一学年上の先輩たちを見送ったのは、ついこのあいだのことだ。御仁屋でちょっとした卒業祝いをした次の日から、隣町に就職する大助は慌ただしく引っ越しを始めたようで、同じ地区に住んではいるがほとんど会わない。亜子はその手伝いをしているそうだ。
話が聞こえてくるだけで、実際のところはわからない。こっちはこっちで――三年生への進級を目前に控えた海は、それなりに忙しい。
去年の秋から、剣道部の主将をつとめている。かつて憧れていた先輩と同じところに立てたのは嬉しい。責任は重いが、それも先輩たちが経験してきたことだと思えば苦ではない。春休み中も部員を学校の道場に集めて、稽古をしている。
太陽が高くのぼり、春の柔らかな日差しが降り注ぐ。道場の中はちょうど良く暖まっており、動いていなければ眠ってしまいそうだ。
「もう昼か。一旦休憩にしよう」
キリのいいところで時計を確認して、海が声をかけると、部員たちは外に昼食を持って行ったり、適当な教室を探すために校舎に移り始めた。他の部の部員と顔を合わせ、一緒に昼休みを過ごす者もいる。弓道部が出てきていれば、海も連を探すのだが、今日はいないらしい。同じ部の黒哉は、部活は午前中までで切り上げて、アルバイトに行ってしまった。
一人の昼食でも別に気にならないが、さて、どこで食べようか。自分で作ってきた弁当を持って校内をうろついていると、いつのまにか階段を上って、校舎の最上階に着いていた。さらに上に行くと、屋上に出る扉がある。先輩たちはここにこっそり集まって昼休みを過ごしていたらしいが、彼らが卒業した今、扉は閉鎖されている。
「開いてたら、行ってみたのにな……
呟いても、扉は開かない。やっと同じ立場になれると思って喜んだはずなのに、それだけが悔しかった。彼らがいたのと同じ場所には、自分は行けない。
回れ右をして、また空き教室を探して特別教室棟へ向かう。廊下を歩きながら教室を覗くが、どこで休む気にもなれなかった。このまま歩きまわって時間を潰そうかと思ったとき、どこかから声が聴こえてきた。いや、歌だ。誰かが歌っている。
「音楽室……?」
何も考えずに歩いていたから、そこが近いことに気がつかなかった。その教室の前に、鬼たちがかたまっていることも。
「何やってんだ……
半ば呆れていても、耳に入ってくる歌声はきれいだと思った。鬼たちがこぞって聴きに来るのも頷けるそれは、知っている声だった。いつもすれ違う時にはきちんと挨拶をしてくれる、明るい声。友人たちと楽しげに話している、高いのに柔らかい声。
その声が奏でるのは、少し懐かしい合唱曲のソプラノパートだ。
立ち止まって聴き入っていると、声がぱたりと止んだ。ハッとして足を引こうとしたとき、音楽室の戸が向こうから開けられた。そこには思った通り、ふわりと髪を揺らした少女がいた。
……海先輩? どうしてここに、そんな恰好で?」
「ええと、千花ちゃん、これは……
首を傾げる千花に、とっさに言い訳ができない。今が部活の休憩時間で、袴姿のまま校内をうろうろしていたというだけのことなのに、どこから話せばいいのかわからなくなってしまった。しばらく迷っていると、先に千花が、ふふっと笑った。
「これからお昼ですか? それとももう終わりました?」
海の持っている、弁当箱を指さしながら。
「これから、だけど」
「そうですか! よかったら一緒に食べませんか? 私、ちょうどお腹が空いたなって思ったところだったんです。……よかったら、ですけど」
僅かに俯いた千花の申し出を断る理由はなく、断ったら周りの鬼たちから大ブーイングを受けそうな気配もあった。海は苦笑いをしてから、千花に「いいよ」と答えた。
「じゃあ、一緒に食べようか」
「嬉しい! 独りで静かにもいいかなって思ってたんですけど、やっぱり寂しくて。どうぞ入ってください」
促されるまま音楽室に入り、適当な席につく。すると千花が鞄から自分の弁当箱を取り出して、近くに座った。可愛い刺繍の入った包みを解きながら、「鬼さんたちを呼ぼうかとも思ったんです」と言う。
「もう私じゃ、ほとんど見えないんですけど。でも一応と思って廊下に出てみたら、海先輩がいるんですもん、びっくりしちゃった」
千花は、そして海も、この町の陰の住人「鬼」を見ることのできる「鬼の子」だ。ただし、海にはまだその姿がはっきりと見えるが、千花にはもうおぼろげにしか彼らを認識することができない。鬼の子でも、人によって鬼と接触できる期間の長さは違う。
さっき音楽室前にかたまっていた鬼たちも、ほとんどは千花の眼には映っていなかったのだろう。あんなにたくさんいた鬼よりも、海のほうが先に目に入ったのがその証拠だ。
「他の合唱部員は?」
「春休み中は、本当は練習ないんです。でも、私は家にいてもあんまりやることないし、ちょうど莉那さんのおうちも旅行中で誰もいないので、行くあてもなかったので……それなら学校にでも行こうかなって。運が良ければソフトボール部とか陸上部が練習してるかもしれないし」
でもどっちもいませんでした、と困ったように笑ってから、千花は丁寧に手を合わせて「いただきます」と呟いた。海もそれを追うようにして、「いただきます」と言う。
音楽室には、内から外から色々な音が響く。プラスチックの弁当箱と箸がぶつかる音から、遠くで何か叫んでいる運動部の声まで。もちろん海には、まだ廊下に溜まっている鬼たちの囁きも届いている。こちらは聞こえるというよりも、頭の中に流れ込んでくるような感じだ。それがあんまり賑やかなので、今この場にいる人間は二人きりなのだということをつい忘れてしまう。だから、不意の千花の声にはハッとさせられる。
「海先輩のお弁当、美味しそうですね。自分で作ってるって、春ちゃんから聞いたことあります」
そう言う千花がつつく弁当は、色々なおかずが少しずつ入っている、なかなか豪勢なものだった。美味しそうというなら、そっちこそだ。
「俺のは昨夜のおかずの残りとか、そういうのだよ。父と一緒に作ってるから、全部自分でやってるわけじゃないんだ」
「それでもすごいです。私のは莉那さんのお家から分けてもらったおかずや、商店街で買ったお惣菜を詰めただけなので。私はお料理下手なんですよ。それこそ春ちゃんや詩絵ちゃんが頭抱えて呆れるくらい」
お父さんと二人暮らしなのに、と尋ねかけて、思いとどまった。それぞれ家庭の事情は違うのだから、こんなことを無遠慮に口にするのはいけない。
そう思ったのだが、千花のほうから話してくれた。
「おかしいですよね、私、お父さんと二人暮らしなのに。それどころかお父さんも普段お仕事が忙しくてほとんど家にいないのに、私は家事が本当に下手で……。小さい頃から莉那さんの家に頼りすぎたんですね、きっと」
莉那は千花の家の隣に住んでいる、海の同級生だ。彼女はとくに料理が苦手というわけではなかったはずだから、千花が「頼りすぎた」というのはそのまま本当のことなのかもしれない。
「海先輩は偉いです。春ちゃんも。自分のことが自分でちゃんとできるって、当たり前のことが、私にはうまくできないから」
それが許される環境にあったのだから、そういうふうになってしまうのは仕方ない部分もあるだろう。千花が頼りすぎただけではない、周りも彼女を甘やかしすぎたのだ。――海はどうしても、そんなふうに考えてしまう。自分がひねくれているのは自覚している。
「千花ちゃんだって、今からでもやればできるよ。手始めに、今日の夕飯でも作ってみたら? 莉那さんもいないんだし、さ。がんばって作った夕飯が用意してあったら、お父さんも喜ぶんじゃない?」
「そうでしょうか……。ううん、できるかなあ。春ちゃんに簡単なレシピ教えてもらおうかな……
「俺で良ければ送ろうか? 春が作れるもののいくらかは俺が教えたはずだし」
「わ、ありがとうございます!」
海が箸を置いて、代わりに携帯電話を取り出すと、千花も慌ててそれに倣った。連絡先を交換して、さっそく今夜作ろうと思っていたメニューとレシピを送る。ごく簡単なものなので、たぶん千花でも作れるだろう。ずっと昔に春にも教えたものだが、当時の春はすんなりと覚えて完成させていたはずだ。
受信したレシピを一通り眺めようとしていた千花に、先に弁当を食べてしまうよう勧めると、また慌てて食べ始めた。そんなに慌てなくてもいいのに、と思いながら時計を確認すると、けれども今度は海が青ざめる番だった。
「やばい、そろそろ休憩終わりにしないと……!」
「あ、結構時間経ってたんですね。引き留めちゃってすみません」
「いや、千花ちゃんのせいじゃない」
急いで弁当箱の中身を口に放り込み、水筒に入れてきたお茶で一気に流し込んだ。行儀は悪いが、今は仕方がない。部長である海が戻らなければ、部員に申し訳が立たない上、あとで話を聞いた黒哉に呆れられることは必至だ。
「レシピでわからないことがあったら、気軽に連絡くれて良いよ」
「はい! ありがとうございます!」
「それと、歌、すごく上手だった」
千花の返事を待たずに、それだけ言って音楽室を飛び出した。ここから道場までは距離がある。廊下をこんな姿で走ったことが尊敬する先輩に知れたら叱られるだろうな、と思った。

びっくりした。心臓が口から飛び出すかと、本気で思ってしまった。
春休みにちょっとした気まぐれで学校に来て、一人でのびのびと音楽室を使える楽しさと、やっぱり合唱曲を一人で歌うのは寂しいし物足りないなという気持ちの両方を味わっていたところだった。鬼でもいないかなと、ふとドアを見ると外に誰か立っていて、先生かな、と気軽に開けてしまったのだ。
まさか海がそこにいるなんて、まったく思いもしなかった。
……緊張したあ……
また一人に戻った音楽室で、少しだけ中身を残した弁当箱を見つめながら呟く。さっきまで、とにかく間をもたせなければと必死で喋っていたせいで、喉がからからだ。食べ物も半ば無理やり飲み込んでいた。
変な話をしてしまった気がする。料理もできない、依存心の強い面倒な女の子だと思われたかもしれない。いや、絶対に思われた。なにしろ海は、なんでも自分でこなせる「きちんとした人」なのだ。評価はきっとマイナスだった。
……でも」
でも、最後の言葉は、嬉しかった。歌を褒めてくれた。彼が合唱コンクールを頻繁にやることで知られている遠川小学校の出身で、歌は聴き慣れているから、褒められるのが嬉しいというのはもちろんだ。でも、そんな前情報がなくても、海に褒められたということが素直に誇らしくて、嬉しくて、自然と口元がにやけてしまう。
一緒に昼食をと、誘って良かった。応じてくれて良かった。同じ時を過ごせて、幸せだった。――こんなに彼のことが好きだということを、当人に知られてはいけないのだけれど。
「気づかれて、ないかなあ……
気づかれてないからこその対応だと思う。女の子が苦手な海が自分に付き合ってくれる理由は、彼の妹分である春と友達で、そのおかげで妹と同じように扱ってもらっているからだろう。だから喋ってくれたし、連絡先も教えてくれたのだ。――気軽に連絡くれていい、なんてそうでもなければ言ってくれない。
伝えられない気持ちを抱えながら、千花は携帯電話の画面を見る。海の送ってくれたレシピが表示されたままになっていたので、ゆっくりと画面をスクロールさせて、目を通した。なるほど、この通りにやれば、美味しい夕食が作れるかもしれない。調理時間や火の加減、調味料の量も細かく書かれている。ちょっとくらいわかりにくいところがあってくれたほうが質問もできたのにな、と溜息をついてしまうくらい。
せめてお礼のメールを送るくらいは許してもらえるだろうか。いや、むしろお礼はちゃんとしたほうがいいだろう。それからもう少し、お話ができれば……と贅沢なことを考えてしまう頭を自分で小突く。
想いが伝わらなくてもいい。妹分の一人のままでいい。そう言いながらも幸せな時間を求めるのは、わがままだと知っていても、それでも。
春休みが終わったら、海と過ごせる最後の一年が始まる。