この小さな町には、どういうわけか子供だけはたくさんいて、校区も細かく分けられている。幼稚園や保育園はそこここに当たり前にある。住んでいる場所が場所なら、会って別れてを繰り返すことも珍しくはない。もっとも、神社や商店街、駅前や河川敷といったスポットへちょっと自転車を走らせれば、学区などにこだわることなく、子供たち同士はいつでも会える。
筒井朗と沼田博希も、そんな中で出会った。幼稚園で同じ組になり、一緒に過ごしたが、小学校は別々のところへ通った。そして中学に進学して、また同じ場所で学ぶようになった。離れているあいだにも親交は続いていて、よく誘いあっては河川敷に行ってボールを蹴ったり、神社の境内で他の子供たちと鬼ごっこやかくれんぼにいそしんだり、商店街で買い食いをしたりしていた。このあたりの子供のお決まりのコースだ。
ただ、一緒にいても成長するにつれて、年相応の態度をとろうとするようにはなる。互いの呼び方が特に顕著で、小学生までは「あきら」「ひろき」と呼び合っていたのが、中学でつるむようになってからはなんとなく「筒井」「沼田」になった。先に苗字で呼ぶようになったのは沼田――博希のほうで、筒井――朗はそれに倣ったかたちだった。
昔から、博希のほうが朗よりも少し大人びていた。頭も良かった。そんな彼のすることだから、きっとこれが正しい「成長」なんだろうと、朗はどこかで考えていたかもしれない。かもしれない、というのは、そのときにはそんなことは少しも思っていなかったので。
呼び方が変わっても、付き合いが変わらなかったから、そう気にしていなかった。二人は相変わらず仲のいい幼馴染で、そのまま中学を卒業した。
高校はまた、別々になった。博希は町で一番偏差値の高い公立高校に進学し、朗は商業科のある学校を選んだ。この二つの学校はそれぞれ町の北側と南側にあって、たぶんその距離は、今までで一番離れていた。

「よ、久しぶり」
その声でそう言われたのは、本当に久しぶりな気がした。毎日顔を合わせることがなくなってから、何か月も経っていないのに。博希は手にしていた参考書を閉じて棚に戻し、朗に向き直った。
「元気そうだな、筒井」
「沼田もな。あ、参考書戻さなくてもよかったのに」
「ちょうど別のにしようと思ってたんだ。県外の学校に行くつもりだし、もっと難易度の高いのを」
「え、もう大学のこと考えてんの? 進学校すげえなー」
まだ一年生始まったばっかりだぜ、と苦笑する朗に、博希はまあな、と短く答える。商店街の書店の参考書コーナーには、博希と同じ制服を着た学生が多く、朗はそれなりに目立っていた。学校によって勉強に対する意識というものはやはり違ってくるようで、店内のコーナーごとの制服の種類は、それをわかりやすく表している。
「筒井は何しに来たの」
「漫画立ち読みしに。そしたら沼田いたから、こっちに来た」
「相変わらずだな」
入学してすぐに次の進路選択を、具体的にはどこの大学を目指すかを迫られる博希の学校に対し、朗の通う普通科と商業科が併設されている学校は、それほど次を急かされていない。まずは進学か就職かを考えるところから始める。商業科の朗は、初めから就職志望ではあったが、どんな職に就くかまでを明確にしているわけではなかった。
だからといって、勉強を怠っていいわけではないが。
「筒井、英語できてるか? 数学は?」
「英語は検定あるからな、その対策やってればなんとか。数学は今のところ大丈夫だけど、たぶんそろそろわからなくなる。こっちも検定はあるんだけどさ」
中学の時と変わらない調子で、博希は朗に合いそうな参考書を探しだして、差し出す。朗はそれを受け取って、表紙だけ憶えて、元に戻した。
「今度買う。今、財布そんなに余裕ないんだよ。バイトもまだ認められてないし」
「あ、そう。バイトっていつからできるの」
「一年生は原則連休明けからだったかな」
進路活動も違えば、学外活動の取り組みも違う。博希の通う学校では、そもそもアルバイト自体が原則として禁止されている。だが各々の事情から、届を出せばすんなりと通るようにもなっている。あとは成績さえ保っていれば、問題はない。
環境はまるで違ってしまった。この先の進路も、まったく別の方向へ行くのだろう。それぞれ自分でそれを決めた。
こうして町で顔を合わせることも、そのうちなくなるのかもしれない。昔はそんなこと、少しも思わなかったけれど。――かつてはそれくらい毎日会っていたのだと、今になって改めて思った。互いに同じことを考えていたことには気づかなかったけれど、目が合うと笑ってごまかした。
「沼田、これから暇? 暇なら御仁屋行こうぜ」
「ん、行くか。その前に自分の参考書買ってくる」
「ゆっくりでいいぞ」
こんなやりとりができるのも、あと何回だろうか。

御仁屋はこの町で人気の和菓子屋兼茶房で、学生の客も多い。ちょっと小腹がすいた程度なら、駅前のファストフード店へ行くよりも、リーズナブルで舌の慣れたこの店を選ぶ。神社の境内へ続く石段の横、駅裏商店街の東端に位置するここは、今日も老若男女で賑わっていた。
その中には、朗と博希の見知った顔もある。向こうもすぐにこちらに気づいて、手を振ってくれた。
「筒井、沼田。久しぶりだな」
「おっす、入江! すっかり礼高の制服似合うようになって!」
「進学してから会うの、初めてだな。元気そうでよかった」
中学三年のときに同じクラスだった入江新が、同じ学校の友人たちと席をとっていた。手元には教科書とノートが広げてあったので、勉強会でもしていたのだろう。新は勉強ができるので、おおかた一緒にいる二人に教えていたというところか。
「あ、同じクラスの友達なんだ。シノとアキ」
同じ席の二人を、新はそう紹介した。すると呆れたように笑いながら、彼らは改めて自己紹介をしてくれる。
「ちゃんと紹介しろよ。オレは志野原飛鳥」
「遠山秋公です」
片方は昔に河川敷で一緒に遊んだ仲間に、ときどき混ざっていた気がする。けれどももう片方は完全に初対面で、けれども最近の町の噂で名前だけは覚えがあるので、きっと最近来たという人物だ。この狭い町では、噂が広まるのも早い。
「入江に同性の友達がいて安心したぜ……。筒井朗だ」
「沼田博希。まあ、中学の時の入江は女子に囲まれてたからな」
「それ今もだよ。須藤と加藤に園邑さん、たまに笹木も加わるか」
「なんだ、変わってないじゃん」
そして意気投合も早い。学生同士ならなおさらだ。
けれどもそれでも、新のような人物はなかなかいない。
別の席に落ち着いてから、朗と博希は出してもらったほうじ茶を前に、しばらく新たちのいる席を眺めていた。聞こえてくるのは、賑やかな会話だ。「新、変に頭良いもんな」「変って何だよ、シノ」「じゃあ次の問題解けなかったら、飛鳥の奢りってことにしたら」……どこか懐かしいやりとりだ。
「名前で呼ぶんだな」
注文したこの町の名物「おにまんじゅう」がきてから、朗はぽつりと呟いた。
「そういえば入江、牧野のこともマキって呼んでたな」
答えてから、博希はおにまんじゅうを頬張る。表面に焼き付けられた鬼のイラストが、無残にも半欠けになった。
「俺たちのことは苗字呼びだったのに」
「俺たちがそうしてたからな。入江が合わせたんだろ」
新は遠慮なく、楽しそうに、友人たちの名前を呼ぶ。友人たちから名前で呼ばれる。それはまるで、かつての朗と博希のようだった。名前で呼び合っていた、小学生の頃までの。
……沼田はさ、なんで急に俺のこと、筒井って呼ぶようになったの」
「え?」
「中学の入学式の日。俺が声かける前に、お前が先に言ったんだ。『同じクラスだな、筒井』って。その前日までは朗って呼んでたのに」
その記憶は、今でもなかなかに鮮明だ。色も音も、頭の中で違うことなく再生できる。――博希の中では、どうなっているのか知らないが。
「それは……
「いや、言わないでもわかる。あのとき周り、結構苗字で呼び合ってるやつ多かったもんな。小学校を卒業したのと同時に、男子連中は名前で呼ぶのも卒業したんだ。……でも俺、今でも親にお前のこと話すときは、博希って言ってるんだぜ」
自分より頭の良い博希のすることだから、きっとそれが正しいのだと思った。だから朗も、そのときから博希を「沼田」と呼ぶようになった。いつしかそれにも慣れたが、やはりどこかでひっかかっていたのかもしれない。
「なあ、沼田。俺の名前、覚えてた?」
中学の三年間では、とうとう博希の口から「朗」という呼びかけを聞くことはなかった。それが当たり前になった。だから忘れてしまったのかとも思ったのだ。
……お前」
「ごめん、入江見てたらなんか変なこと思い出した。気にしないでくれ」
我ながらキャラに合わないことを言っている。それを自覚したら急に恥ずかしくなって、朗は一気にまんじゅうを口に詰め込み、ほうじ茶で流した。御仁屋のまんじゅうをこんなふうにして食べるのはとてももったいないと思いながら。
そこへ飛び込んできたのは、溜息交じりの、博希の台詞だった。
「馬鹿だな、お前」
その通りだよ、と答えようとした。けれども喉にまんじゅうが引っかかって、すぐには声にできなかった。正面にあった顔がぐっと近づいてきたのは、その一瞬。
驚く間すら与えられず、朗の耳元で、久しい声が響いた。
「覚えてるに決まってるだろ、朗」
それはたしかに、彼が呼ぶ、自分の名前。
顔が離れていって、またもとの距離に戻ってから、博希は今度は深い溜息を吐いた。
……言い訳ぐらいさせろ。当時はたしかに周りがみんな互いを苗字で呼び出して、それが大人っぽい、中学生らしいことなんだって変な認識があった。だから、今まで通りお前を呼ぶのが恥ずかしくて、俺もそれに倣ったんだ」
「いや沼……じゃなく博希……、今お前がしたことのほうがよっぽど恥ずかしいぞ」
急に顔を近づけて耳元で囁くなんて、どこの少女漫画のカップルだ。周りの客は見てみぬふりをしてくれているが……いや、新たち三人は目を丸くしてこちらを見ていた。はっきりと今の現場を目撃していた。
ところが博希は平然と、いやほんの少しだけ顔を赤くして、言ってのけた。
「朗相手に恥ずかしいことなんか何もなかった」
名前を呼ぶことすら恥ずかしがっていた口が言うことか、と思ったが、朗はそれ以上声が出せなかった。さっき彼を博希と呼んだので、もう精一杯だったのだ。

この町は狭い。噂はあっという間に広がるし、たくさんいる子供のネットワークは侮ると痛い目を見る。御仁屋での一件は翌日には互いの高校に当然のように広まっていて、朗は改めて恥ずかしい思いをすることになった。
博希はどう思っているのだろう。頭の良い彼のことだから、さらりとかわして、何事もなかったように振る舞えるのかもしれない。昔から、幼い頃から、そんなやつだったから。
そんなふうに思えることは、たぶんこの先何度でもある。進路が分かれて、しばらく会えなくなっても、思い出は何度だってよみがえる。
だって、こんなに狭い町の、密なコミュニティでのことだ。忘れられるわけがない。
「博希にまともに会えるのは、もうちょっと時間置いてからだな……
今度はどこで、どんなふうに、「朗」と呼ぶ声が聞けるだろう。