一力紅葉、名前の読みは「くれは」で、愛称は今のところくーちゃん。大学で働く父と高校教師の母を持つ。
ついでにいえば母は住んでいるこの町、礼陣の歴史と文化を研究するのが趣味である。
「今日はくーにどんな話をしてあげようかしら。大鬼様が礼陣に降り立ったお話は昨日したわね。大城のお殿様のために忠義を尽くした兵たちの話はまだだっけ」
まだ一歳にもならない紅葉に、母はこんな物語ばかり聞かせるのであった。
「頼子、紅葉にそんな話ばかりしていたら、将来は頼子みたいになっちゃうかもしれないよ」
「恵君、それどういう意味? 息子とこの町について語りあえるなら、願ったり叶ったりだわ」
苦笑する父をよそに、今日も紅葉は礼陣の物語を子守唄代わりに眠る。
連休が明けて最初の土曜日、大助と亜子は実家を再び訪れていた。連休中に嬉しいサプライズイベントを開いてくれた兄や姉らに礼をしに来たのだが、いつものごとく、むしろこちらがもてなされてしまう。
ケーキと紅茶を囲んで、一力家にはほのぼのとした雰囲気に包まれていた。
「あら、可愛い。これもわざわざ門市で?」
赤ちゃん用のつなぎを広げながら、頼子が嬉しい悲鳴をあげた。亜子が選んだベビー服は、いつも頼子が買うようなシンプルすぎるものと違い、フードにうさぎの耳がついていたりカラフルなポケットがあったりして、見た目にはおもちゃのような可愛らしさがあった。
「門市のデパート、色々あって面白かったよ。くーちゃんにはちょっと可愛すぎるかなって思ったんだけど、可愛いの着られるのって今のうちだし。楽しかった披露宴のお礼と、遅れちゃった端午の節句のお祝いに、どうぞお納めください」
亜子はぺこりと頭を下げる。紅葉にとって初めての子供の日となった先日、亜子は大助とともに旅行に行っていたために、紅葉を祝うことができなかったのだった。それだけが連休の心残りだったので、今日やっとそれを果たせたというわけだ。
「ありがとうね、亜子ちゃん。良かったね、くー。あーちゃんがお洋服くれるって」
頼子の腕の中で、紅葉はわかっているのかいないのか、「あー」と声をあげた。それを頼子が「くーもありがとうって言ってるんじゃないかしら」と適当に訳して、穏やかな笑いがあふれた。
先日、この家にたくさんの人が集まったとき、主役は大助と亜子だったのだが、紅葉も注目の的だった。頼子の元生徒たちには「よりちゃん先生の子供」として、それ以外の人々にも「大助と亜子の甥」として見られ、とても可愛がられた。
一方で多かった声が、「お父さん似」あるいは「大助に似ている」という声だった。紅葉の父である恵と叔父である大助は、雰囲気こそ真逆だが、見た目は基本的によく似た兄弟なので、ようするに一力の血筋の顔をしているということなのだろう。それは昔の写真を見ても明らかだった。
「流の奴なんか『未来予想できちゃう顔だな』とか言いやがって。それだけならまだしも、『叔父さんじゃなくお父さんに似ような』とか余計なことまで付け加える始末だ」
「大助、それまだ根に持ってるのかい? このままだと僕にも大助にも、中身は似ないかもしれないよ。頼子が毎日、礼陣の昔話を聞かせてるからね。マニアが一人増えるかも」
憤慨する大助に恵が苦笑しながら言う。すると大助は眉を寄せて、さっきとは違う呆れた顔をした。
「頼子さん、紅葉の教育もほどほどにな。マニアが過ぎて、好奇心で鎮守の森にでも入られたら大事件になる」
「あら、私はちゃんと破ってはいけない禁についても教えるつもりよ。禁があるからには理由が存在する。それも含めて文化だもの」
頼子は自他ともに認める礼陣マニアで、神社裏手の鎮守の森に入ってはいけないことも常識として知っている。けれども毎年、興味本位にやってきては禁を破ろうとする者が必ず何人かは現れるのだ。そのたびに町の人みんなで止めているのだが、好奇心に抗えない者はそれに不満を持つ。
もちろん紅葉には、そんな子にはなってほしくない。好奇心旺盛なのも、色々なことに興味を持つのも良いことだが、身の危険となるようなことはしてはいけないと教えなければ。
「でもさ、鎮守の森のことはともかくとして、やっちゃいけないことを正しく教えるっていうのは当たり前のことだよね。人のせいにしないで、ちゃんと理由を説明したうえで、これは駄目だって理解させるのは、なかなか難しいけど」
亜子がぼやきながらケーキをフォークで掬う。旅行中や買い物に行った先でも、子供の相手をしている親が目に入って気になっていたのだ。挙句、何かをねだって泣いている子供に「泣き止まないとあのおじさんに怒られるよ!」と大助を指さして怒る親まで現れた。こちらとしては理不尽極まりないことだ。
その話を聞いた恵と頼子は、ちょっとふきだしたが。
「おじさん……。いや、そういうのは良くないね。人を巻き込まずに、いけないことはいけないときちんと教えなきゃ」
「大助君がおじさんって……。いやいや、私もくーを叱るときは気をつけなくちゃ。人のせいには絶対にしない」
「おじさん発言に笑ってんじゃねえよ。こっちは二重の意味でショック受けたんだからな」
最たる被害者はむすっとしながら、食べ終わったケーキの皿を片づけた。
亜子は苦笑いのまま、「この家の人たちはそんなことしないと思う」と言う。
「恵さんは愛さんと利一先生と一緒に、大助をちゃんと育て上げたわけだし。よりちゃん先生だって礼陣のことをくーちゃんにわかってほしいから、今からお話を聞かせてるわけでしょ。だからくーちゃんは大丈夫」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない、亜子ちゃん。よし、お礼にくーの子供の日の写真を見せてあげよう」
「それ、礼なの? むしろ自慢じゃねえ?」
大助のツッコミを軽くスルーして、頼子は写真を持ってきてテーブルに広げた。すると亜子が黄色い声をあげかけて、紅葉がびっくりするといけないと思いあわてて口を押さえる。でも、それくらい可愛い写真だった。
紙の兜をかぶせられて寝転がる紅葉。小さな鯉のぼりを咥えようとする紅葉。五月人形の隣で腹這いになっている紅葉、などなど。ついには恵がスマートフォンで動画まで見せてくれた。さっきの兜をかぶったまま、ハイハイをしている紅葉の様子は、なんだか楽しそうだ。
「ハイハイできるようになってから、よく動くのよね。あ、兜はしばらくしたら放り投げたわ。頭に何かあるって理解するまで、しばらくかかったみたい」
「くーちゃん可愛い……! 五月人形はどうしたの? 利一先生?」
「いや、これは僕と大助のだよ。久しぶりに出したなあ」
そう言われれば、亜子にもなんとなく見覚えがある。いつからか出さなくなってしまった五月人形だが、この家に男の子が産まれたことで再び日の目を見ることができたらしい。
「買ってやらなかったのかよ。俺の車とか披露宴とかより、紅葉を優先しろよな」
「いやあ、人形は大切にして受け継いでいこうかなと思って。父さんたちが遺してくれた財産の一つだし。あとは女の子がいれば、愛の雛人形も出せるんだけど」
「兄ちゃんさあ……」
言いたいことはわかるが、色々と手をかけてもらってしまった大助としては微妙な心境だ。自分のせいで紅葉が蔑ろにされてやしないかと心配になってしまう。
けれども、この写真を普通に見れば、けっして紅葉は大助より大切にされていないというわけではないことがわかる。ことあるごとに記録をとって、それを丁寧に整理する。一力家の愛情表現は、昔から変わっていないのだった。
「大助、くーちゃんはちゃんと愛されてるよ。大助も落ち着いたことだし、これからもっと恵さんはくーちゃん贔屓になるんじゃないかな」
「だといいけどな」
「むしろ大助君が自分の子供可愛がらなきゃね。くーと一緒に写真撮れる日を楽しみにしてるわ」
ねえ、くー。頼子がそう呼びかけると、紅葉はまた「あー」と返事をした。