お盆に間に合うように帰省して、親戚と顔を合わせてから、そのあとの土日に夏祭りに参加した。実家の店を久しぶりに手伝いながら(思ったよりも仕事はちゃんと覚えていた)、町の人たちと言葉をかわしながら。
「和人君、おかえりなさい。顔を見られて嬉しいわ」
「お久しぶりです。憶えていてくれてありがとうございます」
「忘れるわけないでしょ。和君に会えるのを楽しみにしてたんだから」
店の常連さんたちや、商店街の人々は、和人に会うと笑顔で挨拶をしてくれる。和人が帰ってきたことを知ってやってきた後輩たちは、大歓迎してくれた。やっぱり和人の居場所はここだ。この礼陣の町なのだ。それを実感できたことが、この帰省で一番良かったことかもしれない。
『独り暮らし、そんなにストレスだったの? 帰ってきてからずっと動きっぱなしね』
相変わらず和人にしか姿の見えない双子のきょうだいの美和は、呆れたように、けれどもやっぱり愉快そうに笑う。
「日常ががらっと変わったんだ。美和や流の力を借りないで、自分で人間関係もなんとかしなくちゃいけなくて、正直とても疲れたよ。でも礼陣に帰ってくれば、楽になる」
『だったらピアスなんかあけなきゃよかったのに』
「これはいいんだ。流とも美和ともおそろいになったから」
右耳に銀色のピアスを光らせて、和人も笑い返す。
夏休みは九月いっぱいまでだ。新学期の準備があるからもっと早く戻らなければならないが、それまでは礼陣にいられる。この町で暮らせる。独りに怯えることはない。
「和人、お店閉めるわよ」
「わかった」
『掃除、丁寧にやりなさいよね。私の分まで』
礼陣の町は、ひたすらに和人に優しい。

困ったのは、常日頃からの癖で、夜中に出歩きたくなることだろうか。
少し寝苦しくもあって、真夜中に目が冴えてしまい、布団を抜け出した。部屋着からTシャツとジーンズに着替えて、部屋を抜け出そうとすると、美和もついてきた。
「寝ないの?」
『あんたと同じで、私も夜に出歩く癖がついちゃってね。どうせなら一緒にコンビニでも行こうと思って』
「行っても美和じゃ自動ドア反応しないじゃないか」
『すり抜けられるようになったから問題ないわよ』
声に出さずともお喋りができるのは、自分たち双子の特権だ。両親を起こすことなく、会話しながら家を出て、静かな夜の町に出た。
大学がある社台地区は夜中でも比較的賑やかだが、和人たちの実家のある駅裏商店街をはじめとする多くの地域は丸ごと寝静まっている。人間も鬼も休む時間だ。中央地区にある町議長宅、親友の流の実家も、今頃はすっかり電気が消えているはずだ。あの家は父親が厳しいから。
商店街を抜けて、駅のほうへやってくると、まだ明かりが見える。コンビニエンスストアや深夜営業の飲食店が多くなるためだ。駅前のコンビニに入ると、まぶしくて思わず目を細めた。独り暮らしをしている町では、夜でも明るい町に慣れていたので、まぶしいとも思わなかったのに。
レジカウンターの向こうでは大学生アルバイトと思われる人物が、適当な調子で「いらっしゃいませ」と言った。
「改めて、礼陣って田舎だなあと思うよ」
アイスクリームのケースにまっすぐ向かい、和人が心の中で呟く。美和はそれをちゃんと受け取って、ちょっと誇らしげに笑う。
『もちろん褒めてるのよね?』
「褒めてるよ」
美和が食べないくせに好きだという、しゃりっとした食感のアイスクリームを手に取って、レジへ向かう。いや、向かおうとして、足を止めた。
そういえば、店員がもう一度「いらっしゃいませ」と言っただろうか。人間は和人と店員だけだと思っていた店内に、いつのまにか人が増えていた。明るい茶色に染めた髪をサイドでまとめ、Tシャツにパーカーを羽織っている。ショートパンツからさらした長い足の先には踵の高いミュール。派手な顔は化粧のせいだけでなく彼女のもともともっているものだと、和人はよく知っていた。
睫毛の長い目を弧にしているくせに、その奥の瞳は相変わらず笑っていない。和人を見る時は、いつだってそうだった。
「久しぶりね、水無月君」
……鏡さん。変わってないね」
なんとか笑みを返す和人だったが、表情筋はぎこちない。美和はその状況に、思わず額をおさえた。
『やばい……。なんでこんな時間に出歩いてるのよ、鏡美果……
昔からちっとも変わらない彼女は、和人の、そして和人と心を同じくする美和の、礼陣で唯一の天敵だった。

小学校が、同じ中央小学校だった。和人と、流と、それから美果。三人が同じクラスになったのは、五年生のときだ。もっとも、美果のほうはそれ以前から流のことを知っていたようだったが。
それは何も特別なことではない。町議員を祖父にもち、自身も積極性と面倒見の良さから児童会役員を務め、目鼻立ちがはっきりしていて大抵の人が「かっこいい」と評する外見と優秀な運動神経を備え、一方で書道を嗜んでいるという意外性もある流は、学校中の人気者だった。彼に憧れる女の子だって、それこそごまんといたのだ。
けれども流はそんな女の子たちよりも、和人と一緒に遊びまわり駆け回ることを選んだ。和人も見た目には整った顔立ちをしていて、剣道の腕も急速に上達していたのでそれなりに慕われてはいたが、流のことを好きな女の子たちからは多少のやっかみを受けていた。思えば昔から、流の隣は和人の特等席だった。
美果もその席を欲しがる一人で、和人をあからさまに邪魔者として見ていた。誰よりもわかりやすかった。流と和人が話をしていればそのあいだに割って入り、流にくっつこうとした。その行動は同性からもあまり良く思われていなかったようで、結果、友達の少ない彼女は流にさらに絡むようになった。
そのあいだ、和人は美果に邪険にされている。根は気弱で人見知りをする和人のことだから、美果の強引さにはあっさり負けてしまった。美和は『何よ、この女!』と憤っていたが、所詮は和人にしか見えない存在だったので、何もできなかった。
幸いだったのは、流が美果に靡かなかったことだろう。彼女が割り込んできても、彼は冷静に「今、俺、和人と話してるから。ごめんな」と応えていた。密着する彼女をやんわりと離し、すぐに和人との会話に戻ろうとしてくれた。何人もの女の子から様々なアプローチを受けている流は、彼女らをかわす術を小学生にして心得ていた。そのことは和人も美和も素直に感心している。
だが美果は他の女の子とは違って、全く諦めなかった。ひたすらに流に接近し続け、和人を引き離そうとした。流と一緒に帰るために、和人を「先生が呼んでた」と騙したこともある。いや、それだけならまだかわいいもので、ときには怪我をさせられそうになることもあったのだ。和人が学校を休めば、その日は流の隣は空き、美果が入りこめるはずだった。――そんなチャンスは与えなかったが。剣道を始めて以来、和人は一度しか病気や怪我での欠席をしたことがない。
ただ、とにかく強引な美果を、和人は、もちろん美和も好きではなかった。というより、苦手だった。

「礼陣に帰ってきたってことは、流とも会ったんでしょ?」
苦手な美果は、今、なぜか和人の隣でアタリ付きのアイスバーを齧っている。適当に挨拶をしてさっさとコンビニを出ようと思ったら、会計にも、退店にも、そのあと駅前広場に向かうのにも彼女はついてきた。嫌っているはずの和人の後ろを、ぴったりと。
木のスプーンでアイスクリームを掬いながら、和人は「どうしてこうなったんだろう」と思った。それに対する美和の答えは、『さあ?』だった。
和人が「礼陣に帰ってきた」ことを知っているということは、県外に進学したことは知っているのだろう。商店街で結構騒がれたので、知っていてもおかしくはない。
「会ったよ。……鏡さんは、ずっと礼陣にいたの?」
「あたし、中学からずっと北市女だから。今は北市女学院大学の学生よ」
「そうなんだ」
「同じ町にいるのに、流とは全然会えないけど。妹ちゃんはたまに見るんだけどね」
流から話を逸らそうとしても、彼女はそうさせてくれない。当たり前だ、彼女の目的は和人ではなく、流なのだ。昔も、そしてきっと今も。
「ねえ、水無月君はずっと流と連絡とってたの? この町から出ていってからも?」
……そうだね」
「相変わらず仲良いんだ。いいね」
がり、と氷を噛む音が聞こえた。和人の食べているアイスクリームの食感は、隣からの音に見事にかき消された。
「仲良すぎて、気持ち悪い」
笑い交じりの声が刺さる。この台詞を流のいないところで吐くその調子は、本当に変わっていない。いっそ懐かしさすら覚えて、和人は眩暈がした。
「いいかげん流につきまとうのやめたら? もう大学生なんだし、いつまでもつるんでるのってどうかと思うよ。それも離れてまで。流に必要なのは後ろをついてまわる男友達じゃなく、献身的な彼女だと思わない?」
「それは、君みたいな?」
「そうね、例えば、あたしみたいな」
よくもここまで変わらずいられるものだ。そして相手も変わっていないと信じられるものだ。たしかに和人は根本こそ変わっていないが、耐性はついている。皮肉にも、隣の彼女のおかげで。
「流は彼女はつくらないよ」
それから、確固たる事実のために。
「どうしてよ。あんたがいるから?」
「そうだよ。僕がいるから」
今の和人は堂々と言い返せる。だって、流が和人を選んでくれたのだ。それ以上の自信はない。
怯まずに見つめ返してやると、明らかに美果は動揺していた。
……付き合ってるとか言わないでよ」
「申し訳ないけど、付き合ってるよ」
「なにそれ、気持ち悪い」
「君がどう思おうと勝手だけど、事実だから」
アイスクリームはとけてしまった。もったいないけれど、今日は諦めよう。どろどろの液体が満ちたカップをコンビニの袋に丁寧に入れてしっかりと口を閉め、傍にあった屑籠に入れた。それから美果にもう一度向き直って、笑みを浮かべずに言った。
「女の子が一人で夜中に出歩くの、危ないよ。この町だって全く平和な田舎じゃないんだからさ」
広場の出口に向かって歩き出す。もう一秒だって、この場にはいたくない。

商店街入口のアーチをくぐったところで、和人は大きく息を吐いた。ここまでまともな呼吸ができないまま歩いてきたので、とても苦しい。それを美和が笑顔で労ってくれた。
『言ってやった! あの鏡美果に、堂々と宣言してやった! ああ、すっきりした! お疲れさま、和人』
「怖くてたまらなかったよ。やっぱり僕、鏡さんは苦手だ……
苦手だけれど、美和が爽快感をもっているということは、和人もそうなのだ。長年言えなかったもやもやを、今夜一気に吐き出せた。
美果がこれからどんな行動に出るかはわからない。流に接触して事実を確認しようとするかもしれないし、和人がこんな妄言を吐いていたと周囲に吹聴するかもしれない。流には迷惑がかかるかもしれないが、事情を話せば許してくれるだろう。
再び歩き出して、自宅を目指す。美和は隣にいて、歩調を合わせてくれている。流が一緒にいる時、和人にそうしてくれるように。
「鏡さん、一人で置いてきちゃったけど大丈夫かな……
『大丈夫じゃないの? 歩き慣れてるわよ、あれ』
「でも一応は女の子だし」
『じゃあ戻って送り届ける?』
……それは、ちょっと」
『でしょ?』
美果を変わらないと思ったが、やはり和人だって変わっていないのだ。苦手なものは苦手だし、人見知りは激しいし、美果の言葉には気圧されかけた。今日はもう、これ以上行動することはできない。エネルギー切れだ。
とりあえずは苦手な彼女の無事を祈って、帰って寝ることにした。歩いたおかげか、ちょうど良く眠気が襲ってきている。
自宅に到着し、部屋に入って着替え、布団に潜ってから思ったのは、アイスクリームがやっぱりもったいなかったな、ということだった。どうせまた眠れなくなるだろうから、そのときはちゃんと最後まで食べよう。今度は流を夜の散歩に誘ってもいいかもしれない。
夏休みは、まだ長い。礼陣での夜は、しばらく続く。