礼陣の町には、人間と鬼の二種類の人が住んでいる。「人」という一つのカテゴリーに収めてはいるけれど、人間とは異なる姿をし、人間の手の届かない力を操れるという点では、やはり鬼は「人」ではなく「神」や「精霊」に分類されるのだろう。
たとえ同じ場所に暮らしていたとしても、犬と猫が別の生き物として扱われるように、人間と鬼も違うのだ。
その違うもの同士の中間、中途半端な存在が「人鬼」で、姿は鬼のそれなのに、できることは人間の範囲か、それ以下に限られる。人間の魂が鬼に転じる過程の姿であり、ほんの一時のものであるはずのその位置に、なぜか美和は長い時間留まっている。
その滞留を解消しようという、美和が牡丹と呼ぶ子鬼が提案した「鎮守の森修行」が二日目に突入した。鎮守の森は礼陣神社の本殿裏に広がる雑木林だが、そこは鬼のための空間になっている。人間が単独で入れば、必ず迷うという恐ろしい場所なのだ。こういうところでも、やはり人間と鬼は違うものなのだと思わされる。
美和は一日目にして、鎮守の森の清浄すぎる空気に疲れていた。これまで人間の暮らす場所で人間とともに――存在は人間に認識されないが――暮らしてきた美和にとって、鬼のためだけに用意された場所というのは慣れないものだった。
しかしたしかに鬼に成るために必要な力は少しずつ蓄積されているようで、疲労は感じるが、「何でもできそうな気」は胸の奥から湧いてきていた。
『普通はそれが、長くても五年ほどで溜まるのだがな』
ほんの少しのレベルアップは、牡丹にそんな言葉で一蹴されてしまう。そこで美和は閉口するのだが、事実、人鬼として生きている時間が他の同じ境遇の鬼たちと比べて長いので反論はできない。
『とにかく、修行二日目だ。早速鎮守の森に行くぞ』
『うう……寝起きなのに牡丹がいじめる……
起床してまもなく、自分よりもだいぶ背の低い牡丹に引っ張られて、美和は鎮守の森へと連行された。昨夜は神社で寝泊まりしたので、ほんのちょっと歩けばそこは鬼だけが住む世界だ。
澄んだ空気を吸い込むと、季節は春だというのに体の中が冷たくなるような心地がする。人間たちの暮らす街の、色々なものがごちゃごちゃと入り混じった空気とは違う。長らく人間の傍にいた美和には、鎮守の森はまだ少し居づらい場所だ。
人間の傍にいたといえば、牡丹もそうであるはずなのだ。見た目は人間の子供のようだが、頭には鬼である証の二本のつのがちゃんとある、子鬼。この見た目で百五十年は生きているというのだから、まるで詐欺だと美和は思う。この小さな体で、どれほどの人間や鬼たちを見、その思いを受けてきたのか。想像もできない。
けれども、牡丹は美和の知らない時間の中で、人間たちと濃く深く交流をしていたはずなのだ。基本的に普通の人間には見えないはずの鬼だが、牡丹はそんな人間に本来ならしないような干渉をしたことがあるのだという。――これは、昨日知りあった鬼からの又聞きだが。本人からこの話を聞き出そうとは思えない。何やら深刻な事情がありそうだからだ。
『どうした、ぼーっとして』
牡丹がこちらを振り返る。美和は『なんでもない』と首を横に振りながら、やはり牡丹の過去について考えることをやめられなかった。
そうしているうちに、二人は鎮守の森の奥のほうへ辿り着く。鬼の中でも、過去に呪い鬼になってしまった者、特にそのことを後悔している者たちがいる場所に。そこは心なしか薄暗く、鬼たちの表情は余計に憂鬱そうに見える。
この鬼たちと触れ合い、その憂いを軽くしてやること。それが牡丹が美和に課した「修行」の一つだ。だからといって、全てを癒すなんてことはできないだろうと、美和も牡丹もわかっている。
完全に癒せるとも思っていないが、放っておくこともできないのだ。美和の性分の問題である。
『さて、誰から話しかけようかな。私じゃ手に負えない問題を抱えてたら、それはそれで相手を余計に傷つけちゃうような気もするし』
辺りには鬼がたくさんいる。その中から一人だけを選ぶということは難しい。かといって釈迦の説法のようにみんなを集めて話をするなんてことも、美和にはできない。ただの未熟な人鬼なのだから。
考えていると、後ろから袖を引っ張られた。振り向けばそこには、セミロングの黒髪に可愛らしい顔の、人間の女の子のような鬼がいた。
『美和さん、こんなところで何してるの?』
『月音! 昨日より顔色良くなったね』
昨日、美和が出会い、名前を与えた少女鬼、月音。彼女は美和が笑いかけると、はにかんで返してくれた。
『美和さんとお話したあと、なんだか気持ちが楽になったの。……それでね、私と同じように、お話してあげてほしい鬼がいるから、美和さんを探してたんだけど……
向こうからそんな話を持ちかけてきてくれるとはありがたい。美和は『よしきた』と頷き、月音と牡丹とともに、その鬼がいるという場所へ向かった。
鎮守の森の奥、といえども、実際のところどこが最深部なのかはわからない。鬼のつくりだす空間は明らかに雑木林の面積よりも広く大きく、際限が見当たらない。そんな場所を進んでいくと、大きな影があった。
平均的な人間の倍はあろうかという大きな体に、長い腕がついている。その腕でこれまた長い足を折って抱え込み、蹲っている。頭のつのが、彼も鬼だということを証明していた。
鬼はかたちが多彩なのだ。美和や牡丹、月音のように人間とよく似た者もいれば、この鬼のように人間とはかけ離れた姿の者もいる。他に豆粒のようなものなんかもいるらしい。礼陣の鬼は、頭に同じような二本のつのがあれば、だいたいは同じ種族だととらえている。
『おや、こやつは』
牡丹が手長鬼を見て、何か気づく。けれどもそれ以上は何も言わなかった。美和が自分で聞けということなのだろうととらえ、早速鬼に近づいていく。大股に歩く美和の後を、月音もとことことついてきた。
『あの、こんにちは』
手長鬼の正面にまわり、美和は声をかける。まずは挨拶が基本だろう。月音も追って『こんにちは』と言った。すると手長鬼はゆっくりと顔をあげ、低い声で返事をした。
『こんにちは。……おや、人鬼か。何か用かな』
『あのね、ただの人鬼じゃないの。美和さんっていって、話すと気持ちが楽になるんだよ』
月音が紹介してくれるので、美和はとりあえずそれに頷く。手長鬼の赤い瞳がじっとこちらを見つめていた。
『美和です。話して楽になるかどうかはわからないけど、何か吐き出したいことがあるなら遠慮なくどうぞ』
……名前持ちか』
『そう、ちょっと特殊な事情で、人間から名前をもらったの。だから私のことは人鬼じゃなく、美和と呼んでくれると嬉しいかな』
『私も美和さんから名前をもらったの。月音って』
微笑む美和と、両腕をぱたぱたさせながら自分の名前を言う月音に、手長鬼は感心したように溜息を吐いた。それからちょっと笑うと――そういうふうに感じただけだ。なにしろこの鬼は、顔に目だけが光っていて、表情がわかりにくい。――素直な気持ちをこぼしてくれた。
『変な人鬼だな、美和は』
名前を持っていることと、他の鬼にまで名前をつけることと、もしかしたら自分に会いに来たことまでひっくるめて「変」と表現したのかもしれない。けれどもその表現は心外なので、美和はちょっとふくれてみせる。
『どうせ変ですよ。十四年も人鬼やってるし、鎮守の森より人間の町のほうが居心地いいし』
『そりゃあ、ますます変だ。人鬼ってのは、そう長くやってるもんじゃないと思ってたよ。人間の町の居心地がいいのは認めるが、鎮守の森よりってのはなかなか聞かない』
手長鬼は案外気の良い鬼のようで、初めて会ったときの月音よりも明るく話をしてくれる。この調子なら、美和も話しやすい。『そうでしょうよ』と相槌を打ってから、ほんの少し切り込んでみる。
『さてさて。月音が紹介するくらいだから、何か話して楽になりたいようなことを抱えているんじゃないかと思ったんだけど、そのあたりはどうなの?』
言ってしまってから、これは「ほんの少し」ではないなと思ったが、手長鬼のほうはさほど気にせずに『そうだなあ』と首を傾げる。そしてまるでなんでもないことのように、その言葉を口にした。
『もしかして鬼……今は月音、か。君が僕のことを気にしたのは、呪い鬼になったことがあるからかな?』
呪い鬼。礼陣に住む鬼が負の感情を溜めこみ、爆発させて暴走してしまったもの。どの鬼がいつそうなってしまってもおかしくはないのだが、他の鬼や人間を誤って傷つけてしまう可能性があるために、呪い鬼と化すことは忌むべきこととされている。
昨日も呪い鬼になったことのある鬼と会ったが、どうやら手長鬼もかつて呪い鬼となった経験があるらしい。そしてそのことを、彼と知り合った月音は気にかけていたのだった。
『なかなか呪いが祓えなかったの。鬼追いに神社に帰してもらっても、またすぐに新しい呪いを負って町に下りてしまったんだって』
『過ぎた話だよ。呪い鬼になったことは情けないと思っているし、人を襲ってしまってもいるから反省はしなくちゃいけない。でも、月音が心配しているほど引きずっていないよ』
月音の説明を、手長鬼は認めながらも、思い悩んではいないという。しかし月音はそうは思っていないようで、困った顔をして美和に縋る。
『ね、こんなこと言ってるけど、本当は忘れられない人間がいるんだよ。私は好きだった人のこと忘れちゃったけど、この鬼はそうじゃないの』
『こら、月音』
なるほど、月音と通じるのはそこか。美和は一人納得する。月音はかつて人間に恋をしていて、その気持ちのために人間を傷つけてしまったことがある。彼女は呪い鬼にこそならなかったが、同等の脅威を人間にもたらしてしまったのだった。
一方の手長鬼も、人間を好きになったことがある。鬼でありながら人間を恋い慕うというのは、珍しいことではないらしい。ただ、成就させることがとても難しいだけで。
『まいったなあ。……でも、月音の言う通り、僕には好きになった人間の女の子がいたんだよ。彼女には鬼は見えないけれど、神社にはよく来てくれていた。傷つきやすい子だったから、守ってあげたい、願いがあれば叶えてあげたいと思っていたんだ』
頭を掻きながら、手長鬼は正直に話してくれた。初対面の美和に、何も隠そうとすることなく。少しくらいはごまかそうとしてもいいものだけど、と美和が思うのは、人間寄りになりすぎたせいだろうか。
『でも、願いを叶えるっていったって、鬼は人間に過干渉しちゃいけないんでしょう? どうやって願いを叶えるの。そもそもその子の願いって……
『僕がはっきりと覚えているのは、学校を壊して、だったかな』
あんまりさらりと言うものだから、美和はその意味を掴むのが遅れた。人間の女の子が、学校を壊してほしいと、人間の生活の場を破壊してほしいと願ったのか。――珍しい願いではないのは、美和も人間の世界を長く見てきたから知っている。けれども、それを手長鬼は実現させようとしたのか。
『あの子は、学校が好きじゃなかった。クラスメイトも好きじゃなかった。みんなが彼女を傷つけるから、というよりは、彼女の思い通りにことが運ばなかったから。僕は彼女が好きだったから、彼女の傷ついた心を全部受け止めようとして、……彼女の願いに、いつのまにか僕のほうが疲れてしまっていたんだ』
礼陣の鬼は人間を、特に子供たちを大切にしている。手長鬼にとって好きな女の子の願いを聞くということは、同時に人間が人間を傷つけるということを受け入れることになってしまった。――いや、その子の願いはもうただの願いではなく、恨み言になってしまっていたのだろう。自分を取り巻く環境を恨んで、人を嫌って、その気持ちを全て神社で吐き出した。手長鬼は、その恨みを受け止めようとして、自らの中に取り込んでしまったのだ。
負の感情が溜まり、それが暴走すれば呪い鬼となる。手長鬼に「負」を与え続けたのは、彼が恋心を抱く相手だった。きっと彼も葛藤していて、しかしどこかでそのバランスを崩してしまったのだろうと、美和は理解する。
『それで? 学校を壊してあげちゃったの?』
『いいや、鬼追いに止められた。だから今、こうして鎮守の森でおとなしくしていられるんだよ。あの子のことも憶えてる。……今は、中学生かな。話に聞く限り、友達もできて、元気にしているみたいだ』
手長鬼の頭には、その子の顔が思い出されているのだろうか。遠くを見るように赤い眼を細めていた。その話の結末が後味の悪いものでなくて良かったと、美和はホッとした。
『今でも好きなのに、私と違ってちゃんと憶えてるのに、この鬼はその子に会いにはいかないんだよ。ただここで、ずっと考え事をしているの』
月音にはそれが不思議で仕方がないらしい。反省したなら、会いに行くことができるなら、森を出ればいいのにと思っている。好きな人を忘れてしまった月音は、それができるはずの手長鬼が羨ましいのだ。
恋とは一口に言うけれど、そのかたちが一つきりではないことを、美和は知っている。だから片方の手で月音の頭を撫でてやり、もう片方を手長鬼に伸ばした。
『話を伝え聞くってことは、気にしてはいるんだね。その子に会わないまま、ずっと気にかけてきたんだね。……それが本来の、鬼のあるべき姿だと思って』
『うん。僕はそう思った。大鬼様にもそうして叱られながら、呪いを祓ってもらったし』
……そう。大鬼様が。あの人、そんなこと言える立場じゃなさそうなのに』
小さな声で言い捨てて、美和は手長鬼の肌を撫でる。
手長鬼を叱ったという大鬼様は、鬼をまとめる長であり、同時に人間の世界で生きる者だ。彼はこれまでに何度も人間と恋に落ち、そして現在も一人の人間の女性と恋仲にある。生きる時間が違うのだから、いつか必ず彼女のほうがいなくなってしまうはずなのに、心から愛しているらしい。
そんな大鬼様に、手長鬼に「鬼としてあるべき姿」を説く資格があるのだろうか。美和には甚だ疑問だったが、それはこれ以上考えても仕方がない。にこりと笑って、手長鬼を見上げた。
『なんだかあなたは、自分の中でちゃんと気持ちに整理をつけようとしているみたい。本当に、月音が心配するほどじゃなさそうね』
『そうだよ。最初からそう言っているじゃないか』
まだ納得していなさそうな月音を宥めながら、美和は鬼の恋を思う。人間へのそれは、生きる時間の長さや、かたちの違いから、多くが叶わないまま終わる。鬼は否が応にも、いつかは人間への恋情を諦めなければならない。
諦めなくていいのはずるいなあ、とまだ年若い月音は思うかもしれない。現に美和が、そう思っている。叶わぬ恋をしたのは、月音や手長鬼ばかりではない。
自分の気持ちは隅に追いやり、美和は両手で鬼たちを撫でながら、言葉を探した。
『人を好きになるのは、甘さと苦みを同時に感じることらしいわよ。私はものを食べたことがないから、よくわからないけれど。弟と一緒に読んだ本に、そう書いてあったの。それを知ったあなたには、光日という名をつけましょうか』
見つけたのは、苦い飲み物。けれども砂糖やミルクでいくらでも甘さを加えられる。そんなものと音をかけて、「こうひ」。これからの未来が明るくなるようにという願いも込めて、「光日」。
美和の「名づけ」に、手長鬼――光日は目をぱちくりさせた。
『僕に名前をくれるのかい? そんなに特別な鬼じゃないのに』
『私と会ったら、みんな私にとっての特別になるわ。だから私は、今後あなたを光日と呼ぶ。よろしくね、光日』
微笑む美和に、光日は長い手を伸ばす。そして美和の手を掴み、というより摘み、握手をした。
『ありがとう、美和。これからもよろしく』
『あ、私も私も』
そこに月音の手が重なって、三人の鬼は笑いあった。共通点は、かつて恋を諦めたこと。

話が一区切りついたところで、ようやく牡丹もその輪に加わった。そうして四人で、美和がなかなか鬼に成れないことや、鬼に成るために力を蓄える方法などを語りあった。こうしていれば、鎮守の森にいても緊張しないなと、美和は思う。
鬼の味方をもっと増やせば、美和も修行がしやすくなるのかもしれない。鬼に成る日は近づくかもしれない。同じことを牡丹も考えたようで、『この調子でもっと鬼と語りあうといい』と言ってくれた。それは美和のためでもあるが、相手の鬼のためにもなる。
『美和が早く鬼に成れることを祈っているよ』
光日がそう言うので、美和はとりあえず礼を言う。けれどもやっぱり、まだ少しだけ「変な人鬼」のままでいたい気もしている。そのほうが、話をするきっかけをつくりやすい気がするのだ。
鬼と話をしたいのか、それとも鬼に成りたいのか。目的と手段がひっくり返りそうだ。それをそのまま口にしたら、また牡丹が呆れた。