昔々、この里に実りがなく、人々が苦しんでいたときのこと。里長の前に大鬼様が現れて、山々の草木を、里の畑を、川の流れをよみがえらせた。同時に飢えで命を落としてしまった人々の幾人かも、大鬼様の力によってその眷属となり、新たな生を得た。それがすなわち、鬼である。
礼陣に伝わる昔話は、商店街を訪れる年配の客や、郷土史が書かれている書物から見聞きし、知っていたはずだった。双子の弟がそれを知ることで、傍にいた美和もおのずと知識を得ていた。――もう随分と前から、美和はこの町にいる鬼が人間から成るものだという情報を持っていたのだ。どうしてそのことを、忘れてしまっていたのだろう。
礼陣の人間はもしかすると、いわゆる輪廻には加われない。全てではないだろうが、この町で鬼となり、生き続けるのだ。人鬼である美和のように。家憑きとなった根代鬼のように。この世に縛られると考えるのか、まだ生きられると考えるのか、美和の心は複雑だった。
『この世に留まらせてもらって、こんなこと考えるのもおかしいかもだけどさ……』
鎮守の森にいる者たちは、礼陣の鬼とは、いったい何者で、何のためにここにいるのだろう。大鬼は、何の目的で現れ、この地に留まり続けているのだろう。
家憑きの鬼である根代鬼は、かつてはただの人間であり、その命を失うことで鬼としての力を得て根代家を守っていた。そのことを知ってから、美和は「鬼」とはいったい何なのかということをずっと考えている。わざわざ人間としての生を失ってまで成るものなのかと、悩んでいる。
美和の場合は、産まれてすぐに死んでしまったという経緯がある。人鬼として復活し、この町で生きているということは、むしろチャンスをもらったと思って感謝したいくらいだ。
けれども根代鬼に関しては疑問だらけだ。人間としては早死にするとわかっていて根代家に婿入りし、鬼の力で家族を守ることを良しとする。しかもそれが代々続いている。
人間を鬼にできるのなら、鬼に成るという連鎖をやめさせることもできるのではないか。大鬼にはそれが可能なのではないか。それなのに、何故そうしないのか。
悶々と考え続ける美和に、子鬼の牡丹は声をかけなかった。美和が他の鬼の話を聞いていたり、考え事をしているときには、基本的に声をかけない。用事があるときだけ連れ出したりする。根代鬼を訪ねたのも、そういう経緯だった。
何か知っていそうなのに。知っているからこそ牡丹は口を噤んでいるのではないかと、美和はずっと疑っていた。彼女には、人間と接触した過去があるそうだから。本来鬼の子以外の人間への過干渉はできないはずの鬼が、普通の人間に関わったというのは、重要なことだ。
『そうだ、録さんなら何か知ってるかな』
鬼としての生を、牡丹よりも長く経験してきた録ならば、美和の疑念を晴らす手助けをしてくれるかもしれない。牡丹がけっして話してはくれないことを、いくらかでも語ってくれるかもしれない。一旦考えるのをやめて、美和は録を探しに鎮守の森の中を歩き始めた。
鎮守の森の中にはたくさんの鬼がいるが、鬼としての力をまだわずかに使えるようになったばかりの美和にも、一度知りあった鬼ならばその気配を察知できる。広い空間の中から、迷わずに録の居場所を見つけた。
『録さーん』
離れたところから呼びかけると、美和が録と名付けたその鬼は、筋肉の盛り上がった腕を振り上げて応えた。
『美和か。どうだ、修行のほうは。町のほうに下りたそうだが……』
駆け寄ると、すでに得ていた情報を口にする。美和は頷いて、牡丹に連れられて根代鬼に会いに行ったこと、根代鬼がどのようにして鬼に成ったのかを聞いたことを話した。そのことで、美和の中に大きな違和感が生まれたことも。
『ふむ、根代の。まあ、たしかにあれは特殊な鬼だなあ……』
録は顎を撫でながら頷いた。彼も、というよりも礼陣にいるほとんどの鬼が、根代鬼のことは知っているのだという。代々人間から成る、名前持ちの、家に憑いている特別な鬼。今まで美和が知らなかったほうが不思議だ、とまで言われた。
『私、鬼のことを知らなさ過ぎたのかな。伝承とかは、和人と一緒によく聞いてたのに』
『美和は今まで人間に近すぎたんだろう。鬼の常識をようやく勉強し始めたところだ、知らないのは悪いことじゃない。子鬼は教えないだろうしな』
『なんで牡丹は、今まで何も教えてくれなかったんだろう? 機会なんていくらでもあったのに』
『美和が人間と一緒にいたからだろうな。人間との生活を大事にしているのだからと、気を遣ったのかもしれない。それに……』
一度言葉を切って、録はごく小さな声で呟いた。
今回みたいに、暗い部分に触れることもあるからなあ、と。
暗い部分と聞いて、美和はまた昔聞いたことを思い出した。「鬼の贄になる」という言葉と、「鬼に喰われる」という言葉が、礼陣の伝承にはあったのだ。少し怖い話だよ、と言って、馴染みの客が弟に語ったのを、美和はその隣で聞いていた。あれは怪談話にはうってつけの、じめっとした夏のことだった。
「子供を何をしてでも、それこそ命を奉げてでも守りたいという親は、鬼に自分の命を差し出して、それと引き換えに我が子を守ってもらおうとする。これを『鬼の贄になる』という」
弟と一緒に、息を呑んだ。それほどまでに子供を想う親がいるのかと、命を差し出さなければならないようなことがあるのかと、そう思った。困った顔をした弟に、客は「礼陣の親はそれくらい子供を大事にするのさ」と笑っていた。
「子供を大事にしない大人は、鬼に喰われる。鬼は礼陣の子供が何より大事だからね、子供を傷つけるような大人は罰されるのさ」
笑いながら、また怖いことを言った。「罰って? 喰われるって?」と尋ねる弟に、客は何と続けたのだったか。いや、その前に母が来て、「いやですよ、子供にそんな話」とやめさせたのだ。それからその話は聞いたことがなかったから、美和は詳しいことを知らない。知らないまま忘れた。
けれども思い出してみると、「鬼の贄になる」というのは案外間違っていなかったのだということに気づく。実際、根代鬼は命を奉げたようなものだ。
『録さん、鬼の贄になるっていうの、本当のことだったんだね』
美和が俯きながら言うと、録は唸った。
『根代鬼はそんなふうに見えるかもしれないが、それはもともとは人間の作り話だ。鬼の側からしてみれば、命なんぞ奉げられても困る。礼陣の人間はみんな鬼の子供のようなものだと、大鬼様にはよく言われている』
『まあ、たしかに困る……。贄になることには、何のメリットもないね』
『人間が、鬼の子について説明したいときに作りだした話だ。人間は何かと説明をつけたがる。そこをいくと、説明を求める美和は本当に人間に近い』
褒められているのかそうでないのかわからない言葉で、録は美和を表現する。喜んでいいのかどうかわからないまま、美和は曖昧に笑った。そしてそのままもう一つの言葉を口にした。
『じゃあ、鬼に喰われるっていうのも人間側の作り話? 子供を大事にしない大人はどうのっていうやつ』
だが、録の表情はその瞬間に凍り付いた。
『……なに、どうしたの?』
『美和。俺が知る限り、この地で子供を虐げた者は、大抵早死にしている』
急に重くなった声色に、美和も固まる。いつか感じた恐怖が、よみがえったような気がした。
『手段がそれ以外に見つからなくなったとき、鬼は他者の魂を喰らう。そうでなければ子供も大人も救えない。喰ってやらなければどちらも痛みや苦しみ、恨みに苛まれ、呪いを持ってしまう』
鬼が呪い鬼になってしまうように、と録は言う。呪いを抱えるのは鬼だけではない。それは人間にも、当たり前に起こりうることなのだと、静かに告げた。
『それはつまり、鬼に喰われるっていうのは、本当のことだっていうこと?』
思わず震えた声に、録は『時と場合によるし、ごく稀だ』と答えた。しかし、ただの作り話ではなかったのだ。これだけは、この伝承だけは、真実だった。
礼陣の大人に訪れる全ての死が鬼のせいというわけではない。早くに死んでしまう全ての大人が、子供を虐げていたわけではない。けれども「鬼に喰われる」ということは起こり得るのだ。
『……牡丹は、それを私に知らせたくなかったのかな』
『そうだろうな。美和には人間との繋がりを恐れてほしくなかったんだろう』
なにしろこれからが、本番だからな。そう録が言う通り、美和はこれから鬼に成り、弟以外の人間とようやく関わっていくことになる。その前に鬼に成ることを拒まないように、牡丹は礼陣の鬼の暗部を美和には知られないように、知るとしても少しずつ知っていくようにしていたのかもしれない。
『俺は子鬼の意思に背いたのかもしれんな』
『ううん、どうせいつかは知るなら、早いほうが良かった。私にだって、覚悟は必要だもの』
鬼に成ったら、鬼としての役割を果たさなければいけない。いつかは美和にも、誰かの魂を食らわねばならない日が来るかもしれない。
牡丹の態度よりも、録の正直な話のほうが、美和にはありがたかった。
『子鬼には子鬼の、話さない理由もある。あまりあれを問い詰めるなよ』
『問い詰めないよ。……話さない理由っていうのは、ちょっとだけ気になるけど。それって録さんが前に言ってた、人間の赤ん坊を拾って呪い鬼を生むことに繋がったっていうのに関係ある?』
『ある』
良くも悪くも、録は正直すぎる。彼が以前呪い鬼になったことがあるというのも、美和はなんとなくうなずける気がした。あんまり正直だと、人間の悪意を真に受けやすいだろう。
『あのとき、録さんは牡丹が生んだのは海の家に封じられてる呪い鬼だって言った。それなら私も聞いたことあるよ。葵って、名前持ちだよね』
『そうだな』
今の美和には扉抜けができる。たとえ塞がれた結界でも、美和はそれをすり抜けられる。その力を使えば、さらなる鬼の真実に迫ることができる。
ありがとう、と頭を下げて、美和は録の傍を離れようとした。すると手を掴まれ、阻まれる。屈強な腕から抜けることはできず、首を傾げて録を見返した。
『葵に会おうなんて考えるなよ』
どきり、と胸の奥がはねた。何も返せないまま、続く言葉を聞く。
『あれは最悪の呪い鬼だ。鬼を喰う鬼だからな。会えば美和も喰われるぞ』
『……録さんの心配には及ばないよ』
少しだけ緩んだ手を振り切って、美和は歩いた。少しだけ振り向いて、笑った。
心配しないで。うまくやるから。そんな意味を込めて。
そこに真実があるのなら、理由や意味や説明が存在するのなら、知りたい。今のうちに知っておきたい。鬼を癒すように牡丹には頼まれたが、美和が本当に癒したい鬼は牡丹なのだ。
美和が一つ鬼のことを知るたびに、少しだけ切なげな顔をする、昔からの大切な親友を救いたい。救えるものなら、そうしたい。
そこに鬼が生まれる過程が絡むのなら、その謎も解き明かしたい。自分の存在理由を確かめたいという思いもある。
胸に宿る複雑な気持ちを整理したくて、それ以外にやれることが見えなくて、美和は一人で進み始めた。
疑問は自分で動かなければ解決しない。そう思うようになったのは、やはり人間との生活が長かったからだろうか。
『人間に近い、か』
力がついたとはいえ、鬼に成る日は遠いだろうな、と思った。そう思う程度には、美和は慢心していた。自分が何に触れようとしているのか、その脅威をまだ知らずにいた。