男子高校生、入江新は悩んでいた。中学の頃のように家庭環境や進路に悩むのではなく、いかにも健全な思春期男子らしい内容である。
「あーらたっ、何頭抱えてんの」
文字通り頭を抱えて唸っていたところへ、クラスメイトで部活仲間でもある志野原飛鳥が声をかけてくる。弾みをつけて呼ぶその調子は、女子なら可愛かったのであろうが、とうに変声期を迎えた男子の声ではちっとも可愛くない。むしろちょっと気色悪い。新はますます頭が痛くなった。
「シノに相談しても仕方ない悩みがあるんだ」
「うわ、酷い言い草。友達だろ、ちょっとは頼ってくれてもいいじゃんか」
ふくれっ面も可愛くない。すかさず飛鳥の頭にチョップをくらわせ、それからとどめの一言をくれてやった。
「だってシノ、彼女いないだろ」
「いてー……。あ、彼女? いないから何だってんだ、俺には可愛い妹がいるからいいんだよ」
「そういうシスコンっぽいところがもったいないんだよ、お前は。それさえなければ、そこそこにルックスもいいし、弓道やってる時だって初心者の割にはなかなか様になってるのに」
「うわー、イケメンで弓が上手い奴には言われてもちっとも嬉しくない」
棒読みで台詞を返しながら、飛鳥は新の机に腰かける。いくら座るなと言ってもきかないのだ。だから新も今更何も言わない。ただ溜息を吐くだけだ。
そんな二人の様子を先ほどからずっと見ていた者がいた。彼は自分の席をたつと、静かにこちらへやってくる。
「新、何か悩んでるのか?」
「ああ、アキ。ちょっと聞いてくれよ」
「え、俺に言わないのに秋公には話すの? 秋公だって彼女いないのに」
クラスメイトの遠山秋公が心配そうに首を傾げると、新も自然と悩みを話そうかという気になる。それが秋公に関係あろうとなかろうとだ。飛鳥の不満げな声を無視して、新は先ほどから悩んでいた内容を語り始めた。
「春のことなんだけど」
「春? 喧嘩でもしたのか」
「しない。むしろ順調」
須藤春は同じくクラスメイトであり、新の彼女である。今は仲のいい女子とお喋りを楽しんでいて、こちらの様子には気づいていない。背が低く笑顔の可愛い、新の自慢の彼女なのだった。
かつて春と同じ小学校に通っていた飛鳥と、下宿している家が春の家と同じ方向にある秋公は、新から「春はオレのだから」と入学早々に釘を刺されている。それくらいに大切にしている彼女の、いったい何が悩みだというのか。まさか「可愛すぎて他の奴から目をつけられていないか心配で」などといったことではあるまい。
新が頬を染めながらもごもごと言うには、こういうことだった。
「順調だからさ、なんというか、ちょっと先に進んでみたいなと思うだろ」
「あー……そういうこと」
「新もそういうこと考えるんだな。ちなみにどこまで進んだの?」
納得したように頷く秋公と、興味津々といった様子で尋ねてくる飛鳥。新は一瞬だけ眉を顰めたが、周りに聞こえないよう小さな声で答えた。
「たまに手繋ぐくらい……」
「ほう、それ以上のことがしたいと」
「シノ、うるさい……」
とうとう机に突っ伏してしまった新を、飛鳥はニヤニヤしながら眺め、秋公は首を傾げて「それ以上?」と呟く。付き合っていて、手を繋いで歩いて、それ以上何をするというのか、恋愛ごとにさして興味のない秋公にはすぐには思い至らないのだった。
「まあな、中学のときから付き合ってるんだし、色々妄想したくなる気持ちもわかるけど」
「中学の終わりからだ。……そういうふうに思うのって、やっぱり春にはいやらしいって思われるだろうか」
飛鳥と新のやりとりで、秋公もやっと「恋人がよくしているらしいこと」を思いつく。つまり新は、春ともっと身体的にくっつきたいのだろう。手を繋ぐだけでは飽き足らず、抱きしめてみたり、口付けてみたりといったことをしたいらしい。一人で頷いていると、新がやっと顔をあげた。
「アキはどう思う? やっぱりこういうこと考えてたら、春に幻滅されるかな」
「俺はよくわからないけど……。でも春は、新がしたいって言えば応じてくれるんじゃないかと思う。俺は新たちとは付き合い短いけど、二人がそういうことをしても別におかしいと思わない」
「ていうか俺はもうキスくらいしちゃってるのかと思ってたぜ? 気が付けばイチャイチャしてるし」
秋公も飛鳥も、今更幻滅も何もない、と思っている。なにしろ高校に入って同じクラスになったその時点で、新は春に近づいてきた男子をとにかく牽制していたし、春もまんざらでもなさそうだった。昔の春を知っている飛鳥からしてみれば、「あの須藤に彼氏とはねえ」と感心したものだ。先ほど言った通り、気が付けば二人一緒にいるし。
だが、一方で昔の春を知っているからこそ、飛鳥には新と春が付き合っているということ自体が意外だった。このことを知った当初はそう感じたことを思い出して、飛鳥は現状にも納得した。
「わかった、そういう雰囲気にならないか、なってもストップかけちゃうんだろ。たぶん、須藤は新がキスしたいとかそういうふうに思っても、いやらしいとは思わない。問題はバックについてるあの人か……」
新はぎくりとする。そう、春といい雰囲気にはなるのだ。しかしそのたびに、頭をよぎる光景が、言葉があった。それが新の欲求を抑えていた。
「あの人って?」
秋公が飛鳥に尋ねる。すると飛鳥はちょっと春たちのほうを見たあと、声をひそめて言った。
「二年の進道先輩。秋公も知ってるだろ、やっこちゃんが剣道やってるし」
その名前を聞いた秋公は目をしばたたかせ、新は深く溜息を吐いた。
新が春と付き合うようになってからのことだ。高校入学前の春休み、須藤家で高校から出されていた課題をやっていたその日、来客があった。
いつも一緒にいる友人の加藤詩絵や園邑千花は、それぞれ都合があって来なかった。課題のためという色気のない理由ではあるが、ちょっとしたお部屋デートを二人とも楽しんでいたのだが。
「こんにちはー」
呼び鈴の後に、引き戸を開ける音。やってきたのが須藤家に頻繁に出入りする人間であることは、新にもすぐに分かった。
「あ、海にいだ」
春の言葉に、新は身構えた。これまで名前だけは何度か聞いていた「海にい」。どうやら春とは幼馴染で、兄のような存在であることは知っている。だが、実際にその人を見たことはなかった。
「新、長くなるから一緒に居間に行こう。おじいちゃん今いないから、私が応対しなくちゃ」
「あ、ああ……」
立ち上がる春について階下へ向かうと、玄関に大荷物を抱えた少年が立っていた。背筋の伸びた立ち姿は大人っぽく、しかし顔はまだ少し幼さが残る。笑顔を浮かべると、とても爽やかだ。詩絵が好きそうだな、と思った。
「海にい、いらっしゃい」
春が親しげに声をかける。どこか甘えてもいるようで、新は少しだけ妬いた。
「や、春。おじいちゃんは留守?」
「うん。さっき北市のほうに用事ができたって出てった」
「そっか。……で、彼は? 友達?」
優しげなその人の視線が、新へと移る。途端に、ぞわりと総毛立つような感覚に襲われた。目の前の人は笑っているのに――口元は笑っているはずなのに、目の奥はちっとも笑ってなんかいなかった。それに気づいてしまった新は、あわてて頭を下げた。
「こ、こんにちは。はじめまして。入江新といいます」
「ああ、君が。はじめまして、進道海です」
春からこちらの話は聞いているのか、海は新のことを知っているようだった。けれどもお互い初対面なのには違いない。初対面なのに、どうしていきなり敵意を感じるのだろう。
「海にい、とりあえず上がって。荷物中に入れなきゃ」
「上がっていいのか? 友達来てるのに」
「そのうち紹介しなきゃと思ってたからちょうどいいよ。あと、おじいちゃんが貰ってきたお菓子、食べきれないからちょっと持って帰って」
春は海を家に上げたが、新としては勘弁してほしかった。会って早々にこちらを敵視するような人物と、同じ席につきたくない。
けれどもそんなことを言えるはずもなく、新と海は居間の座卓を囲むこととなった。
緊張して目を合わせることができなかったが、海からの視線はぐさぐさと新を刺す。真向かいにいる彼は、春が茶と菓子を用意しているあいだ、口も開かずひたすら新を眺めていた。
「何か話せばいいのに。新が緊張しちゃってるでしょ」
まもなくして台所から出てきた春は、呆れたようにそう言った。すると海は「気の利いたことが思いつかなくて」と笑う。
「本当かなあ。新は楽にしていいよ、海にいは私のお兄ちゃんみたいなものだから」
だからこそ緊張するのだが。春の祖父と話をしたときも、新は緊張していたが、今回はその比ではない。春の祖父はすぐに新を受け入れ、軽い調子で話をしてくれたが、海はそうではないのだ。どこか新を値踏みしているようにも感じる。
そんな中、春が新の隣に座り、海に言った。
「新とはちょっと前から付き合ってるの。海にいにはそのうち報告しようと思ってたんだけど」
新の心臓が大きく跳ねた。さっきから注がれている視線が、心なしか厳しいものになった気がする。海は「ふうん」と相槌を打って、茶を啜った。
「それって、春の彼氏ってこと」
「そういうこと」
「……そうさせていただいてます」
小さな声で、なんとか会話に参加する。おそるおそる海を見ると、やはり口元だけで笑っていた。何なんだ、この威圧感は。もしかして、春との付き合いを許してくれないつもりなのだろうか。それは困る。だってこの人は春の兄役であると同時に、これから新の先輩にもなるのだから。
「弓道やってるって、春から聞いたけど」
「あ……はい」
新は海のことをよく知らない。ただ、今ものすごく怖い人だと認識している。しかし海のほうは春から何かと話を聞いていたらしく、新の特技を知っていた。
「春の話だと、弓道のために礼高に進路決めたんだって?」
「そ、そうです。礼高の弓道部に、森谷さんっていうすごい人がいるって知って、それで」
しどろもどろに答える。本当は春と同じところに進学したいという気持ちもあったが、それは言わない。言ったら「そんなことで」と怒られそうだ。もちろん新にとっては、「そんなこと」ではないのだけれど。
「いるね、森谷連さん。どこで知ったの?」
「あ、雑誌と、中学の弓道部で名前が挙がったので。憧れなんです」
「そうだろうね」
そんな話をしていたら、ふと海の表情が柔らかくなった。どこか誇らしげでもある。どうしてだろうと考えていたら、海が茶菓子をこちらに差し出した。
「連さんの後輩になるんだったら、迷惑かけないようにね。俺、連さんとは友達だから。何かあったらすぐに話が届くよ」
優しそうな顔をしながら、とても怖いことを言われた。冷や汗が額から伝ったような気がして、新は菓子を受け取りながら頭を下げ、ついでに顔に触れた。汗は気のせいだった。
「ありがとうございます。指導はしてもらいたいですけど、迷惑はかけないように気をつけます」
「どういたしまして。まあ、連さんはきっと何されても迷惑だなんて言わないと思うけど。……それにしても、連さんの後輩が春の彼氏か。なんだか変な感じだ」
「海にい、あんまり新をいじめないでよ」
春が口をとがらせて言うと、海は朗らかに笑って「いじめないよ」と返した。新に対する笑みとまるで違うが、それには気づかなかったことにして、静かに茶を啜った。
「いじめないけど、春の彼氏ならわかってるよね? 春が礼陣でどんなに重要な子か」
「重要?」
訊き返したのは新だけではない。春の声も重なった。それから春は新に、「私、そんなんじゃないよ」と首を振る。だが、海の話は続いた。
「礼陣の須藤翁っていったら、礼陣では有名な職人で、町の重鎮の一人だ。その孫娘と付き合うんだから、当然礼陣を背負う覚悟があるんだろうね?」
まただ。海の目が全く笑っていない。寒気を覚えて息を呑む新の隣で、春があわてた。
「ちょっと、そんなんじゃないってば。海にい、大袈裟すぎだよ。なんでそういうこと言うの」
「ごめんごめん、後輩だと思ったらちょっとからかってみたくなって」
ちょっとからかう、のレベルじゃなかった。明らかに本気だった。礼陣を背負うくらいの気概を持っていなければ春を任せられないと、この兄役は言っている。
結局そのあと、春に菓子箱を押し付けられて、海は帰っていった。新の返事を待たないままに。
春には散々謝られたが、新には海の言う「覚悟」への思いが生まれつつあった。
「……ということがあって、春には迂闊に手を出せません」
「うわあ、怖い」
「進道先輩って、厳しいんだな……」
一通り話を終えると、飛鳥は蒼い顔をし、秋公も若干引いていた。新の感じた恐怖は十二分に伝わったらしい。
あれは本当に怖かった。あのあと課題が手につかなかったほどだ。
「なんていうか、身内に手を出す人に容赦ない感じだよな、進道先輩って。昔の話だけど、亮太朗もやられてるんだぜ」
「え、マキが? いつ?」
飛鳥が意外な名前を出してきた。牧野亮太朗は、新の中学時代の同級生であり、飛鳥と春にとっては小学校以来の付き合いだ。今は別の学校に通っているが、よく連絡は取る。
「小学生の時、亮太朗ってよく須藤をいじってたんだよな。好きな子をいじめちゃう感じで。そうしたら進道先輩に現場を押さえられて、めちゃくちゃ威圧されてた。それ以来、亮太朗は進道先輩のことが大の苦手」
「そりゃそうだ。ていうかマキも何やってんだ……」
どうやら海の威圧は、春に近づく男子が受けなければならない洗礼のようなものらしい。これから春と付き合っていくには、それを乗り越えなければならないようだ。道は厳しい。
「でも新には森谷先輩がついてるし、進道先輩に嫌われることはなさそうだな」
「そうだといいんだけど……」
春は「海にいのことは気にしないで」と言っていた。けれども春に手を出そうものなら、すぐに海に伝わってしまいそうで、新はなかなか次のステップに進めない。悶々とした気持ちを抱えたままのほうが良くないと思うのだけど、と飛鳥と秋公は心の中で呟いた。
新の恋は、まだまだ前途多難なようである。