人間の魂が、人鬼となり、鬼へと転じる。こうして段階を経ていくのが、礼陣において人が鬼となる基本的な流れだ。死した人間の魂が強い未練を持っているとき、このようなことが起こるという。
美和が死んだのは人間として産まれたほぼ直後のことだったが、同じ胎にいた弟がいたためか、この世にいたいと、生きたいと強く望んだ。その魂は約五年の歳月をかけて人鬼となり、そしてさらに約十四年、人鬼として生きている。他の人鬼に比べて長い時間をかけているそうだが、それには美和自身が力を蓄えてこなかったというだけでなく、弟という要因があったと思われる。
今となっては美和がこの世に執着したのか、弟が美和をこの世に縛りつけたのか、よくわからない。ただ一つ確かなのは、美和がここにいるということだ。
普通の人間にはおろか、鬼が見えるはずの者すら、とらえられることがなくても。美和はたしかにここに存在しているのだった。
『でもこのシステムって、輪廻の考えからは外れてるよね。成仏できない浮遊霊や地縛霊と何が違うのか、よく考えるとわかんなくなってくるわ』
鬼に成る修行を始めて三日目。空気が清浄すぎて、ずっといると落ち着かなかった鎮守の森で、美和は一晩を過ごすことができた。目覚めは案外すっきりしていて、あんなに座りの悪かった空気はいつのまにか自然に美和を包んでいる。いや、美和が気にしなくなってきたのだ。
空気が気にならなくなると、今度は別のことを考える余裕が出てくる。たとえば、自分の存在についてだとか。
記憶にはないただの霊魂時代と、今の人鬼としての生。そしてこれからやってくるはずの、鬼としての生。これらを経験するということは、すなわち礼陣という土地にずっと存在しているということだ。一般的に「成仏」といわれるようなことをすることはなく、別のものにかたちを変えて、この世に留まり続けている。それははたして、いいことなのだろうか。
などと思考を口に出しながら巡らせていると、傍にいた子鬼――美和は牡丹と呼んでいる――は、ふう、と息を吐いて言った。
『美和よ、そもそも輪廻などという考えも人間がつけた理屈だ。人の魂が向かう道の一つではあるが、そこは宗教観や希望といった、当人が持っていたり取り巻かれていたりする概念に基づいた流れに乗ることになる。礼陣には大鬼がいて、生まれ育った人間の多くが大鬼を土地神と認めているから、大鬼が用意した流れに乗ることもできるというわけだな』
そういえば宗教というものは、人間が何かを信仰することで誕生するものだった。美和は牡丹の言葉に頷きながら、もう一度自分の乗っている「流れ」を考えてみる。
これまでの美和の在り方が礼陣にある鬼信仰に基づくもので、大鬼様の用意したものであるならば、なぜそれは美和に適用されたのだろう。生への未練くらい、誰だって持ちそうなものなのに。大鬼様は鬼となる魂を選別しているのだろうか。それなら、どうやって。何を基準にして。
だいたいにして、「神」が人の信仰によって成り立つものなら、大鬼様とはいったい何者なのだ。
『……なんか考えがあちこちに飛躍して、ややこしくなってきた』
『朝から無茶なことを考えるな、美和よ。巡るものあれば留まるものもある。魂の在り方というのは本来、自由なものだ。ただ概念という枠に当てはめたほうがわかりやすいし納得できる、何より行く末を決定しやすい。何もない土地に何も持たず放り出されるよりは、何か指針があったほうがいいだろう。ついでにいえば、この指針も自由につくることができるぞ』
『指針とやらが、宗教観とかそういうものってわけ。……じゃあそういう考えを持つ前に死んだ私は、どうして礼陣の鬼に関する宗教観にうまく乗れちゃってるのかしら』
産まれた瞬間に悟ったわけでもあるまいし、と美和は冗談を言うように笑う。しかし牡丹は、あっさりと『環境だな』と言ってのけた。
『礼陣に生まれたのだから、その瞬間に礼陣での在り方の流れには乗る。頭であれこれ考えるより先に、魂が道の上に置かれるのだ。……わかるか?』
『ううん、いわゆる運命ってやつなのかなあ。……あんなに和人と一緒に本を読んだのに、すんなりとは頭に入らないや』
『結局はそれも人間の考えの範疇だろう。まあ、考えるよりも体感してみるほうがわかるさ。美和は特に、自分の肌で感じてみたほうが納得できることも多いだろう』
肌で、といっても、美和には触覚がないのだけれど。そう思いながら座っている地面を撫でてみる。そこには草が生えているはずなのに、感触は何も伝わってこない。全て美和の手をすり抜けていく。
鬼に成ればもっと実体に近くなるらしいが、はたして美和は少しでも鬼に近づいているのだろうか。そう簡単に修行の成果が出るとは思っていないが、やろうと思ってやってることに何の変化もないと、だんだん不安になってくる。その不安をごまかすための思考はうまく整理できないままで、なんだかもやもやする。
そんな状態の美和をみかねてか、牡丹はまた息を吐くと、立ち上がって『行くぞ』と歩きだした。美和はあわてて後を追いながら、『どこへ?』と尋ねる。鎮守の森の中は広くて、牡丹がどこへ向かって進んでいるのかはわからない。
振り向きながらもなお歩みを止めない牡丹は、美和の問いに短く返した。
『外だ』
鬼の世界である鎮守の森の外とは、すなわち人間の住む町である。美和には慣れ親しんだはずの場所だが、ちょっと離れていただけで、とても懐かしい感じがした。もう随分、ここに来ていなかったような。
『牡丹、私が修行始めてから、どれくらい時間が経った?』
思わず確かめたが、牡丹は美和を安心させるように言った。
『今日で三日目だ』
時間の感覚は合っている。では、この湧き上がる懐かしさは何なのだろう。鎮守の森の中に比べれば清浄とは言い難い空気を思い切り吸い込みながら、美和は疑問符を浮かべる。
『たった三日だが、鎮守の森に慣れていない美和には、長いこと籠っていたように思えるだろう。おまけに俗世への愛着が強いからな』
『ああ、そういうことか。……だから妙に懐かしいのね』
疑問が一つ解決して、美和はホッとする。それから次の疑問に移った。
『で、私を外に連れ出したのはどうして? あんなに鎮守の森に慣れさせようとしてたのに』
『今朝からの美和の様子を見ていて、一つ試したいことができたのでな。何、ちょっとした試験だ。美和が鬼に近づいているかどうかのな』
そう簡単に近づけていたら、とっくに鬼に成っていてもいいものだが。なにしろ十四年も人鬼をやっているような者はそうそういないようで、せいぜい五年もすれば、大抵の人鬼は鬼になっているというのだから。
『美和は物質に干渉することはできない。が、閉じた門を抜けることもできない。口を通るという行為は、基本的に許可されなければできないものだからな』
神社の境内を通り、石段を下りて、町の中へ。神社の敷地から出るのは、修行開始以来初めてのことだ。見慣れたはずの街並みを、ついつい物珍しげに見てしまう。しかし牡丹の言葉はしっかりと捉えることができた。
『だが、この短期間で美和はかなりの力を蓄えることができた。人鬼の期間が長い反動か、力を吸収するのが早い。条件さえ揃えば、すぐにでも鬼に成れそうなものだが……残念ながらまだそこには至っていないようだ』
商店街を抜ける。美和が実家と称している店の前も通ったが、まだ「しばらく休業させていただきます」の張り紙は剥がされていない。店主夫婦、つまり美和の両親は、まだ家に戻っていないらしい。少しだけ心配をしながら、歩みを進めた。
『至ってはいないが、ほんの少し力を使うことはできるやもしれん。だから試験をする』
『危ないことじゃないでしょうね』
『そんなことさせるか。……だが気は少し張っておけ。少々陰気な場所も通る』
そう言われて、美和は緊張感を持つ。だがすぐに牡丹に笑い飛ばされた。
『あまり過敏にならずともよい。陰気な場所といっても、過去しばらくのあいだ、美和も通っていたところだ。ある程度は耐性があるだろう』
『……よくわからないけど、あんまり緊張しすぎることもないのね?』
試験の内容は、まだ教えてくれないようだ。陰気な場所についても、それ以上の説明はとうとうなかった。ただ、懐かしい道を通って、ある家までやってきただけだ。
商店街を抜け、大通りを渡り、遠川地区と呼ばれる川沿いの住宅街。たしかにそこは過去、美和が弟についてよくやってきていた場所だった。が、そこも通り過ぎ、今いるのは一軒家の前。表札には見知った名前があった。
『根代……』
思わず口にした、それは弟の後輩の名前だった。年齢は五つほど離れていて、通う学校も違ったが、剣道の少年団で一緒だったのだ。当時は小さな女の子だったが、かなりの実力者であったのを、美和はよく憶えている。
しかも八子というその女の子は、鬼の子だった。人鬼である美和のことは当然ながら見えなかったが、鬼たちとはよく楽しげにお喋りをしていた。今はどうなのだろう。中学生になっているはずだが、今でも鬼たちと交流をしているのだろうか。
『牡丹、もしかして試験って、やっこちゃんに私が見えるかどうかとか、そういうのなの?』
美和の鬼としての力が強くなったというのなら、鬼の子に姿が見えるようになっているのかもしれない。美和は少しだけ期待したのだが、牡丹は首を横に振った。
『いや、やっこには人鬼は見えん。あれは鬼の子としての力は強いほうだが、人鬼まで見ることのできるような力は持ち合わせておらん。いつぞやに海が美和の気配を感じ取っただけでも稀有なことなのだぞ』
『なんだ、そっか。……じゃあ、試験って何。いいかげん教えなさいよ』
ちょっとがっかりしながら、美和は牡丹を急かす。すると牡丹はすたすたと前に歩いていき、根代家の玄関の前で一旦立ち止まると、手を戸に向かって伸ばした。
その手は戸を通り抜け、向こう側へとけこむ。それを確認したように頷いてから、牡丹はすうっと戸の向こうに入っていってしまった。美和が呆然としていると、またこちら側に戻ってきて、美和に手招きをする。
『試験はこれだ』
『これってどれよ』
『出入り口というのは、基本的に閉ざされていれば通ることはできない。人鬼である美和は、戸が閉まっているというだけで行く手を阻まれてしまう。……というのが、昨日までのことだ』
扉は、空間を隔てるためのものだ。それによって閉ざされた内側は、結界の中と考えることができる。美和はこれまで、その内側に勝手に入ることはできなかった。だから実家に弟がいる時も、戸が閉まっていれば出入りをすることはかなわず、その場所に入るためには戸が開いている必要があった。つまり結界が解き放たれている状態でなければ、美和は移動ができなかったのだ。
今回外に出ているのだって、両親が家を出るときに一緒に出てきたおかげだ。そうでなければ、美和は誰もいない家の中に閉じ込められる羽目になっていた。
『だが、今の美和の力ならば、普通の扉や塀、壁くらいはすり抜けることができるだろう。礼儀としてはきちんと家人に迎えてもらうのが一番だが、今回は試験のために致し方ないこととする』
牡丹はそうして、にやりと笑った。つまり、勝手に人の家に入れと。人間でいえば不法侵入しろと、そういうことを言っているのだ。
『そういう内容の試験なら、私の家でやればいいんじゃないの。牡丹の言う通りに私が壁とか扉とかを抜けられるなら、シャッターだって通れるでしょう』
その方が罪悪感ははるかに軽い。というより、自分の家に帰るだけなのだからない。しかし牡丹には、それだけでは足りない理由があるようで、人差し指を「ちっちっ」と振る。
『わざわざ根代家まで来たのは、ここに紹介しておきたい家憑きの鬼がいるからだ。どちらかといえば、美和に紹介する、というより、美和をあやつに紹介すると言ったほうが正しいな』
『家憑き?』
耳慣れない言葉に、美和は首を傾げる。だがその響きから、なんとなくではあるが意味は予想できた。本や俗世での生活から得た知識や経験は、こういうときに活きる。
『その辺をうろついたり、鎮守の森にいるんじゃなくて、家に取り憑いてる鬼ってこと?』
『そうだな。家憑きの特徴は、基本的にその家から離れないというところにある。力の及ぶ範囲も、その家や家人の傍に限られることがほとんどだな。力が一点集中型であるため、条件が揃えば並大抵の鬼では比べ物にならないほど強い』
ごくり、と美和は唾を飲み込む。それほどまでに強い鬼が、この根代家にいる。牡丹はその鬼に、自分を紹介しようと目論んでいる。いったいどんな厳しい鬼がいるのやら。
だが牡丹の表情は朗らかだ。
『安心しろ、美和。ここにいる鬼は、気性は温厚、力はただこの家を守るために使っている。他にも役割はあるが、本職は根代家の守り神だ。こちらが悪さをしなければ、危険なことはない』
『不法侵入だって十分悪いことだと思うんだけど……』
『何を今更。美和だって、散々人の家に出入りしていた時期があっただろう』
それは弟の友人の家で、弟と一緒に入っていたからいいのだ、と言い返す間もなく、牡丹は再び扉の向こうへ消えていった。残された美和が取るべき行動は、ここで神社に戻るか、牡丹の後を追うかしかない。しかも後を追うことを選んだ場合、自分が本当に閉じた扉の向こうに行けるのかどうかはわからない。
数秒悩んだあと、美和は前に踏み出した。とりあえず、やってみるしかない。鬼に成りかけているのなら、何ができるのか試してみない手はない。きっとなんとかなるんだろう。
扉の前で深呼吸をし、そっと手を伸ばしてみる。通常、閉まっている戸に触れようとしても、美和は弾かれてしまう。だから誰かに戸を開けてもらい、向こうから招かれる必要があった。
だが。
『お……おおお?!』
今、これまで感じていた抵抗は全くない。手は戸をすり抜けて、向こう側にある。美和に物質に対する触覚はないが、外とは異なる室内の温かい空気を感じる。いける、と思ってさらに進むと、すっと体が戸を通り過ぎた。何の痛みもなく、まるでそこには最初から何もなかったかのように。けれども振り向くと、ちゃんと扉があるのだった。
改めて正面を見ると、そこは見たこともない室内。玄関があり、さらに向こうには奥へ続く廊下と、脇には二階へ続く階段がある。牡丹は廊下の突きあたりにある、戸の前にいた。
『……よそ様の家、入っちゃった……』
別に、よそにお邪魔すること自体は初めてではない。弟の幼馴染の家には何度も行っているし、剣道場と繋がっているその家の母屋にも入ったことがある。だがいずれも、弟が招かれるのについていったのであって、誰の許可もなく勝手に侵入したわけではない。
『何をしている、美和。こっちに来い』
牡丹に呼ばれ、おそるおそる上がり框に足をかける。靴は普段から履いていないし、鬼は足が汚れることもないはずなのだが、妙に申し訳ない気持ちになる。触覚がないはずの足の裏にくすぐったさを感じながら牡丹の傍に辿り着いたところで、はたと思う。
『家の人はいないの?』
『やっこと秋公……この春から来た居候は学校、やっこの母と祖母は仕事だな。人間はみんな出払っている』
そういえば今日は平日か、ということを思い出して、家主のいない家に勝手に入っていることにさらなる罪悪感を覚える。心の中でごめんなさいと呟きながら、目の前にある戸を眺めた。
この家の雰囲気に合った、何の変哲もない戸。だが、よく見ると上には札のようなものが貼ってある。それを見た瞬間、美和の胸は突き上げられたようにどきりとした。
『……ねえ、この部屋、何?』
一歩後退りながら尋ねると、牡丹はこともなげに答えた。
『鬼のための部屋だ。人間がこの部屋を開けるのは、煤払いのときくらいだな』
『鬼の……』
『この戸も抜けるぞ。少し抵抗があるかもしれんが、気にせず入れ』
家憑きの鬼がいるところには、その存在が認められている家には、専用の部屋があるものなのか。感心しながら、先に行った牡丹の後についていく。先ほどと同じように戸を抜けようとすると、僅かにはね返されるような感覚があったが、通ることはできた。
そうして目に映ったのは、畳敷きの部屋。中央には巨大な注連縄が円を描いている。そしてその中には、頭に二本の立派なつのをもった、白い着物の鬼がいた。かたちは人間の成人男性によく似ている。
『根代鬼よ。挨拶に参った』
牡丹が声をかけると、鬼はゆっくりと顔をあげた。その瞳は他の鬼と同じく赤く、しかし優しい光を湛えていた。
『ああ、子鬼さん。ようこそいらっしゃいました』
声は低く穏やかで、神社の空気を思わせる。その声と整った顔立ちに、いやそれよりも彼が持つ雰囲気に美和は思わずうっとりした。
『突然の訪問で申し訳ない。この人鬼を紹介させてもらいたく、参上した』
『人鬼ですか』
話題が自分に移ったことで、美和は我に返る。あわてて頭を下げ、いつもの挨拶を、早口でする。
『ひっ、人鬼の美和と申します! よろしくお願いします!』
けれども緊張は出るもので、思い切り噛んでしまう。鬼はそれを面白がることはせず、ただただ微笑みを浮かべていた。
『はじめまして、美和さん。私は根代家を守る鬼です。なので、みなさんからは根代鬼と呼ばれています』
『あ、そういえば牡丹もそう呼んで……。名前持ちなんですね』
『家の名を持っているだけですよ。けれどもその名に恥じないよう、しっかりとこの家を守らなければと思っています』
根代鬼は真面目な鬼のようだ。名に誇りを持ち、自分の役割に責任を持っている。
正直なところ、美和は「家憑き」と聞いて、自分と何が違うのかと思っていた。美和だって水無月の家に住み着き、家と家族を守りたいと思っていると。だが、その気持ちと根代鬼の背負っているものはまるで違うのだと、瞬時に思い知らされた。自分の考えが恥ずかしい。
『それに根代鬼の名は、受け継がれるものですから。いつか次代に繋ぐことを考えると、この名に泥を塗るようなことはできません』
『受け継がれる? 根代鬼って、一人だけじゃないんですか?』
姿勢を正して美和が尋ねると、根代鬼は『ええ』と返事をした。
『根代鬼は、代々根代家に婿入りしたものが成るんですよ』
耳を疑い、それから自分の頭を疑った。鬼が、人間の家に、婿入り? 美和は額を押さえながら、その意味を探る。
『ええと、それは……根代の女性と男の鬼が結婚してるってことですか?』
『順序が違いますね。ええと、こういうことです』
根代鬼は丁寧に、「根代鬼に成るまで」を説明してくれた。
根代家は女系の家である。少なくとも現時点の末代である八子から遡って八代は、女性が生まれて、家を継いでいる。家を継ぐためには、嫁に行くのではなく、婿をとる必要がある。
婿は人間だ。鬼ではない。ごく普通の人間の男が根代家に入り、根代の血を引く女性との間に子供をもうける。――それで男の、「人間としての役割」は終わる。
婿はその後、長くは生きない。その代わりに鬼の力を得て、鬼としてこの家を守る者と成り、新たな生を過ごす。次の「根代鬼」が現れるまで。
根代家はその繰り返しで、今日まで守られているのだ。
『……何、それ』
美和は目を見開き、根代鬼の語ることを解する。つまり、根代鬼というのは、もとは人間だったということだ。人間であったのに、死して、鬼に成り、家を守っている。
それではまるで、生贄ではないか。根代の家に入ること自体が、人間としての寿命を縮めているように思われる。
『じゃあ、根代鬼って人鬼なの?』
『いいえ、私たちは人間としての生を終えてすぐに先代から力を受け継ぎますから、人鬼を経ることなく鬼に成ります』
『どうして? 人間として子供と一緒にいてあげることはできないの? 婿入りしたら、絶対に鬼に成らなきゃいけないの?』
掴みかかって問い詰めたいのを堪えながら、美和は根代鬼に尋ね続ける。牡丹は今回も何も言わないし、根代鬼は困ったような笑みを浮かべていた。
『初めから、この家に入れば死が近くなると説明されて、それでもなお根代の人間になることを望んだのです。大きな力を得て、ほぼ絶対的に家族を守れるなら、それ以上のことはありません』
本当にそうだろうか。鬼に成るとはいえ、大切な人間が死ぬのだから、家族は悲しむはずだ。けっして喜ぶことはないだろう。それでもこの「家憑き」は、長い間続いてきたのだろうか。
『……代替わりしたら、役目を終えた根代鬼はどうなるんですか』
『どうなるんでしょうね。天に昇ったり、輪廻の中に加わったりするんでしょうか』
今朝、牡丹の話した通りなら、鬼以外の魂の向かう道に行くのだろう。それまでは、根代鬼として家を守るのだ。守るという役目で縛られるのだ。――そんなの全然、自由じゃない。
美和の言いたいことを汲み取って、しかし根代鬼はまだ穏やかに微笑んだ。
『私はこの役目を大切に思っていますが、重荷には感じていませんよ。先代も、その前も、この家のために生きてきました。これが運命なのだと、受け入れてきました』
どうしてそんなふうに笑えるのか、美和にはわからなかった。だって、人間は人間として生きてこそ、価値があるのではないのか。けれども美和はそれを口にすることはなく、ただただ根代鬼を見つめていた。その眼差しをしっかりと受け止め、根代鬼は再び口を開く。
『根代家を、鬼となって守る。これが私の望んだ、私の選択した道なのです』
美和がどう思おうと、この役目を根代鬼が「自分で選んだ」というのなら、それは彼の自由意志ということになる。美和にはもう、何も返す言葉がなかった。
根代家を入ってきたときと同じ方法で出て、神社へ戻る。そのあいだ、美和は今朝の牡丹の言葉を反芻していた。
魂の在り方は、本来自由なもの。根代鬼にとっては、美和から見れば縛られているあの状態が、自由を選んだ結果なのだ。そしてよく考えてみれば、美和もまた、他の誰かから見れば縛られているのかもしれなかった。美和自身は、自由にしていると思っているのだけれど。
美和はこの世界に在ることを選んだのだろうか。それとも、縛られているのだろうか。それはきっと見方によって変わるもので、本当のところは当人にすらわからないのだろう。
ただ、どうしたいかと問われれば、美和は答えられる。――ここにいたい、と答える。
『ねえ、牡丹。根代鬼は元人間なんだよね。人鬼にならずにそのまま鬼に成った、かつて人間だった魂なんだよね』
『そうだな。元人間なのは、美和と同じだ』
過程は違えど、美和も根代鬼も人間だった。人間の魂が鬼に転じた、あるいは転じようとしている。そんな鬼は、他にもたくさんいるのだろう。だって何の分別もなかった美和が生きたいと願ったのだから、誰しもがこの世に留まりたいと思う未練を持っているのではないか。
『根代鬼以外にも、人鬼にはならないでそのまま鬼に成ったのがいるんじゃないの?』
てくてくと歩きながら、美和は問う。町はいつも通り活気づいていて、人間が、動物が、鬼が行きかう。礼陣の中ならばごく普通の光景だ。
『うむ、人鬼にならずとも鬼に成る者は、根代鬼だけではない。もともと持っている素質や、生きていく中で得た力が、その魂が鬼に成るときに影響するのだろう』
この光景も、ひっくり返してみれば、未練や執着だらけなのでは。そうすることを選んだ者たちで、この町はできているのでは。そんなことを考えずにはいられない。
鬼たちは、鬼として生を受ける前は、何だったのだろう。この牡丹という子鬼だって、最初から鬼だったかどうか怪しくなってきた。
鬼として生きるという道。それが正しいものなのかどうかは、美和には判断できない。だってまだ、ほんの十九年しか生きていないし、人鬼なんていう中途半端な存在なのだから。
もう少しこの世界で生きてみなければ。複雑な思いを抱きながら、美和は神社に向かって歩みを進める。