この年最後だろうといわれている台風の影響が、山に囲まれた礼陣の町にもきていた。過去には大雨で周辺の山が土砂崩れを起こし、それによる事故も発生している。激しい雨は、礼陣の人々にとって不安要素だった。
朝にはまだ雨も弱かったので、学生たちは通常通りに登校していた。だが次第に窓を叩く雨の音は強かになり、昼休みが終わった頃になって、下校するようにとの指示が出た。
「下校しろったって、列車まで時間ありますよね。連さん、俺の家来ます?」
教科書を手早く鞄にしまって、海は連に話しかける。天候が不安定だろうとそうでなかろうと、何かあれば連を家に誘うのが、海の常になっている。そして連は大抵それに応えるのだが。
「いや、今日は駅で待って、帰ろうと思う。朝から母の具合があまり良くなくてな」
「そうですか……。お母さん、お大事に」
家族が心配ならば、仕方がない。そちらを優先するべきだ。海だって、父の具合が悪ければそうする。けれども今日は断られたことが妙に胸に刺さった。
多分、雨のせいだ。昔から雨の日は苦手なのだ。胸の奥からざわつく感じが湧いてきて、全身にまわってくる。時折、首を誰かに触られたような気がして、ハッとする。そのたびに首を擦るので、赤くなってしまう。
原因はわかっている。ちょうど今日のような雨の日――その日もそうだったようだが、さっきから雷も鳴り始めた――海は一度、死にかけたことがあるのだ。いや、殺されかけたというべきか。
一歳にも満たない頃のことなので、その日の天候などは憶えていないはずだった。けれども雨音は耳に痛く、首を絞められた瞬間は今でも夢に見る。手をかけたそれが人間ではなかったから、海の持つ力に大きく関わっているから、心に深く刻まれてしまっているのかもしれない。
海を殺そうとしたのは、鬼だった。強く根深い呪いを抱えた、呪い鬼だ。

礼陣の町には、人間と鬼の二種類の人が住んでいる。不思議な力を操る鬼は、普通の人間には見えないが、「鬼の子」と呼ばれる人間には交流が可能だ。鬼の子は、親を亡くした子供を指す。一説には、鬼が親代わりをするために、子供にその姿が見えるようになるのだとか。
それが当たり前になっているこの町の常識は、よそとは違う。鬼がいる、見えるといった共通の認識は、同じ町の、同じ境遇の人とでなければ共有が難しい。
呪い鬼に関してはさらに共有できる層が狭まる。町の守り神とされる鬼に、呪いを持ち、他者に危害を加える側面があるということは、基本的には隠されている。
海の経験は、家族以外のほとんどの人にわかってもらえない。誰にも話せない。

雨の日はできる限り一人でいたくなくて、胸のざわつきを忘れたくて、そのために連を誘ったということもある。けれども連は自宅へ帰ってしまうし、そのあとに声をかけてみたサトも「早く帰ってこいって親から連絡があった」と苦笑いしていた。
最後の手段と思って黒哉にまで「暇?」と言ったが、「こんな天気の日に何言ってんだ」と呆れられた。宿敵にこんな表情をされるのは悔しい。
「さっさと帰ればいいだろ。はじめ先生、待ってるんじゃねーのか」
「父さんは今日はいない」
海の家は剣道場だが、それとは別に父は仕事を持っている。家に帰っても、人間は自分一人だ。鬼はいるのだが、雨の日はあまり鬼と関わりたくないというのが本音だ。
それを知らない、知らなくて当然の黒哉は、鼻で笑う。
「高二にもなって一人で留守番できねーの?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……
反論はできなかった。珍しく押し黙る海に何かを察したのか、黒哉は息を吐いてからサトと連を捕まえる。
「サト、連、一緒に帰るぞ。雷鳴ってるし」
「日暮、雷苦手?」
「別に苦手とかじゃねーけど。とにかく行くぞ」
雨はさらに強くなっていた。生徒ももうほとんどが教室を出ていて、窓からは帰路につく生徒が歪んで見える。
「海、帰らねーと先生が見回りに来る」
「進道、行こうぜ」
「途中までだが、一緒に行こう」
友人たちに気を遣わせるのが恥ずかしい。でも、気遣いが嬉しくもある。一緒に教室を出ようとして、それにしても今日は胸騒ぎが酷いな、と思った。いつもなら、こんな失態は見せずに隠し通せるのに。

階段を下りている途中、上の階から女子の声がした。こちらと同じように数人が一緒にいるらしい。聞き覚えのある声があったので、海はふと立ち止まって振り返った。
「どうした、進道」
「春だ」
幼馴染の声がする。友達と一緒にいるのだろう、何か楽しげに話をしていた。まだ学校にいたのか、と思ったそのとき、幼馴染とは違う姿が現れた。どこかぼうっとした目をして、ふらりと歩いてくる。こちらを見ているのかいないのかわからないまま階段を下りてきて、黒髪がふわっと揺れたと思ったら、こちらに向かって倒れてきた。――落ちる。
「千花ちゃん!」
幼馴染が階上から出てきて叫んだのと、海が思わずその名を呼んで飛び出したのは同時だった。落ちてきた体をとっさに受け止めて、どん、と尻もちをつく。
「千花ちゃん、海にい、大丈夫?!」
「千花! 先輩! 怪我はないですか?」
「海、大丈夫か?」
「進道、お前……
「無茶してんじゃねーよ」
急いで降りてきた足音と入り乱れる声を聞きながら、胸にすっぽりと収まった女の子を確かめる。怪我はなさそうだが、何が起こったのかわからないような、驚いた顔をしていた。それから一気に真っ赤になって、海から慌てて離れようとした。
「か、海先輩、ごめんなさい! 怪我とかしてないですか?!」
「いや、俺は大丈夫だけど……千花ちゃんはどこも痛くない?」
「私は大丈夫です! 受け止めてくれて、ありがとうございました」
千花は無事なようで、海はホッとする。追いかけてきた幼馴染の春と、その友人の詩絵も、安心したように大きく息を吐いた。
詩絵は千花の腕を引っ張って立たせながら、打ち身はないか、汚れていないかをチェックし始める。その脇で春も、立ち上がりかけた海にハンカチを渡した。
「海にいがここにいてくれて助かったよ。千花ちゃん、今日一日あんまり具合良くなかったみたい。もっとちゃんと見ておくんだった」
「具合悪いのになんで残ってたんだよ」
「図書室に忘れ物しちゃってて」
運がいいのか悪いのか。春たちが下りてくるのと、海たちが帰ろうとするのとでタイミングが少しでもずれていたら、大変な事故になっていたかもしれない。
とにかくそんなことにならずに済んだことに安堵して、二つのグループは一緒に、ゆっくりと階段を下りた。昇降口が近づくと、雨音はいっそううるさくなる。
「アタシは千花を送ってく。春、気をつけて帰りなよ」
「うん。詩絵ちゃんと千花ちゃんも、気をつけてね」
一年生の女の子たちが上履きを下駄箱に入れながら話すのを、海は二年の下駄箱で聞いた。具合の悪い子がこの雨の中を歩いて帰るのはあまり良くないなと思いながら、胸や腕に残る感触を無意識によみがえらせる。やわらかで温かな、人間の、女の子の体温。自分が苦手としてきたはずのものだが、嫌な感じはない。むしろ胸騒ぎが先ほどよりも収まっていて、雨の日特有のざわつきも落ち着いている。たぶん驚きと衝撃に打ち消されたのだろう。
雨の中、駅へ向かう連と別れ、自宅へ向かう黒哉と別れ、家の近所でサトと別れても、ざわつきは戻らなかった。家に一人だというのに、苦手な雨の日だというのに、家に帰ってからも海はいたって「普通」でいられた。

翌日、台風が去って爽やかな秋晴れとなった。窓から射し込む太陽光が気持ちいいなと思っていると、不意に「進道」と呼ばれた。「なんだよサト」とぞんざいに返すと、戸口を指して言われた。
「春ちゃん」
教室の出入り口には、幼馴染の姿があった。
足早に向かうと、そこにいたのは春だけではなかった。千花も一緒だ。彼女が海に深く頭を下げると、ふわりと髪が揺れて、シャンプーのせいだろうか、良い匂いがした。
「昨日はありがとうございました。ちゃんとお礼、できてなかったので」
「そんなのいいよ。たまたま偶然、俺がそこにいただけだから。千花ちゃんこそ、もう体調は平気なの?」
「はい。昨日はなんだかぼうっとしちゃってて……
困ったように笑いながら、千花は海を真っ直ぐに見た。
「雨の日はどうしてか苦手で……よくぼんやりしちゃうんです。胸のあたりもざわざわしてるし。昨日は雷も鳴ってたからか、特に気分が良くなくて」
同じだ、とすぐに思った。海が雨の日に襲われるあの感覚を、千花も体験していたのだ。いや、全く同じではないかもしれないが、海と似ていることはたしかだった。
他にも、海は千花に自分と共通するものを感じている。彼女が同じ鬼の子であること、鬼の子として持っている力が似ていることは、すでに聞いて知っている。
鬼の子には鬼を見ることができるだけではなく、鬼と交流するための力がある。それは個々に異なったもので、例えば鬼に対する愛情が深かったり、鬼に慕われるような気を纏っていたりと様々だが、海の持つ力は珍しいものだ。
鬼の感情を自分に同調させる――鬼をある意味で操ることができるというのが、海の力の特性だった。あまりに影響が強いと、例えば怒りや憎しみをもったときに、鬼をもその感情に巻き込んでしまう。感情の変化によっては、呪い鬼を生みやすいのだ。
千花も自分の感情を鬼に影響させやすい性質らしい。彼女が笑えば鬼も朗らかになり、怒れば怒気を発させる。場合によっては危険を引き寄せてしまうので、海は同じ鬼の子である春に、千花に気をつけているようにと言っていた。
海と千花に共通するものが多いのは、偶然だろうか。不思議なものを感じながら、海は何度も頭を下げながら一年生の教室に戻っていく千花と春を見送った。
共通項が多すぎても、全く異なりすぎても、人は人を気にする。海の場合は前者だ。鬼の子として同じ特性を持ち、雨の日が苦手という千花が、今まで以上に気になっていた。
でも、同じではない。海も千花も父子家庭ではあるが、そこに至るまでが全く異なる。そもそも厳密にいえば、海と父は実の親子ではないのだ。

海はまだ知らない。知るすべがない。千花もまた、父と実の親子ではないだなんて。当人も知らないことなのだから。


「海にい、千花ちゃんには優しいなあ」
春の言葉に、千花の胸がどきりとはねる。けれども、いけない。自分が特別だとは、思ってはいけないのだ。そう勘違いをした時点で、海は離れていってしまう。――彼が女の子を苦手としていることは、春を通して知っている。
春のようにずっと妹のように接してきた子は別だ。詩絵のようにただ憧れを持つ子も。けれども千花が抱きかけているこの想いは、そのどれとも違う。いつか雨の日に傘に入れてもらった日から、芽吹きかけているこの気持ちは、生まれて初めてのものだ。
千花は常々、結ばれることがあるなら父のような人とがいいと思ってきた。微笑むだけで自分の持つ不安を消してくれるような、そんな温かい人を求めていた。
千花を二度も助けてくれた海は、そんな理想と重なりかけている。一緒にいられたら、と思いかけている。そんな感情を持ったら、恋愛感情を持つ女子が特に苦手な海に嫌われてしまうだろうに。
「私に優しいわけじゃないよ。海先輩は、私が春ちゃんの友達だから、気を遣ってくれてるだけじゃないかな」
「そうかなあ。海にい、結構千花ちゃんのこと気にしてるよ。昨日助けてくれたときに、名前呼んだでしょ。その人のこと気にしてないと、とっさに名前を呼ぶことは難しいと思うけど」
「そんなことないよ」
気にされているとしても、期待してはいけない。海が自分に興味を持つとしたら、それは春の友達としてだとか、同じ鬼の子としてだとか、そういう意味でだ。千花は自分にそう言い聞かせて、芽吹こうとしている想いを封じた。
好きになってしまったら、嫌われる。それなら好きにならずに、嫌われないほうが良い。
昨日、抱き止めてくれたときの温かさや、安心感も、今は忘れなければ。――あのあと、雨の中でも不安にならなかったことも。
全部全部、気のせいだ。