駅前大通りと駅裏商店街には、縁日が出ている。ずらりと並ぶ出店は今年も壮観だが、やはり地元の人間としては駅裏の、顔なじみの多い、おまけもつけてくれるほうに行きたい。
もっとも、すでに大人になってしまった者におまけをしてくれるところはあまりないだろう。そう思いながら歩いていたのだが。
「黒哉君、元気にしてたかい! ちょっとおまけしてあげるから、うち寄っていってよ」
「あら黒哉君。できたてのあげるから、うちに寄ってらっしゃいな。本当は手伝ってほしいところなんだけどねえ」
駅裏商店街には高校時代にかなり世話になっていたこともあり、こうして声をかけてくれる人は、思いのほか多かった。ありがたいと思っていたら、ついつい買いすぎてしまい、あっというまに両手がふさがる。
礼陣の夏祭りは、夏の終わりを彩るものだ。特に今年はお盆のちょうど一週間後と開催が遅かったために、昼間は残暑が沁み、夕方には秋の訪れを感じる。立秋はとっくに過ぎているんだよな、と心の中で呟きながら、黒哉は駅裏商店街の縁日通りを抜けた。
高校を卒業するまでは、この場所はもっと賑やかに見えていた。人間だけではなく鬼も歩いていて、出店の人々のように、黒哉に声をかけてきたものだった。けれども今は気配すら感じられない。どうやらこれが大人になったということらしいのだが、やはりいささかの寂しさは感じる。
せめてよくアパートに来ていた子鬼に会えれば、と思ったのだが、それももう難しいようだった。会えたら、いや姿が見えたら、この両手に提げた荷物を少し減らせるのに。焼きそばやたこ焼き、焼鳥串なんかは、好きだったはずだ。
土産に持ち帰るのにも全部は多いので、黒哉は寄り道をすることにした。社台地区と北市地区の境にある、不動産屋。今日は店は閉まっているが、裏口から訪ねることができる。呼び鈴を鳴らすと、ややあって戸が開いた。
現れたのは、一つ年上の、腹違いの兄。祭りの空気に馴染めずに、職場であり、祖父母宅である、この不動産屋に引きこもっていた在だ。――全部、そんなことだろうと想定していた通りだ。
「あれ、どうしたの黒哉? お祭りは光井さんと一緒じゃ……」
「雪は夕方になってから出てくる。今の時間はまだ気温が高くて、アイツじゃすぐ疲れちまうからな。だから一人でうろついてた」
「進道君とかと連絡とらなかったの?」
「昨日の夜に会ってたからいいんだよ。出店で食い物買って、ホラーDVD借りてきて鑑賞会だ」
「それはまた、楽しそうだね」
在は素直にそう思っているようだ。穏やかに笑いながら、黒哉を店内に通してくれた。表は閉まっているので、誰もいない、静かな店だ。
「昨日の昼間は? 神輿行列とか見なかったの?」
今日は祭りの二日目だ。今頃の時間には駅前広場でイベントを開催していて、夜には花火が上がることになっている。黒哉が好きそうだと在が認識している神社の祭事は、一日目の午前に集中していた。けれども黒哉は、それを見ていない。
「昨日は夕方までバイト。門市にこっちの祭りは関係ねーからな」
「そう、相変わらず忙しいね。じゃあ昨夜は進道君の家に泊まったんだ?」
「そういうことだ。今夜は雪の家。で、明日の昼までに帰ってまたバイト」
普段は門市に住んでいる黒哉だが、祭りの日程に合わせて、友人や彼女の家に世話になっている。在の家には頼ったことはない。在もそれについて不満を言ったことはなかった。
「オレのことはいいとして、お前は忙しくねーの? 夏って意外と引っ越し多いって聞いたぞ」
「引っ越しは多いけど、家を決めるのはそれより前だから。ピークはなんとか乗り切った。それにうちのメインは礼大や北市女大の学生さんとか、春にこっちに来る人たちで、夏から秋にかけてはまあ普通。多少は人事異動の影響とか受けるけれど」
まあいろいろだよ、と言いながら、在は黒哉から割り箸を受け取った。おまけしてもらった焼きそばとお好み焼きを、ここで食べてしまって、荷物を減らそうという算段だ。
「いただきます。……それにしても、相変わらず商店街の人気者だね。明らかに多すぎるでしょう、この焼きそば。小学生が割り勘で買ったとき、これくらい盛ってもらえるらしいけど」
「ああ、焼きそばはちょっとだけ手伝ったんだ。報酬込み」
「働きすぎじゃない?」
「休みの日まで職場に引きこもってるヤツに言われたかねーな」
静かに会話をしながら、夏祭り二日目の昼が下がる。
今年は春にも帰国したが、夏の帰国は毎年しようと決めていた。もちろん祭りのためだ。
大学を卒業して以来、一年のほとんどを海外で過ごすようになった流と和人は、今は日本の礼陣にいる。かつては自分たちも立っていた駅前大広場のステージを見て、笑いながら手を叩いている。
「海の向こうの祭りも色々見たけど、やっぱりここのが一番だな。なんていうか、落ち着く」
「お腹が痛くなるくらい笑うのにね。僕も礼陣の夏祭りが一番好きだな」
一緒に世界をまわろう。二人で歩いていこう。そう誓い合った日は、昨日のことのようで、昔のようでもある。実際には去年の春のことだというのに。
最初は二か月ちょっとを、知り合いの伝手を頼ってベルリンで暮らした。けれどもすぐに帰ってきて、礼陣の夏祭りを楽しんだのだった。
それからあとは、今年の春まで日本を出て、帰らなかった。大助と亜子の結婚披露宴をやるというので帰ってきたけれど、それも数日のこと。すぐに海の向こうへ渡った。
そしてこの夏、またこの場所に帰ってきた。行ったり来たりの繰り返しで、慌ただしいけれど、これが今の二人の生活だった。二人で暮らす日々は、なかなか楽しい。
昔はしなかったような喧嘩もするようになったけれど、かえってそのおかげで仲が深まった気もする。日本以外の文化に触れたせいか、行動も少しだけ大胆になって、ステージを見ている今も、流は和人の手をさりげなく握っていた。
和人はそれを邪険にすることはなく、けれどもときどきやんわりと離して、周囲を気にする。スキンシップが嫌なわけではないし、それを見られるのがはばかられるわけでもない。
ただ、探してしまうのだ。どこかに懐かしい姿はないかと。
流と生きていくと決めたときから見えなくなってしまった、かつてはずっと傍にいてくれた双子の妹の姿を。――といったら、また「私が姉よ」と訂正されてしまうだろうか。
もし見えなくてもいるのなら、ここにいてくれたなら、流と手を繋いでいることをからかわれるかもしれない。随分仲良くなったじゃないの、なんて。
「和人、どうした? 誰かいたか?」
「ううん、なんでもない。でも誰かいたら確実に気にされるから、手は離そうか」
「今はみんなステージに夢中だから、誰も気にしないよ」
たしかにそうだ。いつかは流と二人で、いや、妹と三人で上がったステージで、今はこの町の高校生たちがバンド演奏をしている。誰もがそれに釘付けで、こちらのことなど気にしていない。
ふと、また歌いたいな、と思った。大好きな人たちと一緒に、あの場所で。この町にいる人々の前で。それがとても楽しいことだと、体と心で憶えているから。
「ありがとうございましたーっ!」
演奏を終えた高校生たちが、叫ぶように礼を言う。拍手をしようとして、流と和人は手を離す。
離しても、離れても、たしかに隣にいる。ここにいる。流だけじゃなく、きっと彼女も。和人にはそう思えてならなかった。
「あ! 流さんと和人さんがいるじゃないですか!」
不意に、ステージの上の少年が言った。気づいてはいたが、彼は元心道館門下生で、和人の後輩にあたる。町議長の孫でよく目立つ流はこの町の有名人だし、やはり見つかってしまうかと、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「何か歌ってくださいよ! 祭りの時期しか礼陣にいないんだから!」
その誘いを盛り上げる、周囲の手拍子。飛び入り歓迎だぞ、という掛け声。そう、この雰囲気が、流は、和人は、好きなのだ。
「行くか?」
「行っちゃう?」
ステージに向かって走るときには、流が和人を引っ張るようになるから、手を繋いでいても自然だ。駆けていくその時、一瞬、和人は空いている手にひんやりとしたものを感じた。誰かが、触れたような。
その誰かに、心の中で問いかける。ここにいるの? と尋ねてみる。返事は聞こえなかったけれど、なぜか肯定されたような気がした。
「それじゃ、帰ってきたお祭男と相棒、一曲やらせていただきます!」
マイクを握った流に応えて、わっとあがった歓声を、彼女も聴いているんだろう。もしかしたら、すぐ隣で。そうだったらいいなと思う。
祭りの最後を飾る花火は、遠川河川敷で打ち上がるが、見るなら河川敷よりも神社の境内や山の展望台がいい。
礼陣の誰もがこのことを知っているから、この場所は混む。子供なら場所を譲ってもらえるが、大人はそうもいかない。人を掻き分けて、やっと落ち着けたところで、上を見上げる。
「やっぱり境内は混むね」
わかってたけど、と亜子は溜息を吐いた。これなら、家の二階から見たほうが良かったかもしれない。けれども今年の花火は、どうしてだか境内から見たい気がしたのだ。
「今は人間しか見えねえから、まだ空いてるように見えるぜ」
「大助、昔はよく『鬼の頭で見えねえ』って言ってたよね」
かつて鬼の子だった大助には、高校を卒業する間際まで鬼が見えていた。中学を卒業する頃から段々と見えなくなってきてはいたが、完全に見えなくなったのは四年ほど前だ。それが大人になった証であるとはいえ、少し寂しかったのを、今でも憶えている。
背の高い大助には、今では花火もよく見えるし、亜子が傍にいるから寂しくもない。
「あ、上がった」
ひゅうう、という音とほぼ同時に空が明るくなり、それからぱん、と空気が弾ける。空をうっとりと眺める亜子の隣で、大助は別の感覚を研ぎ澄ませていた。
境内に来ると、つい鬼を探す。目で見るのではなく、耳で聞くのではなく、第六感ともいえるものを働かせる。けれど自力で鬼の気配を捉えられたことはない。
最後に鬼に会ったのは、今年の春、神主の力を借りてのことだった。そのとき神主は、「眠ってしまった力を呼び覚ます」と言った。大助が鬼を見られなくなったのは、そのための力がなくなったからではなく、眠ってしまったからなのだとわかった。
それからはときどき、こうして鬼を探す。どこかからその気配がしないか、声が流れ込んでこないか、四方にアンテナを張るようにする。
何かが引っかかった試しはない。それでも。
『……だな』
『……するね』
何発目かの花火が打ち上がったとき、それに重なるようにして、頭の中に声が入り込んできた。思わず振り向き、足元も探したが、人間と建物、木々や草花以外には何も見えなかった。隣には亜子がいる。大助の様子を見て、不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの?」
「いや、今……」
鬼の声がした、と思った。耳から入ってくるのではなく、頭に直接響いてくるような声。間違いなく鬼の声を聞いたときの感覚だったと思うのだが、確証が持てなかった。
ところが次の花火が上がったとき、それはまた響いてきた。
『命のにおいがするね』
さっきよりはっきりと、言葉として捉えられた。それも、亜子の傍から聞こえた。見えないが、そこにはたしかに鬼がいるのだと、大助は思った。
それにしても、命のにおい、とは何なのか。花火が上がっているのに足元ばかり見ている大助を、亜子は怪訝な表情で見る。
「ねえ、何かあるの?」
「鬼がいる」
亜子にごまかしはきかない。正直に言うと、驚かれた。
「見えるの?」
「いや、見えねえ。でも、そこにいる気がするんだ」
それに応えるように、声は微かに流れ込んでくる。気づいた、気付いたね、くすくす。――たぶんそれは、小さな鬼たちの笑い声だった。
こちらが気づいたとわかると、鬼の声は突然近くなった。
『大助。亜子から命のにおいがするよ』
それが何を意味するのか、すぐにはわからなかった。実際、わかるのはもっと後のことになる。ただこのときは、また鬼の声が聞こえたことが嬉しかった。
見えないけれど、たしかにいる。彼らはこの町にいる。
そして、自分たちを、この町の全てを、これから生まれてくる全てを含めて守ってくれるのだ。
「……教えてくれて、ありがとうな」
彼らの言葉の意味を知るのは、もう少し後のこと。声は花火の音に紛れて、すぐに聞こえなくなった。
礼陣の夏は、祭りとともに終わっていく。毎年ますます賑やかになっていくこの光景を、子鬼は神社の境内から眺める。
懐かしい顔が多くこの場所に帰って来るこの季節が、この二日間が、子鬼はたまらなく好きだ。この町を離れた人たちが成長した姿も、ずっとここにいる人々の変わらぬ表情も、子鬼たちのように寿命の長い鬼には全部が愛しい子供のようで、宝物だ。
祭りが終われば、また人は去り、いつもの穏やかな日常に戻る。それももちろん大切なのだけれど、やっぱり祭りは特別だ。
『今年も恙なく終わるな。……良いことだ』
いつか、この祭りが開けないほどに人々が疲弊した時代があった。この町そのものを憎んで、悲しい思いをした子がいた。今も晴れることのない恨みもある。それでも礼陣の空を彩る光は、人間の作った大きな花は、美しかった。
来年はもっと美しいと思えるだろうか。幸せな気持ちになれるだろうか。人間も鬼も、みんながこの時間を幸福に過ごせるようになることが、礼陣の鬼たちの願いだ。
そして、きっとそれは、人間も。
『ああ、夏だな』
来年もこうして、人々の中で花火を見たいと、子鬼は、鬼たちは、強く願う。そのために礼陣を守っていこうと誓う。
祭りの日は、そういう日でもある。人間が鬼を想い始めたものは、鬼が人間を想う日になった。いつか人間が祭りの始まりを忘れても、誰も祭りの始まりを知らない時代が来ても、鬼はずっと人間たちを愛しみ続ける。