ぐるりを山に囲まれた町、礼陣。ここには人間と鬼の二種類の人が暮らしている。しかし鬼たちは多くの人間からは姿を隠し、陰の存在として生きている。それがこの町の「あたりまえ」で、誰も疑わない「事実」だ。
人間も鬼も賑やかに町を歩く昼間は、美和は水無月呉服店の店先に立つ。人間を眺め、鬼を眺め、その営みを、そこにある想いを探して掬いだそうとする。そこになぜこの町に鬼が存在するのかという疑問を解く、大きなヒントがあると信じて。
けれどもただ一人で考え続けるばかりでは、結局堂々巡りになってしまう。安易なひらめきは新たな疑問を生み、疑問はさらに美和を悩ませる。必要なのはより多くの情報だ。
疑問が晴れなければ、美和は自分が鬼に成ることに納得ができない。ただ鬼に成るだけでは、本当に救いたいものが救えない。――心に鈍い痛みを抱え続ける鬼たちを、彼らを助けろと言った子鬼を、鬼たちが守ろうとする人間を、全て救いたいと美和は思う。そんなスーパーヒーローみたいなことが実際に可能かどうかはさておき、美和にできることは精一杯やりたいのだ。
人間の魂と鬼のはざま、人鬼である今のうちに、できることをやっておきたい。今しかできない方法があるなら、それを試したい。美和はそんな思いで動いている。
できることの一つを、先日実行してみた。負の感情に身を染めた呪い鬼、葵と呼ばれる彼女に、会いに行ったのだ。美和をすげなく追い返そうとするところに懲りずに縋り、なんとか話をすることに成功した。そして、葵が本当は単なる呪い鬼ではなく、情のある鬼なのではないかという結論に達したのだった。
しかし本来、呪い鬼に会いに行くというのは危険なことだ。呪い鬼は負の感情によって自らの力を暴走させてしまった鬼で、人間や鬼に危害を加える恐れがある。葵はその呪い鬼の中でも一等恐れられている、最強の呪い鬼だ。本人から聞いたことによると、実際に彼女は鬼を喰らって呪いをさらに溜めこむなどしているという。喰らいやすいように、わざわざ普通の鬼を呪い鬼に貶めることまでして。これは自覚のある暴走にあたるが、彼女は話が通じないわけではなかった。
『近付いてみなきゃわからないことだってある。なにが最悪の呪い鬼よ。……そりゃあ、ちょっとは怖い思いもしたけど、葵さんはちゃんと情報をくれるじゃない』
自分も葵に喰われかけたというのに、美和はすっかり葵を「普通の鬼」として見ていた。だから彼女と会うことを咎められるのは、納得がいかない。けれども見つかれば絶対に止められると予想できてしまうから、美和は人間も鬼も眠る夜中に動く。
静まりかえった道を行き、町の剣道場「心道館」に忍び込み、彼女のいる部屋へ手を伸ばす。
『……うわ、抵抗きつ……』
前回は扉を抜けようとして、途中で向こうから引きずり込まれた。だが今回は入らせまいとしているようで、なかなか抜けられない。こちらとあちらを隔てるのは、襖たった一枚なのに、それを通るだけでかなりの力を消耗しそうだ。ただでさえ美和は扉を抜けるくらいの、半端な力しか持っていないのに。
それでも諦めるという選択はしない。無理やり腕を通し、体をねじ込んで、葵の部屋へと潜り込んだ。
葵はその力ゆえに、進道家のとある部屋に封印されている。向こうから出てくることはないので、会うためにはこちらから出向かなければならない。
もっとも、美和に対して、彼女は拒否を示しているようだが。
『こんばんは、葵さん!』
めげずに声をかけるが、視界は真っ黒な煙に閉ざされている。葵の操る負の気が実体化したものだ。こうして壁を作ることもできれば、相手を取り巻いて動きを封じることもできる。美和の四肢は腕のように蠢いた煙に絡めとられ、その場に縫い留められた。
『おっと、手荒い歓迎……』
『全く歓迎してないわよ。もう来るなって言ったのに』
煙の壁の向こうから、冷たい声が響いてくる。この声を待っていた。美和は身動きが取れないまま、にんまりと笑った。
応えてくれれば、こっちのものだ。
『何度だって来るよ。葵さんと話したいもの』
『こっちは話したくないの。わかったらさっさと出ていって』
『えー、せっかく頑張って抜けてきたのに……。葵さんが話したくないなら、今日は私が一方的に話していきます』
『出ていけって言ってるのに』
封印されている葵には、美和を部屋の外へ出すことはできない。それをいいことに、美和はここに居座ろうとしていた。
相手に心を開いてほしいなら、まずは自分が素性を明かすこと。前回はその鉄則を忘れていた。今、美和が葵に明かしている情報は、自分が十四年ものあいだ人鬼でありつづけているということと、牡丹と名付けた子鬼と深い関わりを持っているということくらいだ。葵に教えてほしいことに比べたら、あまりにも少なすぎる。
だから美和は、今日は一人で勝手に喋っていくことにした。美和自身のことについて、たっぷりと。
葵がそれを聞いているかどうかは別として。――たぶん、なんだかんだで聞いてくれるのだろうと、こちらは勝手に思っている。
『私ね、水無月呉服店の長女なんです』
拘束は解かれない。手足を押さえられたまま、美和は語り始めた。相手はいまだに姿を見せていない。
水無月呉服店の長女、になるはずだった。人間として生きていれば。
美和はもともと人間だった。人間として母から生まれてきたのだが、すぐに呼吸と心臓を停めてしまった。人生はたった数分で終わった――はずだった。
ところが魂はこの世に留まり、五年ほどで人鬼としてのかたちを与えられた。人鬼は鬼との交流は可能だが、いかなる人間にもその存在を認められないというのが基本だ。しかし美和の姿は、実の弟(本人は自分が兄だと思っていたようだが)にのみ見えた。言葉をかわすこともできた。そうして彼の内気な性格を、ずっと傍にいて支え続けていた。
それはたぶん、美和の存在を支えることにもなっていた。人鬼は鬼に成らなければ、人間に認められないまま消えてしまう。そう教えてくれたのは葵だった。美和が消えずにいられたのは、弟が美和の存在を認めて、ときに頼ってくれていたからだ。
弟の人間関係構築を手伝い、実家と認識している店を弟を通じて手伝いながら、美和は成長してきた。人間のように身長が伸び、体つきもだんだん変化して、弟と一緒に育ってきた。そうして過ごした年月が、実に十四年。弟が進学のためにこの町を離れるまで、いや、離れてからも、美和は水無月呉服店の店先に立ちながら日々を過ごしている。
子鬼の牡丹とは、人鬼になってから出会った。牡丹は美和にとって、初めての鬼の友人であり、鬼の世界を教えてくれた師でもある。美和が人間の世間というものに染まりながらも、人鬼という自覚を持ち続けていられたのは、牡丹のおかげだ。
その牡丹が、どうしても教えてくれないことがある。一人で抱え込んで、けっして打ち明けないことがある。それが葵との関わりのことであり、美和はそのことを他の鬼から聞いて初めて知った。
鬼に成る修行という名目で、美和は神社の鎮守の森にいる多くの鬼と接している。鬼と交流し、彼らが呪い鬼にならないまでも抱え続けている後悔や息苦しさといったものを、少しでも和らげようとしている。それを美和に託したのは牡丹だが、美和は牡丹とてその例外ではないと思っている。
そして、葵も。彼女もまた、苦しみ続けている鬼の一人だ。だからこそ、長い間呪い鬼でい続けているのだ。
美和は鬼たちを救いたい。それが自分にできることならば、そうしたい。
『……だから、葵さんのところにも通おうって思ったんだよね。もちろん訊きたいことがあるからっていうのもあるんだけど』
語っているうちに、いつのまにか拘束は解けていた。美和はただ立ったまま、分厚い煙の壁に向かって話し続けていたのだった。
反応は無しか、と溜息を吐く。少し自分のことを話しただけで、葵が心を開いてくれるとは思っていない。何を言っているのかと呆れているか、放っておけば出ていくだろうと相手にしていないか、といったところだろう。
けれどもここで帰ってしまうのは惜しい。美和はその場に座り、煙の壁の向こうを見つめた。夜はまだ長い。やってみてわかったことなのだが、鬼は眠らなくても生活に支障は出ない。ただ休まない分、力が少し削られるようだった。
まして呪い鬼の空間の中に一晩いて、力を消耗しないはずはなかったのだが、そこは美和が半端な存在であることが幸いしたのだろうか、大きく力を失ったような気はしなかった。
あるいは、美和が鈍いだけなのかもしれないが。
しばしそのままでいると、ほんの少しだけ壁が薄くなったように見えた。長い髪の、女性の姿の鬼のシルエットが透けている。思わず美和が身を乗りだすと、影はこちらに刺すような視線をくれた。まるで本当に身を刺されたかのようで、美和はその場で身を竦める。
『あなたのそれは、自慢なの?』
感情のこもっていない問いが、美和に届いた。どうやらこちらに応じてくれるようだ。粘り勝ち、といったところか。
『自慢って?』
『私は周りに恵まれています、っていう自慢をしに来たのかって訊いてるのよ』
やはり葵には、会話をする意思がある。笑みを浮かべて、美和は『自慢ってわけじゃないけど』と答えた。
『でも、環境に恵まれたのはたしかだと思う。弟がいて、子鬼がいて、私のことは見えないけれどちゃんと憶えていてくれるお父さんとお母さんがいて。だからこそ存在を保ってこられたんだろうね』
『そうね。あなたが人間か鬼だったら、妬ましくて殺してやりたいところだけれど。どうして人鬼なんて面倒なものなのかしら』
葵が溜息を吐いたのが聞こえた。人鬼をどうにかするのは、そんなに面倒なことなのか。そのおかげで美和は葵に喰われずに済んでいるのだが、ここまで見逃してもらえると、面倒を通り越して可愛がってもらっているのではないかと期待してしまう。するとその気持ちを読んだかのように、『勘違いするんじゃないわよ』とけだるげな声がした。
『人間を殺すのは難しくはないけれど力が必要で、鬼は喰ってしまえば簡単だし力を得られる。けれど、人鬼は殺すのに力が必要な上に得るものが何もないの。だから放置してあげているだけよ』
前回も聞いた話だ。人鬼を喰ってもメリットがない。だからこそ美和はここに来られる。それを許してもらったわけではないけれど、来るだけの命を持っていられる。
それはともかくとして、どうやら葵は美和の話を聞いて「妬ましい」と思ったらしい。呪い鬼になるほどだから、さぞかし不遇なことがあったのだろうとは、美和も予想していた。けれどもその内容までは想像できない。
『葵さんは、周りに恵まれなかったの?』
尋ねてしまってから、これはあまりにも失礼な物言いだったかと反省した。しかし葵は相変わらず無感情に、それを肯定する。
『ちっとも。誰も私を助けなかったし、私こそが間違っていると考えていた。……人は、異分子を排除したがるでしょう。この町だってそうなのよ。人の集まりである限り、多数の考えにそぐわないものは「間違ったもの」になるの』
葵にとっての礼陣の町は、美和にとってのそれとは景色が違うらしい。町を丸ごと恨んで呪うくらいだから、そうとうなことがあったのだろうが、美和にはとても考えられない。町はいつだって、美和には優しかったから。――美和にとっての「町」は、店を訪れる客たちのように誰もが笑顔で、弟や両親、弟の友人たちのように優しい人ばかりの場所だ。
でも、葵にはそうではなかった。
『この町はまず、母を殺した。それから私を異常と判断した』
美和がその言葉を反芻しているあいだに、葵は自らの「人生」を語り始めた。
葵には厳格な父とおとなしい兄、そして優しい母がいた。――鬼に家族がいるはずはない。葵はもともと、人間だった。
二人目の子供にして末っ子ということで、葵は母に思い切り甘えて育った。体が弱かった母だが、葵に対してはいつも笑顔で、近寄れば手を伸ばして頭を撫でてくれた。父よりも兄よりも、葵は母に懐いていた。片時も離れたくはなかった。
けれども、別れは突然訪れる。風邪をひいて体調を崩した母は、そのまま重い肺炎を拗らせて、死に至った。葵と兄が小学生の時だった。
その頃にはもう、この町にまつわるたくさんの話を知っていた。鬼がいるということはあたりまえで、彼らがこの町を、特に町の子供を守っているのだとさんざん聞かされてきた。神社の夏祭りにだって何度も連れて行かれたし、ここが里だった頃に鬼に救われたという昔話も飽きるほど耳にした。
鬼の子の存在も知っていた。片親、あるいは両親を喪った子供には、鬼が見えるようになる。それは鬼が子供の親代わりをするからだ、と説明された。普通の人間には見えない鬼が見えることは、その子が特別であるようだけれど、この町では当然のことなのだ。そうして鬼に守ってもらっているのだ。誰もがこのことを、大切な話であるかのように、葵たちに語った。
でも、葵は一方で、恐ろしい話も知った。どうしても子供を守りたいと思った親が、鬼に自らの命を差し出しているという話だ。それをこの町では、「鬼の贄になる」という言葉で表現している。特に葵の祖父母以上の世代のあいだでは、まことしやかに囁かれていた。
母の体が弱いことをわかっていた葵は、母が「鬼の贄」になってしまうことを恐れた。母を喪うくらいなら、自分なんか守られなくてもいいと、もしも母を奪うようなことがあれば、鬼というものを一生恨んでやると、そう思っていた。そしてそれは、現実のものとなってしまったのだった。
母は病で死んだ。けれどもそれと同時に鬼が見えるようになった葵には、母の席を鬼に奪われてしまったような気がした。母の葬儀で近所の人に告げられた言葉が、その思いを一層強めた。
「二人とも、つらいときはつらいって言っていいんだからね。これからは二人とも鬼の子になるんだよ。鬼たちがきっと、あなたたちを守ってくれるからね」
葵と兄に向かって告げられたそれに、葵は悲しみを忘れるくらいの怒りを感じた。
鬼は親なんかじゃない。母の場所を奪った、母の命を奪った、憎い仇だ。何が「守ってくれる」だ、葵の何よりも大切な人を取り上げておいて。
人間も、どうしてそんなに簡単に母の命を諦められるのだ。これからは鬼がいるから大丈夫などと、無責任なことを平気で言う、この町の人間も憎かった。
鬼なんか、鬼を崇める人間なんか、ただの人殺しだ。葵は思うままに、その場で叫んだ。
すると父は葵を慌てて担いでその場から引き離し、兄はあろうことか周囲に謝りだした。葵は父に叱られ、口を閉じなければならなかった。――悪いのは、葵じゃないのに。少なくとも葵はそう思っている。
以来、葵は「鬼の子」となったが、そう呼ばれるのを嫌がった。鬼の子なんかじゃない、自分は母から産まれたのだと、いつも心の中で言い返していた。
一方で、兄は「鬼の子」になったことを受け入れたようだった。鬼とも平気で会話をしているし、そこに友達まで巻き込んでいる。母が死んでもへらへらと笑っていられる兄も、葵よりも兄の態度こそが正しいと思って可愛がっている父も、葵は大嫌いになった。
しかしその思いとは裏腹に、葵の眼には鬼が映る。どんなに無視しても、鬼たちは葵に話しかけてくる。それが顕著だったのが、おかっぱ頭の子鬼――美和が牡丹と呼んでいるあの子鬼――だった。何度無視しても、我慢できずに払いのけても、子鬼は葵を訪ねてくるのだった。
しかも年を経るにつれて、葵は鬼を見ただけでその格まで判断がつくようになってきた。葵の感情が昂ると、鬼の側もそれに影響されるようだった。普通は鬼の子としての「力」、すなわち鬼を見る能力はだんだんと薄れていくはずなのに、葵の場合は一向にその気配がなかった。寧ろ強力になっているとすら感じていた。
人間と鬼を激しく恨んだ葵は、何度か呪い鬼を生み出しもした。憎しみを鬼に影響させたのだ。だからといって気は全く晴れなかったし、暴れる鬼を見て「所詮こいつらは神なんかではない」と思った。呪い鬼は神社の神主――大鬼によって祓われた。
鬼の存在をはっきりと知覚できるままに、葵は高校を卒業した。この町を厭い、出ていく決意をして、家族に挨拶もせずに荷物をまとめた。いや、もはや葵にとって、家族は家族ではなかった。葵にとっての家族は、死んだ母ただ一人だった。
大きな鞄を持って礼陣駅に立ったとき、最後に声をかけてきたのは子鬼だった。
『出ていくのか』
その問いに、葵は振り向きもせずに答えた。
「出て行くわよ。この場所が消えないのなら、私がいなくなるのが道理でしょう」
『……そうか』
列車に乗り込み、葵は礼陣を離れた。鬼なんか見えない、鬼なんかいない、そして鬼を信じる人もいない山の向こうの町へと、独りで越していった。
淡々と語られた昔話を、美和は黙って聞いていた。そして続きを待ったが、どうやら葵の話はそこで終わりらしかった。
礼陣を離れたところで終わるならば、今ここに鬼として存在している説明がつかないのだが、それはまだ話したくないのだろう。そう、まだ。
少なくとも葵の持つ呪いの根幹を話してくれたのだから、心を閉ざしているわけではないはずだ。本当の葵はお喋りなはずだと美和は思っているが、それはあながち間違っていないのだろう。
『そっか。葵さんには、家族が……それもすごく大切な人が、いたんだね』
『たった一人ね。あとは家族じゃないわ。鬼を敬わない私がこの町で異常だと言われているのを、何も言わずに見ていただけなんだから。どう? あなたも私がどれだけあなたを含む鬼とこの町が嫌いか、わかったんじゃない? わかったらさっさと出ていきなさいよ』
しっしっと虫でも追い払うように手を動かした葵を、美和はじっと見つめる。ずっと考えていた。自分が葵の立場だったら、どうしていただろうかと。
例えば肉親が死んで、鬼の子になって、素直に「鬼がいるから大丈夫」と思えるだろうか。そんな慰めで、納得するだろうか。……今まさに鬼に成ろうとしている自分が、鬼のあり方に疑問を持っているのだから、そう簡単には頷けない気がする。
大切な人を喪って絶望しているときには、きっとどんな言葉も届かない。その事実を処理するまでに必死になり、認めるのに時間をかけ、ようやく受け入れようとするものだと思う。というのも、いつか美和の母が、弟に話していたのだ。子供の片方が死んでしまったと告げられたときの、その心境を。自分が死んだときのことを傍で聞いているというのは、弟ともども奇妙な感じがしたが、気持ちの段階というのか、そういうものはわかった。理解まではできなかったが、ただわかったのだ。
葵の場合は一足飛びに、母の死を認めなくてはならなかった。代わりまでちゃんと用意されていた。それが礼陣の鬼の子というものなのだろう。同じことを、他の鬼の子も経験したかもしれない。だが、大人に説き伏せられ、納得させられ、無理やりにでも受け入れようとしてきたのだ。小さい頃から鬼の話を聞かされるのだから、礼陣の子供は、その準備がほぼ完璧だったといっていい。
けれども葵のような子供は現れる。現れないほうがおかしい。それを異常だと、大人たちは扱ってしまったのだろうか。子供たちは大人たちと同じ見解を持ってしまったのだろうか。――本当に?
美和は今聞いた、葵視点の話しか知らない。本当のところ、美和の父が、兄が、町の人々が、何を考えていたのかはわからない。鬼たちになら訊けるかもしれないが、葵の話題を出したところで、恐れられてしまう可能性はある。
ただ一つだけ、たしかなのは。
『葵さんは異常なんかじゃない。お母さんがいなくなって悲しいのは当然なのに、その場所は絶対誰にも代われないのに、いつのまにか挿げ替えられてるなんて。そんなの、私だって納得できない』
今、美和がそう思っているということ。それだけだ。
『根代鬼のときにも思ったんだけど、家族を守るために死んで鬼に成るとか、私にはすんなり受け入れられないんだよね。だって私が、実際に死んだこの私が、人間として生きたかったって思ったんだもの。この世に未練があるから留まっていたんだもの。……それをおかしいだなんて、どうして思えるの』
『あなた、根代のに会ったの』
『一度だけ。すごく神々しかったけど、私にはなんていうか……眩しすぎた、かな。理解しきれませんでした』
煙の壁は取り払われない。そこには葵のシルエットがぼんやりと浮かんでいるだけだ。それでも美和には、そのとき、葵が笑ったように見えた。ほんの一瞬だったけれど。
『そう。そうなの。やっぱりあなたって、変な人鬼。礼陣で生まれて育ったくせに、礼陣に縛られて存在しているくせに、鬼に納得できないなんて』
『いや、これが案外、珍しくもないんですよ。鬼にしてはおかしいかもしれないけど、礼陣の人が妙に鬼にこだわるのをおかしいと思っている人間はいます。……ただ、この町では少数だから、口にはしないのかな』
『ほら、群社会は少数が淘汰される。口を噤まざるをえない。……やっぱり私、この町って嫌いだわ』
嫌いといいながら声の調子が少し愉快そうに聞こえるのは、美和の気のせいだろうか。葵は自分と同じ考えの人がいないわけではないと知って、嬉しいと思っているのではないか。そう期待をすると、読まれて否定される。
『何にしろ、私がこの町を恨んでいるのは変わらないわよ。もう父は殺しちゃって、手遅れだし』
それも、強烈な言葉で。
美和は思わず尋ね返そうとして、先に言葉を突きつけ直された。
『父は私が殺したの。呪い鬼になってから、全力で心臓を絞めて殺してやったのよ』
人間を殺すのには力がいる。それは彼女の経験からの話だったのだ。
怖いと思ったら帰りなさいな、と言われて、今日は素直に出てきてしまった。あの一言だけで、葵鬼はやはり普通の鬼ではなく呪い鬼なのだと、思い知らされてしまった。どうしてか、自分が殺されかけたときよりも、はっきりと恐ろしかった。
たぶん、美和はもう死にようがなくて、葵の父という人は死んでしまったからだ。この世のどこにもいる気配がないからだ。『父は完全に殺したはずだから鬼になりようもないし』と、葵も言っていた。
葵が恐れられる理由が、わかってしまった気がした。もう彼女は後に引けないのだ。こちら側に戻ってくることが二度と叶わないから、最悪の呪い鬼としてこの町に君臨しているのだ。
『……恨みは、どうしようもないのかな』
美和がどうにかできるものではないということは、十分すぎるくらいに理解した。葵を救いたいと思っていた美和の気持ちは、完全に驕りだった。
でも、本当に、葵は救われたいと思っていないのか。幸せを妬むくらいには、自分も救われたいと思っているのではないだろうか。それだけが、まだ美和の胸に残る希望だった。
『そういえば、お兄さんはどうしたんだろう』
父は殺したと言っていたが、兄については触れていない。そのことと、進道家に封じられている事実を重ね合わせると、見えることがある。
兄は、生きている。おそらくは進道家の主が、その人だ。かつて弟に剣道を教えてくれていたその人の顔が思い浮かぶ。あの優しげな笑顔が。
『はじめ先生……とても妹を蔑ろにする人だとは思えないんだけどな』
葵の話しか聞いていないのだから、真実はまた別のところにもある。幾重にも積まれなければ、見えてこない絵というものもあると、美和は知っている。
たしかに葵は怖かった。呪い鬼だということはよくわかった。けれども今更、それが彼女を訪ねない理由にはならない。だってそれを前提にして、美和は彼女のもとへ行くという選択をしたはずなのだから。
それに葵だって、誰かと話したくないわけではないのだ。彼女のことをたくさん話してくれたからこその確信が、美和にはある。
今度はどんな土産話を持って訪ねようか。美和は顔をあげ、そんなことを考え始めた。また今日も、朝焼けがきれいだ。