未練があるとするならば、あの子が大人になるまでを見届けたかった。いいえ、大人になっても傍にいたかった。いつか手を離れていくものだとわかっていても、あの子が幸せそうに笑うのを、そこにいて見たかった。
楽しい学校生活を送って、社会に出て、もしかしたら可愛いお嫁さんをもらって、素敵なお父さんになるかもしれない。けれども私は、もうそれを確かめることはできないのだ。
魂は、体を離れたらどこに行くのだろう。天国、地獄、冥界、輪廻――聞いたことのある言葉を並べてみたけれど、いざ自分が向かうとなると、どうなるのかさっぱりわからない。あの子がもっと幼い頃に、「嘘を吐くと地獄で舌を抜かれるよ」なんて脅し文句を聞いたことがあるけれど(私は一度も使ったことがなかった)。
悪いことはした。それが不幸を引き寄せた。ならば私は、地獄行きだろうか。そんなものがあるのなら。
「ごめんね、――」
ああ、最期にあの子の名前を、言い切ることができなかった。どこまでも悪いお母さんで、本当にごめんなさい。
鎮守の森のどこか、そこに住まう鬼たちでもなかなか辿り着けないその場所に、一人の鬼がいた。
頭にある二本のつのと、赤く光る瞳は他の鬼と同じ。個々に違うかたちは、まっすぐで長い髪に、濃い影のように真っ黒な体。それを隠すように、これもまた真っ黒なケープのようなものを着ている。
鬼は所在無げにあたりを見回し、ことん、と首を傾げて目を閉じた。
「あなたは、たった今『生まれた』んですよ」
そのとき聞こえた言葉が、鬼が初めて聞いた「声」だった。首を真っ直ぐにして目を開けると、いつのまに現れたのか、そこには一人の男が立っていた。鬼と同じく瞳が赤く、頭には二本のつのが、長く立派にはえている。肌の色はうすだいだいより白く、浅葱の袴を身につけていた。彼は穏やかに微笑むと、鬼に向かって「おめでとうございます」と言った。
「これからあなたは、この鎮守の森を含む、礼陣の町を守る鬼として生きていきます。寿命はありますが、人間よりずっと長いので、何人もの人間の一生を見ることになるでしょう。そのあいだには困ったことも起こるでしょうが、そのときはすぐに私のところへ来てください。私はいつでも、神社にいますから」
ゆっくりと、しかし淀みなく流れる声が、鬼の頭の中に染み込んでいく。語られることを完璧に理解するのにはもう少し時間が必要だと思ったが、自分がたしかに「鬼」であることと、何かあれば目の前の彼のところに行けばいいのだということはわかった。
「まずはしばらく、この森で力を蓄えることをおすすめします。落ち着いたら、町へ出てみてください。そこにはあなたの守るべき人たちがいますよ」
鬼はこくりと頷いて、それを確認したように笑う男を見つめた。彼は丁寧に一礼してから、こちらに背を向けようとして、「おっと、いけない」ともう一度鬼に向き直った。
「私は『大鬼』と呼ばれています。どうぞ末永くよろしく」
去って行く背中をしばらく眺めていると、次第に大鬼のつのは見えなくなっていった。
生まれたばかりの鬼には、大鬼に会う前の記憶がなかった。つまりは本当に、ついさっき、ここに自分が現れたらしい。それ以前は無かったのだろう。
ということは、考えるべきはこれからのことだ。鬼がするべきことは、「礼陣の町を守る」ことなのだそうだが、その前に「力を蓄え」たほうがいいようだ。鬼はゆっくり立ち上がると、森の中をあてもなく歩き始めた。歩くたびに、足元で草がかさかさと音をたてた。
それを聞きつけたのか、だんだん周りに気配が集まってくる。ほかの鬼のものだと自然にわかった。誰に教えられたわけでもないのに、「鬼」というものはこのあたりにたくさんいるもので、互いに交流ができるものなのだということを知っていた。
遠くからこちらを窺うもの、近付いてきて挨拶をしてくれるものと、反応は様々だ。それに対して鬼は、ぺこりと頭を下げたり、手を振ってみたり、声を出してみたりした。
『はじめまして。さっき生まれました』
口を動かさなくても、思うだけで相手に言葉が伝わるようだ。向こうからも、頭に直接語りかけられる。
『はじめまして!』
あどけない顔の、小さな鬼が言う。
『よろしくな』
大きな体の、全体的に灰色をした鬼が言う。
かたちがさまざまだが、つのと目だけはおそろいの鬼たちは、新しく生まれた鬼を歓迎してくれていた。
しばらく歩くと、手に何かを抱えた鬼と出会った。筋肉が隆々と盛り上がっている厳つい鬼は、こちらに抱えたものを差し出しながら笑った。
『新しい鬼がいると聞いたもんでな、供物をちょっくら失敬してきた。人間の作る食べ物というやつは、なかなかに良いものだぞ』
どうやらそれは、生まれたばかりの鬼のために、彼が持ってきてくれたらしい。鬼は礼を言って、厳つい鬼と一緒にその場に座り込んだ。
厳つい鬼がその手には小さな紙に包まれたものを摘み、紙を剥がして口に放り込んでみせる。その真似をしようとして、けれども鬼の口には少し大きかったので、少しだけかじってみた。口の中に、何ともいえない柔らかな刺激が広がる。頭に『甘い』という言葉が浮かんだ。
『甘くて美味えだろう。人間が作ってる菓子だ。これは饅頭という』
『……甘い。私には、少し刺激が強いかもしれない』
『甘いもんは苦手か? じゃあこいつはどうだ』
厳つい鬼は、こげ茶色の小さな塊を寄越した。鬼はそれを受け取り、さっきと同じように口に含んで、全く違う刺激を味わった。柔らかくなんかなく、どこか攻撃的でもあるその刺激が、けれども鬼は気に入った。
『苦い。こっちのほうが美味しい』
『じゃあ鬼の子にでも触れまわっとくかね。苦いチョコレートが好きな鬼がいるってよ』
豪快に笑う鬼から、チョコレートをもうひとかけもらいながら、鬼は胸の奥に不思議な気持ちが湧くのを感じた。
――懐かしい。
さっき生まれたばかりで、そんなことを思うわけがないのに、苦味は遠くから何か大切なものを連れてこようとしている気がした。
人間の作ったもの。苦い。「鬼の子」。……鬼の子?
『鬼の子、とは?』
『礼陣に住んでる人間のな、産みの親が死んじまった子供だ。俺たちが真っ先に守らなきゃいけないやつらだな。鬼の子にだけ、俺たち鬼が見える。ごくたまに、鬼の子じゃないやつにも見えるらしいけどな』
産みの親が死んでしまった子供というのが、礼陣にはいるという。もともと親などいないところから突然「生まれる」鬼にはよくわからないが、人間には親が必要で、鬼は彼らの親代わりをしなければならないのだと、厳つい鬼は教えてくれた。
親が死んでしまった。その言葉に、鬼は胸がちくりと痛むのを感じた。何か尖ったものがひっかかって取れないような、そんな感覚だ。チョコレートを口に含むと、ちくちくと連続して痛みが襲ってくる。同時に、頭の片隅から知らないはずの声で言葉が聞こえた。
――……作ってみたんだけど。やっぱり苦くしすぎたかな。
『……ううん、ちょうどいい。とても美味しいわ』
自然と口をついて出た言葉は、厳つい鬼に訝しがられた。けれども口にした鬼もまた不思議だった。どうしてそんな言葉が、急にこぼれたのだろう。
苦い菓子を堪能しつつ、胸の痛みに疑問を抱きながら、鬼は自分がこれから生きる世界について学んだ。自分たちのような鬼は礼陣にしかいられなくて、土地を離れられないということ。人間とは生活を共にはしているが、人間から鬼の姿を見ることは、それこそ鬼の子でもない限りはできないことになっているということ(ただし例外はあるらしい)。ゆえに、人間の営みに過干渉は禁物だということ。礼陣を守るということのほとんどは「見守る」という行為になること。
『できることの範疇を越えて暴走しちまったら、俺たちは呪い鬼になる。鬼にも人間にも迷惑をかけるから、気をつけなきゃあならない』
『暴走することがあるの?』
『鬼にだって、感情があって、意思があるからな。我慢できなくなることもある。そんなときはまず、大鬼様に相談しろ。……そんな余裕がない時もあるけどな』
どうやら鬼というのは大きな力を持っているらしく、その使い方を誤れば、物を壊したり、人を傷つけたりすることもあるという。
『間違ったら、人間も鬼も殺しちまいかねん』
呟くような声に、鬼はまた何かがひっかかった。
人間を、殺す。殺した。――いや、殺された。
『私は、殺された……?』
生まれたばかりで、そんなはずはないのに、鬼は何かを思い出しそうだった。けれどもないはずの記憶は、体の奥の奥から引きずり出されそうになるたびに、胸や頭に痛みを与えた。
混乱と痛みのあまり、とうとう蹲ってしまった鬼を、厳つい鬼が大慌てで担ぎ、運んでくれるのがわかった。
ごめんね、ごめんね。
今度こそ、あなたを守りぬくから。あなたが大人になっても、その先も、守れるようになったから。
もう会っても、お互いにわからないかもしれないけれど。私はこの町を守ることで、あなたやあなたを取り巻くものを、守り抜いてみせるから。
だから、笑って。また苦いお菓子を作って(甘くてもいいわ)、好きなことを思い切りやって、生きていって。
「ちょっと不安定だったようですね。生まれたばかりの頃は、よくあることです」
大鬼がそう言った頃には、胸の痛みはすっかり消え、何を思っていたかも憶えていなかった。鬼はこくりと頷いて、大鬼と厳つい鬼に「ありがとうございました」と言った。
何か大切なことが、頭の中を巡っていた気がする。けれどもそれも「礼陣を守ること」で収まるようで、もう気には留めなかった。
それが鬼の役目なら、自分もそれを果たせばいい。そうしなくては。
鬼は改めて大鬼に頭を下げ、厳つい鬼と一緒に鎮守の森へ戻った。――気がついたときには、神社の境内に運ばれていたのだ。そこは初めて見るはずの、人間とともに暮らす世界だった。けれども違和感はちっともなかった。
また苦いチョコレートを少しもらった。鬼は食べ物を摂らなくても生きていけるので、食べるということは娯楽らしいが、自分はこれを気に入った。
なぜだか心地よい苦みが、口の中でゆっくりととけていった。
近くて遠い、記憶と一緒に。