五月二十六日は、豪雨だった。
何年経っても、雨の音が耳に残って離れないほどの。
それは子供も同じなのか、憶えていないはずなのに、雨が降るたびに怖いと泣いて縋った。
今ではもう、そんなことはなくなってしまったけれど、それでも雨の日の娘はなんとなく元気がないような気がする。


爽やかな秋晴れの日、中央中学校の廊下で、顎鬚をたくわえた老人と整った顔立ちの中年男性は再会した。
以前に会ったのは緑の眩しい春の頃だったが、両者とも互いの顔を見てすぐに相好を崩した。
「こんにちは。お久しぶりですね、須藤さん」
「どうも、園邑さんもお元気そうで。今日はお仕事のほうはお休みですかな?」
「娘の中学最後の文化祭ですから、あとを任せてきてしまいました」
老人はこの学校に通う三年C組の須藤春の祖父だ。この礼陣の町では、職人の須藤翁として知られる。一方の中年男性は三年A組の園邑千花の父で、普段は大企業の勤め人として忙しい日々を送っている。
今日は中央中学校の文化祭。三年生の子を持つ二人は、その最後の晴れ舞台を見に、学校まで足を運んだのだった。
二人が初めて顔を合わせたのは、それぞれの孫と娘の三者面談のときである。ちょうど日時を同じくしていたので、挨拶をしていたのだ。
「園邑さんは娘さんが本当に可愛いんですな」
「たった一人の娘ですからね。須藤さんもお孫さんを大事になさっていますよね」
「こっちもたった一人の孫ですから。息子と嫁の忘れ形見でもありますし、ちゃあんと成長を見届けてやらんと」
須藤翁と園邑は頷きあいながら笑った。
彼らには共通点がある。孫が、娘が、唯一の家族だということだ。須藤翁は息子夫婦を事故で亡くしており、彼らの娘であり自らの孫である春を男手ひとつで育てている。園邑も妻が早くに他界していて、親しくしている近所の一家の手を借りながら、千花の成長を一人で見守ってきた。その事情は、須藤翁は孫から、園邑は娘から聞いて知っていた。
なりゆきで、二人はそのまま一緒に校内の展示を見てまわった。先ほどまで合唱コンクールで孫や娘の活躍を見ていたので、その話などをしながら。須藤翁が「千花ちゃんは歌が本当に上手い」と褒めると、「春ちゃんの声も良く響いていましたよ。すぐわかりました」と園邑が返す。年齢は親子ほど離れているのに、年の近い友人のように言葉を交わしながら、三年A組の教室に辿り着いた。
ここでは修学旅行報告の展示が行なわれているという。千花たちが一所懸命に仕上げたものだ、見ないという選択肢はない。遠慮なく教室に足を踏み入れると、パネルの向こうから聞き慣れた声がした。
「これはね、絶対に使いたかったんだ」
鈴の鳴るような声は、千花のものだ。それから、春や、仲のいい同級生たちの声もする。そっと忍び寄って展示を褒めると、振り向いた彼女らは大層驚いていた。それから千花は嬉しそうに父にとびつき、春も頬を染めながら祖父に笑いかける。一緒に写真も撮り、とても楽しい時間を過ごすことができた。

保護者が観覧できる時間が終わりになる頃、須藤翁と園邑は名残惜しくも中学校を後にした。けれども片方は自由業の老人、もう片方は会社を早退してきてしまってこの後の予定がない男のこと、時間を持て余してしまっていた。
「園邑さん、よろしければうちで茶でも飲みませんか。少々遠いですが……
「ありがとうございます。喜んでお受けいたします」
須藤翁の思い付きの誘いに、園邑は乗った。この老人ともっと話したいと思ったのだ。――話してしまいたいことが、あったのだった。
須藤家は中央中学校のある中央地区からは少し離れた、遠川地区にある。秋の冷たい風が吹く道を、大通りを渡り、住宅街に入って歩いていくと、和の雰囲気を持つ家が現れる。須藤家のある一帯は昔ながらの日本家屋が建ち並び、和通りと呼ばれている。
欧風の家に住んでいる園邑は、須藤家とその周囲を見て、感嘆の息を漏らした。
「立派なお家ですね」
「うちなんか小さいほうです。二人で住むのには、ちいと広いですが」
だから客を呼ぶのが楽しいんですよ。そう明るく笑いながら園邑を家に通す須藤翁だったが、言葉の端々や、表情のちょっとしたところに憂いが出る。それは園邑の抱えている思いに似たもので、感じ取るたびに心がちくりと痛んだ。
「そうですよね。二人で暮らす家は、広く感じます。私はその上、いつも千花を独りにしてしまう。どれだけ家が寂しく感じることか」
お邪魔します、とあがりこんだ園邑は、自嘲気味に言う。須藤翁は居間に座布団を用意しながら、「いやいや」とその言葉をやんわり否定した。
「千花ちゃんは、春と遊んでいるのを見るかぎり、ちいとも寂しそうじゃない。お父さんが自分のために働いてくれている、ちゃんと自分を大事にしてくれているというのをわかっているんでしょう。現に今日だって、園邑さんを見つけてあんなに嬉しそうにしていた」
「そうでしょうか。……たとえ千花がそう思っているとしても、私が千花にたまにしかかまってやれないのは事実です。千花には悪いと思ってます」
断りを入れてから園邑が座布団に座ったタイミングで、須藤翁はにやりと笑った。台所に向かいながら、しゃがれた声で、ほんの少しだけ意地悪く言う。
「園邑さん、それは千花ちゃんに悪いんじゃない。あんたが寂しがってるんだ。私も同じだから、よくわかりますよ」
須藤翁の言葉は、園邑の胸に鋭く刺さり、それからすうっと落ちていった。なんだ、寂しいのはこっちだったのか、と妙に納得してしまった。他でもない、須藤翁に指摘されたからこそ腑に落ちたのかもしれない。
同じだから。――須藤翁がそう言ってくれたのが、園邑にとっては救いだった。一人の娘を持つ親として、同じだと認めてもらえたことにほっとしていた。
抱えていた思いを、これからも抱え続けるつもりの事実を、この人にならさらしてしまってもいいだろう。園邑は出してもらった温かい茶を飲みながら、そう考えていた。
しかし園邑がそれを口にする前に、須藤翁から切り出した。
「春から聞いとります。千花ちゃんも幼い頃にお母さんを亡くされたと……鬼の子になったと」
鬼の子。礼陣で、親のいない子を指す言葉だ。礼陣では、親を亡くした子は町の守り神である鬼たちの守護を受けるといわれている。鬼が親代わりになるから、その子供たちは「鬼の子」なのだ。
そして鬼の存在は、この町では当たり前に信じられている。たとえその姿が、普通の人間には見えなくても。
「千花ちゃんは鬼が見える。だからそう寂しい思いはせんでしょう」
鬼の子たちには、親となった鬼たちの姿が見える。それは子供でいるあいだだけともいわれているし、一部の者は大人になっても鬼を見ることができるという。
千花も春も親を亡くした鬼の子だから、鬼を見る。とはいえもうほとんど見えなくなってしまったようだが、それでもその存在がそこにあると捉えることは可能だった。
「そうですね。千花も鬼たちを頼りにしているようです。鬼たちが見ててくれるから、何があっても笑っていられるのだと言っていました。春ちゃんも?」
「春は鬼からいろんなことを習いましたからな。私より鬼のほうが、あの子の親らしかったかもしれません。……まあ、私は鬼を見たことがないので、春がいつのまにか何かをできるようになっているようにしか見えんのですが」
須藤翁の笑顔がほんの少しだけ寂しげに見えるのは、自分では孫にしてやれないことがある悔しさのせいか、孫が祖父よりも鬼を頼っているように感じる虚しさのせいか。おそらくはその両方が、孫が元気に育ってくれて嬉しいという気持ちの裏側で、小さく混じりあっているのだろう。園邑がずっとそうだったのと同じように。
ただ、園邑と須藤翁には二点ほど、決定的な違いがあるようだ。園邑は今、それを確信した。
「須藤さんは鬼を見たことがないんですか」
「ありませんなあ」
「私はあるんですよ」
園邑が湯呑を置くのと、須藤翁がぴたりと動きを止めたのは、同時だった。目を見開いてこちらを見る須藤翁に、園邑は改めて言った。
「私は鬼を見たことがあります。忘れもしない、十五年前の五月二十六日に、妻と一緒に」


その日は前日から激しい雨が降っていて、土砂崩れの警報なども出ていた。そんな中、園邑と妻は病院に行っていた。妻の具合が悪く、検査をしてもらっていたその結果が出たのだ。
若い夫婦は呆然と、雨の降りしきる音を聞いていた。検査結果は受け入れがたいほどに悪く、二人とも完全に言葉を失っていた。
かかっている病のせいで、妻は子供を産めない。その宣告は、これから家族を増やしていく相談をしていた夫婦には、辛いものだった。
「ごめんなさいね。あんなに子供を欲しがっていたのに」
妻が謝るのを、園邑はただただ首を横に振りながら聞いた。妻は何も悪くない。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。せめて何か恨めるものでもあったら少しは楽だったのかもしれないが、そんなものはなかった。
子供は欲しかった。夫婦共通の願いだった。けれどもそれはいとも容易く打ち砕かれたのだった。
「家に帰りましょうか。これから長い治療が始まるわ。家に帰れるときは、少しでも帰りたいの」
その家も、子供が生まれることを想定して建てた家だった。白い壁にステンドグラス風の窓がはまっている可愛い家には、ちゃんと子供部屋になるはずの部屋を用意してあった。これからはそこを、どうやって使えばいいのだろう。
園邑は力なく妻に頷いて、よろよろと立ち上がった。そして妻を支えながら――いや、もしかしたら自分が妻に支えられながら――病院のエントランスを出た。
雨はごうごうと降り続いていて、地面を強かに叩いていた。すぐに来るはずのタクシーを待っているあいだに、雨音は耳に、頭に、染み込んでいった。
――
不思議なものを見たのは、そのときだった。
タクシーはまだかと少しだけ身を乗りだした園邑の目に、こちらへ近づいてくる小さな影が見えたのだ。子供のようなその姿は、傘をさしていない。かといって雨合羽を着ているふうでもなかった。人の形のシルエットが、次第にくっきりと浮かび上がる。こんな雨の中なのに。
それは妻にも見えたようで、首を傾げて呟いた。
「あの子、こんな天気の中で何してるのかしら。親が心配しているんじゃ……
言葉は最後まで続かなかった。妻には、そして園邑にも、わかったのだ。その子供のような影が、ただの子供ではないことを。
大雨の中、子供は着物の袖をはためかせていた。髪もふわふわとはねている。水分など少しも含んでいないかのように。そしてその頭には、小さな突起が二つあった。――つのだ。作り物でなければ、あれは間違いなく、礼陣に言い伝わる鬼だった。
もっと驚いたのは、その小さく細い腕に抱えられていたものだ。こちらも少しも濡れていない。やわらかそうな布にくるまれたそれは、とても小さなその生き物は。
「赤ちゃんだわ」
妻が小さな声で、しかしはっきりと断定した。
子供のような姿をした鬼は、まっすぐにこちらへ向かってくる。赤ん坊をしっかり抱いて、走ってくる。そうして、園邑達の前に立ったのだった。
白く丈の短い着物を着た、おかっぱ頭の少女。しかしその頭にはつのがあり、瞳は赤く光っていた。水を全く滴らせていない彼女は、やはり噂に聞く鬼なのだと、園邑と妻は確信した。おそらくは子鬼というものなのだろう。
子鬼が抱えている赤ん坊には、つのはなかった。人間の赤ん坊だ。いったいどこから連れてきたのだろうと疑問を抱くより先に、子鬼が赤ん坊を園邑たちに向かって差し出した。
『この子を頼む。どうか、生き延びさせてくれ』
赤い眼で、子鬼は必死に訴えていた。差し出された赤ん坊をそろそろと受け取ったのは妻で、「温かい」と呟いた。雨の中、赤ん坊はちゃんと体温を保っていたのだった。
妻が赤ん坊を抱くその光景に、園邑は目を奪われた。検査の結果を知るまで夢見ていたものが、そこにあった。もう絶対に叶うことがないと、さっきまで絶望していたものが実現していた。
『今日生まれたばかりの子だ。どうか、頼んだぞ』
念を押すような声にハッとして、園邑が足元を見たときには、子鬼の姿はもう消えていた。けれども赤ん坊だけは、妻の腕の中にちゃんと収まって、か細く泣き始めた。
「いけないわ、この雨の中じゃ風邪をひいちゃう。中に戻りましょう、そしてこの子を診てもらわなくちゃ」
妻とともに、園邑は病院の建物の中に戻った。そして赤ん坊を外で預かったことを話して診てもらい、無事がわかると安心した。
親のわからないこの子は、後に手続きを踏んで、園邑家の子として育てられることになった。千花という名前をもって。


須藤翁は驚愕を浮かべたまま、黙って話を聞いていた。そんな顔をされるのも無理はないと、わかっていてなおも話したのは、園邑が須藤翁なら突飛な話でも信じてくれるのではないかと思ったからだった。
それに、千花が実子でないことを、この人には隠さなくてもいいのではないかと思ったのだ。須藤翁から孫らに伝わることはないだろう。
「その話、千花ちゃんにはしたんですか」
「いいえ。千花はまだ何も知りません。でも、雨の日になると落ち着かなくなるみたいで……だからどこかで覚えているのかもしれませんね」
園邑が話さないことを、須藤翁が話すわけはない。この人はそんなに口の軽い人ではない。
園邑自身、ずっと守ってきた秘密だ。でも一人で抱え続けるには重すぎて、かといって娘に真実を伝えることもできずに、そのまま今日まできてしまった。
「妻がいない今、このことを知るのは私と当時の病院や施設、役場の関係者くらいです。誰も千花に本当のことを伝えていません」
……そうでしたか」
息を一つ吐いて、須藤翁は目を伏せた。それから、「こんなことを訊くのは失礼かもしれませんが」と前置いてから、尋ねた。
「千花ちゃんの産みの親を捜したことは?」
「手掛かりが何もなかったものですから。捜しはしましたが、見つかりませんでした。鬼が連れてきたとは説明できませんでしたので、千花は病院の玄関で発見されたことになっています」
「なるほど……
須藤翁は考え込むように俯くと、苦しげに眉を顰めた。千花の境遇に衝撃を受けているのだろうと、園邑は黙ってその表情を見ていた。
「子鬼が千花ちゃんを連れてきた日というのは、十五年前の……
「五月二十六日です。子鬼曰く、その日が千花の産まれた日だということだったので、そのまま誕生日としています」
「そうか。……そうだったんですか」
何度も頷きながら、須藤翁はぬるくなった茶を一口飲んだ。それから顔をあげ、園邑に言った。
「子鬼が赤ん坊を連れてきた、というのであれば、一つつじつまが合う出来事があります」
眉間に深いしわを刻んだまま、低い声で告げる須藤翁に、園邑は釘づけになった。見つめあったまま、その言葉は紡がれる。
「十五年前の五月二十六日、穣山で土砂崩れがあり、乗用車が流された事故がありました。運転していたと思われる女性が一人亡くなっております」
時計の秒針が進む音が、妙に大きく聞こえた。それに重なるように、須藤翁の声が居間に響く。そんなに大きな声を出しているわけではないのに、部屋を満たすようだった。
「車からは赤ん坊を寝かせておくための籠が発見されており、女性は子供を産んだばかりであることがわかりました。しかしながら赤ん坊は、未だに見つかっておらんのです。……それも鬼の仕業であるなら、話は通る」
今度は園邑が目を見開く番だった。今まで何の手がかりもなかったのに、十五年経ってつながりが見つかるとは。――いや、もしかしたら、手掛かりを捜すことを園邑自身が放棄していたのかもしれない。赤ん坊が欲しくてたまらなかったから。自分たちのものにしてしまいたかったから。
「そう、ですか……。でも、どうして須藤さんがそのことを?」
「当時は騒ぎになりました。それに、女性は知人の身内だった」
「ならば、須藤さんは千花の本当の親を知っているんですか?」
物心つく頃には、千花にはもう鬼が見えていた。だから親はきっと死んでしまっているのだろうと、だから鬼が連れてきたのだろうと、そう思っていた。きちんと親を捜そうとしなかったのは、捜しても無駄だという思いがあったせいもある。
しかし、死んでいようが生きていようが、彼女が千花を産んだ可能性があるというのなら、園邑は知るべきだと思った。本当は知りたくなくても。千花をずっと自分の子として育てたくても。
「あくまで可能性だが、心当たりはあります。今日はもう春が帰ってきますから、この話はまた今度にしましょう」
気が付けば、時計は随分と進んでいた。千花も吹奏楽部での練習があるとは言っていたが、そのうち帰って来るだろう。その時には園邑が家にいたほうがいい。
今日を逃せば、また暫く忙しくなる。詳細を須藤翁から聞くことは難しくなってしまうだろう。しかしいつか、また機会があったら、この話を進めることにした。
その時には、千花に真実を知られているかもしれない。それからのほうがいいのかもしれない。須藤翁が言い淀むということは、こちらを案じてくれているか、さもなくば親の話をすることがあまりよくないことであるという可能性もある。
「それでは、また今度に」
「うむ。その時が来たら、またここに来てください」
須藤家の玄関を出ると、陽が傾いてきていた。今日は雨が降らなくてよかったと、園邑は心の底から安堵した。もしも今日が雨ならば、もっと鮮明に当時のことを思い出してしまっていただろう。そして須藤翁も、全てを明らかにしてしまっていたかもしれない。
千花は自分の子だ。園邑は心の中で、強く念じてみた。産みの親が誰であれ、あの子が父と呼ぶのは、家族だと思っているのは、園邑一人だけなのだ。
そしてこれからもそうであってほしい。たとえ彼女が、雨の日が不安になる理由を知ったとしても。