礼陣高校の校舎に長く大きな垂れ幕がかかっている。どれもが部活動の功績を知らせるもので、夏休み前までは「○○部全国大会出場!」の文言が大量だった。部活動が活発でレベルの高い学校なので、毎年見慣れたものだ。
そもそもが部活動目当てで町の外からも生徒が来るような学校なので、評判によって自然と年々部は強くなる。垂れ幕は毎年増えて、インターハイ前にはそのおかげで校舎の壁が見えなくなるほどだった。
そして夏休み明け、運動部の垂れ幕は随分と減っていた。減ってはいたが、上位に入賞したという報せが華々しく風にはためいていた。
その中に、剣道部のものもある。これまで全国大会の常連ではあったものの、なかなか上位に入賞することがかなわなかった剣道部が、団体戦と個人戦の両方で好成績をおさめたのだ。惜しくも優勝には至らなかったが、剣道部の歴史から見れば大快挙だった。
三年生はこの大会を最後に引退となったが、有終の美を飾れたことを喜び、さらに上に行けなかったことには悔しさを感じていた。
そうして主将の役目を後輩に渡して、海はすっかり気が抜けていた。これから受験に向けて勉強しなければならないし、間近には体育祭、続けて学校祭が迫っているので忙しいはずなのだが、今まで背負っていた荷が下りた途端に足がふわふわと浮いてしまっているような気がする。――今年は特にそうなのだ。
夏は気が張っている。剣道もそうだが、家で鬼封じの儀式があるので、そのあたりはずっと緊張している。それが終われば礼陣最大のイベントである夏祭りがあるので、その手伝いに奔走する。
何もかもが落ち着いた九月には、もう疲れ果ててしまっているのが常だ。今年はもう竹刀を手にすることもほとんどないので、なおさらだ。
「腑抜けてんじゃねえぞ、進道」
丸めた教科書で、ぽん、と頭を叩かれる。こちらも野球部を引退し受験モード……ではなく体育祭モードに移行したサトが、妙に気合の入った顔をしていた。この男は行事が大好きなのだ。それよりも勉強しろよ、と海は思うのだが。現状では、こちらも人のことは言えない。
「うちのクラスのサッカーはお前にかかってるんだからな、全国三位」
「全国三位はサッカーじゃなくて剣道なんだけど」
「何でもいいよ。進道と日暮のコンビネーションがうちの武器だろ」
「あいつと一緒にするな」
返事をしながら、渋々と立ち上がる。この時期は休み時間も放課後も体育祭の練習に費やされる。受験が近いのだから勉強した方がいいのではないかと言いたくなるほど、礼陣高校は祭りに力を使う。それでも上の学校に行く者は行くのだから、それぞれの上手いやり方を見つけられたもの勝ちなのだろう。
海も勉強はしている。しなければいけないからしているのであって、あまり積極的ではないが。そういう時期なのだ。
サトに引きずられるようにしてグラウンドに行き、軽く準備運動をしてから練習に入る。ボールを蹴りながら、考えるのは全く別のことだ。――やる気が出ないのは、どこかむなしいのは、部活を引退してしまったからというだけではない。
目標だったものを、超えてしまったからだ。インターハイ個人戦三位という成績は当然胸を張れるものではあるし、多くの人から褒め称えられたが、どこか釈然としないのは自分の立ち位置に疑問を感じているからだった。
海の目標は、これまでずっと、先輩である水無月和人だった。かつて礼陣高校剣道部を牽引し、全国大会まで連れて行った彼は、しかしとうとう全国の舞台で入賞を果たすことはできなかった。それを海が成し遂げてしまったのだ。自分はずっと、和人の後輩で、後ろにいるものと思っていたのに。
和人も報せを聞いて心から喜んでくれたが、海の中には申し訳なさが残っていた。そんなことを考えるのは失礼だとわかっているのに。
「海、ぼけっとすんな! ボールそっち行ったぞ!」
「え」
変なことを考えているうちに、高く飛んだボールがこちらに迫ってきていた。胸で受け止めれば取れるととっさに判断して、半歩後ろに下がったとき、踵が何かに当たった。そのままバランスを崩し、そのまま後方へ倒れてしまった。砂がむきだしになっていた腕におもいきり擦れて、傷を作る。けれどもそれより、おかしな捻り方をしてしまった足のほうに違和感があった。
「いって……」
「バカか、お前。引退してからこっち、気抜きすぎだろ」
駆け寄ってきた黒哉が呆れたように手を差し出す。それをとらずに自力で立ち上がろうとして、やっぱり足首が痛んだ。もしかしなくても、やってしまったのだろうか。今まで捻挫なんて縁がなかったのに。
「どうした、立てないのか? 転んだ時に足を……」
心配そうな顔をしてやってきた連に、海は首を横に振ってみせた。余計な心配をかけるわけにはいかない。最後の体育祭の前なのだから。
「大丈夫ですよ。でも腕擦りむいたんで、ちょっと洗ってきますね」
不自然にならないように気をつけて立って、歩いて校舎へ向かう。その後姿を見ながら、サトが言った。
「走らないとか、どう見ても足やってるだろ……」
「そうだな。海なら待たせると悪いとか言って、走るはずだ」
連も頷く。たった二年半の付き合いではあるが、海のことはそれなりにわかっているつもりだ。それを幼馴染であるサトが裏付けてくれたのだ。
「どうも様子おかしいんだよな。まあ、どうせもう水無月主将と同じ立場じゃないからなんて考えてぐずぐずしてるんだろうけど」
ずばりと変化とその原因を当ててくる黒哉に、サトは苦笑する。本人が聞いたら怒るだろうなと思ったのだ。図星なら、なおさら。
上履きに履き替えるのも、痛みが響いた。これは腫れるかもな、そうなったら体育祭に出られるかどうかわからないな、と内心で呟き、自嘲する。まったく不注意だった。誰も責められない。
傷む右足をひょこひょこと持ち上げながら、保健室に向かった。とりあえず湿布でももらって、様子を見よう。必要なら病院に行かなければならないだろうが、体育祭に影響がないのが一番良い。目標がなくなって、クラスの役にも立てないのでは、モチベーションは下がる一方だ。受験勉強までやる気をなくしたら最悪だな、と思いながら、保健室に辿り着いた。
軽く戸を叩いてから、開ける。いつもなら養護教諭が奥の机に向かっていて、「何か用か」とぞんざいに返してくるのだが、今日はいない。そのかわり、女子生徒がソファにちょこんと座っていた。
「千花ちゃん?」
「あ、海先輩! どうしたんですか、具合でも……」
驚いてから、心配そうに駆け寄ってきたのは、よく知っている後輩だった。彼女のほうこそどうしてここにいるんだと思ったが、その答えはすぐにわかった。千花のつけている腕章に、「保健委員」と書かれている。大方、養護教諭が他の怪我人のところに駆り出されていないので、留守番をしていたというところだろう。このシーズンには珍しくない。
「あ、具合じゃないですね。腕と……足の怪我でしょう」
片足をあげていたので、すぐに見抜かれた。知りあいにばれるのはまずいなと思っていたのだが、仕方ない。苦笑いして、「そう」と頷いた。
「ちょっと捻っちゃったみたいで。悪いけど、湿布くれるかな?」
「ただあげるだけなんてできませんよ。応急処置は習ってますから、ちょっと見せてください」
よく妹分の春が、「千花ちゃんはたまに頑固なんだよね」と言うが、こういうことか。真剣な目で真っ直ぐに見つめられると、さすがの海もたじろぐ。つい押し負けて、「お願いします……」と言ってしまった。
すると千花は満足そうににっこり笑って、海を長いソファに横向きに座らせた。ちょうど足がひじ掛け部分にのるように調整してから、手際よく備え付けの冷凍庫から氷を出して、二重にしたビニール袋に入れる。それに水を足して口を閉め、タオルに包んで患部に当て、固定した。その流れがあまりに見事で、口出しなんか一切できなかった。ただただ感心するばかりだ。
腕の傷まで手当てを終えた千花は、ふう、と息を吐いた。手際は良かったが、少し緊張しているらしい。それを取り繕うように、海の顔を見ると、焦ったように、けれども心配そうに喋りだした。
「保健委員、やったことあります? この時期にやると、先生から簡単な手当の仕方とか教えてもらえるんですよ。でも応急処置なので、ちゃんと病院行ってくださいね。結構腫れてましたし」
「あ、やっぱり?」
認めたくなくて、海自身はあまり患部を見ていなかった。軽く捻った程度ならいいなと思っていたけれど、腫れていたのなら体育祭に間に合わないかもしれない。そうなれば、せっかくサトたちが期待してくれていたのに、裏切ることになる。自分がぼんやりしていたばっかりに。
落胆をごまかすように笑ったけれど、渇いているのがわかった。
「なんか俺、格好悪いね。このままじゃ体育祭、役立たずだ。さっきもサッカー練習中だったんだけど、ぼうっとしてて転んだんだ。間抜けでしょ」
「そんな……」
千花がますます困った顔をする。これではいけない。千花はこの町に住む鬼たちに好かれていて、彼らの感情に影響を与えることができてしまうから、あまりつらい思いをさせてはいけないのだ。そのことは海と春くらいしか知らないことだけれど、この町にとっては重要なことだった。
鬼を負の感情で刺激すると、呪い鬼にしてしまうことがある。それだけは避けなければ。
「あ、でも、俺のクラス強いから。俺がいなくても大丈夫だと思う。何も問題ないよ」
慌てて言葉を継いだ。が、千花の表情は明るくならなかった。それどころかもっと眉を寄せて、少し怒ったようになる。もっと何か言わなきゃ、話題を変えなきゃ、と海が考える前に、千花がまた海を真っ直ぐに見て、さっきよりも顔を近づけて、言った。
「必要ですよ」
きっぱり、はっきりと、そう告げた。その響きはいつか聞き覚えのある気がした。
「海先輩は必要です。いなきゃ困ります。いなくても問題ないなんて、絶対言っちゃだめです」
とても心強い言葉だ。そんなふうに言ってくれるのは嬉しい。でも一方で、その声に首のあたりがぞわりとするような感覚もある。
いつもその感覚は、強い雨の日に襲ってくる。それから、鬼封じの日にも。今日のような秋晴れに感じることは、まずないはずだった。
でも、千花によく似た声が、昔言ったのだ。今千花が言ってくれたことと、まったく逆のことを。
――あんたなんかいらない。
その声と千花の言葉が重なって、頭の中が混乱した。どうしてあの忌むべき声と、千花の声とを似ていると感じるのだろう。そんなはずはないのに。
「海先輩、どうかしました?」
混乱から引き戻してくれたのもまた、千花の声だった。気が付けばさっきよりもさらに近いところに千花の心配そうな表情がある。海は無理やり笑顔を作った。
「……いや、なんでもない」
「本当に? 具合悪かったりしませんか?」
「本当に大丈夫。それより、ありがとう。手当ても、必要だって言ってくれたことも、嬉しいよ」
これは本当のことだ。剣道部主将という役目が終わり、どうにも自分の立ち位置がはっきりしていなかった海にとって、「必要」という以上の言葉はなかった。まだまだできることが、やらなければいけないことがある。受験がうまくいけば来年の春には礼陣を去ってしまうのだから、その前に、たくさん。
本当の気持ちを言うと、無理やりだった笑顔も、柔らかく自然なものになった。それがわかったように、いや、本当にわかったのだろう、千花もやっと笑顔を取り戻した。
「無理しちゃだめですよ。でも、早く良くなるといいですね。最後の体育祭、思い切り楽しめるように」
そのためにちゃんと病院には行ってくださいね、と言いながら、千花は手を海の頭に伸ばした。そして、優しく、愛しいものにそうするかのように、撫でたのだった。
何分そうしていただろうか。いや、実際は数秒だったかもしれない。けれどもそのあいだ、海は茫然としていて、千花は穏やかな笑顔を浮かべて海の頭を撫で続けていた。
その手が存外に心地よくて、やめさせようなんてつゆほども思わなかった。――女の子相手にそんなことを思ったのは、生まれて初めてだ。
「……あ、あああっ! わ、私、何を……! 海先輩になんてことを!」
先に我に返ったのは千花だった。彼女のその声で、海もはっとする。手を引っ込めて顔を真っ赤にする千花を見ているうちに、海も頬が熱くなってきた。まさか後輩に頭を撫でられて、それを心地よいと思うなんて。しかもその子は、今まで苦手だったはずの女子なのだ。いくら妹分の友人で、彼女自身も妹のようなものだったとはいえ、されるがままになっていたと思うと急に恥ずかしくなった。
「ごめんなさい! 海先輩、女の子苦手なのに触っちゃって! しかも年上なのに子供にするみたいにしちゃって!」
千花が勢いよく頭を下げる。その拍子によろけたので、海はとっさに手を伸ばし、千花の腕を引っ張って引き寄せた。勢いで千花の上半身は海の胸にすぽりと収まった。収めてしまった。――ふわりと揺れた髪から、かすかに花のような香りがした。
「あ、千花ちゃん、ごめん……」
ごめんと言いながら、今まで思ったこともなかったことが頭の中を掠めていった。この子を、離したくない……かもしれない。ぼんやりとした、曖昧なものだったけれど、これまで女子に対してもったことのない感情だった。
しばらく返事もせずに硬直していた千花は、やっとぎこちなく体を起こしたかと思うと、くるりと海に背を向けた。怒らせてしまっただろうか。だったら、さっさとこの場を去った方がいい。海自身のためにも。なにしろこっちも、さっきとは別の意味で混乱している。
「あの、足、ありがとう。病院は行くから」
足からタオルに包まれた氷水の袋をはずし、靴下を履き直そうとしたところで、千花がさっと戸棚へ走って湿布を持ってきた。海の顔を見ないまま手早く湿布を患部に貼り、小さな声で「気をつけてください」と言う。……やはりさっきので、気まずくなってしまったのだろう。
「ありがとう」
もう一度礼を言って、海はひょこひょこと右足を庇いながら、保健室を出た。やっと昇降口まで来てから、急に一連のできごとが頭の中を駆け巡り、叫びたくなるのを必死で堪えた。――いったいなんてことをしたんだ、自分は。
足が、頭が、顔が熱い。きっと赤面している。それくらい恥ずかしいことをした。しかもそれが、ちっとも嫌じゃなかった。そんな自分が信じられなくて、まだ混乱は続いている。
頭の、撫でられたあたりに手をやる。優しかった。温かかった。それが嬉しかった。……もう少し、あのままでも良かった。
「何考えてんだ、俺……」
首を振って、靴を履き、外に出る。今日はもう帰ると、サトたちに伝えなければ。
でもこの顔は、いったい何と言い訳したらいいのだろう。
走っていないのに、胸の鼓動がうるさかった。
偶然養護教諭に留守を頼まれ、保健室にいただけだった。偶然そこに自分以外誰もいなかった。誰もいなくてよかった。あんなところを誰かに見られていたら、海に迷惑をかけてしまう。
いや、もう十分迷惑はかけた。強引に手当てをして――それはそうでもしなければ捻挫を放っておきそうだったから正しかったとしても――説教なんかして、揚句、頭を撫でたり、密着したりして。女子が苦手な海には、不快な思いをさせたかもしれない。
これまで春の友達だからという理由で、距離が近くなったり、二人きりになったりすることを気に留められなかったが、今回はどうだろう。さすがに近づきすぎたのではないか。
千花は海が好きだ。これはもう認めた。けれどもその気持ちを、気付かれてはいけないのだ。海が特に嫌うのは、自分に恋慕を抱いた相手なのだから。でも今回のことで、今度こそ気づかれたかもしれない。
「どうしよう……。嫌われたら、もう挨拶を返してもらえなかったら……」
不安と、けれども触れられた嬉しさで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。春に相談したら、どんな答えが返ってくるだろう。「それはもうだめかも」と言われてしまうだろうか。
これまでも海と距離が近づくたびに、春には相談をしてきた。相談をすることで海を好きだと認めたということもある。そのあいだ、春は千花を否定したことがない。海が女子を苦手とすることを知っていながらも、「千花ちゃんなら大丈夫だよ」と繰り返してきた。
「もう大丈夫じゃない……」
海が、というより、千花が。どんどん海を好きになってしまうのが怖い。もっと一緒にいたいと、もう少し触れていたいと思ってしまったことが怖い。その気持ちが、あとで仇となるかもしれないのに。
海は今、千花のことをどう思っているのだろう。近づいても嫌な顔をしないのは、触れても拒まないのは、この身を受け止めてくれるのは、やはり春の友達で、妹のようなものだからなのだろうか。
それでは足りなくなってしまうのが、自分を好きになってほしいと思ってしまうのが、千花はひどく怖かった。
体育祭本番の頃には、海の足はすっかり治っていた。軽い捻挫で、直前まで練習には参加できなかったが、当日は楽に歩けたし、走ってボールを蹴ることも容易だった。そうして海たちのクラスは、どんどん勝ち進んでいったのだった。
ときどき放送で、千花の声が流れた。呼び出しの多い行事では放送部だけでは人手が足りず、千花などは手伝いに駆り出されるのだと春から聞いていた。しかし状況を伝え聞くのと、実際に声を聴くのとではまったく違う。あのきれいな声で自分のクラスが呼ばれたときには、どきりとした。
どうしてあの声を、昔聞いたおぞましい声と似ていると感じたのかはわからない。でも、あの声で聴きたかった言葉を聞けたと思えるのは、むしろ幸いだったように思う。――「必要」。それは今の、いや、ずっと昔から海が欲しかった言葉だった。
望まれずに生まれたから。そうして殺されかけたから。それを越えて今があるから。今でもどこか斜に構えた態度で世間を見てしまう海には、自分を肯定してくれる優しい言葉が必要だった。
「進道、決勝戦だぞ!」
「海、行こう。お前がいなきゃ勝てるかわからない」
「さっさとしろよ。待ってんだから」
それは友人たちもかけてくれる言葉ではあったけれど、千花がくれたものはなんとなく……ではなく、確実に違うもののようだ。
保健室でのことは誰にも言っていない。春にすらも。でも、千花から伝え聞いているかもしれない。ときどきこっちを見て、意味ありげに笑うから。
「……今更、そんなんじゃないよ。たぶん」
女性が苦手だった。今でもたぶん苦手だ。それは海に害を及ぼすもので、海が生まれてしまった理由だから。だから一部を除いて女子なんか信用できないと、恋なんかしないだろうと思っていた。長いこと思い込んでいた。
だから海は、まだ信じていない。何度も千花とのやりとりを思い出したとしても。彼女の温もりを、香りを、声を、思い返しては胸が高鳴るのを、気のせいだと振り切ろうとする。
もうそんなことは不可能なのだということを、認めようとしていない。