礼陣の鬼において、人鬼とは、人間の魂が鬼に転じる過程のものである。鬼が本来持つような「力」は操れず、物質に触れたり、食事をすることもできない。鬼を見ることのできる「鬼の子」と呼ばれる人間さえ、その姿を捉えられない。
鬼としか言葉を交わせず、ひたすらに鬼に成るために力を蓄え続ける。そのあいだに鬼の世界と俗世のことを知る。それが本来の、人鬼のありかただ。
そういう意味では、美和は人鬼として異端である。
人間としてこの世に生まれ、しかしながらほんの数分しか命がもたなかった子供。だが生への執着は強く、魂だけはこの世にとどまり続け、およそ五年の歳月をかけて人鬼となった。しかもその姿は、人間として成長した双子の弟(彼は自分が兄だと思っていたが)に認められ、彼から名前までもらった。「美和」という名は、人間として生きていれば親からつけられたはずのものなのである。
そうして弟とともに成長し、人鬼として長く生きてきた美和は、鬼の世界よりも人間がつくり営んできた俗世のことをよく知っていた。鬼の世界のことは、大勢の鬼たちと話をする数少ない機会と、美和が「牡丹」と名付けた仲の良い子鬼とお喋りをするときに、知識として耳に入れる程度だった。
その美和がついに本格的に鬼の世界に足を踏み入れ、かつ鬼たちの憂いをはらえなどと言われた。鎮守の森の奥で長く心を痛めている鬼たちを癒すことが、はたして自ら鬼に成れてもいない美和にできるのかは、実のところ誰にもわからない。わからなくても美和は、なんとかしたほうがいいんだろうな、程度には考えている。
長い人鬼の生で、美和が得たのは「他人を放っておけない性格」と「楽観的思考」だった。それをもってすれば、この難しい試練も乗り越えられる……かもしれない。

美和が実家と称する呉服店は休業中だ。店主が不在なのである。普段は店で、誰にも見えないのに客を迎えている美和だが、休業ならばすることはない。
そこで牡丹に鎮守の森へ連れ出されたのだが。
『鎮守の森の空気が合わない鬼って、今までにいた?』
神社の拝殿前に座り、美和は牡丹に尋ねる。牡丹は先ほど社務所に差し入れられたまんじゅうを食べながら、首を横に振った。
『鎮守の森は鬼専用の空間だ。穢されることのない、鬼にとって最も清浄な場になっている。それに合わないということはないんじゃないか』
鎮守の森は礼陣神社裏手にある雑木林なのだが、その内部は鬼たちが住まう迷宮となっている。したがって人間が入りこめばたちまちに出られなくなってしまう、厄介な構造になっている。その人間が鬼と意思疎通のできる「鬼の子」ならばまだ救う余地があるが、そうでなければ行方不明扱いだ。そうなった人間を助けられるのは、鬼たちをまとめ人間たちを守る、大鬼様だけ。
かつて迷い込んだ普通の人間で、大鬼様の力を借りずに脱出できた者はほとんどいない。その希少な一人には、美和の弟もいる。他でもない、美和が助けたのだ。
そんな思い出があるせいか、美和はこれまで、あまり鎮守の森に近づきたがらなかった。拗ねたときに引きこもりに行こうかと思うことはあっても、実行には移してこなかった。
しかし今、鎮守の森から戻ってきて思う。あの場所はたしかに清浄なのかもしれないが、俗世に慣れすぎた美和には疲れる。空気が合わないということは牡丹の言からするとないようなので、やはり美和の側に問題があるらしい。
『トラウマか何かなのか、それとも私が今まで鬼に成るための修行をさぼり続けたせいか……。いずれにしろ、今の私は長時間あそこにいるのは難しいわね』
『普通は長時間籠ることで力を蓄えるんだがな。美和はやはり、変わった鬼、いや人鬼のようだ』
『はいはい。変わっててすみませんね』
投げやりに言いながら美和が賽銭箱の向こうへ目をやると、一人の人間がこちらに向かってきていた。そして賽銭箱の前で立ち止まり、作法通りに参拝してから、牡丹に向かって手を振った。美和の姿は弟を除くいかなる人間にも見えないのだから、牡丹にだけだ。
しかし美和は、彼のことを知っている。かつて弟が通っていた剣道場の息子だ。弟を大層慕っていてくれた、よくできた後輩だった。
『海は、私の存在をうっすらと感じることはできるみたいなのよね。前に一度、和人に似た気配がするって言われた』
参拝も挨拶も終えて去って行く背中を見ながら、美和は『今日は気づかなかったかな』と思う。以前、一度だけではあるが、「鬼の子」であるあの海という少年は、美和の気配に気づいた。けれどもそれっきりだ。
『海に見えるようになりたいのか、美和は』
牡丹のまんじゅうを食べながらのもごもごとした問いに、美和は『まさか』と答える。
『どっちかというと見つかりたくないな。海って基本的に女の子苦手だから、和人と同じ顔の女の鬼がいるなんてわかったらショック受けそうだもの。あの子は私からしても後輩だと思ってるから、そんな反応されたらこっちだって気分は良くないじゃない』
『そうか。……じゃあ美和が鬼に成るのが先か、海が鬼を見られなくなるのが先かだな。海に力がなくなってから鬼に成るなら、美和の姿は見えずに済む。いつになるかわからんが』
あれは力が強いから、と牡丹は言う。どうやら鬼が見える「鬼の子」でも、それができるのは子供のうちに限られることがほとんどのようで、大人になれば自然と鬼を認識できなくなるようだ。ただし鬼と関わる力が強ければ、いつまでも鬼を見ることも可能らしい。今の礼陣神社の巫女のように。
先ほどここを訪れた後輩の少年も、なかなか強い力の持ち主だそうで、鬼が見えなくなるのはいつになるかわからないというのが牡丹の見解だった。
『それを待つなら、美和が鬼になってしまって、鎮守の森に住まうほうがいいぞ』
『えー、私は鬼に成ったら実家の手伝いがしたいんだけど』
『鬼は人間への過干渉厳禁。実家の手伝いといったって、たかが知れるぞ』
『物をこっそり動かしたりするくらいは、過干渉にならないでしょ。誰も気づかないのなら、いないのと同じよ。……それなら、今の私とそんなに変わらないじゃない』
できることがほんの少し増えて、今まで認めてくれていた唯一の人間の目から消えてしまうだけで。美和は美和であり続けるのだろう。鬼に成ろうが、なるまいが。少年に拒絶されようが、受け入れられようが。
そんなことを考えていたところへ、ぬっと影が差した。今度は人間ではない。体躯の大きな鬼だった。筋肉は隆々とし、身には白い衣服をつけ、顔にはこれまた真っ白な、平べったい面。その穴から覗く瞳は、赤く輝いている。頭には美和たちと同じ、長い二本のつの。これが礼陣の鬼たちの特徴だ。逆にいえば、どんなかたちをしていても、つのが二本生えてさえいれば鬼なのだ。
『今、海が来たか』
面の鬼が問う。牡丹が頷き、元気だったぞと教える。
『春から高校二年になった。知ってたか?』
『ああ、あの日からいつも気にかけているからな。人間の時間はあっという間に過ぎる』
遠い目をしながら、面の鬼は鳥居のほうを見ていた。美和は首を傾げ、湧いた疑問を遠慮なく口にする。
『あの日って? 海と何かあったの?』
『美和、人間にも鬼にも、話したいこととそうでないことがあってだな』
『よい、子鬼よ。そこの、お前は人鬼か。……どこぞで見た顔だな?』
牡丹は美和を咎めようとしたが、面の鬼がそれを止める。どうやら彼の抱える事情は、牡丹からすれば「話したくないもの」のカテゴリーに入るようだ。だが、当の鬼は気にしていないらしい。
それなら、と美和は話を続けた。
『見た顔なのは、多分私が弟と一緒に心道館道場に通い詰めてたからか、それかあなたが水無月呉服店の前でも通ったかしたんでしょう。私と弟、同じ顔だし。海のこと知ってるなら見たことあるかもしれないしね。あ、弟は人間で、名前は和人っていうの』
『ほう、お前はもしや、あの水無月和人の姉を自称しているのか。たしかに似た顔をしているが』
『自称じゃなくて、事実なの』
弟のことを知っている鬼なら話しやすい。美和は面の鬼を自分の横へ呼び、座らせた。大きな体は場所をとったが、邪魔だとは思わない。むしろなんだか安心するような気さえした。
左に牡丹、右に面の鬼。挟まれている美和は人鬼。奇妙な組み合わせに、境内にいた鬼がちょっと驚いたような顔をしていた。
『私は和人の双子の姉なの。そうやって産まれたんだけど、すぐに死んじゃってね。あとで人鬼になって、以降十四年ほどそのまま生きてるんだ』
『十四年も人鬼をやっていると。それはまた珍しいものだ。普通の人鬼は長くとも五年以内には鬼に成るというのに』
それは牡丹にも言われたことだった。同じことを聞いて、美和は眉を顰める。すると面の鬼は『すまんすまん』と言いながら、大きな手で美和の頭を包むように撫でた。
『まあ、そういうこともあるのかもしれん。かくいう俺も、鬼のことはわかっても、世俗のことは知らんでな。……海と初めて会ったのも、ろくに世の中の変化を捉えられていなかった、四年前のことだった』
あれが中学生のときだ、と面の鬼は優しげな口調で言った。そのまま、その言葉を口にした。
『四年前、俺は呪い鬼になった』
美和の胸が、心臓があるのかないのかもわからないそこが、どきりとした。横目で牡丹を見ると、もう知らぬふりを決め込んでいて、こちらを見ようともしていなかった。

呪い鬼とは、鬼が怒りや悲しみといった負の激情にかられて、力を暴走させたものだ。人間や他の鬼を巻き込んで傷つけることもあるので、危険なものとされている。だから鬼たちも呪い鬼になることは忌むべきこととしているのだが、負の感情の始末をつけきれないことは誰にだってあるだろうと美和は思っている。
その呪い鬼に、この面の鬼はなったことがあるという。ようするに、激しい怒りや悲しみを持ったということだ。
……どうして』
『お前が知っているかどうかはわからんが、四年前、神社が穢され鎮守の森に火が放たれかけるという事件があった』
それを聞いて、美和の脳裏にある記憶がよみがえった。その頃たしかに、神社が誰かの手で汚され、みんなで掃除をしたことがあったのだ。当時中学生だった弟もその掃除に加わったので、美和はもちろんのこと近くで見ていた。火が放たれかけた、というのは初めて聞いたが。
『俺はそんなことをした人間に怒りを覚えた。なぜ人間がこんなことをするのかと、会って罰さなければならぬと思い、街に下りた。……あれと会ったのは、その時だ』
あれは「鬼追い」だった、と面の鬼は言った。
「鬼追い」は、呪い鬼から呪いを祓うために、神社へ帰す人間のことだ。その役目を負うのは、当然鬼を見ることのできる鬼の子ということになる。
つまり海は鬼追いとして、呪い鬼となった面の鬼と接触したということだろうか。そう美和が確認すると、面の鬼は首を横に振った。
『まだ事件を起こした人間を見つけていなかった俺は、あれに初めて会った時は呪い鬼になってはいなかった。だが奴らと巡りあって激情に襲われた時も、あれは俺の傍にいた。傍にいたのに、鬼追いなのに、俺を止めなかった』
『え? それって、鬼追いの役目を放棄してるんじゃ……
驚く美和に、面の鬼は頷いた。表情は隠れていて見えないが、纏う雰囲気は穏やかだ。
『ああ、放棄していた。俺の裁きを正当なものと捉え、見過ごそうとしていた。だが結局他の鬼追いに、俺は神社へと帰された。……海は、変わった鬼追いだった』
鬼追いならば、何が何でも呪い鬼を止めるべきだ。呪いに身を任せてしまう前に説得することだってできたはずだった。それなのに、鬼追いだったはずの少年はそうしなかった。
『鬼追いの役目より、あれは自分の中の正しさを優先したのだ。悪事を働いたものは罰を受けるべきだという考えを。結果、鬼追いの役目から外されたがな。……けれども俺は、人間の中にも俺の考えを否定しない者がいるのだとわかって、あの時少しだけ安心していたんだ』
だから神社に帰ってから、呪いを比較的簡単に祓えたのかもしれない。面の鬼はそう言って、たしかに笑った。鎮守の森の奥の、呪いを後悔して引きずっている鬼たちに比べれば、彼は随分と晴ればれしているようだった。
『以来、俺は海のことを気にしながら日々を過ごしている。当時に比べれば、随分と丸くなったものだ。友人のせいだろうか。もちろん自分が水無月和人の代わりをしなければという思いもあるだろうが……あれは随分と和人に執心していたからな』
『それは私も見てきたからわかるけど。……でも、そっか。まさかあなたと海に、そんな出来事があったなんて』
役目よりも自分の信条を優先した、変わった鬼追い。たしかにあの少年には自分の信念を貫こうとするところがあるが、まさかそこまでとは。――それを思うと、美和は少年と一度話をしてみたくなった。たとえ拒絶されようともかまわないとすら思ってしまった。美和だって、一度や二度の拒絶で折れるようなやわな精神は持っていない。
鬼と人間の関わりの記憶。それは美和も持っていて、失くしたくないと思うものだ。それをまた紡げるのなら、新しい歴史をつくっていけるのなら、鬼に成るのはきっとプラスだ。たとえ弟と直接関わることができなくなっても、他の誰かを通すことができるのなら、それでいい。
『人間と鬼の、良い話を聞かせてもらったわ。まあ、あなたも海もちょっとやることが乱暴だったかもしれないけれど。鬼に人間は裁けないからね。人間を裁けるのは』
『ああ、人間だ。それも、他の鬼の子から教わったよ。鬼である俺の役目は、この町の人間を見守ることだ』
面の鬼も、今では自分の役目がわかっている。そしてそれは、美和も理解しなくてはいけないことだ。鬼にできることは、人間を見守ること。ものを動かすことだって、本来ならば人間のするべきことで、鬼が干渉していいことではない。
『うーん……私も学ばされちゃったな。これも修行の一環になる?』
牡丹に冗談めかして尋ねると、こちらを見ないままの返事があった。
『美和が修行だと思うなら、それでいいのではないか。……私は甘いものが欲しくなったから、ちょっと席を外すぞ。社務所にまだまんじゅうがあるはずだ』
そうしてひゅっと消えてしまった牡丹に、美和はきょとんとする。何か悪いことを言っただろうか。面の鬼と顔を見合わせて首を傾げると、小さな溜息があった。
『子鬼は、呪い鬼の話があまり好きではないんだろう。鬼には常に平穏でいてほしいと、そう願っているのだと思う』
『そりゃ、平穏なのに越したことはないけど。でも牡丹の態度、ちょっと変だったな』
顎に人差し指を当てながら唸る美和に、今度は面の鬼が首を傾げた。
『牡丹とは?』
突然出てきた単語に疑問を持ったらしい。美和はにっこり笑って答えてやった。
『あの子の名前。私がつけたんだ。私以外には呼ばせないみたいだけど。あ、私は美和っていうの。和人に名前をもらったんだよ』
『ほう、名前とは。お前はどこまでも珍しい奴だな』
面の鬼が感心したように頷くので、美和は機嫌を良くした。その瞬間、ひらめきが生まれる。
この面の鬼にも、名前を贈りたい。大切な記憶の話を聞かせてくれた彼と、この先もつながりを持ちたい。美和は面の鬼を指さして、唇をそっと開いた。
『録』
面の鬼が怪訝そうに言葉を繰り返す。
『ろく?』
『そ。私が考えた、あなたの名前。自分の記録を紐解いてくれたから、録。単純だけど、なかなか良い響きだと思わない?』
面の鬼――録は、ふむ、とまた頷いた。
『悪くないな。録。録か。お前以外に呼ばれるのは照れくさいが……
『じゃあ、私にはこの先も呼ばせてよね。よろしく、録』
美和が伸ばした手を、録はそっととって、優しく握り返した。それはもう、人間を自ら罰しようとするような手ではないと、美和は感じた。
握手を終えると、録はおもむろに立ち上がり、『そろそろ森へ戻るか』と呟いた。
『俺は大鬼様ほどではないが、かなり年でな。四年前の件も年寄りが最近の若い者に腹を立てた結果のようなものだ。もうずっと、森で寝起きしなければ力が入らん』
『あらま、大先輩だったのね。もっと丁寧に話したほうが良かったかしら?』
『いや、かまわん。お前と話すと、俺も若返ったようでなかなか楽しい。……そうだ、録の名前に相応しく、もう一つ俺の知っている記録を残していこう』
そう言って録は、見えない口でそれを語った。そうして美和が聞き返すのも待たないで、鎮守の森へ去って行ってしまった。
録はなんて勝手なの、と思うよりも、どうして牡丹は何も話さないんだろう、という思いのほうが強い。それくらい美和は、牡丹のことを何も知らないのだと痛感させられた。

『子鬼は以前、人間の赤ん坊を拾ったことがある。それが子鬼の力を奪うことになり、海の家に封じられている呪い鬼を生むことにも繋がった。……あれが呪い鬼の話を好まないのは、そのためもあるのだろう』

その声はいつまでも、美和の頭の中に残った。
けれどもまんじゅうを持って戻ってきた牡丹に、それを確かめるほど図々しくはなれなかった。