神社の境内に並んだ送り太鼓が、地に空に音を響かせる。音色に合わせて、高校生や大学生、そして大人たちに担がれた大神輿が、その姿を現した。
礼陣の人口が最も多くなる二日間、夏祭りの日。今年も晴天のもとで、開催を迎えた。
ここ数年、祭りの日に礼陣を訪れる人々は増加傾向にあるという。もともと礼陣に生まれたが町を離れていた人たちが戻ってくるパターン、祭りそのものや礼陣の変わった習俗に興味を持ち、観光にやってくる人々に加えて、祭りのポスターの絵柄やテーマキャラクターといったものに注目する層も来るようになった。
数年前にプロデビューして一気に人気作家となった漫画家、芦屋さとしがこの町に住んでいて、町のイベントに積極的に参加してくれている。忙しいはずなのに、彼は役場や商工会からの依頼を快く受けて、スケジュールを調整し、夏祭りのポスターや町をイメージしたキャラクターを描き下ろす。絵柄は可愛い女の子が主で、いわゆる萌えキャラなのだが、それが全国の芦屋ファンに好評で、客足を増やすきっかけになったことは間違いない。
「萌えキャラ」だけではなく少年漫画風の絵やストーリーも手掛ける芦屋先生のファンは年齢層が幅広く、もちろん礼陣の人々にも大人気なのだった。そういうわけで、今年もポスターの図を二種類も提供していた。
礼陣の習俗に興味を持つ人々には、リピーターが多い。初めは軽い興味でやってきた彼らが、この町の空気にのまれて心まで染まり、ある意味洗脳されて、次の年もやってくる。
「鬼の町」を謳っている礼陣には、一風変わった「鬼」に関する伝説や噂が多数存在している。町の人間によって、あるいは外から来た研究者によって多くの説がどんどん発見され、提唱され、増えていく。しかしどれも決定的な証拠を見つけることはできず、かえってそれが人々の想像力をあおるのだった。
かつて礼陣に住んでいた人々は、この温かく優しい人たちのいる古巣に帰ってくることを毎年楽しみにしている。祭りはお盆を過ぎた土日に開催されると決まっていて、今年はちょうどお盆にあたる日から一週間後に行なわれているのだが、それでも彼らはわざわざ帰って来る。お盆休みが終わり、普通の日常が始まっていても、祭りの日だけは再びこの地に足を運ぶのだ。礼陣の人間として、あたりまえのことであるように。
たった今神社を出て町を回り始めた大神輿を、たくさんの人が見て、追いかけていく。大神輿の後には子供神輿や中学生神輿といった小さな神輿が続いて、行列となる。祭りの始まりを告げる合図にして大きな行事である神輿行列のために、礼陣の町には朝早くから大勢の人間が集まっている。
人間たちだけではなく、この町に住む鬼たちも。――多くの人には姿が見えないが、ここは本当に鬼が住む、真の「鬼の町」なのだ。

神輿行列を見送る人混みの中に、この町に住む一家の姿もあった。一力恵とその妻頼子、そして来月に一歳になる子供の紅葉の三人だ。紅葉は頼子にしっかりと抱かれ、生まれて初めて見る夏祭りの様相に目をしばたたかせていた。こんなに人がいて騒がしいのに、大きな音も響いているのに、泣いたりはしない。
頼子は毎年そうしていたのだが、今年は神輿を追いかけることはしなかった。恵と頼子は毎年礼陣を囲む山々でハイキングを楽しむくらいの健脚なのだが、この残暑の中で小さな紅葉に無理をさせるようなことがあってはいけない。今年はおとなしく行列を見送り、大神輿がまた神社に帰って来るのを待つことにしていた。
大神輿が帰ってきたら、一旦大きなイベントは終わる。それから人々は縁日や観光などに散っていくことになる。そのタイミングで、頼子たちは神社に向かうことにしていた。参詣をして、神社にいる神主に挨拶をしに行くのだ。
神主とはいうが、正確には彼は神職ではない。ただ神社に居を構え、ずっとそこにいるので、町の人々から「神主さん」と呼ばれているのだ。不思議なことに、彼はもう長いあいだ、まったく同じ若い男性の姿のままでそこにいるのだという。実際、十五年前に初めて礼陣の土地を訪れた頼子が会ったときから、神主の見た目には変化がない。町の人は、それを「神主さんは大鬼様だから」という理由で納得している。「大鬼様」とは、礼陣神社で祀られている鬼の長だ。神主こそ神そのものだというそんな奇妙なことが、この町ではまかり通っているのだった。
頼子も初めのうちこそ変な話だと思っていたが、今ではすっかりこの町の考えに染まってしまっている。この町の人々がそう言うならそうなのだろうと思うようになり、それから本当にこの町の人間になってしまった。そして、この町の人間を育てている。
「やっぱり暑いわね。紅葉の具合が心配だし、一旦家に帰りましょうか」
礼陣マニアを自称し他称もされる頼子は、本当は祭りをじっくり見たい。けれども母となった今、優先すべきは子供の健康状態だ。当の紅葉は赤子ながら平気そうな顔をしているが、いつどうなるかもわからない。頼子の夫で紅葉の父である恵は、その心配に賛同した。
「僕が紅葉を連れて帰って、頼子がここに残ってもいいけど」
「紅葉がお腹すいたらどうするのよ。それに、子供を放っておいて自分だけ楽しむなんて、今はまだできないわ。そんなことをしたら、鬼たちに怒られちゃうじゃない」
この町の「鬼」は子供を特に大切にするという。鬼を見ることのない頼子は、けれども鬼について詳しく学び、知っている。それが礼陣の町にある社会システムと密接に関係していることも承知している。親は親として正しいふるまいをすべきだという考えは、頼子にもしっかりと根付いていた。
「私が楽しむのは、紅葉がもうちょっと大きくなってからでいいの。さあ、家に戻りましょう。帰り道が混まないうちにね」
我が子をしっかり抱いて、頼子は、恵は、住まいのある遠川地区へと向かった。
神輿の担ぎ手たちが唄う声を、背中に聞きながら。

神輿行列は町中を練り歩く。礼陣の町は中央地区、社台地区、北市地区、遠川地区、南原地区の五つに分かれている、それなりに大きな町だ。神輿を担ぎながら全てを回るには、午前中いっぱいかかる。スタート地点は神社のある社台地区で、そこから中央地区、北市地区、遠川地区、南原地区の順に歩いていく。南原地区から中央地区に戻ったところで、小学生以下の子供たちが担ぐ子供神輿と、中学生たちが学区ごとに分かれて担ぐ中学生神輿は、駅前広場に入って行列を終える。再び神社に戻るのは大神輿だけで、そのときには迎え太鼓が鳴り響く。
子供たちの担ぐ神輿は、基本的に任意参加だ。神輿を担がずに、見ているだけ、追うだけの子供もたくさんいる。叔母と一緒に神輿行列を見に来ていた少女も、そんな子供の一人だった。
昨年礼陣に引っ越してきたばかりの少女は、祭りを見るのは二回目だ。一年前はまだ町の地理がわからなかったので、しっかりと叔母の手を握っていた。だが今年は町にも慣れて、思わず夢中になって神輿を追いかけてしまったので、叔母とははぐれてしまった。もしはぐれても、駅裏商店街の入口で落ち合う約束をしているので問題はなかったのだが、なにしろこの人混みだ。知らない顔の多い道を一人で歩くのは、少女にとってはまだ不安だった。
だから、少女は鬼に頼ることにした。普通の人には見えない鬼だが、少女にはその姿を捉えることができた。この子は町で「鬼の子」と呼ばれる、鬼と交流のできる人間なのだ。
鬼の子は、実の親を片方あるいは両方亡くした子のことをいう。そういう子供は、この町に住む鬼が親代わりになってくれるために、その姿が見えるようになるのだといわれている。少女は両親が亡くなって叔母に引き取られたことをきっかけにこの町にやってきたので、その時点から鬼の子だった。
引っ越してきたばかりの頃は、鬼が見えることが不思議でならなかった。けれども周囲がそれを当たり前と思っていたことと、鬼たちがあまりにも親しくしてくれるので、今では慣れてしまった。鬼たちと楽しくお喋りをすることもできるし、そのことを人間の大人や友達に話すこともできる。そうしても、「変な子」だとは思われない。
ただ、今日はよそからもたくさんの人が来ている。その中で、町中にいる鬼に話しかけても良いものか、少女は迷っていた。鬼が傍にいれば心強いが、今日ばかりは頼るのをためらってしまう。
立ち止まって悩んでいると、人にぶつかってよろめいた。相手には少女のことが見えていなかったらしく、何も言わずに去って行ってしまう。気づかれずに転びそうになった少女は、しかし、体をしっかりと支えられた。
『大丈夫?』
頭の中に、優しい声が響く。耳から入ってくるのではなく頭に響くその声は、鬼のものだ。
「大丈夫です。……あの、助けてくれてありがとうございました」
少女は小さな声で礼を言い、自分に触れる鬼の姿を見た。人間の大人の女性によく似た姿をしているが、頭には二本のつのがあり、瞳は赤く、着衣は普通の人は普段着にしないような、丈の短い白い着物だ。長い髪をあいている手で払いながら、鬼の女性はにっこり笑った。
『礼陣の鬼が子供を助けるのは当たり前よ。それで、あなたは一人でどうしたの? 一緒に来ていた人とはぐれちゃった?』
「はい。おばさんと一緒にお祭りを見に来たんですけど、御神輿を追いかけていたら……。でも、商店街の入口で待ち合わせをしているので、離れても大丈夫です」
『それでも、この人混みじゃ動きにくいでしょ。一緒についていってあげようか』
待っていた言葉をもらって、少女はぱっと表情を輝かせて頷いた。そして鬼と手を繋ぎ、叔母が待っているであろう駅裏商店街の入口へと向かった。ここからは少し遠い。
「鬼さんも、お祭りを見てたんですよね。わたしのせいで、行きたいところに行けなかったりしませんか?」
少女が遠慮がちに尋ねると、鬼は首を横に振った。
『私も商店街のほうに行きたかったから。あのあたりで待っていれば、迎え太鼓が聴けるからね。こんなかわいい子と一緒に行けるなんて、私としても嬉しいところよ』
答えてから、そうそう、と少女の耳に唇を寄せた。鬼の吐息は人間のそれのようにくすぐったくはないけれど、きれいな顔立ちが傍に来ると、少女は少しどきどきした。
『私のことは鬼さんじゃなく、美和って呼んでくれると嬉しいな。気に入ってる名前だから』
「みわ、さん?」
『そう、よろしくね。あなたの名前は?』
嬉しそうな鬼に名前を告げると、さらに明るい笑顔になった。

大学生になってから、夏休みの、とくにこの祭りの時期は同窓会のようだ。散り散りになった馴染みが集まり、近況を話しながら懐かしい町を駆けまわる。
大学四年になった海は、同じく四年の連とサトと一緒に、神輿をゆっくりと追っていた。連とサトにとっては学生生活最後の夏休みだが、海にはまだあと二年残っている。就職が決まっただの、まだ試験をいくつか受けている最中だの、そういった話は聞き手にまわっていた。
「森谷君がこっちに就職決まって良かったな。進道も帰ってきたら会えるじゃん」
「サトも早く決めろよ」
「希望は礼陣なんだろう? でも意外だな、いつかプロにいくものだと思っていたが……
「オレより野球上手いやつなんていっぱいいるわけよ。結局、ほとんど活躍できないまま引退しちゃったなあ」
でもどうせなら、小さくても野球チームのある会社にいきたいな、とサトは言う。好きなものをずっと追いかけ続けているのを知っているから、ぜひその希望を叶えてほしい。
そんなことを考えていたら、「進道も」と話をふられた。
「あと二年頑張って、帰ってこいよ。道場継ぐんだろ」
「そのつもりではあるんだけど。でもちゃんと就活はする」
「海も帰ってきたら、またみんなで集まれるな」
最終的に目指すのはそこだ。仕事が忙しくても、ときどきは集まって出かけたり、食事をしたりできるくらいの付き合いを続けたい。この礼陣の町で。
もっとも、海が礼陣に帰らなければと思うのは、それだけが理由ではないのだけれど。
今でもまだ、進道家には呪い鬼が封じられている。先日、八月十日に、今年も鬼封じをした。ただ、それを行なった神主によると、呪いは少しずつ弱まってきているのだという。でも全くなくなるという保証はないのだから、やはり海が家を守らなくてはならなくなる。
礼陣の人間は、結局のところ、礼陣を離れられないようにできているのかもしれない。育ってきた環境が、常識が、他の土地とは違うのだ。だから祭りの日を待ち詫びるように一年を過ごし、こうして帰って来るのだろう。海はときどき、そんなことを思うのだった。
「あ、もう子供神輿終わりか。懐かしいな、あれも昔担いだっけ」
サトの声で、いつのまにか町を一周し、駅前の大広場に到着していたことに気がついた。大広場では、神輿を担ぎながらずっと大声を張り上げていた子供たちに、菓子と飲み物が配られている。あれも昔から変わっていない。神輿唄も、ちゃんと憶えている。
「神輿を担いだ話は、そういえばあまり聞いたことがなかったな。海、あとで話してくれないか?」
実家が隣町にある連には、礼陣の夏祭りの思い出は高校に入ってからのものしかない。子供神輿や中学生神輿は、担いだことも見たこともなかった。今まではそのときの祭りに夢中で、昔話をちゃんとしたことがなかったなということに、海はやっと気がついた。
「いいですよ。いくらでも話します。今日は泊まっていってくれるんでしょう」
「進道、オレも泊まっていい?」
「サトは家近いんだから泊まらなくていいだろ」
どうせ帰ってこなければならないのなら、帰ってこようと思うのなら、この町のことを自分なりに大事にしてみよう。たとえば、こうして誰かに話をすることで。

大神輿が駅裏商店街に入っていったのを見送りながら、少女は叔母と合流した。一緒に歩いていた鬼の美和は、ちょっとだけ名残惜しく思いつつ、少女と手を離す。
鬼に成って、人間に触れられるようになった。人間と関われるようになった。だからこそあの小さな手が愛しくて、できることならもう少しだけつないでいたかった。
本当に手を繋ぎたい人とは、もうそれが叶わないから。
『さて、私は神社に向かいますか』
美和と同じく、多くの鬼が神社に向かっていた。迎え太鼓を聞きながら、自分たちも大神輿を迎えるためだ。あの神輿は鬼たちのために、人間たちが丹精込めて作り、修復しながら受け継いできたものだ。感謝をもって迎えるのが、鬼としての礼儀だと教わった。
礼陣の夏祭りは、礼陣神社の例大祭を兼ねている。人間たちが鬼のためにと作った神社で、鬼のためにと祭りを開く。鬼は人間たちの気持ちを受け入れるのが役目だ。
役目といえど、楽しんでいる。人間たちの楽しみは、鬼たちの楽しみだ。
『鬼として、楽しまなくちゃね。私はもう、永く礼陣を守るべきものなんだから』
商店街に並ぶ出店が、神社に供物を運ぶ準備をしている。大神輿の到着後、神社は人と食べ物でいっぱいになる。今の美和はどちらも楽しめるのだから、それを享受すればいい。
けれども、やはりまだ、どこかに寂しさが残っている。本当はこの楽しみを、かつてずっと傍にいた彼――双子の弟と分かち合いたかった。
鬼に成って約一年半。祭りも二回目のはずなのに、と自嘲しながら、神社へと向かう。

大神輿が神社へ帰ってきてからしばらくして、頼子と恵は紅葉を神社へと連れて行った。
縁日を紅葉に見せながら、ゆっくりと歩いてくるあいだ、勤めている学校の教え子たちとも会った。みんな紅葉を見て、可愛いと、賢そうだと言ってくれた。そのたびに「そうでしょう」と自慢げに胸を張る。
反応は、大鬼様であるはずの神主も同じだった。彼の感覚は人間のそれとそう変わらない。見た目も同じだ。だから年をとらないことを除けば、ただの人間の男性のようだ。
「恵君、頼子さん、ようこそ。愛さんにはお守りの授与をしてもらってますよ」
祭りのあいだは神社で仕事を手伝っている恵の妹のことを教えてくれてから、神主は紅葉の顔を覗き込む。そして「本当に賢そうな子ですね」と目を細めた。
「会うたびに賢さが増していくようです。お二人にそっくりですね」
「恵君には似てるって言われるけれど、私にまで似てるっていうのは珍しいです」
紅葉は神主を見てきょとんとしている。いや、本当はなにかしらを考えているのかもしれないが、赤子の気持ちを完璧に読み取ることは難しい。
「もうすぐ、この子が生まれて一年ですか。早いものですね」
「ええ。来月末、一歳になったらまた挨拶させていただきます」
神輿行列に、縁日。賑やかな神社の様子。初めての夏祭りは、紅葉の目にはどのように映っただろう。いつかは紅葉自身も、あの光景の中に入っていくのかもしれない。子供神輿を担ぎ、縁日を楽しみ、自分の足でこの町を駆けまわる日が来る。鬼たちに見守られながら、この子は成長していく。
「神主さん、この子を……紅葉をよろしくお願いします。礼陣の子として」
「もちろん、鬼総出で守らせていただきますよ。礼陣の子として」
ああ、この子はきっと、自分たちが間違えない限りはちゃんと育つ。頼子と恵は確信を持って、紅葉を見た。紅葉は神主を見て、声をあげて笑っていた。