ノンカフェインのハーブティをおともに、文章を読みながら午後を過ごす。一見優雅な光景だが、これも仕事の一環で、この外国語で書かれた量の多いレポートにまず目を通さなければ、メインの作業には入れない。
海外で発表された論文をさらに海外の学生が要約して考察し、まとめたものが、六人分。多いとはいえこの量だから、亜子の手に渡るのだ。もっと多ければ、そもそもこちらには回ってこない。翻訳の仕事は――といっても本を出せるような本格的なものではないのだけれど――学生の頃から父の伝手でやっているアルバイトで、慣れてはいるものの、取り組む姿勢は初心の頃と変わっていない。とにかく正しくわかりやすく、真面目に。本業にはとてもできないレベルだと自分では思っているので、翻訳家を自称することはない。――結婚しなければ食べていけなかったかもしれないな、とときどき自嘲する。
一応、学生時代に就職活動はしていた。企業説明会に足を運んだり、面接をいくつか受けたりもしたけれど、どれもこの町で生きていくことを見据えた行動だった。そういう若者はこの町にはたくさんいて、よそからも来るので、どうしても「余り」は出てしまう。役場の試験は面接で落とされてしまった。
学生時代に付き合いを広げなかったつけがまわったな、と思った。何かと理由をつけて周囲から遠ざけられてはいたけれど、それはこちらも同じで、亜子からも遠ざかっていたのだ。どうせうまくいかないだろうと逃げていたから、当然友人は少なかった。友人の数など重要なことではないと近しい人たちは言ったが、コネクションはやはりあった方がいい。評判は周りが作るものだ。
結局、亜子に足りなかったのは人と関わっていこうとする意識だった。対峙した人たちは、それを見事に見抜いたのだ。今ではそう納得できる。
自分がいかに幼馴染に頼りすぎていたか、痛感した。
「この自業自得を、この子には味わわせたくないなあ。大助に似ればいいのに」
児童心理学のレポートを片手に、もう片方の手で自分の腹を擦る。ここには来年の春に生まれる予定の子供がいて、外に出る日を待っている。無事に生まれてくれて、人に恵まれるような子になればいいなと亜子は思う。せめて自分よりは器用であってほしい。いや、大助を見ていれば大丈夫だろう。
ときどき考え事をしながらも順調に仕事を片付け、頃合いを見て買い物に行く。駅裏商店街に行くか、それともスーパーに行ったほうが得か、事前にチラシの情報を頭に叩き込んで計算しておくのは、もう随分昔からやっていることだ。いつも忙しかった親からではなく、実家の向かいに住む、今は義姉であるその人から教わった。
主婦業をなんとかこなしているのも、多分に義姉のおかげだ。母も家事や手仕事は得意だったが、それを亜子に受け継ぐ機会が少なかった。両親が外で仕事をし、たくさんの人と関わっているあいだ、亜子はいつも家にいた。家で、幼馴染と遊んでいた。
おかげさまで幼馴染は夫となり、今は二人暮らしの、もうすぐ三人暮らしになる家を、しっかりと支えてくれている。幼少の頃から亜子の生活を支え続けてくれた人と一緒になれたことは、本当に幸せなことだ。なにぶん大きな変化が少ないので、戸惑うことがない。だからこそ「当たり前」に甘えてしまったという側面もあるが、それは亜子の責任だ。夫に非はない。考えてみれば、彼は自分を適度に突き放してくれてもいたのだ。それに気がついたのが遅すぎた。
あんまり周りに助けてもらいすぎているので、これから自分が母親になれるのか、亜子には不安だらけだ。その不安を見抜いているかのように、商店街の人たちは何でもないことのように、陽気に声をかけてくれる。――結局、野菜の値段を見て、商店街に行くことにしたのだ。
「亜子ちゃん、いらっしゃい! どうだい、体の調子は?」
「おかげさまで。おばさんの言うとおり、ちょっとずつ時間を置いて食べるようにしたら、そんなに気持ち悪くならずに済みました。大助が自分も協力しようかって言いだしたのは、ちょっと困りましたけど」
「大助君なら言うだろうね。でも亜子ちゃんはそれを断って、大助君の食事は別に作ってるんでしょう」
「ええ、まあ。食べる量も違いますし」
お喋りをしながら買い物をし、ふと、親くらいかそれ以上に年の離れた人となら楽に話せるのにと思う。でもきっとそれは、相手が会話のツボを心得ていて、亜子が話しやすいよう態度と言葉で誘導してくれているのだ。商店街の人々はそれが殊に上手い。
そういえば、商店街の子供たちも、そういう技を受け継いでいた。そういう人たちとは、もっと上手に付き合えたかもしれない。
なんてことを考えると、頭に浮かぶこの言葉。――全く軋轢なく、滞りなく、当たり障りなく付き合うことが、上手に人と付き合うことなのか。高校で出会った先輩の言葉だ。
どうしてもこの町で暮らしたかった理由の一つが、ここにある。甘えすぎてはいけないことはわかっていても、この人たちに助けてもらえる場所にいたかった。そうすれば自分がだめでも、子供はきっと真っ当に育つから。
ちょうどいい人との付き合い方を学んでいけるだろうから。
「お仕事も頑張って。はい、おまけ」
「ありがとうございます」
そして亜子も、まだまだ学ぶことがある。
夕飯を作り終えると同時に、夫が帰ってくる。隣町まで毎日働きに行き、疲れて帰ってくるのにそれを表情に出さないのは、昔からだ。
「ただいま。旅行のおみやげもらったけど、食えるか?」
「おかえりー。なに、食べ物なの?」
「マカダミアナッツチョコ」
「一発でどこ行ったかわかるね。食べる食べる」
他愛もないやりとりが、何気なくかわす目と目、手と手が、実はどれほど尊いかを知っている。そんな夫――大助には両親の記憶がほとんどない。けれども父親になろうとしている。目指すは自分を育ててくれた、そして今は自分の息子を育てている、彼の兄だ。共に過ごす日々で、亜子はそれをひしひしと感じていた。
しかし大助はきっと、兄とはまた違うやりかたで、良い父親になるのだろうとも思っている。昔から亜子を守ってくれていた、そして家族を元気づけようとしてきた彼なら、強く優しい父になる。もしもそれに疲れてしまったら、そのときは亜子がいる。今度は自分が、愛しい人を支える番だ。
夕食の後にまたノンカフェインのハーブティを淹れて、今日一日のことを話しながら、ゆったりとした時間を過ごす。そのときが一番、この人と家族になれてよかったと思う。そして家族をつくっていきたいと思う。
来年の今頃は、どんなふうに過ごしているだろう。まだ目立たない腹を擦りながら、亜子は、そして大助は、幸せを紡いでいく。
ここまでくるのに辿ってきたどんな道のりも、後悔はしたけれど誤りではなかった。考えは毎日そこに落ち着く。どれだけ考えても、最後にはちゃんと着地する。
「どんなかたちでもいいから、幸せにしてやりてえな」
子供を亜子ごと抱きながら、大助が言う。亜子は目を細めて頷いた。そう、それがいい。それが一番だ。
それはきっと、自分たちの幸せにもなる。