新の携帯電話には、両親からの着信が多かった。中学の時までは特にそうで、というよりもそのために持たされていたようなもので、履歴には「母」の文字がずらりと並んでいた。
かつてはそれが嫌で仕方がなかったが、高校生になってある程度の自由を手に入れ、連絡をとりあえる友人が増えてからは、親からメールがあってもさほど気にならなくなった。
今日も昼休みを狙って一通のメールが届いた。母から、タイトルは「今夜」。何か予定があったかと思って開いてみると、どちらかといえば予定外の内容があった。
遠縁のお通夜があるので、出かけます。夕飯のお金は置いておきますから、店屋物をとるか、外で食べてきてください。
急だなと思ったが、新が連れて行かれないだけましだ。急に帰ってこいと言われたら、担任と部活の顧問に連絡して、届け出なければならない。それが面倒だと思うくらいには、新はまだ子供なのだった。
「でもなあ……」
つい、呟きが漏れる。一人で店屋物をとるにはなんだか寂しいし、外に食べに行くのも同じく。どうせなら誰か誘おうかと思い、まずは近くにいた友人らに声をかける。
「シノ、アキ、今晩暇?」
「今晩? なんかあるのか」
「親がいないらしくて、夕飯外で食べてこいって。一緒にどっか行かないか?」
しかしシノこと飛鳥とアキこと秋公は、困ったように顔を見合わせ、それから新をまた見た。
「オレは妹が待ってるから」
「俺も、やっことばあちゃんが夕飯用意してくれてるから。それとも、うちに食べに来るか?」
「それは……」
人の家に行く、という選択肢もあったらしい。けれども秋公の家は正確には下宿先なので、そう簡単に世話になるわけにはいかない。飛鳥は「ウチは妹いるから……」と断りたい様子だ。可愛い妹に、あまり異性を会わせたくないのだということは、普段の言動からもわかる。
「……シノはともかく、アキの申し出は気持ちだけありがたく受け取っておくよ。あんまり家の人に負担かけちゃいけないからな」
やっぱり今夜は家で独りで店屋物か、と考え始めたとき、教室に数人の女子が入ってきた。どうしてか女子はよく連れ立ってトイレに行く。それは新の彼女である春も例外ではない。
友人の詩絵や千花と楽しそうにお喋りをするその表情は、今日も可愛らしく眩しい。
「新、どうしたの? 何か悩んでる?」
さらに春は、新の様子に敏いのだった。こちらの微妙な表情と、飛鳥と秋公の様子から、すぐに判断してくれる。簡単にことのあらましを話すと、なるほど、と頷いた。
「たしかにお夕飯を独りでっていうのは寂しいよね。お店に一人で入るのもちょっと勇気がいるし」
「だろ? でもこの際、仕方ないかな」
急なことだからどうしようもないし、と新が苦笑すると、春はぽんと手を叩き、こともなげに言ってのけた。
「だったら、うちにおいでよ。炊き込みご飯作ろうと思ってたんだけど、いつも多めに作っちゃうの。新が来たって平気だよ」
「え、いいのか? おじいさんの都合とかは……」
春の家には何度か行ったことがある。祖父と二人暮らしで、その祖父はありがたいことに新をとても気に入ってくれていた。客人としても、春の彼氏としても。
「大丈夫。おじいちゃんも新とお喋りしたいと思うし。私の手料理で良ければ、お腹いっぱい食べさせてあげちゃうよ」
なんて頼もしい彼女だろう。春の祖父の歓迎よりも、彼女の手料理につられて、新はぱん、と手を合わせた。
「是非お邪魔させてください!」
それを見ていた友人たちは、呆れたように、けれどもいつものことだと受け入れて、息を吐いた。
新は弓道部、春は陸上部に所属している。練習場所は全く違うので、互いの部活が終わるのを待って、校門で待ち合わせる。そうして二人は夕暮れの中、帰路についた。
春は途中、駅裏商店街で買い物をしていきたいと行って、そちらへ寄り道した。八百屋で野菜をいくつか買って、鞄に忍ばせておいたエコバッグに入れる。新はそれをごく自然に春の手から取って運んだ。
「あ、ありがとう」
「女の子に荷物持ちさせるわけにはいかないからな」
「私は平気だよ、怪力だもん」
春が力持ちなことは事実だが、それと男としてのプライドは別だ。片手に大根の葉のはみ出した袋を提げたまま、もう片方の手に持っていた鞄を肩にかけて、手を空ける。空いた手は春に差し出して、軽く微笑んで見せれば、相手もはにかみながら手を出してくれる。
手を繋いで帰れることが嬉しい。同じ場所に向かえることが嬉しい。新は喜びをかみしめながら、春の少し小さい手を大事に握った。
商店街を抜け、大通りを渡り、住宅街に入ると、そこは和風建築の住宅街。遠川地区の和通りだ。春の家はこの通りに入ってすぐのところにある。事前に春が連絡をしておいたからか、家に入る前に、内側から戸が開いた。
「おかえり。春、新君」
細工物の職人をしている春の祖父、須藤翁と呼ばれるその人は、にこにこして迎えてくれた。新はあわてて頭を下げるが、春はちょっと呆れたふうに口をとがらせる。
「もしかしてずっと待ってたの? ちゃんとお仕事してた?」
「してたさ。ちょいと待ちきれなくなって、二、三度おもてをうろついたがな」
「おじいちゃんってば……」
ちょっと、というよりかなり茶目っ気のあるこの老人が、新は好きだ。自分の両親や祖父母が至極真面目な人間なせいか、こういう対応は新鮮で、素直に嬉しい。新の手からひょいとエコバッグを奪い、「さあ入った入った」と背中を押す須藤翁が、ときどき本当の祖父だったらいいのにと思う。
家に入ると、新の家とは違う、春の家の匂いがする。木や竹の良い匂いだ。その香りに包まれながら居間へ行き、鞄を置かせてもらうと、須藤翁はさっそく低いテーブルの下から小さな四角いものを取りだした。最近春の家に来ると、きまってこれが登場する。
「さて新君、さっそく勝負だ」
「またですか。今日こそ勝ちますよ」
花札は、須藤翁のお気に入りの遊びだ。新は彼に教わって、初めてその遊び方を知った。須藤翁に負け、春に負けて、やっとコツを掴みかけてきた。
そうしているあいだに、春はさっさと二階へ上がって着替えてきて、エプロンをつけて台所に立った。新も手伝った方がいいかと思ったが、先に春に「おじいちゃんと遊んであげてて」と言われてしまったので、甘えることにする。
水の音、野菜を刻む音、湯が沸く音が、順繰りに聞こえてくる。両親のいない春は、幼い頃からこうして台所で仕事をしてきたのだろう。音だけでも、手馴れているのがわかる。
「それ、猪鹿蝶だ。よそ見をしてるとまた負けるぞ」
「あっ! やられた……」
花札以外のことに気をとられていて、須藤翁との勝負にまた負けてしまった新の様子を背中に感じて、春はくすくすと笑っていた。
予告通りに出来上がった五目の炊き込みご飯と、豆腐と三つ葉の味噌汁に、いんげんの胡麻和え。それからなぜか、ハンバーグ。どうやら先日冷凍していたものを、解凍して焼いたらしい。
ハンバーグ以外は、普段新の家ではなかなか出てこない献立だ。母の料理はいつも洋食が中心で、和食はあまり作らない。それを抜きにしても、春の手料理は見事なものだった。
「たいしたものはないけれど、おかわりはたくさんあるからね」
祖父と二人暮らしなのに食事を多めに作るのは、春がよく食べるからだ。ご飯は茶碗一杯分に小分けして冷凍しておき、あとでレンジにかけておにぎりにする。勉強の夜食に最適なのだ。春の体質で良かったのは、それを繰り返しても太りにくいということだろう。代謝は自慢できるくらい良い。
「いただきます」
声を揃えて、箸を持ち、食事に手を伸ばす。
食べるのが好きな人の作る食事というのはえてして美味しいもので、今日も献立の一つ一つが、新の舌を、それから脳を、幸せで満たした。
「春の料理は本当に美味いな。いつどこに嫁に行っても大丈夫だ」
そんなふうに褒めると、春は曖昧に笑う。あまり嬉しそうじゃないのは、何か失敗でもしてしまったからなのだろうか。新が首を傾げていると、須藤翁が首を横に振った。
「そうじゃないぞ、新君。こういうときは『いつでもオレと結婚できるな』くらい言わんと」
「おじいちゃん、余計なこと言わない!」
春は声を荒げるが、なるほど、表情は正直だった。赤く染まった頬が、それこそが正解であったことを新に教えてくれた。次はそうしようと心に決める。言おうと思えば恥ずかしい台詞でも言えてしまうのが新なのだ。
それを知っているから、春は今度は新に向かって、「言わないでよ」と小さな声で言う。それがたまらなく可愛くて、今度機会があったら意地でも言ってやろうと思った。
新がちょうど茶碗一杯分のご飯を平らげて、おかわりをもらおうとしたとき――そのときには、春はすでに二杯目の中盤戦に突入していた――携帯電話に着信があった。メールではなく電話だ。食事中に出るのは気が引けたが、春に「出た方がいいよ」と促され、ちょっとばかり失礼する。
電話は、母からだった。
「もしもし。今メシ食ってんだけど」
「ちゃんと食べてたのね、良かったわ。……あのね、ちょっとトラブルがあって、今日中に帰れそうにないの。どうせ明日は土曜日でしょう、朝ごはんも買うなりして何とかしてちょうだい。少し多めにお金置いたでしょう」
早口に告げられるその言葉を解して、そういえばまっすぐここに来たからお金をいくら置いていってくれたのか確認していないな、と気がついた。朝食を買う分は余裕であるだろう。わかった、とだけ返事をすると、よろしくね、と言われて、電話が切れた。
溜息を吐きながら携帯電話を鞄にしまうと、春が首を傾げながら、新の茶碗にご飯を山盛りにしてくれていた。
「お母さん?」
「ああ。なんか今日帰れないから、明日も何か買って食えってさ」
それくらいメールでいいのに、と言いかけて、ふと気づく。わざわざこの時間帯に電話をしてきたということは、新が本当に食事をしているのかどうか確認したかったのではないだろうか。新の親はある意味過保護すぎて、ときどき新の行動を縛る。
けれども今のは、きっと、本当に新を心配してのことだ。そこまで考えられるくらいには、新も成長した。――育っているのかいないのか、自分でもよくわからない。その時々で、といったところか。
ちょっと自嘲したところで、須藤翁がとんでもないことを言いだした。
「親御さんが帰らないなら、うちに泊まっていけ。ほれ、春、智貴の寝間着を出してやれ」
さもそれが当然のことであるように。
「え、ちょっと、泊まりって……! そんな、悪いですって!」
あわてて辞しようとした新だったが、しかし、春はこれまた当然のように祖父に返した。
「お父さんの寝間着、丈合うかなあ。それ以前にしばらくしまってあったから樟脳くさいんじゃないの? いくらか海にいに譲っちゃった気もするし」
「春はオレが泊まってもいいのか?! 家に男を泊めるんだぞ?!」
そう簡単に話を進めてもいいのか、少しは危機を感じないのか、と思ったが、須藤翁と春は顔を見合わせて、それから同時に破顔した。
「一緒に寝かせるなんて言っとらん。そもそも新君は、うちの孫娘に夜這いを仕掛けるなんぞしないだろう」
「ちゃんとお客さん用の部屋があるの。うち、おじいちゃんの知りあいや海にいが泊まりに来てたこともあったから、こういうの慣れてるんだ」
それにしても慣れすぎだろう。というより、新を春の彼氏として見ていないんじゃないだろうか。新だって無欲ではないし、妄想を全くしないということもないのに。彼女と一つ屋根の下だなんて、それがあっさり許されるなんて、いったいどういう家なんだ、ここは。
悶々としながらも、新の口はちゃんと動いていた。
「それじゃ、よろしくお願いします……」
手にはしっかり、炊き込みご飯が山盛りになった茶碗を持って。
人の家の風呂に入る機会なんてめったにない。それも一番風呂をもらってしまった。これは本当に現実だろうか、この町にいるという鬼にでも化かされているのではないかと新は疑ったが、それを思わず口にしたら、「鬼は化かさないよー」と春に言われた。
風呂からあがると、ちゃんときれいなタオルときちんとたたまれた浴衣が置いてある。入っているあいだに、春が用意してくれたものだ。春の幼馴染が泊まりに来たときもこのように手際よく準備をしておいてくれているのかと思うと、複雑な気持ちだ。新は春と付き合ってはいるが、特別な存在というわけではなさそうだ。
うろ覚えで、かすかに木の匂いのする浴衣を着て、居間に行く。春はちょうど洗い物を終えたところで、須藤翁は何やら作っていた。仕事かもしれない。
「あ、新。お湯加減どうだった?」
「ちょうどよかったよ。ありがとうございました」
「いえいえ。……意外と浴衣似合うね。若い頃のお父さんに似てるかも」
どこか嬉しそうに言う春に、新は照れる。着方は合ってるのかとか、そんなことはもうどうでもよかった。春が笑ってくれるなら、それでいい。
「おじいちゃーん、新あがったから、お風呂入っちゃってー」
「おうよ」
このやり取りが、さらなる幸福感を生む。まるで自分も須藤家の一員になったかのようだ。将来は春を嫁に貰うよりも、自分が婿入りした方がいいんじゃないかなんて、新はのぼせた頭で思った。
そうだ、その方がいい。父はともかくとして、過保護で過干渉ぎみな母は、新の結婚相手にもうるさそうだ。最近は、中学生の頃ほどうるさくはないけれど。
それとも新が出ていくといったら、それはそれでうるさいだろうか。
そんなことを考えていたら、風呂に行ったと思った須藤翁が、分厚い本のようなものを持って戻ってきた。テーブルの上にそれを広げて、春と新を呼びよせる。
「二人とも、暇つぶしにこれでも見ているといい。面白いぞ」
開かれた本のようなものはアルバムらしく、写真が丁寧に貼ってあった。そこにいるのは笑顔の二人――髪の長い春と、活発そうな少年だった。とても親しいようで、少年は春に抱きついたりしている、春もそれが嬉しいようで、少年の手に自分の手を重ねていた。
「……面白いものって、浮気?」
新が訝しむと、春は首をぶんぶんと横に振った。
「違う違う! ああもう、おじいちゃんってば何の説明もしないでお風呂に……。この人は私じゃなくて、お母さん! 私のお母さんの千秋さんと、抱きついてるのはお父さんの智貴さん!」
そう言われてみれば、写真はどれもどことなく古い。春の言っていることは嘘ではなさそうだ。それによく見れば少年のほうも、須藤翁に似ている。
「春はお母さん似なんだな。瓜二つだ」
「よく言われるよ。詩絵ちゃんのお母さんが私のお母さんと友達だったらしいんだけど、最近さらに似てきたっていうの。見た目だけじゃなく、言動とかも。私、ほとんどお母さんのこと憶えてないのにね」
春の両親は、春が幼い頃に他界している。たしか、四つになった頃といっていただろうか。飛行機の事故で、大きく報道もされたそうだ。今でも当時のニュースを扱った番組で、ときどき取り上げられる。
両親がいないことを、春は寂しくないという。祖父や知人、友人たちがいるからいいのだと。けれども本当にそうなのだろうか。まったく平気というわけでは、ないのではないか。
「あ、でもね、お母さんが寒天のおやつをよく作ってくれたことは憶えてるの。よーく冷やした角切りの寒天にね、甘いシロップをかけて、果物を添えるんだよ。私じゃ再現できない、思い出の味なんだ」
「へえ……春にも作れないものはあるんだな」
思い出の中のできごとは、しばしば美化される。何の変哲もない食べ物がとても美味しいと記憶されるのも、よくあることだ。けれども春の母が作ったというその寒天菓子は、本当に美味しかったのだろう。春がどんなに作り直しても、元と同じものができないくらいに。――それはもう、春の記憶の中にしかない味なのだ。
「でもね、いつか近いものは作れるようになるんだ。そしたら、新にまた食べさせてあげる。私にできる、とびっきり美味しいのをね」
だから新しい記憶を作る。思い出はそのままに、春が春の手で、自分の味を作りあげようとしている。新は頷いて、微笑んだ。
「期待してる」
もしかしたらそう遠くないうちに、食べさせてもらえるかもしれない。
須藤翁が風呂から出ると、今度は春の番だ。春がいない間にも、アルバムとそれにまつわる話は続いた。
写真に写っているのは、春の両親だけではなかった。春の父の友人たちの姿も収まっていて、そこには見知った顔――今よりも若かったが――もあった。
「あ、この人、詩絵の……」
「そうそう、加藤パンの奥さんだ。初音ちゃんといってな、昔から礼陣では評判の美人だった。で、こっちにいるのが心道館道場のはじめだな。智貴とは小さい頃から親友だった」
「道場の、ってことは海先輩のお父さんですか?」
「まあ、そういうことになるな」
詩絵の母、初音はおっとりと微笑んでいて、海の父、はじめは彼女を横目で見つめていた。きっと、当時は好きだったんだろう。二人がどうなったのかは、今の結果を見れば明らかだけれど。
同時にはじめは、春の父、智貴ととても仲が良かった。幼い頃から二人で礼陣中を駆け回り、あちこちでやんちゃをしては叱られ、ときには褒められ、今の新たちくらいの頃にはすっかり町の有名人になっていたという。
「そこで二人に呼び名をつけてやった。『遠川狂犬ブラザーズ』とな」
「……おじいさん、あんまりネーミングセンスないですね?」
「無茶苦茶な名付けだからこそ流行った。二代目もいたんだぞ」
智貴はいつでも楽しそうで、年をとるにつれて落ち着いてくると、幸せそうに笑うようになっていた。隣に立つのが親友のはじめから彼女の千秋になり、千秋との結婚式があり、それから。
腕に赤ん坊を抱いた千秋と、彼女に寄り添う智貴、そしてその傍にいる須藤翁の写真に、新の目は釘付けになった。――春が、生まれたのだ。
生まれたばかりの春は今とは似ても似つかないような姿だったが、それでも可愛らしく、そしてたくさんの笑顔に囲まれて幸せそうに見えた。それこそ、春に芽吹く緑や、咲き誇る花のような、愛くるしい子供だった。
そこから幼い春の写真が続いた。寝ているのが這うようになって、立ち上がり歩けるようになって、こちらに向けて愛嬌のある笑顔を振りまくようになった。四歳の夏までは。
「智貴と千秋さんの事故の後、一年は写真を撮ろうと思わなかった。春も写ろうとしなかったしな。今でこそ、よく笑いよく怒る元気な子になったが……」
新は、表情をくるくると変える、明るい春しか知らない。去年出会ったばかりだから。春が昔のことを、あまり話そうとしなかったから。話したとしても、なんでもないことのように振る舞っていたから。
いつかの春がとても悲しい思いをしたことを、これまで気にしないでこられた。
俯く新に、しかし、須藤翁は優しい声で言った。
「春が今笑っていられるのは、新君たちのおかげだと思っている」
「オレたちの、ですか?」
「昔は海が慰めていたが、だんだんそれも必要なくなって、去年にはすっかり元気な春になった。あの子が友達をつくって、智貴と千秋さんのように恋をして、たくさんの人との繋がりを得て、そうして大人になっていく。じいちゃんはそんな春を見ることが、一番の夢だった」
全部叶ったよ、と須藤翁は満足気に笑った。新も照れ笑いし、それから気付く。
「だった、ってことは、今は別の夢があるんですか?」
「あるとも。あの子の高校の卒業式を見ること、成人式に振袖を着せてやること、結婚をして、ひ孫を見せてもらうこと……。いくつまで生きられるかわからんが、欲を言えばいくらでも出てくる」
須藤翁は春の祖父であり、親だ。孫であり娘である春が幸せになるのを、いつまでも見ていたいだろう。春はそれほど、愛されているのだから。
新の親はどうだろうか。新をそれくらいに、その何分の一でもいいから、愛してくれているだろうか。
ふと考え込んでしまったそのとき、ぱたぱたと足音が近づいてきた。居間に現れたのは、浴衣姿の春。湯上りは中学の修学旅行でも見たが、浴衣を着ているとなればその破壊力は凄まじい。何を破壊するかというと、それはもちろん新の「箍」だ。興奮を必死に理性でおし止める。
「ねえ、私がいないあいだ、何話してたの? おじいちゃん、変な話してないでしょうね」
腰に手を当て、眉を寄せる春に、新は己を取り戻す。そして、ふっと笑った。
「変じゃない。良い話を聞いたよ」
朝にはしっかりとした朝ごはん。炊き立ての白いご飯に、ベーコンエッグ、海苔、レタスとプチトマトのサラダ。いつもはもっと簡単なんだけど、と舌を出す春に、新は「本当に?」と返してやった。春なら毎朝これくらい、いやもっと食べているかもしれないと思っていた。
昨夜、あれから話は尽きず、結局日付が変わる直前まで喋り続けていた。新は春のことをたくさん知り、そして新自身の話もした。あまり友達付き合いがなかった、ちょっと恥ずかしいとさえ思っていた小学生時代のことなども。けれども春も須藤翁も、それを嗤ったりはしなかった。
現在は過去の積み重ね。あれがなければこれがない。あれがあったからここにこれがある。そんなことの繰り返しだ。どんなつらいことも、悲しいことも、いつかは「記憶」になる。なってしまう。
昨日のことのように思いだせることも、遠い昔のように感じる日々も、今の自分を作っているものには違いないのだと、新は実感した。
そのおかげだろうか、邪なことはあまり考えずに済んだ。迎えられたのは至って健全な朝だった。
「とりあえず、家に帰って着替えなきゃな」
「そうだね。それから、お父さんとお母さんが帰ってきたら、ちゃんとおかえりって言ってあげてね」
「うん、そうする」
頷いてから、新はご飯をおかわりした。