川面が夕日を反射して輝く頃、桜は飼い犬のオオカミ(兄がそう名付けたのだ)を散歩させて、中央地区の自宅から遠川の河川敷まで歩いてきていた。散歩はいつも家族の誰かがやって、玄関に置いてあるカレンダーに印をつけておくことになっている。それが朝と夕方の二回。
今日は兄がアルバイトに行っているので、夕方の散歩を桜が引き受けたのだった。
河川敷を歩くのは好きだ。朝でも昼でも夜でも、いつも誰かしらがこの場所にいる。流れる水の音を聞きながら、桜のように犬と散歩をしたり、ジョギングをしたり、仲間を集めて遊んだりしている。この町に住む人々の暮らしを、この河川敷で見ることができる。
ときどき会う他の犬の飼い主などに挨拶をしながら、桜は川を眺めつつ歩く。桜の兄である流の名前は、この川に由来しているという。そして桜自身の名前も、この河川敷に沿った桜並木からとったそうだ。どちらも祖父による命名である。水や花に関する名前は難を呼びやすいという話を聞いたことはあるが、今まで経験した不運は、名前のせいではないだろうと桜は思う。気に入っている名前を「難を呼ぶ」と捉えたくはない。
ときどき大雨で増水したりと、脅威にもなる遠川だが、基本的には穏やかな流れを保っている。夏には川に入って遊ぶ者もいるほどだ。もちろん、危険のあるときや流れの速い場所は入ることを禁止されているけれど。
とにかくこの場所は、桜だけでなく、この町の人にとっての憩いの場だった。
今日はそこに、見覚えのある、けれどもいつもは見かけない姿を見つけた。土手に座り込んでいる背中は丸まっていて、けれども落ち込んでいるわけではなく、熱心に何かしているようだ。気になって、オオカミとともに近寄ってみる。
案の定、彼は兄の友人――たしか、斎藤という人物――だった。以前、酔っぱらった兄を家まで送ってくれたところを、出迎えたことがある。あの時は本当に世話になったのと、バレンタインが近かったこともあって、桜にしては手厚くお礼をしたのだった。
「あの、こんにちは」
背後からそっと声をかけると、彼は丸めた背中を伸ばして振り返った。びっくりしたような顔は、不思議そうなものに変わって、それからハッとする。
「流の妹さん!」
「そうです。その節はお世話になりました」
「いや、こちらこそ……ただのお菓子だけじゃなく、バレンタインまで貰っちゃって」
「それをいうなら、こちらこそお返しをいただいたお礼を言わなくちゃなりません。京飴、可愛くて食べるのがもったいないくらいでした。ありがとうございました」
しばらく「ありがとう」「こちらこそ」の応酬を続けてから、桜と彼は恥ずかしくなって笑いあった。そしていつかはきちんとできなかった自己紹介を、改めて交わした。
斎藤淳之、というのが彼の本名ということは、兄から聞いて知っていた。彼が友人たちから「あっし」と呼ばれていることも。年齢は兄と同じ、桜の一つ上。けれども彼は、照れながら言った。
「斎藤さんって呼ばれ慣れてないから、あっしでいいよ」
「じゃあ、あっしさんって呼ばせてもらいます。私のこともどうぞ桜と気軽に呼んでください」
「それなら、桜ちゃんで。……ちょっと気安すぎるかな」
「いいえ。みんなそう呼ぶので」
ただ、男の人からそう呼ばれることは少ない。桜がずっと女子校にいるからということもある。もともと、異性と接触する機会が少ないのだ。
これまでも、身内以外で会ったことがあるのは、兄の知り合いばかりだった。そして特に彼らと仲が良いというわけでもない。いや、兄の親友である和人だけは、もう一人の兄のように思って懐いていたか。
とにかく、異性と個人的に話をするのは、桜にとっては珍しいことだった。
「ところであっしさんは、こんなところで何をしてたんですか?」
さっそくあだ名で呼んで、彼の手元を覗き込む。そこには大きな紙束と鉛筆。いや、物だけをいうならそうなのだけれど、紙の上に広がっていた景色に、桜は目を瞠った。
細部まで丁寧に、遠川河川敷と川の様子が描きこまれている。こちら側と向こう岸の、今は花の咲いていない桜並木。野原で遊ぶ子供や、散歩をしている犬と人。鉛筆一本で描かれたモノクロの景色なのに、空が夕焼けのオレンジと桃色、青のグラデーションになっているのがわかる。写真とはまた違う、あたたかな風景が、紙いっぱいに展開されていた。
そこここに文字の書きこみも見えて、それはどうやら生き物のもっと細かい様子や見た目だったり、景色の色の指定だったりするようだ。
じっと眺めていたら、淳之は苦笑しながら、絵を手で隠そうとした。
「お見苦しいものを……
「そんなことないですよ! すごく上手です。絵の中から風が吹いてきそうなくらいリアルで、でもとっても温かみがあって。そういえば前に兄から、あっしさんは絵を描く人だって聞いたことがありました。風景画が得意なんですか?」
桜が正直な感想と質問を口にすると、なぜか淳之は目を逸らし、顔は笑っているけれど、もっと困ってしまったようだった。その様子に首を傾げると、淳之は小さく溜息を吐いて、「どうせ流から聞くだろうから」と、紙から手を除けた。
「これ、資料なんだよ。こうやってざくざく描いておいて、あとで漫画の背景の参考にしたりするんだ。既存の資料集を使うことも多いけど、礼陣は景色がいいから、生で見て描いたほうがリアルだし楽しいと思って」
……漫画、ですか」
「そう、漫画」
淳之が薄い紙を捲ると、別の絵が現れた。さっきまで描いていた風景とはまるで違う、それは建物の中のようだった。ゴシック調の装飾が施され、けれども床にはごちゃごちゃとしていながらもちゃんと本だとわかるかたまりがいくつかと、魔法陣のようなものがある。薄く大きな丸が描かれている端書には、「ドラゴンか鳥」とあって、そこが現実の世界ではないということを思わせた。
「何の漫画を描いているんですか? ファンタジー?」
「いろいろ。例えばハリー・ポッターみたいな魔法ファンタジーも描くし、中高生の日常を想像しながらゆるい漫画を描いたりもする。少女漫画っぽいものや少年漫画風のものにも挑戦したけど、一番描きやすいのは……引かれるかもしれないけど、いわゆる萌え系、ってやつ」
桜はあまり漫画に詳しくはない。漫画が好きな同級生は昔からいたけれど、「真面目な野下桜さん」にはなかなかそんな話はふられなかった。自分で読んだことも、少女漫画を随分昔に少しだけ、といったところだ。萌え系と聞けば、イメージするのは目が大きくてちょっと幼く見えつつスタイルはいい、女の子のイラストだ。ついでにそのイラストの女の子を囲む、チェックのシャツにリュックサックといういでたちの男の人たちも。
「あっしさんは、その……オタク、という人なんでしょうか?」
「うん、それ。やっぱり引いた?」
あっさりと肯定される。それはそんな自分に自信を持っているというふうではなくて、こんなこと言われても困るよな、引かれるよな、というような諦めを含んだ口調だ。
でも実は、桜はそんなことでは引かない。寧ろずいずいと突っ込んでいく。
「引きません。これ、兄にも言ってないんですけど、……実はそういうのちょっと興味あって。一部の男の人の趣味だと思って身を引いてたんですけど、本当は可愛いなって思ってたんです」
そういう絵を描く淳之になら、言っても大丈夫だと思った。だから思い切って告白してみた。家族も親友も知らない、桜の隠してきた秘密の好み。この狭い町での自分のイメージが「真面目で清廉な野下さんちのお嬢さん」だとわかっているからこそ、手を出してこられなかったことも。
「この町って、すぐ噂とか広まっちゃうんです。今でこそ割と普通の女子大生になってきたかなって思いますけど、高校生の時までは本当に真面目なイメージを持たれてて……同級生には『野下さんは漫画なんて読まないでしょう』なんて言われたりもして。自分でもその通りにしたほうがいいって考えてしまって、結局あまり漫画には触れないできたんです。共学校に通っていた友達から、少女漫画をいくつかこっそり借りて読ませてもらったくらい」
「うわ、そういう人本当にいるんだ……
寧ろ淳之のほうが、桜に引いたのではないか。ちょっと語りすぎたかなと反省する桜に、けれども淳之は黙って、薄い紙(クロッキー帳、というらしいことはあとで教えてもらった)を捲った。そして、桜の目の前にそのページを突きつける。
そこには、可愛らしい女の子のイラストがあった。さっき見た風景画のようにリアルではなく、かなりのデフォルメがされている。目が大きく、でも少女漫画の絵柄とはちょっと違う。――桜の、好きな絵柄だった。
「わあ、すごい! あっしさん、本当に上手ですね!」
「こういうのが好き?」
「はい! あ、お兄ちゃんには内緒ですよ。無駄に世話焼きだから、私がこういうの好きだって知ったらお土産に買ってきちゃう。そしたらお兄ちゃんのイメージまで大変なことに……
「流は自分のイメージなんて気にしなさそうだけど」
はは、と笑いあった拍子に、クロッキー帳のあいだから一枚の紙がするりと落ちた。オオカミがそれを上手に咥えて差し出したので、桜はそれを受け取る。そして、硬直した。
そもそも桜が「萌え系」の絵を気にしだしたのは、そういうタッチで描かれている女の子のイラストが、友人にたまたま似ていたからだ。金髪で目の色素が薄い、お伽噺のお姫様みたいな彼女を、桜はかつて特別な意味で好きだった。いや、今でも好きだけれど、表に出さないようにしている。
代わりにそのイラストの元を、こっそりと追い始めた。どうやらライトノベルから始まり、漫画やアニメ、ゲームなど広くメディア展開していった作品のキャラクターらしい。
そのキャラクターが、そこに描かれていた。あっしの描き方ではあったが、一目でそれとわかるほどに上手で、きれいで、可愛かった。
……この子」
「らくがき、挟んだままだった。そのキャラクター、好きなんだ」
「私も、好きです」
この子を見ていると、彼女が重なるから。好きな女の子が目の前にいるような気がするから。学校に行けば本人に会えるし、話せるのだけれど、彼女はいつも他の誰かのことを考えている。でも、絵の少女はそうではない。
「好きなんです」
届かない、届けてはいけない想いを、現実には存在しない少女に託していた。それが、桜が漫画絵を特に気にするようになったきっかけだったように思う。
しばらくイラストを眺めていると、淳之が言った。
「あげようか」
「え?」
「らくがきでよければ、それ、あげるよ。気に入ってくれたなら嬉しいし」
「いいんですか?」
どうぞ、という返事に、桜は顔をほころばせた。イラストを片手に、オオカミを抱きしめながら、「嬉しい」と呟く。本物ではない、紙の上の女の子だけれど、自分のものになったのが、自分だけのものになったことが、嬉しかった。
「あっしさん、ありがとうございます。一生大切にしますね!」
「それまで劣化しないといいけど」
淳之はそんな桜に、ただ微笑んでくれた。呆れも嘲りもなく、ただ絵を喜んでもらえたことと、桜の様子に、自然と笑みがこぼれているようだった。


「桜ちゃん、何かいいことあった?」
平日の昼休み、いつも昼食を共にしている亜子が尋ねる。顔に出ていたか、とちょっと恥ずかしくなりながら頬を押さえて、桜は頷いた。
「あったよ、いいこと」
「それって、聞いてもいいこと?」
亜子は、そしてもう一人の友人である凪は、桜の様子に興味津々なようだ。けれども桜はにっこり笑って、人差し指を唇に当てた。
「今はまだ、秘密」
秘密だけれど、後ろめたくはない。一枚の絵が幸せをもたらしてくれたという、ただそれだけのことだ。