山から下りてくる冷たい風に、コートがぱたぱたとはためく。先日編みあがったマフラーは、巻くにはまだ早いだろうと思って家に置いてきてしまった。ちょっと失敗したと思う。
他にやることがないし、もともと編み物は得意だから、短い期間で何本も編んだものだった。これからもっと気温が下がるから、手袋にもチャレンジしてみようかと思っていた。ちゃんと指が五本あるものを、兄と弟のために揃えよう。商店街の手芸用品店で、毛糸を見繕わなければ。意識してゆっくりやらないと、きっと今度も、そうかからずに編み終えてしまう。
それでも、やることができただけ、去年よりはずっといい。何もやる気がしなかった頃より、状況は随分と良くなった。弟はしっかりしているし、兄も立ち直って勉学とアルバイトに勤しんでいる。自分だけ落ち込んだまま怠惰に過ごすわけにはいかない。せめて家族の役に立とうと、少しは努力しているつもりだ。家事を完璧にこなして、兄や叔父に心配をかけないように学校の勉強もきちんとして。――それから、人知れず町を守ることだって。
今、やることはたくさんある。毎日は忙しくて、充実しているはずだ。
だけど、秋風に身をさらしていると、寂しくなるのはどうしてだろう。この町に現れる悲しみや苦しみの権化に、自らの心を映すのは何故だろう。
ぴたりと風が止んで、けれども空気は冷え切っていて、何の音もしない空間。そこに足を踏み入れると、頭に二本のつのを携えた巨大な影が目に入る。赤い眼が暗く輝き、爪は長く鋭く伸びてこちらを捉えている。
「つらかったでしょう。悲しかったでしょう。……そんなことをしてしまうほどに」
心に呪いを溜めこんで、飲み込まれてしまった鬼の気持ちが、少女には痛いほどわかるのだった。傍から見ればごく普通の、どこにでもいそうなこの少女には。
襲いくる爪を飛び退いて躱し、伸ばされた手に動きを封じる札を貼る。もう一方の手にも素早く札を貼って、鬼をその場に縫い留める。これで準備は完了だ。
「もう悲しまなくていいのよ。大鬼様が、その憂いを晴らしてくれるから。……だから、神社へ帰りましょう」
優しく慈愛に満ちた声で、呻く呪い鬼に語りかけ、コートのポケットから取り出したもう一枚の札をそっと触れさせる。呪い鬼を神社へ帰すための、送りの札だ。鬼を愛しまなければ効果を発揮しないというそれを扱えることが、少女にとっての誇りであり、救い。
呪い鬼が姿を消し、展開された空間もなくなって、そこがもとの賑やかな町の一角に戻ると――鬼追いが終わると、彼女は安心したように息を吐く。そしてまた、手袋に使う毛糸玉のことを考えるのだった。
両親を亡くした次の年の秋。もう悲劇から一年以上が経った、風の冷たい日のこと。愛は今日も、彼女の日常を過ごしている。
門郡礼陣町字遠川、と住所を書くようになったのは二年前の春だ。母の弟が住むこの町に、家族で揃って越してきた。まるで自分たちがいなくなるのを予感していたかのように、両親は愛たちきょうだいをここに連れてきたのだった。
引っ越しから一年と少し経って、両親は飛行機事故で亡くなった。誰も生き残れなかったという報告を聞いて以来、兄と愛はしばらく自分も死んでしまったかのような気がしていた。末の弟は両親と過ごした時間自体が短かったためか、愛たちより早く立ち直ったようだ。
愛が日常に戻れたのは、両親の死と同時に見えるようになった、「鬼」のおかげだった。どうやら礼陣に住み生活しているらしい彼らを目にしても、愛にはすぐに受け入れることができた。もともと、人には見えないようなものが見える性質だったので、鬼くらいどうということはなかったのだ。
むしろ、助かった。彼らはこちらが「助けてほしい」と願えば、手を差し伸べてくれる。多くの人に姿が見えないというだけで、人間と同じように、もしかしたらそれ以上に優しく接してくれるし、町の人間も鬼がいることを当たり前に思っている。愛がおかしな目で見られることはない。それにどれほど救われたか。
おかげで愛は、今日まで生きてこられた。その恩に報いるというわけでもないが、鬼たちをまとめる「大鬼様」――人間たちからは「神主さん」と呼ばれている――の頼みをきいている。鬼を見、交流できるという力を生かして、憂いを抱えた鬼たちを慰める手伝いをしているのだ。
それが「鬼追い」。悲しみに苛まれた「呪い鬼」を神社へ帰し、神主に呪いを祓ってもらう役目だ。
もし礼陣に来なかったらできなかったことが、現在の愛の生活のほとんどを占めている。いつまでも沈んでいる暇がないほどの日々に、愛は助けられている。
だから愛も、礼陣を助けるのだ。愛にしかできない方法で。
「神主さん、鬼は帰ってきました?」
礼陣神社の社務所の戸を開けるなり、愛は大きな声で尋ねる。すると奥から眠そうな顔をした神主がよろよろと出てきて、へらりと笑った。
「いらっしゃい、愛さん。先ほど鬼追いをしてくれた呪い鬼ですね、ええ、帰ってきましたよ。ちゃんと呪いも祓って、今は鎮守の森で休んでいます」
眠いのではない、疲れているのだと、今の愛にはわかる。鬼追いで神社へ帰った鬼を祓うのは、その鬼の抱えるものによっては酷く重労働になるのだそうだ。
「よかった、ちゃんと帰ってきてて。いつかみたいに失敗してたら大変ですから」
「もう愛さんは失敗しませんよ。随分と鬼追いが上手になりましたからね。私が保証します」
「いいんですか、そんなに簡単に保証なんかして」
神主を支えながら、愛も笑う。やっと笑えるようになった。鬼追いを始めた頃はそんな余裕なんかなくて、いつも気が張っていた。そんな心をほぐしてくれたのもまた、神主だった。
人間ではないのに、人間と同じように振る舞って、つのを見せずにどんな人の目にも映る。幾百年もこの町を見続け、様々な場面に立ちあってきたはずなのに、人間を好きだと言い切るこの鬼が、しかし愛は今でも不思議でならない。自分など、たった十年ぽっち生きただけで、この世界が嫌になりかけたというのに。
「愛さんのおかげで今日も鬼が一人救われました。さて、愛さんの一日はどうでしたか?」
礼陣銘菓の「おにまんじゅう」を用意しながら問う神主に、愛はいつまでたってもすぐには答えられない。少しだけ喉が詰まってから、「いつも通りですよ」と言って、お茶を注ぐ。
「朝ちょっとだけ早く起きて、お兄ちゃんと一緒にご飯を作って、大助に食べさせて。お兄ちゃんを送りだしてから、大助も見送って、私は学校に自転車で走ります。無難に授業を受けて、終わったらすぐに学校を出て、呪い鬼の気配がしたから鬼追いをしました。それからここに来ましたよ」
学校でのことを、愛はあまり多く語らない。礼陣には愛に冷たくする人はいないが、特に親しい人というのもほとんどいない。同年代の友人を、愛はもたなかった。日々は家族と鬼のためにあったから、友人がいなくても平気だと思っていた。
自分には役目があって、それを果たしているのだから、友人と遊んでいる暇などない。口にせずとも、その意識はいつも愛の胸にあった。
けれども神主は、愛から一日の報告を聞くたびに、ちょっと寂しそうに、申し訳なさそうに笑う。もっと人間の子供と一緒に過ごしてほしいと思っているということは、愛にも伝わっていた。でも、そもそも付き合い方がわからないのでどうしようもない。
愛には、神主と一緒にいるほうが、鬼たちと触れ合っているほうが、人間といるよりも楽だった。昔から人ならざるものが見え、他の人々と一線を引いていたので、それに慣れてしまっていた。それを神主は、自分が鬼追いを任せたせいだからではないかと思っているのだ。そうではないのに。
注がれる視線にいたたまれず、お茶とお菓子をちゃぶ台に持って行き、明るい声で言う。
「鬼と神主さんの無事がわかったので、少し休ませてもらってから商店街でお買い物をして帰りますね。お夕飯の用意をしなくちゃ」
「今日のお夕飯は何ですか?」
「並んでるものとお財布の中身を比べて決めますけど、大助にかぼちゃを食べさせてあげたいなって思ってるんです」
「いいですねえ、かぼちゃ。御仁屋でもかぼちゃのお菓子を出してますよね」
「神主さん、甘いもの好きですもんね。今度何か作ってきましょうか」
愛の日常はこれでいい。家族のために、町のために、町を駆けまわってさえいれば、つらいことも忘れられる。みんなの役にも立てる。友人がいないことを心配されなくても大丈夫だ。
宣言通り、お茶とおにまんじゅうを一つだけいただいてから、愛はすぐに社務所をあとにした。神主を背に見渡す境内は、いつものように鬼であふれている。けれども普通の人間には彼らの姿は見えないから、参拝に来る多くの人は何も気にせずお参りをして、帰っていく。普通の子供は、今日は鬼ごっこをして遊んでいるのか、元気に駆け回っている。
この町の子供がする「鬼ごっこ」は、他とは少しだけ違っている。役割の名称が違うのだ。追われるほうが「鬼」で、追うのは「鬼追い」。そのルーツが何であるか、今の愛にはよくわかる。わかるけれども、ああして他の子供たちと遊んだことはほとんどない。せいぜいが学校行事で参加したくらいだ。
他にも、縄跳びや毬つきなどをしている子供が見えるが、そのどれも愛は友人とやったことがない。一人でやったり、きょうだいと遊んだことはあっても、同級生と楽しんだ思い出はない。でも、自分はそれで良いのだと思っている。孤独だったわけではないし、もっと大事な、やるべきことがあるのだから。
「私は私。それで良いんだ」
言い聞かせるように呟いて、深い緑色をした鳥居をくぐり、石段を下りた。その先には駅裏商店街がのびていて、店を覗くと大抵何かしらのおまけがついてくる。このお得な商店街が、愛はなかなか気に入っていた。
町の人々は噂好きだけれど、鬼のそれに比べればどうということはない。込み入ったことを知っていたとしても、それを無遠慮に吹聴することはしない。至って常識的な人たちは、揃って町の子供を大切にし、その成長を見守り、ときには助けている。愛のことも大いに助けてくれている。主に家計の面で。
商店街入口のアーチまで戻ってくる頃には、自転車の籠は買ったものとたくさんのおまけでいっぱいになっていた。収まりきらなくて、結局ハンドルにも袋をぶら下げている。最初は戸惑ったこの重みも、すっかり嬉しく感じるようになった。
自転車を押したまま、大通りを渡り、家のある住宅街へ向かう。その途中にもたくさんの人間と鬼が、愛に挨拶をしてくれる。それに笑って応えながら、川沿いの住宅街の、西側を歩いていく。欧風の家が多く建ち並ぶこのあたりは、遠川地区の洋通りと呼ばれていて、今の季節はどの家もこぞって秋の花で庭を飾っていた。それを鬼たちが目を細めて見ている光景が、愛は好きだ。
そんな中で、他の家に負けないくらいきれいな庭を持っている可愛らしい家が、愛の住む一力家だ。レースのカーテンやドアのリースは、昔に母に教わって、愛が作ったもの。ちょっとした自慢の品である。
家に着いて自転車を停め、家に荷物を運びこんでから、向かいの家のチャイムを鳴らす。「はーい」と高い声がインターフォンから聞こえ、続けて「あ、ねーちゃん」とさっきよりほんの少し低い声がする。ドアが開くのはそれからだ。
愛の弟の大助は、小学一年生。学校から帰ったら、愛が帰宅するまで、この向かいの皆倉家に預けられることになっている。とはいえ、皆倉家も大人が働きに出ていていないので、子供だけで遊んでいるのだ。
「愛さん、おかえり!」
「ねーちゃん、今日もちょっと遅かったな」
向かいの家の娘である亜子は大助と同級生で、愛にもよく懐いてくれている。片方の手でその人形のような金髪を撫で、もう片方の手で大助の頭を軽く叩く。二人とも可愛くてたまらないのは、愛も鬼たちも同じ気持ちだ。
「ただいま。お買い物してたからね。お夕飯までもうちょっとかかるから、それまで亜子ちゃんと一緒にいる?」
「そうする」
引っ越してきて出会った同い年の二人は、異性同士なのにそれを全く気にしないで、仲良しでい続けている。学校にも一緒に通っているし、帰りも二人で歩いてくるのだそうだ。小学校はここから少し遠い川向こうにあるが、亜子は毎朝、寝起きの悪い大助を引っ張っていってくれるのだった。
愛にはそういう友人はいなかったから、この二人がときどき羨ましくもある。これからもずっと仲良くしてほしいと、希望を託している。まだ一緒に遊ぶという弟たちを残して、愛は家に戻った。小さな子供たちだけでいても、心配はない。この辺は他の大人たちが常に目を光らせてくれているし、鬼だっている。大助にも鬼は見えるので、何かあれば彼らに手助けを求められる。
安心して台所に向かう時間は、愛の一人の時間だ。兄はまだ、大学のある町から帰ってこないだろう。礼陣から少し離れた町で、勉強をし、アルバイトをして、帰って来るのだ。
そんな兄を想い、外から聞こえてくる弟たちの声を聞き、硬いかぼちゃと格闘する。大変だけど、至福のときだ。――そう思わなければいけない。平和なだけ、幸せなのだから。
日課をこなした。呪い鬼を癒すこともできた。今の愛には、これ以上の幸せなど考えられない。考えないように、求めないように、知らないうちにブレーキをかけている。ふと感じる寂しさも、気のせいだとやり過ごす。
そうして毎日戦うのだ。たった独りで。もう慣れてしまった独りで。
「そうだ、ちょっと分けて茶巾にして、神主さんに持って行こう。亜子ちゃんのところにも……」
独り言には誰も応えない。いつだって。
夕飯が終わったら課題を済ませて、いつでも寝られるように準備をしてから編み物をしよう。それから明日こそ、マフラーを忘れないように。兄と弟にも持たせよう。
ポケットには札を補充して、いつ呪い鬼が出ても対応できるようにしておかなければ。
やることはたくさんある。毎日が充実している。落ち込んでいる暇もないほど忙しい。それが愛にとっての一番良い状態で、誰の役にも立てる喜ばしいことだ。何もする気が起きなかった頃よりずっといいし、人ならざるものを見ることを不気味に思われていた頃と比べても今のほうが居心地がいい。
礼陣に来て、役目をもてた。それで十分。
それなのに、神主の申し訳なさそうな眼を思い出すと胸が痛くなるのは、本当の心を見透かされたような気がするのは、どうしてだろう。
「……寂しくなんか、ない」
零れる言葉は、毛糸と一緒に編み込まれる。