数日ぶりの快晴だった。チャンスとばかりに洗濯物が干され、古い住宅街である遠川地区の東側の家々からは、布団を陽にあてて叩く音が響く。
須藤家では、春がちょうどその作業を終えたところだった。自分と祖父の布団が温まっていくのに満足して、ふと眼下の通りを見る。そこには見知った人物が、大荷物を抱えて歩いていた。行き先は間違いなくこの家だろう。
「海にい!」
呼びかけると、相手――海は、二階にいる春に笑って手を振ってくれた。そして須藤家の玄関に向かってやってくる。春は急いで物干し場を離れ、階段を駆け下りた。
呼び鈴は鳴らさずに、玄関の戸が開く。海がここに来るのは、今でこそ回数が少なくなってしまったが、幼い頃はほぼ毎日のことだった。一つ年上の幼馴染は、もとをたどれば春の父の友人の子であり、さらにはもっと前の世代からの家ぐるみの付き合いがあるのだ。
春の両親は随分昔に亡くなってしまったが、それでも海は春を妹のように思い続けてくれている。いや、両親がいなくなって以降、海が小学生の時までは、ことさら気を遣ってくれていた。
それは単なる幼馴染や兄妹のような関係であるということだけではなく、親を喪ったことをきっかけにして共通の認識ができたというのも大きな理由だった。
「こんにちは、春。おじいちゃんは?」
「でかけちゃったよ。晴れてるうちに納品してくるって」
「また自分で行ったのか。宅配で送ればいいのに」
「商店街くらいだったら近所だからね。それに、おじいちゃんだって町の人とお喋りするのが楽しいんだよ」
海の持ってきた大荷物を家の中に運び入れながら、春はいつもの調子で答える。この荷物は剣道で使う備品で、春の祖父がときどきできる範囲で直しているのだった。とはいえその範囲は広く、大抵の綻びは賄えてしまう。町で剣道場を開いている海の家は、そういう点で須藤家と深い関わりがあるのだった。
重いはずの荷物を軽々と運びながら、春は海に上がっていくように言う。海もそれに甘える。こうして海が須藤家を訪れるのは久しぶりだった。特に海が中学生になってからは、随分と忙しくなったようで、来る回数は激減した。高校生になってからはさらに減った。けれども、お互いに「まあ、そんなものか」と思っていた。春にだって、用事はあるのだし。こうして毎度毎度、海を出迎えられるとは限らない。
「春、高校生活はどう?」
居間に座った海に、常備してある麦茶と茶菓子を持って行くと、そう尋ねられた。「どうも何も」と春は苦笑する。
「おんなじ学校なんだから、わざわざ訊くこと?」
「学年が違えば、感じ方はだいぶ違うと思うけど。春は高校生になったばっかりなんだし」
「もう三か月だよ。いい加減慣れた。あ、今度ね、亜子先輩と莉那先輩と服買いに行くんだよ。詩絵ちゃんと千花ちゃんも一緒なんだ」
目下の楽しみを伝えてみると、海はふうん、と気のなさそうな返事をした。自分から高校生活について尋ねてきたくせに、何か事件でもない限りは、答えにはあまり興味を示してくれない。それが女の子同士の遊びのことだと、特にそうだ。
海は男子なのだから、それ自体はかまわない。ただ、女子の話をするときと男子の話をするときでは明らかに温度差があるので、それに春はたまに呆れるのだった。
「なんで女子は、そんな大所帯で動き回ろうとするんだろうな」
「海にい、人のこと言えないよ。自分だってサトさんや森谷先輩、それから日暮先輩といつも一緒にいるじゃない。あ、でもサトさんとは昔よりはべったりじゃないね。野球で忙しいから?」
「言っておくけど、べったりなのは俺じゃなくサトのほうだからな。黒哉はなんでか知らないけどいつのまにか一緒に行動してるだけだ。一緒にいたくているのは連さんだけだよ」
それに、特定の人に対して強い執着を持つのも、海の性質であり、春がちょっと引くところだった。三月に慕っていた先輩が町を出たので落ち着くかと思ったが、結局その分が同級生にまわっただけだった。こういう話を聞くたびに、春は「困った兄だなあ」と思わずにはいられない。
話題を変えようと思って、今行なわれている高校野球の支部大会のことや、最近続いた雨のことなどを適当に話す。その流れで、春はあることを思い出した。
先日、午後から突然どしゃ降りになった日があった。ちょうど放課後に当たったため、春たちは陸上部の活動を切り上げなくてはならず、他の生徒にもいろいろな影響が出た。春の友人もそうだ。
「ねえ、海にい。このあいだは、千花ちゃんを助けてくれてありがとうね」
「……ああ、うん。だってそうしないと、春や莉那さんが怒るだろ。あの子が春と仲の良い千花ちゃんだってことは、うろ覚えだったけど知ってたし。向こうも俺のこと知ってたみたいだったから」
中学時代から仲が良い、園邑千花。彼女はちょうど帰宅途中に雨に降られてしまい、しかも傘を持っていなかったらしい。そこで酒屋の軒先で雨宿りをしていたら、偶然にも買い物に寄った海が、家まで送ってくれたのだそうだ。
その話を聞いたとき、春は驚いた。普段の海なら、自分の傘を千花に押し付け、一人で帰らせていただろうと思ったからだ。少なくとも春が知っている海は、女の子と同じ傘に入ったりしない。道場の門下生や、幼馴染である春なら別だが、あまりよく知らないはずの女の子を、そんなふうには扱わない。
海は女性が苦手なのだ。自分がかつて、母に捨てられたのだと認識した日から。春はそういうふうに聞いている。
それなのに容姿と人当たりが表面上は良いせいか、女の子にはよくモテる。当人は、自分に恋愛感情を寄せてくる女子が一番苦手だというのに。厄介なことだ。
「まあね。千花ちゃんに失礼なことしたら、私は海にいをものすごく怒ったと思うけど。だから送ってくれたことは、本当に感謝してる。おかげで千花ちゃんは濡れずに家に帰れたから」
何はともあれ、珍しく女子に親切だった海には、春は感心していた。少しは女性が苦手なのも直ったのではないかと期待して、女子だけででかける話もしてみたのだが、どうもそういうわけではないらしい。
だが、ある一点は気になっているようだった。
「千花ちゃん、鬼の子なんだってな。その、送ってるときに聞いた。ちょうど子鬼がいたからっていうのもあるけど」
「うん。お母さんがいないんだ。私と同じで、鬼を見ることはもうあんまりできないらしいんだけどね」
鬼の子。それはこの礼陣の町だけで通じる、共通の認識だ。片親あるいは両親を亡くした子供は、この町を守る鬼が、その親代わりをするといわれている。そのせいなのか、親のいない子供には、普段は姿を見せないはずの礼陣に住む鬼を見ることができるのだ。
両親のいない春も、母のいない(海を「捨てた」あとで亡くなったらしい)海も、鬼の子だ。人間とは違うかたちをした、この町の守り神であり住人である鬼たちを見、交流することができる。
しかし、鬼の子にもどれだけの期間、どのくらいの精度で鬼を認識できるのかは差があるようだ。たとえば春はもうほとんどの鬼が見えなくなってしまっているが、海はまだまだ鬼たちをはっきりと捉えることができるという。
千花も鬼の子であるが、鬼を見る精度は春と大差ないようで、よほど向こうから姿を見せてくれようとする鬼や存在感の強い鬼でなければ、見ることはできないそうだ。
けれども、鬼にはたいそう好かれている。千花が落ち込んでいるときは鬼が心配そうに寄り添うし、笑えば周りの鬼も嬉しそうにする。そんな光景を、春は中学生のときから見てきた。
「千花ちゃんはね、鬼たちのアイドルなんだよ。千花ちゃんの幸せが、鬼の幸せって感じ」
「じゃあ、不幸になったら鬼が呪いを持つな」
「うん、自分が落ち込んだら鬼も落ち込むって、千花ちゃんも知ってるよ。だからときどき無理して笑おうとして、私や詩絵ちゃんに泣きたいときは普通に泣きなよって言われるんだけどね。結局その方が、千花ちゃんも私たちも鬼たちも安心でしょ」
千花は自分がつらいときでも明るく振る舞おうとする癖があるが、それは周りの人間や鬼に心配をかけたくないからだ。だからいつも春や、もう一人の友人である加藤詩絵が、少しでも千花が楽になれるようにと気持ちを吐き出させている。
千花の心の痛みは、鬼の心の痛みにも繋がってしまう。そうすると鬼は負の感情を持ち、それを溜めこむことで暴走し、周囲に危害を及ぼす「呪い鬼」になってしまう。――呪い鬼は春も以前に見たことがあるが、恐ろしくて悲しいものだった。
海が危惧する通り、千花の感情や状態は鬼に大いに影響を及ぼす。いつだったか、千花が同級生に対してかなり怒っていたことがあったらしいが、その時怒られたほうは泣くほど怖がってすぐに謝っていたという。春はその話をあとで聞いて知ったのだが、そのときの千花の背後には鬼たちの気迫があったであろうことは想像に難くない。もっとも、鬼の見えない人間には、千花のもつ迫力がよくわからないけど異様に怖い、という認識だっただろうが。
「……千花ちゃんの鬼への影響、大きすぎないか?」
「うん、そういうタイプなんだろうね。前に海にい、話してくれたことあったでしょ。鬼の子にはいろんなタイプがあって、その中には鬼に影響を与えやすい人もいるって。現に海にいがそうなんでしょ?」
春は鬼や鬼の子についての知識や呪い鬼の危険性について、当の鬼たちや海から、簡単にではあるが教わっている。だから千花の持つ特殊性についても、すんなりと受け入れて納得していた。
しかしその解説をしてくれたはずの、当の本人が妙な表情をしている。
「春。……俺みたいに鬼を同調させるような人間は、そうそういないんだよ。って神主さんが前に言ってたんだけど」
「でも、可能性がないわけじゃないんだよね。じゃあ千花ちゃんがそういうタイプでもおかしくはないと思うけど。それに、鬼にはたしかに影響してるけど、同調ってほどでもないかもしれないし」
「それもそうか……」
海はまだ難しいことを考えているような顔をして、じっと麦茶のグラスを見つめている。いったい何を考えているのかは春にはわからないが、海が珍しく女の子の名前を連呼し、何かを心配しているということだけはたしかだ。
けれどもここで「海にいは千花ちゃんのことが気になるんだね」なんて言ってしまったら意地になって否定されそうなので、春は言葉を飲み込んだ。そのかわり、海の気分を変えられるような、けれども流れから逸れない程度の話をする。
「だいたい、鬼に気にいられてる人間ってけっこう多いよね? 亜子先輩だってそうだっていうし、詩絵ちゃんだってものすごく可愛がられてるじゃない。見えてないけど」
「まあ、そうだな。誰にでも鬼に影響を及ぼす可能性はある。変に気にしても仕方ないか」
やっぱり気になってたんだ、とは言わない。ただ笑って、春は菓子鉢から礼陣銘菓おにまんじゅうをとって、海に渡した。
言わないながらも、海と千花は似ていると、春は思う。鬼の子としてのタイプだけでなく、母親がいないということも、二人の共通点だ。どこか運命めいたものを感じてしまう。
これから二人に接点があるのかどうかもわからないが、春にはなんとなく「予感」があった。もしかしたら海と千花の距離は、これから縮まるのではないかと。
「まあいいや。春はこれからも千花ちゃんが鬼に影響しすぎないかどうか気をつけてて」
「大丈夫だと思うけどね。千花ちゃんに自覚があるんだから」
「それもそうだな」
いや、もしかしたらこれは、「予感」なんて曖昧なものじゃなくて。