県立南原高等学校――普通科と商業科を併設している、礼陣南原地区にある学校である。割合としては普通科よりも商業科のほうが多く、多くの学生は卒業後の進路を就職に定めているが、専門学校に進む者もあれば、入学した時には全く想定していなかった方向へ行く者もいる。
単に学力の問題でこの学校を選んだという生徒も、ちらほら。
「佐山ちゃん、どうしよう……。校内一斉漢字テスト、赤点だった……」
返ってきたばかりの答案を握りしめ、涙目になっている親友に、佐山きららは溜息を吐きたくなるのを堪えた。高校に入ってから、もう幾度となく赤点をとり続け補習を受けている友人に、何と返事をしてやったらいいのだろう。
「はねちゃん、勉強した?」
結局、考えた末に出てきた言葉は、ストレートに限りなく近かった。
「したよお。前日に徹夜……」
それがいけないというのに。幼稚園からの付き合いである羽田亜由梨は、いつも同じことを繰り返して失敗する。正直なところ、この学校に一緒に通えていることも、受験直前の追い上げによるところが大きい。どうにも動き出すのが遅いのだ。
けれども佐山はそれに強く言えない。なぜなら、自分の性格がきついことと、そのおかげで関係が切れずにずっと友人でい続けるような相手が少ないことを、自覚してしまっているからだ。
羽田は佐山にとって、手放したくない人物だった。彼女まで離れていってしまったら、独りになってしまうから。自分も、彼女も。
一緒にいて常々思うのだが、羽田も人に付き従うのが癖になっていて、友人と呼べるような人間関係を築くのが上手ではない。たとえ相手の欠点が見えても、離れないことが第一になってしまっていて、なかなか互いに指摘できないのだった。
何でも言いあえる関係こそが友達だとはよく言われるけれど、佐山はそれが正しいとは思えない。友達だからこそ言ってはいけないこともあるし、利用しなければならないこともある。今の自分たちの関係が、本当の意味でそこに当てはまっているかどうかは、少々疑問に思うにしても。
でもこれまで、そうやってやってきたのだ。今更態度を変えるというわけにもいかず、現在に至る。
「はねちゃん、中学の時みたいに一緒に勉強しようか?」
やんわりと提案をするも、羽田は困った顔のまま首を横に振る。
「佐山ちゃん、補習ないでしょ。あたしに付き合うことないよ。バイトだって忙しいみたいだし……」
たしかにアルバイトは忙しい。佐山が働いているショッピングセンター内のフードコートは、いつだって人手不足だ。その合間をぬって何とか勉強をしている佐山と、補習ばかりでアルバイトもできない状態の羽田では、相当頑張らなければ都合がつかない。
中学の時までとは違うのだ。生活のスタイルも、進路に対する意識も。――いや、進路については中学の時にはすでに考え方が違った。高校を卒業したらすぐに就職したいと考え、そのための能力を身につけるために商業科を選んだ佐山と、佐山が行くから自分もそこへと進路を決めた羽田とでは、姿勢が違う。
就職するのにも試験があって、そのあとは自分の力で周囲とコミュニケーションをとりながら生きていかなくちゃいけないんだよ、という言葉を、佐山は何度呑み込んだだろう。羽田との関係を壊したくないがために、今までどれだけ気を遣ってきただろう。
ときどき、ほんの少しだけ、もういいかなと思う。けれどもやっぱり自分が独りになってしまうのが怖くて、縋りつく。そこは佐山自身も、中学の時とあまり変わっていないのだった。
羽田は補習へ、佐山はアルバイトへ。放課後の予定はばらばらだ。片や懸命にテストを解き直し、片や社会に漕ぎ出している。
アルバイトといえば軽く聞こえるが、仕事は仕事だ。わからないことがあればすぐに確認して吸収し、二度と同じ質問をしないよう心がける。どんな客にも明るく笑顔で応対し、それができるようにスタッフの動きとあわせて常にアンテナをはっておく。自分では手に負えないと思ったら即座に上司を呼びに行くなど、素早い判断を要求される。これが三年後には、当たり前になっている。
それを羽田はわかっているのだろうかと、佐山は考えてしまう。経験しようにも羽田の成績では、アルバイトをすること自体許可されない。自分で引き留めているくせに、あの子はいつまであたしについてくる気だろうという思いが頭をよぎる。
「……やんなっちゃうなあ」
バックヤードで自己嫌悪をつい吐き出すと、それを聞いた先輩が「じゃあやめれば」と言って出ていった。仕事の愚痴と勘違いされたらしい。腹が立ったがそれをぶつけるわけにもいかず、かといっていちいち言い訳をするのも馬鹿らしく、苛立ちを抱えたまま、また仕事に戻ることになる。そういう状態で無理やり作る笑顔は、自分でも気持ち悪い。人からもそう思われているように感じて、さらに気分が悪くなる。
こういう経験も、羽田にはないのだろうと思うと、負のスパイラルに陥る。
中学生の頃、あるときまでは、日頃の鬱憤を誰かにぶつけることで晴らしていた。ちょうどいい標的を見つけて「遊ぶ」ことで、一時だけでも気分をごまかしたものだ。けれどもそれも、今となってはくだらない。最終的には何の得にもならないということを、のちに学んだ。
世の中がわかればわかるほど憂鬱になる。上手にストレスを発散できないまま、毎日が終わっていく。
今日もそうして過ぎるのだろうと、心にもない愛想を振りまいていたアルバイト終盤に、聞き覚えのある声が名前を呼んだ。
「あ、佐山さんだ。久しぶりだね」
笑顔でこちらに手を振ってから、はっとして「邪魔だったよね、ごめん」と続けたのは、中学時代に佐山が「遊んで」いた相手だった。
「……園邑。なんでここにいるのよ」
「ここの本屋さんで、来月好きな作家さんのサイン会があるって聞いたから。情報集めに」
屈託なく笑う中学時代の同級生、園邑千花は、かつては大嫌いな人間だった。何を言われてもへらへらして、大人や異性に媚びているように見えて。でも今はなぜか、その姿を見て安心した。
「そっか、佐山さん、ここでバイトしてたんだね。学校から近いから便利だもんね」
さんざん痛めつけたと佐山自身が自覚しているのに、当の彼女は気軽に声をかけてくれるのだ。ふと、ああ適度な距離だ、と感じた。何をしようと遠ざからないのだ。
「園邑、これから暇? あたしもうすぐであがるから、ちょっと話さない?」
中学生のときには絶対に、こんなふうに誘ったりしなかった。だから拒まれるかとも思ったのだが、園邑はあっさりと「いいよ」と頷いた。何でもないような笑顔で。
彼女の中では、過去はすっかり水に流されているようだった。普通嫌がらせは、やられたほうがいつまでも憶えていて、やったほうがあっさり忘れてしまうものではないのか。やっていた側の佐山が思うのもおかしな話だが。
アルバイトが終わるまでやや時間がかかったが、園邑は律儀に待ってくれていた。嫌な顔一つしないところが、昔は気に食わなかったっけなと、他人事のように考える。
「ごめん、待ったでしょ」
「うん、待った。そのあいだ本読めたから大丈夫だよ」
フードコートから少し離れたところに、休憩用のベンチがある。園邑はそこに座って文庫本を開いていた。何を読んでいたのか訊くと、どうやら小説らしいそのタイトルを教えてくれたが、佐山には縁がなさそうだった。そもそもあまり本は読まない。
「佐山さんが話そうって言ってくれるの、初めてだよね」
栞を挟んで本を閉じ、園邑は事実を述べた。
「中学の時は、あんた嫌いだったからね」
「だよねえ」
嫌いと言っても、なお園邑は笑っている。不思議と今は、それが鼻につかなかった。
「中学の時の佐山さんは、私が嫌いで、羽田さんが大好きだったもんね」
「今でもあんたよりははねちゃんが好きだよ」
たぶん、そのはずなのだ。けれども羽田といる時よりも、こうして園邑とベンチに並んで座っている今のほうが安心するのは、どういうことだろう。
つい学校での不満をこぼしてしまったのは、どうしてだろう。
「はねちゃんは好きだけど、あの子ちゃんとしなさすぎっていうか……勉強だってちゃんとやればできるのに、前日に徹夜して赤点取っての繰り返しで。それであたしに『どうしよう』って泣きついてこられても困るんだよね。今日だって補習だし。赤点さえ取らなかったら、バイトだって一緒にできるのに。もっと一緒にいられるのにさ」
本人には絶対に言わないようなことを、全然関係のない園邑にぶつけるように言う。こういうのは、陰口といわないだろうか。親友であるはずの羽田の陰口を言ってしまっている。言いたくて仕方なかったことに、佐山は自分で衝撃を受けた。
園邑に嫌がらせをしていたときよりも、今の自分のほうが気持ちが悪い。昔のほうが気持ちが一貫していたから、いっそ清々しかった。
こちらの一方的な愚痴を、園邑は黙って聞いていた。佐山が話を止めるまで、制止もしなかったし口も挟まなかった。
吐き気を覚えながら、話せるだけ話し終えて深い溜息を吐いた佐山が視線を送って、やっと園邑も口を開く。
「佐山さん、羽田さんと一緒にいられないのが寂しいのかな」
「……」
きれいに的を射られて、佐山は黙り込んだ。そこに園邑は、微笑みながら続ける。
「勉強のこととか、羽田さんに注意したことある? そのやり方が良くないんだって」
「……高校に入ってからは、ない」
「それって、口出しすることで羽田さんが離れていっちゃうかもしれないって思ってるからじゃないかな。ええと、無意識でそうしてるのかもってことなんだけど」
無意識どころではない。確実にそうだった。園邑はこういうところで妙に鋭い。そして思ったことをそのまま言うから、言っても見た目が可愛いので大人や異性は許してしまうから、同性から、というより佐山たちから好かれなかったのだ。
何もかも気に入らなかったのに、どうして羽田とのことを打ち明けてしまってるのだろう。
「園邑は言うんだろうね。加藤とかが赤点取ってへらへらしてたり、須藤がもたもたしてたりしたらさ」
「詩絵ちゃんは赤点取らないし、春ちゃんはもたもたしたりしないけどね。でももし言わなきゃならないことがあったら、私は言うかな。だって私が何か言ったところで、詩絵ちゃんや春ちゃんは離れていったりしないから」
「随分な自信だね」
「うん。そんなことくらいで人が嫌になるような子たちじゃないから」
ああ、そうか。園邑は自分に自信があるんじゃない。相手に自信を持っているんだ。友人たちが薄情な人間ではないと信じているから、言うことは言うし、聞くことは聞くのだ。こうして、佐山の愚痴を聞いているように――佐山のことも、園邑はきっと信じてくれていた。
「あんた、相変わらずお人好しなんだ」
「物事は楽しく考えたほうが、気も楽だよ。佐山さんも羽田さんと、もっと楽にしてつきあったらどうかな」
離れていくことなんかないから。そう言って園邑はにっこりと笑う。物質的な距離の問題じゃなく、心の問題だと付け加える。
そうか、信じてみればいいのか。たしかに羽田は、佐山がちょっと何か言ったくらいでは離れていきそうにない。実際、中学生の時に、気持ちがすれ違って彼女の望まないことをしてしまっているのに、今でもちゃんと親友でい続けている。
羽田はその時、佐山がやっていることが自分の意にそぐわないことだと言ったのだ。羽田のほうが、佐山よりよほど強かった。
「なんだ、あたしばっかり不安だったのか」
それならもう遠慮はいらないや。そんな単純なことに、やっとたどり着いた。
「あゆりって言いにくい。はねだだから、はねちゃんって呼ぶ」
「じゃあ、あたしもきららちゃんのこと、さやまちゃんって呼ぶ。同じがいい」
そんなやりとりをしてから十年は経つのだ。ちょっとやそっとのことで動じるような関係じゃない。
翌日、佐山が学校に行くと、もう羽田が来ていた。今日は一限に英単語の、三限に簿記の小テストがそれぞれある。羽田はその勉強を、直前である今になって必死にやっていた。
「はねちゃん、おはよ」
「あ、佐山ちゃんおはよー。あのね、単語が全然覚えられなくって」
「また徹夜したんじゃないでしょうね」
「せいかーい」
だって補習のあと疲れて寝ちゃって、時間がなかったんだもん。それが羽田の言い分だ。説明を省いてはいたが、毎回そうなのだろう。これではいつまでたっても補習から抜け出せない。
「はねちゃんさ、徹夜やめなよ。それとぎりぎりになってから勉強するのもなし。受験の時みたいにコツコツやってれば全力出せるんだから」
「受験の時は教えてくれる人もいたじゃん」
「いたじゃん、じゃない。わからなかったらすぐ先生かあたしに訊きな。自分から行かないでどうするの、それじゃバカのままだよ」
言ってしまってから、あ、と思った。つい口が滑った。
「あ、ついに言った! あたしにバカって!」
羽田が叫ぶ。叫ぶといっても大騒ぎはしていない。ちょっと語気が強くなっただけだ。それでも怒らせたかなと不安になって、佐山は相手の顔をおそるおそる覗き込んだ。
それから、思わず目を見開いた。
羽田は怒ってなんかいなくて、むしろなぜか嬉しそうだった。「マゾか」と言いかけたのを今度は我慢して、「なに笑ってんの」と問う。
「だって、佐山ちゃん、ずっとあたしのことバカだバカだって思ってたでしょ。でも全然言ってくれない。あたしたちってもっと気安い仲だと思ってたのに、遠慮なんかするんだもん。あたし、寂しかったんだからね」
友達とは何でも言いあえる存在だ、なんて言葉を、佐山は信じてはいない。友達だからこそ言えることの線引きはするべきだという主張は変わらない。
でも、遠慮しすぎることもない。ベストなところを見つけられるのが、親友ってものだ。たぶん、だけど。
「バカって言ってほしいの?」
「できれば言われたくない。だから勉強する」
「地道にやりなよ。一夜漬けははねちゃんに合ってないから」
今やっと、佐山は羽田とのベストな距離に戻ろうとしている。確かな手ごたえがあった。