひしめいていた。すっかり大人になったはずなのに、葵にはまだ鬼たちが見えていた。普通は、鬼の子も年を経るにつれて鬼が見えなくなるものなのだが、葵は普通ではなかったのだ。
鬼たちは葵と赤ん坊を見て騒めいていた。子供を持って、葵の気持ちも変わったのかと期待した鬼もいた。だが葵は彼らに冷たい一瞥をくれると、記憶の中の進道家への道を歩いた。そうして辿り着いた「実家」は変わっておらず、葵はますます気を悪くした。
門前でこみ上げる吐き気を堪えていると、何かを察したのか、それともただの偶然か、ちょうど玄関から兄――はじめが出てきた。目が合った途端に兄は眼鏡の奥の瞳に驚愕を浮かべ、赤ん坊を見てからさらに目を見開いた。予想していた反応だったので、葵は表情を少しも変えることなく、ただただ困惑している兄を眺めていた。
「葵、その子は……?」
戸惑う兄が発した第一声はこれだった。おかえりなさい、なんて言葉は最初から求めていなかったし、言われたくもなかった。しかし実際言われないことを確認すると、まるでのどが詰まるような感覚があった。こんな家のことは、町のことは、すっかり忘れてしまいたかったのに、僅かに「家族」などというものに期待があったのかと思うと、自分が恨めしかった。その気持ちを振り払うように、葵は無理やりに声を出し、赤ん坊をはじめに向かって差し出した。
「これ、あげる」
赤ん坊さえ手放せば、男に捨てられずに済むかもしれない。憎悪の対象である進道家の血が流れる赤ん坊を、自分の手を汚さないために、憎い故郷にある憎い実家へ渡すのだ。これさえ済ませれば、もう二度とこんなところには来ないだろう。
そうして葵が差し出した赤ん坊を、はじめは受け取った。大切なものを預かるように、そっと。その仕草にも腹が立ち、葵はすぐに彼らに背を向けた。
「それじゃ、さようなら」
「待ちなさい、葵!」
すぐに去りたかったが、兄の声には思わず足が止まった。それに、周囲には鬼がいた。何故子供をはじめに渡したのかと、不思議そうに首を傾げていた。それがまた、葵の怒りをかきたてる。――私があんたたちを嫌いなことを、わからないはずないでしょう。傍に寄らないで。こっちを見ないで。
「この子は君の子か? あげるってどういうことなんだ?」
兄の問いは、鬼たちの視線から意識を逸らすのに役立った。まともに言葉をかわすのは、何年ぶりだろう。葵は短く答えた。
「それは私から産まれた。だけど邪魔だから、あげる」
邪魔、という言葉に、兄も鬼たちも反応した。この町では子供を邪険に扱う者を許さない。けれども、ならばどうして過去に傷つけられた葵は、誰にも助けてもらえなかったのだろう。葵を邪険にした者たちは、何故正しいとされたのだろう。本当に、この町は矛盾している。
「そんなこと、許されるはずがないだろう! とにかく家に入りなさい、少し話を」
「これ以上ここにいたくないの。さっきから鬼の視線がちくちくして、気分が悪いわ」
もうこんなところに縛られたくはない。この町の血をひく子供すら許せないのだ。自分の血を抜いて、目を両方とも抉ってしまいたいほどに憎い。だから葵は歩きだした。兄に「戻りなさい」と言われても、従う気などない。それに兄は、追いかけてこない。赤ん坊を抱いているからなのか、それとも葵など追わなくてもいいと思っているからなのか、あるいは両方か。
そう思うと歪んだ笑みがこぼれて、つい口も滑った。二度と口をきくものかと思っていたのが、気が変わった。子供を「それ」と指して、葵は最後の一言を告げた。
「それ、八月十日生まれよ」
そしてそのまま再び礼陣を去り、生きているあいだは、とうとう実家には帰らなかった。

『その赤ん坊が、海……
美和は襖の向こうへ目をやった。さっき牡丹にひきずられていったのだろうから、もうそこに海はいないはずだ。けれども先ほどの怒鳴り声は、耳から離れない。彼は葵を「母」とは思っていないようだった。ただ、「呪い鬼」なのだ。
『あれはね、私を恨んでるわよ。私が産みの親だってことは知っているけれど、認めたがらない。私もあれを息子だとは認めたくないから、お互いさまだわ』
葵が冷笑を浮かべる。彼女が礼陣の町を恨んでいるように、海も葵を恨んでいるのだろうか。本当の親子なのに。
『恨んでるって、手放されたことを?』
『何かしらね。心当たりがありすぎて。鬼になってまずやろうとしたことは、あれを殺すことだったし。あれが生きていたら、進道の血はさらに続いてしまうから。それから、あれの祖父を目の前で殺したことも恨まれてるかも』
葵が実の父を殺したのは、海の目の前でだったのか。言葉が出なくなった美和に、葵はどこか愉快そうに続けた。
『今でも私はあれの命を奪えないか考えてるのよ。私たちに親子の繋がりなんかないの。鬼のくせに水無月の子なんか自称してるあなたにはわからないでしょうけど』
胸を刺されたような心地がした。鬼と人間のあいだには、縁はあるかもしれないが、それはすでに血のつながりではないと告げられたようだった。自分と弟、両親との繋がりを否定されたようで、それこそが鬼に成るということだと言われているようで、苦しかった。
無理やり首を横に振る。これは葵の場合だ。美和は違う。弟は美和を双子として認めている。ちゃんと絆はあるはずだ。たとえ弟に美和の姿が見えなくなっても、美和は弟を恨んだりしない。命を奪おうなんて思わない。
葵はやはり、呪い鬼なのだ。その言葉に惑わされてはいけなかった。
けれども葵はさらに美和に囁く。耳を貸さずにはいられない、話の続きを。
『もう二度と礼陣には来るものかと思ったのだけれど、翌年、もう一度来なければならなくなった。男としばらく一緒に暮らしていたら、また子供ができてしまったの。私は同じことを繰り返してしまったのよ』

二度目に礼陣を離れる時、葵は「鬼に喰われる」ことを覚悟していた。礼陣では子供を虐げた大人は、鬼によって魂を喰われ、変死するのだという言い伝えがあった。しかし鬼たちは葵を黙って見送っただけで、何もしなかった。列車の窓からいつかの子鬼の姿が見えた気がしたが、すぐに目を逸らしてしまったので、気のせいだったかもしれない。
とにかく葵は、それで礼陣との関係は終わるものと思っていた。しかし、鬼たちが葵を「逃がした」理由を、後に思い知ることになる。
二人目の子供が胎に宿ったとき、葵は「だから喰われなかったのか」と納得してしまった。あのとき葵を喰ってしまえば、二人目などできなかった。子供が生まれてくる可能性を潰してしまうことになっていた。だから見逃されたのだ。
男はついに葵のもとから去り、重くなる腹を抱えながら、葵は独りで残された。そうしてもう一度、子供を産んだのだった。
今度は女の子だった。ほんの少しだけホッとした。女の子なら、葵の気持ちをわかってくれるかもしれないと思ったが、それも一瞬のこと。葵にはこの子を育てられるだけの力がなかった。だからまた、一人目のときと同じ方法をとるしかないと思った。
その日の礼陣地方は記録的な豪雨で、周囲の山の土砂崩れが心配されていた。それでも山を越えなければ目的地――進道家には辿り着けないので、葵は借りた車を無理やり走らせた。がたごとと揺れる車内で、赤ん坊は泣いたが、かまっていられなかった。
叩きつけるような雨の中、礼陣を囲む山の一つ、穣山を越えようとしていたときだった。雨で緩んだ道が崩れ、車は崖下へと転がった。あっという間のできごとだったが、体を強かに打ったのは憶えている。横倒しになった車の中で、朦朧とする意識の中、赤ん坊を確認した。どんな奇跡が働いたのか、それともこれも鬼の加護だとでもいうのか、赤ん坊は泣いてはいたが傷は負っていないようだった。
葵は助手席側のドアから車を降り、雨を浴びた。頭から流れてくるのは水だけではなく、足元には血溜まりができた。それ以上は動けなくなって、その場に倒れ伏したところで、視界に小さな足が映った。
目だけで見上げる。霞む光景には、懐かしい姿があった。――おかっぱ頭につのを生やした、子鬼だった。葵によくかまおうとしては追い出した、大鬼の手先だ。それがじっと、葵を見下ろしていた。
鬼の子としての勘だろうか。葵には、子鬼が葵の魂を喰らいに来たのだとわかった。けれど。
……これで最後だろうから、あなたを試してあげる」
葵は虚ろな目のまま笑った。おかしくて仕方がなかった。生きているうちの、最初で最後の、鬼への復讐ができる。
「車の中には、子供がいるわ。今朝早くに、生まれたばかりの、赤ん坊……。また、私が、捨てようとした、赤ん坊」
礼陣の鬼は、子供を虐げた者の魂を喰らう。喰らわなければならない。けれども子鬼が葵の魂を喰らっていれば、そのうちに赤ん坊はどうなるか。
「礼陣の鬼は、どちらを選ぶの? 私を喰らうか、子供を救うか。……選んでみせてよ」
どちらを選んでも、子鬼は礼陣の鬼としての役割を完璧には果たせない。子鬼に迷いが見えたのが、一層面白かった。
迷ってから、子鬼は、横転した車へと向かった。そして赤ん坊を抱きかかえて、葵のもとへ戻ってきた。子鬼が抱いていると、不思議と赤ん坊は濡れずに済んでいるようだった。鬼はなんでもできるのだなと、その万能の鬼に瑕をつけることができるのだなと、葵は何かに勝ったような昂揚感をもった。――ほんの一瞬だけ。
『葵、すまない』
しかしその気持ちも、子鬼が謝罪を述べたことで一気に崩れた。『すまない』と、その一言で許されると思っているのか、この鬼は。葵が今まで受けてきた仕打ちを、この最期を、そんな言葉で片付けられてしまうのか。
立ち去る子鬼を見ながら、葵は胸で炎が黒く燃えるのを感じた。やはり礼陣の町は、鬼は、許せない。味方をしてくれなかった人間だって許せない。憎んでやる。恨んでやる。憎悪でこの町を滅ぼすことはできないものか。――鬼ならば、それくらいの力を持っているのではないか。
葵は礼陣を恨んだまま、礼陣で絶命した。しかしその魂は、気が付けば足元に体を残して、雨の中で立っていた。頭には長く鋭いつのをもち、瞳を赤く光らせて、山の下に広がる町を見つめていた。
視線の先には生家がはっきりと見えた。最初に滅ぼすべき場所はそこだと、胸の奥から命令されているようだった。いや、葵自身がそう思ったのだ。それができるだけのものに、成れたのだ。葵は一気に山を駆け下り、進道家に乗り込んだ。
数年ぶりに見る屋内は、葵の知っているそれと変わりがなかった。いや、全く同じわけではない。かつて母が使っていた部屋の、畳の上に敷かれた布団には、小さな男の子が眠っていた。すぐに昨年この家に渡した子供だとわかった。
この子が生きて成長すれば、進道の家は続いてしまう。そんなことにはさせない。このままこの子が守られ、愛されるのは我慢がならない。――自分はこの家で、愛されなかったのに。どうしてこの子だけ。
『ああ、憎い』
ふらり、と子供に近づく。手を柔らかい肌に触れさせ、その首をじわじわと絞め始めた。目覚めた子供は苦しさから逃れようと身をよじるが、抵抗はできない。泣き喚こうとしても、喉が絞められて声をあげられない。昨年は、葵が生きているあいだは、こんなことはできなかった。自分の手を汚したくなくて、この子を生かした。けれども、もうそんな容赦は必要ない。だって葵は、成ってしまったのだから。――醜く凶悪な、呪いの鬼に。
『私はこの町の全てが憎い』
子供に語りかけるようにしながら、手に力を込める。
『住む人々も、蔓延する話の数々も、生まれ育ったこの家も。この町に押しつけられたこの力で、この町を呪ってやる。鬼なんかを崇める者は、この手で葬り去ってやる。私のようなものを作り出してしまったのは自分たちなのだと、思い知らせてやる』
首を絞め続けていると、子供は葵を見上げた。あどけない目に涙を溜め、もう声も出せないその子は、兄に、そして幼き日の自分によく似ていた。あまりにも似すぎていて、葵は一気に思い出してしまった。母が死んだ日のこと、礼陣の町に恨みを抱いたときのこと、町を離れたこと、帰ってきてこの子供をはじめに渡したこと、再び産んだ子を子鬼との駆け引きに利用したこと。そういえば、目の前の子供はあの子とも似ている。しかし今となっては、葵にとっては全て忌まわしい記憶だった。それをこの子供の目が、思い起こさせてしまった。
『あんたなんかいらない!』
葵は叫び、再び子供の首を絞めようとした。しかしその時、慌てたような足音が部屋に入ってきて、葵をすり抜けて子供を抱き上げた。やってきたのは兄、はじめだった。これまで、子供を父とともに育てていたのだろう。すっかり父親の顔になっていた。
「海! どうしたんだ、海! ……それに、この気配、何かおかしい……
同時に兄は、鬼の子の目をしていた。葵の兄なのだから彼も当然鬼の子であって、かつては鬼を見ることができたのだ。葵よりも随分早く、その力は失われてしまったようだったが、この危機は察知できたようだ。
葵は茫然と、子供を抱いて部屋から出ていく兄を見送った。彼が行く先もわかった。きっと神社だ。子供が病ではなく人ならざるものに苦しめられていることがわかったのなら、頼る先は大鬼だ。
はたしてその考えは的中し、葵は久しく見ていなかった大鬼と対峙することになった。
……おかえりなさい、葵さん。亡くなってしまったのも、呪い鬼となってしまったことも、非常に残念です」
まるで他人事のように言う大鬼を、葵は冷たく睨んだ。そのまま凍らせて砕いてしまうことができたらいいのに、と思ったが、大鬼には通用しないようだった。だが、こちらが圧倒的に劣勢というわけでもなさそうだということは感じていた。
『鬼なんかにしたのは誰よ。あんたじゃないの、大鬼! 何もかもあんたのせいで狂ってるのよ!』
激昂した葵に、しかし大鬼は動じなかった。葵の手足を札で素早く封じると、その部屋から引っ張り出し、家の中のある部屋に連れてきた。
そこは懐かしい、葵がかつて使っていた部屋。書庫の隣の、小さく質素な、今は箪笥があるだけの部屋だった。葵はそこで自分の体の自由を奪っていた札を破り捨て、大鬼に襲いかかった。
『あんたなんかいなくなれ! この町ごと消えてしまえ!』
だが、大鬼はそれを跳ね返し、札を一枚床に貼って、それを籠で伏せた。それだけで葵は、自分がこの部屋に縛りつけられたことを覚った。――「鬼追い」ができなかった大鬼のとった手段、「鬼封じ」がここに施されたのだった。
「私だけでは、葵さんの力に対してこれ以上のことはできません。あなたは呪い鬼としては強すぎる。説き伏せることも、鎮守の森に連れて行くことも、かなわないでしょう」
だからここに封じます、と大鬼は宣言した。進道家には今後、大きな負担をかけてしまうという声も聞こえた。それならそれでいい。この封印さえも破って、いつかはこの家を手始めに、礼陣の町を滅ぼしてやる。この憎い町の全てを、葵の呪いで。
鬼封じを成しているものは、葵と同じ性質を持つ鬼の子である海の力と、協力者である根代家によるもう一枚の封印の札の守り、須藤家の人間の編んだこの部屋の札を守っている籠、そして大鬼自身の力だ。このうちのいずれかが崩れれば、封印は綻び、葵は人を殺すだけの力を取り戻せる。
いつかそうして、実父を殺した。いつかそうして、根代家の娘を殺そうとした。もう何度も、海を殺そうとした。封じられていても、部屋の中では少しではあるが呪いを行使できたし、外にいる鬼に影響を及ぼして、呪い鬼にすることができた。そんな鬼を喰らうことで、礼陣の鬼の真実を知った。
そうして葵は礼陣で最も凶悪な呪い鬼として、現在もここに君臨しているのだ。

人間だった葵が死んだのは、つまり葵が呪い鬼になったのは、ちょうど初夏の頃だった。正確にいうなら、十六年前の五月二十六日。今年はもう過ぎてしまっているが、つい先頃のことだ。数日前が、葵の命日だったのだ。
『命日の前後はね、いつもよりほんの少し自由なの。でも封印の均衡が崩れやすいのは八月十日、海の誕生日よ。だから鬼封じは毎年八月十日に行なわれる。それが私、葵鬼の真実』
語り終えた葵は、しかし、美和を見てはいなかった。その向こう、遠くで話を聞いている誰かに向かって、全てを確認しているようだった。
その相手が誰なのか、美和にはとうにわかっていた。それは大鬼様と、牡丹なのだ。葵が最も恨んでいる鬼の総大将と、葵が最期に会った鬼。彼らは葵にとって、特別な存在だった。
……もし、牡丹が……子鬼が葵さんを喰らっていたら、葵さんはどうなっていたの?』
震える声で美和が尋ねると、葵は遠くを見たまま答えた。
『もちろん、こうして呪い鬼になることはなかった。魂はそこで消えておしまい。この家が呪いに苦しめられることもなかったでしょうね』
牡丹が葵を呪い鬼にしたというのは、そういうことらしい。だが、二つに一つしか選べない状況だったのだから、仕方がない。礼陣の鬼なら、これからも生き続けるはずの子供を優先するのは正しかった。
けれども、牡丹は気に病んでいるだろう。生きているあいだも、そして呪い鬼になってからも救われない葵を思って、つらい気持ちでいるのだろう。だから自分のことは美和には話さずに、他の鬼を救うように頼んだのだ。しかしながらそこに葵が勘定されていなかったのは、彼女が美和の手にも負えないであろう呪い鬼だったから。
今そうなっているように、甘言に惑わされ、真実によってかき乱され、美和自身が心を痛めるから。
『これで全部よ。もうわざわざ話を聞き出しに、あなたがここに来る必要もなくなったわ。今度こそ、もう二度と、来るんじゃないわよ』
念を押すように、葵が言う。美和にはそれが、「これ以上関わらない方がいい」と聞こえた。突き放すような、葵の優しさのように思えた。
また来られたとしても、それはずっと先のことだろうと思った。しばらくは、ここには来られない。少なくとも今年の鬼封じが終わり、葵が弱るまでは。それまではきっと、彼女の呪いにあてられてしまう。
……それでも私は、諦めたくない』
わかっていてもなお、美和は声を絞り出した。涙を浮かべながら、葵をまっすぐに見た。
『葵さんのこと、諦めないから。何年かかっても、必ず葵さんの呪いを解いてみせる』
どんなに美和自身が傷ついても、呪いに絡めとられても、いつか果たしてみせよう。だってこの人は、そう、この「人」には、一つでも救いが必要なのだ。それが美和の出した答えだった。
葵はわずかに目を見開き、それからまた無表情に戻った。そして『馬鹿な子』と呟くと美和を戸口へ押しやった。
『さっさと出ていきなさい。夜が明けるわよ。今夜は大鬼や子鬼に嫌がらせもできたし、なかなか楽しい夜だったわ』
さようなら、と葵が言った。初めて挨拶をした。美和は何と返そうか迷って、ふと、残った疑問を口にした。
『ねえ、二人目の子供はどうなったの? 子鬼が連れて行った、そのあとは?』
『さあ? 今となってはどうでもいいことだから。私はね、もうあの子の母でもないの。だって、捨てたんだから。その先のことなんて、知る権利があるかしら?』
その声の調子が寂しそうだと思ったので、美和はそれ以上尋ねるのをやめた。そして戸を抜ける前に、葵に今できる精一杯の笑顔を向けた。
『またね、葵さん。今度はおみやげ話、いっぱい持って来るから』


夜明けを迎えた礼陣神社の拝殿前で、美和と牡丹は並んで座った。牡丹は大層疲れた顔をして、溜息を吐いた。
『鬼の子とはいえ、人間に直接触れるのは疲れる。海は随分成長していたしな』
『牡丹、海に何したの?』
『葵も言っていただろう、眠らせた。あやつの力は強いから、眠らせるのにも一苦労だ』
もう一度溜息を吐いてから、牡丹は笑った。『大きくなったよなあ』と言って。
ずっとあの一家に関わってきた牡丹は、葵のことが美和に知れて、どう思っているのだろう。牡丹自身の抱えてきた罪の意識が美和に伝わってしまったことを、どう感じているのだろう。美和が葵のところに通うという真似をしたばかりに、この事態を引き起こしてしまった。
『牡丹、ごめんね』
謝って済むとは思っていないが、美和は頭を下げた。牡丹は美和の頭を小さな手で撫でて、『何を謝る必要がある』と返した。
『もう一度言うが、私は感謝しているのだぞ。美和が葵を救おうとしてくれたことで、私もまた救われた。……まだ、葵が助かる余地があると知ることができた』
牡丹はきっと諦めていた。葵は救えないと。自分の罪は拭えないと。けれども美和が行動することで、まだ終わってはいないと考え直したのだ。
『まだ葵に関わるつもりなんだろう?』
『うん。でもしばらくは会わないつもり。会ってもきっと、負けちゃうからね』
美和にできることがあるなら、まだやろう。続けよう。おせっかいかもしれないけれど、余計なこともまたするかもしれないけれど、まだ関わっていたいのだ。葵に、牡丹に、鬼たちに、人間に、この町に。
だって美和は、礼陣の町の鬼なのだから。今はまだ半端者でも、いずれは鬼に成るのだから。
『ああ、あと、葵さんとのことは誰にも言うつもりないから安心してよ』
『そうだな、伏せておいてくれるとこちらも助かる。ただでさえ一度騒ぎになっているからな』
もうこりごりだ、と二人は笑いあう。それがいつかは、葵を交えた三人になればいいなと、美和は人知れず思うのだった。